失恋した女性が仕事帰りにとぼとぼと歩いていた。彼女の名前は水沢。失恋と言っても詐欺にあった上に失恋したという最悪なパターンだ。貯金を全て彼のために使い、趣味だった貯金は底を尽きた。男は、元々金のために水沢に優しくしただけだったのだ。愛情を感じていた水沢は全ては金のためだという真実に気づいてとても辛くなった。今後どうやって生きていこう。今後を考えるだけで彼女を苦しめた。忘れることができたらいいのに。彼のことだけきれいさっぱり忘れることは普通できるものではない。そう思って悲しみのどん底状態で街中を歩いていると、素敵な雰囲気の歴史を感じる喫茶店があった。入り口には貼り紙があり、とても気になることが書かれていた。

『嫌な記憶を忘れることができます。あなたの時間を売ってください』

 不思議なことがあるものだ。記憶を忘れることができるなんて。
 さらに不思議なことがその下に書いてある。

『好きな人の気持ちを購入できます。詳細は喫茶店幻想堂へ』

 まさに今自分が思っていたことを代弁してくれているようなポスターをくいいるように見つめた水沢は喫茶店の扉を開く。迷いはなかった。

「いらっしゃいませ」
 若い男性が出迎えてくれた。優しそうで信頼をおけそうな雰囲気があった。

「入り口に貼ってあるはり紙なのですが……」
 いたずらや冗談かもしれないと水沢は控えめに聞いてみた。

「記憶をなくしたいとお望みですか? それとも人の心を買ってみたいですか?」
「心を買うこともできるのですか?」
「もちろんです。ただし、お金ではなくあなたの寿命にて取引となります」
「寿命?」
 驚いた水沢は少し大きな声を出してしまった。

「寿命と言うとみなさん驚かれますが、実際はあなたの時間を少し売ってくださいという意味です」
「時間というと、1時間とか1日とかそういったことですか」
「寿命は時間ですからね。ほんの少し生きている時間をわけていただければなんでも売ることは可能です」 
「なんでも売ることができる?」
「うちの喫茶店は命の取引をする店なのです。お金では買えないものが手に入りますよ」
「寿命を売るって言うと怖いけれど、時間を分けると考えると少しくらいならって思いますよね。でも年単位とかそういったことですか?」
「相手の心を買うならば寿命に換算するとしたら5年くらいでしょうかね」
「でも、心っていっても永遠に自分の物にできるのですか?」
「はい。どんな相手の心でも永遠に自分の物にできますよ。浮気をすることはシステム上ないですね」

 水沢の目が輝く。忘れるということも考えたのだが、相手の心を買うことのほうがいいようにも思えた。

「でも、もっと好きな人ができたらどうしますか? もっといい人がいるかもしれません」
 たしかに、その通りだ。詐欺師なんかと一緒にいてもいいことはないのかもしれない。

「じゃあおためしで心を買ってみますか? お試しの場合はコーヒー1杯注文していただければそれで取引は成立です」
「お試しだから、本番じゃないのよね。あとで取引をやめてもデメリットはない?」
「大丈夫ですよ。コーヒー1杯でおためししますか?」
「はい」

 水沢は特製のブラックコーヒーを注文した。コーヒー豆の香りが店内にたちこめる。コーヒーに包まれた水沢はなんだか不思議な気持ちになる。なんだろう? このやめられない香りは。とても不思議なのだが、今まで味わったことのない香りだった。とても心地よくやみつきになりそうな香りだった。今までたくさんの香りを嗅いできた水沢だが、このような深い味わいのある香りにはであったことがなかった。もちろんコーヒーの香りであり、怪しい薬の香りではない。

 コーヒーをひとくち口に含むと、今まで飲んだコーヒーのどんな味わいよりもおいしく味わい深い香りにつつまれた。まるで天国という世界を体感してしまったかのような幸せな気持ちになった。

「ここのコーヒー豆は特別な香りですよね。今まで私が知っているどの香りとも違う。味もコーヒーならばどれも一緒だと思っていたけれど、ここのコーヒーは何かが違いますね」
「ここのコーヒーはみなさまの時間を抽出して作っているので、きっと特別な味わいがあるのでしょう。それぞれの時間の味わいによっても変わりますから。飲んだときによって味は違いますよ」

 時羽の言っている意味が少々わからなかったが、とにかくおいしいことは間違いない。そして、いつのまにか飲み終わった空のティーカップだけが残っていた。

「ここからがお試し時間です」
「どういうことですか?」
 水沢はお金を払い、帰宅しようとしていた。

「お試しの時間はここからはじまります。今、彼の心はあなたのものですよ」
「そうなんですか?」
「素敵なお時間をお過ごしください」

 時羽はにこやかに見送る。きつねにつままれたかのような不思議な話だが、おいしいコーヒーを飲んだことに水沢に後悔はなかった。そして、失恋という最悪の状態よりも悪くなることはないのだから、と思い家に帰る。

 フラれたはずの元彼氏が家の前で待っていた。水沢はとても驚いた。しかも、今まで会っても面倒くさそうにしていた彼がとてもにこやかに手をふって近づいてきたのだ。今まで見たこともないほどの心からの笑顔だった。彼はお金がない。だから、いつもお金を貸してくれと言ってきた。貸さないと不機嫌になる。それでも好きだと思っていた。その彼がお金を渡さなくてもにこやかだなんて。水沢はうれしい気持ちになった。

「今、仕事しているの?」
 水沢がきくと彼は答える。

「実は、仕事を辞めてしまったんだ。おまえと別れたことを後悔しているよ」
 彼の財布には5000円くらいしかお金がなかった。それでも、水沢は自分が働いてこの人を養わないとという決意をした。やはり彼の顔も声も全てが好きだった。しかし、彼はやはり働こうという気持ちはなく、夢に向かって努力しているという話は口だけのようだった。このまま、この人を養う幸せもあるのかもしれない。

 翌日、水沢は昨日行った喫茶店に行ってみる。そして、5年の寿命を渡すことを決意していた。
「5年の寿命で彼の心を購入します」
 思いつめた顔で時羽に向かって声をかけた。

「そんなに簡単に5年もの寿命を手放してしまっていいのですか? 彼を忘れたバージョンも体験できますよ」
「本当ですか?」
 水沢はほんの少し迷っていた。少しの迷いにその言葉は刺さるものだった。やはり寿命は普通増やしたり減らしたり自己管理ができないので、心のどこかで迷っていたというのが本音だった。

「コーヒー1杯で体験できますが」
「じゃあ、おねがいします」

 体験するだけならば安いものだと水沢は快く受け入れた。
 時羽は席に案内する。そして、時羽の案内してくれた窓際の席に着いた。外はたくさんの人々が忙しそうに歩いており、まるでこの店だけゆっくりと時間が流れているようだった。室内の観葉植物も水沢の心を和ませた。

「うちのコーヒーは気に入っていただけましたか?」
「はい。あんなにおいしいコーヒーははじめてでした」
「うちのコーヒーは特別なんですよ。みなさんの命のエキスが入っているので、その日によって味が変わるのです。飲む人の好みに合わせて変わるという特徴もありますね」
「飲む人によって味が変わるんですか?」

 時羽が丁寧にコーヒーをドリップしている様子をながめていると、なんとなくだが、時がゆるやかに流れているような気がした。彼の所作がそう感じさせているだけなのかもしれないし、窓の外の騒がしさと店の中の静かさのギャップがそう感じさせているのかもしれない。少しずつコーヒーが落ちていく様子はまるで自分の心の迷いを映し出しているようにも感じた。わずかな迷い。それが小さいうちに決意がぶれないうちにここへ来たのだが、もうひとつの世界をお試しできるなんて。思ってもみないことだった。

「今日はどんな味でしょうかね?」
「ここのコーヒーを飲むことがやみつきになりそうです」
 水沢はにこりとしてひとくちひとくち味わいながら飲み干した。
 レジには妹のアリスがいて、お金を支払う際に水沢にひとこと言った。

「未来はこれから起こること以外にもたくさんあるの。ほんの一例だから、楽しんできてね。今日1日は彼のこと忘れちゃうわよ」
 時羽の妹が水沢に説明する。

「彼?」
 水沢は彼のことを既に忘れていた。思い出しそうで思い出せないむずがゆい感じがするが、水沢は思い出したいという気持ちにはなっていなかった。

「ひさしぶりじゃねーか」
 ガラの悪そうな男が近づいてくる。
「誰ですか?」
「俺だよ、元カレのこと忘れたのか?」
「あなたのことなんて知りません」

 全く知らない男が近づいてきた。新手のナンパだろうか?

「じゃあさ、俺がおまえに晩飯おごるから」
「なにそれ? 新手のナンパ?」
「忘れたなら思い出させてやろうか?」

 少し強引なタイプの男性は嫌いではなく、むしろ水沢の好きなタイプだった。そして、よく見ると彼の顔立ちや声はかなり好きなタイプだということに気づく。彼は自分の夢を語り、そのために定職にはついていないという話だった。

「俺はおまえと付き合いたい」
 真剣な顔で迫られると、ドキドキが止まらなかった。


♢♢♢

「いかがでしたか?」
 気づくと水沢は先程までいた店内に戻っていた。
「あれ? 私ここにいたのですか?」

「2パターンありましたが、どちらにしたいですか? 忘れるだけならば1週間程度の寿命で結構ですが」
「忘れても、私は彼のことを好きになってしまうようです。今はふられた状態なので、少し時間を置いて様子をみます。久々に彼に会えてうれしかったけれど、本当にこのまま一緒になっていいのかよくわからないんです」

「時間はたっぷりありますよ。今度は純粋にコーヒーを飲みに来てください」
「飲みに来るだけでもいいのですか?」
「もちろんです。ここは本来喫茶店ですから。運命をおためししたければそれも可能ですがね」
 にこやかに時羽は見つめた。

「もしかして、水沢さん?」
 ふりむくと知っている顔の男性がいた。優しく整った顔は変わっていなかった。
「あなたは大学の同級生だった木下君……」
木下君はナポリタンを美味しそうに頬張っていた。
 
「ここの料理は何でもうまい。飯がうまけりゃ人生それだけで楽しいと思うんだよね。実は、ここの常連なんだ。まさか水沢さんに会うなんて、偶然だね」
 木下君は相変わらずの優しそうな瞳と笑顔をふりまく。
 呑気で幸せそうにただ食べている姿を見たら、人生あんまり考えすぎるとよくないなと思ってしまった。
 なぜか彼にはそう思わせる力があったように思う。

 木下君は水沢が学生時代に少し憧れていた学生で、特別仲良くなることもなく、卒業してしまった知り合いだった。

「実は、友達と映画に行く予定だったんだけど。ドタキャンされたんだ。もしよければ一緒に行かない?」
「私でいいの?」
「この映画なんだけどさ、興味あるかな? 水沢さんにもナポリタンひとつ。俺のおごりで」
 木下は映画の内容をスマホで見せた。
 そして、ケチることなくナポリタンをごちそうしてくれた。
 そんな些細なことが水沢の心をぐっと引きずった。

 この喫茶店には不思議な魔力があって、偶然をひきよせる力があるのかもしれない。目に見えない縁を感じた水沢は新しい気持ちに切り替える。ふられたらそこで終わりにしよう。悲しい気持ちにふたをした。新しい風を感じたからだ。

 外に出ると、まるで別な世界のような都会の喧騒感が押し寄せる。道路に面しているので、空気の汚れがひどい。アスファルトに照り付けた太陽が直射日光をそのまま反射していた。道路に熱がこもって空気中には排気ガス。こんなに都会の空気は濁っていたのだろうか? 今まで気づかなかった。落ち着いてまわりを見たらもっと新しいことに気付けるのかもしれない。そして、ここへ来ればまたおいしいコーヒーが飲める。そう思うと失恋の心も少し癒された。失恋の辛さを話すことができるお店があるというだけで、心に余裕ができた。あの店は都会のオアシスなのかもしれない。

 二人の影が歩道に長くのびる。それは、偶然という名の縁なのかもしれない。

「アリスちゃんは、小学生なのになかなかしっかりしてるわね」
 雪月風花の指定席となった窓際の一番奥の席でにこやかにコーヒーを飲む。

「お兄ちゃんなんかと仲良くしてくれている雪月さんにはいつも感謝しています」
「ここのコーヒーが好きだし、このお店にいると落ち着くんだよね。滅多に笑わない時羽君の営業スマイルも見ることができるし」
「滅多に笑わなくて悪かったな」
「お兄ちゃん無愛想だし、目つき悪いからね」
「おい、俺を悪く言うなよ」
「雪月さんってお兄ちゃんのこと好きなの?」
「好きだよ」

 当たり前のように好きだと言う雪月に、時羽は罠が潜んでいるのではないかと警戒する。時羽バリアが炸裂していた。雪月の言う好きの意味は時羽にとっての幼稚園児が好きだと言っている程度の認識で、恋愛感情を変に意識することもない。精神年齢が幼いことは、幻想堂ですらどうにもできないらしい。