大智 春 大学二年生
 お爺さんたちはすやすやと机に突っ伏して眠っていた。
「だいぶお疲れなのよ」
 机に知らない間に昨日食べたパンケーキであろうお皿があった。レモンの皮がそばに移してあったからなんとなくそうだろうと思った。
「お爺さんたちさ若者にすごい嫌悪感があったんだ」
「え……なんで……」
「一人のあなたの横に座っているお爺さんは過去に自分の息子を不良のせいで亡くしたんだ。不良からいじめられてそれに耐えられなくて。家に帰ったら首を吊っていたって」
 視界は変わらないのにテレビのあの怖さを覚える砂嵐が吹いた。
 頭の中でそれが鳴る。
「心を置いてきてしまうような気持ちになるよね。詳しく話すからカウンター来て」
 そう言って大月さんは手を招き猫の手のように丸め俺をカウンター席へ誘う。
 お爺さんたちのプライバシーとか考えて日頃気を使ってそういった話は聞かない主義だが心にそれが宿っておりさらに大月さんが言うように俺は今心を置いて行っているからそれはないんだ。
 誘われるがままに俺はカウンター席を座る。そして横には大月さんが体の正面を俺に向けた状態で座る。カウンター席は体の向きを簡単に変えれるようになっていて体を捻るとその捻った方に正面が向く。だからか座ってすぐに体を捻って正面を直ちに俺の方へと向ける。
「大智の横に座っていたお爺さんはね長治お爺ちゃんって言うんだ。さっきも言った通り長治お爺ちゃんは息子を不良のせいで亡くしたんだ」
「早く聞きたい。お爺さんたちが起きる前に」
 俺は急いでいた。急ぐ必要は一切ないがこの話を会って一日も満たない人なんかが知っていいのかと何か法を軽く犯してしまったような気持ちにされる。だからかお爺さんたちの席を一度、二度と視線を移したりしながら警戒する。なんなら聞かなければいい、だが今の俺にはそれは無理な要求でしかない。
 "せっかち"と大月さんに煽られた後、大月さんは本題に戻った。
「息子は確か和治って言うんだけど中学校の時に……」
 大月さんの言っていることが次第に頭で映像として繋がる。
  
 和治 春 中学一年生
 俺は中学生になれた。けれどほとんどの友達は中学受験をして私立に行った。小学校の時にずっと話して盛り上がったあのムードメーカーや、将来の夢を芸人と謳いただ面白い事をするだけだけどしっかりと笑いを届けるひょうきん者。頭が良くてテストではいつも百点をとる漫画で出てくるような真面目くん。他にもまだまだ仲の良かった友達はいる。けど私立へ行ってしまった。
「和治も来なよ」
 彼らがそう言ってくれるたびに嬉しさと悲しみが同時に同じくらいの量で溢れ出る。
 俺の家は貧乏だ。兄弟がいっぱいいる訳でも、親が低賃金の職業をしているからという理由ではない。
 けれど犯人は父だった。
 父はとても酒豪で仕事が終わると同僚といった仕事仲間とすぐ居酒屋やキャバクラ、ホストといったところへ寄り道をして居酒屋では仲間と酒を飲んで呑気に笑い、キャバクラ、ホストでは女と戯れおまけに口に酒豪と言わんばかりの大量の酒を含む。
「かーさん」
 夜遅くの二時頃か。玄関の戸を開き酔った時にだす無防備なようでいつ武力を施すかわからない声を上げる。それは周りを考えない酷く荒げていて家内によく響く。そして寝ている時の音に敏感な俺はそれにて目を覚ます。
 覚ましたくないのに覚ましてしまう。絶対に起きてはいけない。
「お金ちょうだいよ、ね、ね」
 手を合わせながら母に祈る父の姿が安易に想像できる。"ね"のところの調子がバネのような躍動感を持っているから耳に障る。
「いくら使ったのよ」
 この後意地を張っても寝れないと知っていたから襖を少し用心深く見なきゃ気づかれない程度に開いてその様子を見る。想像していた光景で笑えた。これだけならまだ親しい夫婦のような感じだがそんな容易く夫婦は務まらないらしい。
「だから、なんだ。俺の金だ、いくら使うが勝手だ」
 無防備が武力を施す瞬間はカメラのシャッターを切るよりも早い。気づいたら、知らない間にと父は父ではなくなる。いや違う視点から見たらこれが父なのかもしれない。
 また違う父。制御の効いていない父。
 これが出現したらこの家はこうなる。
 父と母の言い争いという名の喧嘩、火や兵器を使わない代わりに棘が無限ではないけれど生えていて鋭く見ているだけでそれは最も簡単に人の腕、体を貫くかもしれないという恐怖を覚える単語の投げ合い。戦場は焼け野原とはならないものの家具のタンス、机、テレビは元の位置から遠いところへと移っていた。
 誰がやったのかとかに考える力は本当に必要ないぐらいの簡単な問題で、誰が悪いのかとかも考える必要は本当になかった。
「すべてあなたの父がやったのよ……」
 それがあった日の朝、母は膝から崩れ落ちて手を顔に当て涙を隠している姿が茶の間だったであろう部屋にある。机もテレビもそこにはないからいつもとは違う空間と錯覚してしまう。
「自分勝手に自由に遊んできて、私には自由がない……」
 まるで腹話術人形のように口を動かしている。そこには生命が宿っていなくて無理やり話せようとしている。けれどわかるんだ。この行動をさせているのは母本人。ただ母は過去に父と結婚したことを悔やんでいるだけ。
 母は泣いているのに泣かない。
 指と指の間から堪えられず溢れる涙が見えて、光で反射するだろうに今日は、この涙はしなかった。
 俺はこんな家庭である以上私立なんて夢のまた夢で考えることも友達が口にしなければ知ることもなかった。父が違ったら俺はどんな俺だったのだろう。
 嫌々学校に今日も通う。一歩一歩の足取りが重く感じれるのもすべては父のせいとしか感じれない。そういうポスターが俺の頭の掲示板に常時掲載されている。
 "一人の少年に夢を与えれなかった男(父)"
 (父)と書かれている。それを強調させずにはいられない。こんなやつらと会うこともなかっただろうから。
 机がない、靴がない。悪口を言われた、笑われた。
 いずれも違うのだ。
 右から左から、右下から左下から。なんなら横から。
 "四面楚歌を習いました"
 この言葉は忘れない。意味が自分ですっぽりと当てはまる。
 周りは敵で囲まれた。
 囲まれています。
 両手にはトマトジュースか絵の具って思いたい赤いものが付いていた。
 耐えられないし、終わらないし。終わらそう。
 だから俺はある日首を吊った。快感だった。もう一度したいけどもうできない。こんな快感をもう感じれない。この時に自分の命を絶ったことに酷く後悔した。いやもっとあった。
 俺が暗い空を彷徨って父の姿が目に入った。俺が死んでいるとも知らずに呑気な人だ。
 家に入った。部屋を一つ一つ跨ぐたびにもう無くなった心が妙に騒ぐ。
 心がないはずなのに心が無くなったところに隙間で何かが細かく強く震えた。出したいものは死んでお化けになったから出なかった。
 "泣かないでよ父さん"

「えっと、和治さんは不良にいじめられていたから自殺したんだよね」
「そうだよ。不良にいじめられるというよりはサンドバックだけど」
「その例えは今どうでもいいけどね」
 大月さんは一応空気を読める方なのだろう。おそらく。
「父は、長治お爺ちゃんは息子を自分のせいで亡くしたって思ってるんだよね」
「そうだよ。不良にやられてそしてその元凶を作った父をすごく恨んでいるんだよ」
 何かがひっかかるのだ。吃音のように言いたいことを喉に引っ掛けて出せないけど、どこかがおかしい。
「そして和治さんは自分が自殺したことをとても悔やんでいます。どうしてでしょう」
 こんがらがっていた糸が綺麗にほどけたぐらいの気持ちになった。それはなぜおかしいのか理解できたから。
「どうして大月さんは和治さんの気持ちがわかるの」
 彼女の顔に変化がなかったのが妙に気持ち悪いし、自分が恥ずかしくなる。もしも、何もこれが普通のアレなら現実なら俺はこの場においていきなり夢みたいで幼稚の考えをする男子大学生となる。これは避けたいとか何も考えずに言った自分の無鉄砲さになぜ昔からこの性格を治さなかったのかと後悔する。
 お互いしばらく口を開かない時間が続く。やがて彼女が口を開く。
「長治さんのその話をした日の夜に和治と名乗るお兄さんが店に来たの」
「それは夢?」
 彼女も俺と同じ生き物なんだろうか、そうだったら仲間が増えて嬉しく思う、というのは真っ赤な嘘で馬鹿に馬鹿が群がるだけ無意味で肩を落とす気持ちになりかねる。
「夢かわからないんだよそれが」
「それはどうして」
 いつの間にか風が吹き始めせっかく解けた糸が絡み始める。
「寝ていたかもしいれないし寝ていないかもしれないってことなの?」
「そうそう、学校の授業で良くなかった?夢の世界と授業を行ったり来たりしているあの境目」
 俺も中学、高校と授業中居眠りをときどきしていた身だ。逆にそれをしてこなかった人には人間かと問いたくなる。たとえその人が俺よりも頭が悪くてもそれは当時の俺でも今の俺でもなかなかできない芸当とみなし心の底から押さえ気味に手を叩き「凄い」の一言二言褒めている。
「閉店前だったしその日もお爺ちゃんと他にも珍しくお客様が来たから完全に疲れてて」
 "だからどっちかはわからない"と彼女はきっぱり言った。
「もしかしたら夢で、もしかしたらお化けか霊なんだね」
「ちょっとやめてよ。私そういう怪奇現象とか苦手なんだからね」 
 少し不貞腐れた調子で頬も膨らまして彼女は言う。なんだか可愛いという表現が今一番似合うと思うしそれ以外に見当たらない。
「もしもだよもしも」 
 あいにく自分は考えとかがたまに幼稚かして今だにお化けとか信じちゃうタイプだから、からかったとかの認識はなくただこう話していて楽しいと思う会話の幅と深さを広げ深めもっと楽しくしようとしたのだ。
 そうだ、楽しく……
 もっと、楽しく……
 この会話を俺は今気づくまで楽しいと言葉にできていなかったようだ。
 そんな時だった。お爺ちゃん(長治さんの方)がいきなり泣いたのだ。赤子の産声ぐらいの大きな声量でいきなり泣き出した。流石に産声の単純な言葉ではなかった。ただそれは単語が繋がっていてしっかりと言葉だった。
「明日奈ちゃん……ひさ…久しぶり……だね…………」
 それは高齢者が普段使う言語にして違和感がありすぎて、けれど声はしっかりとお爺ちゃんで口調も長治お爺ちゃんではないが自分のお爺ちゃんの寝起きに似ていた。久しぶりに自分のお爺ちゃんのことを思い出したのに懐かしいとかは今思える状況ではなかった。
 彼は続ける。
「そ……れにして……も…………大きくなって…………お兄さんは嬉しいよ…………」
 違和感は増幅するばかりだった。彼はお爺ちゃんのはずなのに"お兄ちゃん"と言った。それを聞いたとき思わず間違いかと思って思わず明日奈さんと顔をお互い合わせたくらいだ。
「パ……パンケーキ食べたいな…………僕はまだ……食べれてない…………」
 続ける。
「僕はまだ……明日奈ちゃんの……大人になった……育った明日奈ちゃんの……パンケーキを……食べれていない…………だから……作って…………」
 お願い、願望。あの"作って"からそんな生ぬるい意味には感じようとも感じれなかった。声と口調はお爺ちゃんだからすべての言葉は弱々しく聞こえるのにそこだけ強くはっきりと聞こえたのだ。
 俺はまた明日奈さんと顔を見合わせた。さっきもそうだったんだが俺が顔を合わせる前に明日奈さんの顔は既に俺の方にあったと考えられる。顔が合わせることによってできるブレを明日奈さんは持っていなかったから。気のせいかもだけどそんな気がした。
 明日奈さんは、いや、明日奈は力強く頷いた。これで何を伝えたいのかも少しわかった気がした。だから俺もしっかりと頷き返した。
「お客様一人様ですか?ならばカウンター席へのご案内になりますが」
「は……い…………」
 お兄さんは一歩また一歩と歩みを進める。これでやっと確信したんだろうが彼はもちろんお爺ちゃんなんかではないがしっかりとお爺ちゃんだ。寄生虫、いやそれなんかより随分優しいとあの短いやり取りでなんとなくだが感じる。
 怖くて明日奈を怖がらすことになるから信じたくはないがお爺ちゃんはおそらくどこかの霊に取り憑かれている。お爺ちゃん言語の言語がおかしい、さっき食べたはずのパンケーキをまた食べようとしている。
 一体誰がお爺ちゃんにこう取り憑いているのか。
「それにしても……久し……ぶりだ…………この店も……このパンケーキも…………」
 こちらの今綱渡りをするぐらい落ち着かない気持ちを少しは考えて欲しいと思うが自分の考えている言葉はテレパシーとかじゃないんだから口で言うか紙等に書き留めるかしなければ伝えることはできない。
 誰かに気づいて欲しいと机に座って学生時代を過ごした俺の体験談でありそう気づかされた。
「昔……父が連れて来てくれた……随分と前の……記憶……だな…………」
 明日奈の方をチラッと一瞬だけ見るが即座にお爺ちゃんの方へ顔を移すと同時にある推理を導く。
 どうやら彼は本当にお兄さんなのかもしれない。"父が連れて来てくれた"と言うから取り憑いている人はまだ俺らが思っているより幼いのかもしれない。幼いと言っても中学生ぐらいのような。幼稚園児や小学生が日頃使わなそうな言葉を使うから幼稚園とか小学生とは考えにくいのと高校生ではないのは単なる直感。この直感は当たるも外れるもわからないから当てになったりならなかったり。
「そうなんですね。きっとこのお店が好きなのでしょう」
 お兄ちゃん(もう彼はお爺ちゃんではないと判断したし、"お爺ちゃん"と言うと調子が狂う)はコクッと頷く動作を見せた。けれど中身はお兄ちゃんでも外見はお爺ちゃんだから頷いた勢いで頭を打たないか、首の筋肉の衰退で無意識に落ちたのか。ただそれはのちに"はい"と言うから意識があっての頷きなんだとわかった。
 明日奈は奥の方でパンケーキを作っている。さっき見た時は一瞬だったからなんの変哲もなくパンケーキを作っているように思える。とは言いつつも俺はまだ明日奈がパンケーキを作る姿を見たことはない。だからこれが初なのだ。
 だが、明日奈は慣れた手つきで調理を行なっている。その慣れた手つきには少々わかるものがある。だってあのパンケーキは一日や一ヶ月や一年と経っても決して作れるものではないと口に入れ舌で存分に味わった時にわかった。なんとなくの推定と予想だが三年は作っているのだろうか。
 "大丈夫"
 そう心の中で呟いてみた。なんなら明日奈にも届いて欲しいなとも思った。これは明日奈へと送った言葉、そしてエールに違いないのだから。
 そう俺は応援していた。
 明日奈の足元に黄色いものが広げられた。限界を知らないようにそれはみるみると広がっていく。これは卵だ。ところどころに小さい泡や大きい泡が見られて鼻に卵の臭いがついたから。
「大丈夫か」
 そう大きい声でけれど小さいようでハリがあるけれどないようで言った時、俺の目の前には明日奈の後ろ姿があった。口よりも足が先に動いた。きっとそうだ、間違えない。足が崩れる前のあの不安定な状態だ。一体どんなふうに俺は進んだ。さっき俺が言った"大丈夫か"が遠く昔に言った言葉のように思えてくる。
 進んだ理由はわかっていた。おそらく明日奈は気づいている。それはさっき俺が判断した彼はお爺ちゃんではなく他人と、お兄ちゃんと名乗っていた。お爺ちゃんがお兄ちゃんに取り憑かれた。
 魂がお爺ちゃんに取り憑いた。
 こんな想像をしたら、こんなことを目の前で目撃したら。俺にとっては今日会ったばかりの長治お爺ちゃんだが明日奈からしたら常連の何年か前から会ってきた昔からの知り合いで身近な存在。
 あぁ、そうか。身近の人に何かしらの何かがあるとこんな状態に陥ってしまうのか。心配、不安。こんな思いが込み上げてくるのにどれも恐怖というものには勝らない。だからもし、家族か友達か知り合いが病気、自然災害、事件で命を絶ったとしても"今までありがとう"とか"なんで彼が"みたいなことを思う前に人はきっと自分じゃなくて良かったと思ってしまうのだろう。そしてそれは月日が経つと"次は自分の番なのではないか"、"自分ももうそんな年代になった"と変わって。それは恐怖と呼べよう。
 でもそれに明日奈は加わることはない。だって明日奈はそんな誰かのやらかし失敗を恐怖へと繋がるとは思っていない。あの笑顔と明るさがすべて物語っている。
 じゃあなんなのか、明日奈はきっとそれらをすべて最高に位置付けてそしてそれらの感情を出すのだろう。だから今足元に卵が落ちている。
「手が震えるの……さっきから、手が……」
 お爺ちゃんが何者かに取り憑かれた心配、不安はもちろんある。ただすべてと言ったのだから恐怖はなんなのだ。
 霊だ。
 取り憑くと言う単語が魂になって、なんとなく人魂が頭に思い浮かんでといった感じだろう。まだ明日奈に会って二日にも満たないから知り尽くしたとは言えないがそうだと思う。
 俺は苦手なものには敏感だ。実は俺は野菜が嫌いだ。だから牛丼に乗っている玉ねぎや茶碗蒸しの中に入っているしいたけなんかも苦手でお皿の片隅によせいつも残す。回転寿司のいくらに申し訳なさそうに添えられているきゅうりももちろん食えない。"この分までいくらを入れたらどうなんだ"と回転寿司に文句を口に出さずシヅカに唱えながらきゅうりをどかして食べる。
 こんな感じで苦手なものには敏感だ。
 だからおそらく明日奈も俺と同じで苦手なその霊に反応して今こうなっているんだ。
 明日奈が位置付けるはずのない恐怖の正体は間違えなくそれだ。
「怖いの、なんで、どうして長治お爺ちゃんが……」 
 最後の方になると崩れ、泣き出して。
「お店、閉めようか」
 お店は静かになった。

「明日奈ちゃん、元気?」
 俺は何を見ているのだろう。これは誰の声だ。
「ヒッ…………ク…………」
 聞き馴染みのあるようでないようなこの鳴き声は一体誰だ。
「俺のこと覚えている?」
「もちろん……覚えている……」 
 さっきまでの明日奈が嘘のよう。明日奈が泣いているのに私が泣いてしまっているみたい。
「昔たくさん遊んであげたんだけど、あの時は小さかったからたぶん覚えていないよね」
「そんな……わけない……」
涙を拭うついでにそれを否定するといった意味なのだろう。明日奈の顔が左右に揺れる。
「ごめん、こんな会い方で。父の体を借りるなんて」
「やっぱり……そうだったんだ……」
 俺は唖然としたまま二人の会話を聞いていた。
 散り散りに散らばっている塊をやっとの思いで一つに集めまとめることができた。そしてその時にやっと今の現状が大まか把握できた。"まさか、ありえない"と思わず口に出しそうになったがぐっと堪えた。
「ずるいよ……」
 こう呟いたのは明日奈。あぁそうだ。ずるいよ。自分よりも小さな子に未来を絶やすことを教え、そして逃げて。
「和治さん。たとえ、何があろうと死んではダメです」
 二人だけの空間なのに俺は土足であがって間に入った。失礼極まりない行動、俺はそんなことも考えずこれを悪い行動とみなしていない。けれど良い行動ともみなしていない。
「たくさんの嫌な想い、それを受けた和治さんの心の痛さ、傷の痛みはしっかりと理解しています。いやつもりかもしれません。惜しくも俺にはそんな経験がないから。だから、理解したとか断定はできない」
 俺のいきなりの反論のような口調、言葉に和治さんは一瞬戸惑った様子が見られた。ただそんな戸惑った様子をしているが和治さんの視線は俺を捉えていた。口を開くと俺が和治さんを責めた様なことを自分に言われたんだと理解できる。
「ならば俺はあの時何をしていれば良かったんだ。"困ったことや悩みがあったら相談してね"って言う奴らは最初は聞いてくれたものの、次第にそれが面倒だとわかってくると俺と距離をとり出した。てか、一番最初に声をかけた先生は何もしてくれなかった。俺は何者にも見放されているのにどうすれば良かったんだよ」
 反論を言い出した身だからか、和治さんの言葉一つ一つに苛立ちを覚える。最初は身構えていてなんとなくという気持ちで耐えられていたのだが、これはまるで新品の服に墨汁やら絵の具を付けられ汚された時の感情になる。だから相手、和治さんに新品の服の弁償代を求めたいところ。
 何か反論をしよう、言い返そう。
 頭に異変があったのはその時だ。
 頭の思考回路がピタリと止まったのがわかった。思考回路という名の機械。それの電源を切られたわけではない。"材料が無くなった"。これが一番しっくりくる例えである。衣服を作る機械なら布がなくてはならない、といった現状。
 和治さんのことはやっぱり理解ができていなかった。理解しようにもそれは高度な技であるということは俺に雷が落ちた時ぐらいの心の振動と衝撃を与えた。
「君は経験したことがない。これまで追い詰められ、助け札を一枚も持ち合わせていないという経験体験を」
 俺に不足している材料はどうやらその経験体験。間違えないと思う反面、俺も似たような状況にあったことがあると口に出したくなったが、和治さんを刺激するかもしれなかったから口を閉じることにした。
「結局人は何も分かってはいない。わかったふりだけをしてその相手との関係に変化をかけないようにする。ただそれがマイナスの方向に変化しても捨てれば良いと考え関係を切る手段にもでる。誰もかもが精一杯なんだ」
 ただわかってしまうのだ。布はないものの機械を動かす燃料はある。俺が今、和治さんの話を聞けているのはその燃料は和治さんの話から生み出しているからに違いない。
 俺にもそんな経験が頭の片隅に申し訳なさそうにあった。
 口にあのパンケーキの味がした。ただそれはレモンの酸味が効きすぎていた。
 大智 春 中学二年生
 教室にはたくさんの人がいて、当然のように彼らは彼ら同士で誰かと話し、笑い、騒ぎを共に行う。なのに俺の周りはどことなく静かだった。それもそのはずで俺の周りに人はいなかった。来たとしてもそれは授業の始まりで席に着いたり、教室の移動の際にという人がほとんどで絶対だ。
 "なぜそんなに人の移動を把握しているのか"
 "誰かに気づいてもらいたいのか"
 そんな風に思われているのか思われていないのかとかはやはり人であるから理解はできない。だが一人教室に佇んでいると少なくてもそういう考えを持ってしまう。
 そんな俺にピッタリな言葉を俺に仲の良いとは言えないしむしろ今初めて話した人が教えてくれた。それは怒りがあるようでふざけて言っているようなぎこちない口調だった。
「おい、ボッチ」
 この言葉の意味を理解したのはそれから数日後のことだ。穴だらけのパズルが完成した瞬間だった。
 つまり俺はボッチという部類の奴なんだ。あの時言われた言葉は呼びかけでも怒りをぶつけてきたわけでもない。俺を面白おかしく遊んだのだ。
 こんな区別される現実が現代の在り方と俺はこの時知らされ受け止めさせられと体に大きな衝動が生じたがそんな環境すぐに飲み込むことができた。俺は慣れていたのだ。兄弟もいない家庭だから家でも一人なのは昔からの習慣のようなもので逆に言えばこの方が良い。 
 中一で転校して中二になる。新しい学年と同時に新しい地、新しい友達とか中二なのに何もかもが新しかった。新しいものには慣れしたしまなければならない。そう、だから俺は俺の知る者、知らない者のいるところからの始まりであるのだ。
「転校生を紹介します」
 先生は口癖のような感じでサラッと言い上げた。そして"あなたの番です"というような視線、素ぶりをした。
 自己紹介って何を話したらいいんだろう。名前、好きな教科、嫌いな教科、趣味。いろいろなパターンがあるけどいざそれを並べると手が震えるし、それを発表として見せるとなると心に異常が発生する。心と体が繋がっているのだと改めて感じる。俺の体は人を前にするとこうなってしまう。多勢、少人数、個人関係ない。声を出せない。こんな俺はいろいろパターンを持ち合わせていたにもかかわらず名前しか使わなかった。
 転校生という称号を俺は見事に台無しにした。アニメなら物語ならその転校生は今頃誰かに声を掛けられ「面白いやつ」「気合うな」とか言われてそれから友情を育んでいく。そして友達と呼べるパートナーが出来て知らない間にたくさんの友達となる人を引き寄せ正真正銘と言えるような友達になる。
「潰したんだな」
 そう俺は呟く。自己紹介を名前で終わらしたことが今、最大の後悔として残っていた。これが俺の人生をどう狂わせたのかはわからないが良い方向には向かわなかっただろう。
 そう決めつける感覚に近いのがボッチなんだ。そう呼ばれて何も言い返さなかった。それが彼のうちに眠るスイッチを稼働させたのだろう。 
 ある日物がなくなった。
 なくなったものは教科書で以前の学校で使っていたやつ。使った年相応の古ぼけた雰囲気を教科書の端が折り曲がっているところや表紙が黒ずんでいるところから醸し出している。ちなみになくなったのは地理の教科書でまだ良かったと思う。地理は先生が事前に用意するワークシートを使うからほとんど使ったことがない。だから特別困ったわけではない。 
 ただやっぱり気がかりだった。怖かった。どうしてこんなことをしたのか、どうして自分なのかと。どうして……、が頭の中をいっぱいに満たす。満たされたくない。だって、これらがいっぱい満たされれば満たされるほど怖くなる。頭と心も繋がっているんだ。それが今だけは切られて欲しい。絶えて欲しい。背中にひんやりとした汗がゆっくりと落ち滑る。滑るというよりナメクジの速さを甦らせるから歩いているの表現が適切なのだろうか。とりわけその速さを感じているだけなのになぜかまた再びと怖くなる。その怖さのせいであってほしい。後ろから冷たい視線を感じてしまった。
 この時間は三限目の地理の時間だった。五十分みっちりの授業。そうか、俺は五十分間この冷たい視線を浴び続けたんだ。
 放課後になって怖いが単純な言葉で言い表すものではないと今日この日をもって脳内に書き換えることにした。怖いって本当に怖いんだ。ただ口に出す怖いなんて可愛いもんでまだ優しさがあるんだ。そもそも口にできない。これが怖いの原点だ。
 三限目から感じていた冷たい視線は俺の背中に絶え間なくその後も向かってきた。それが給食の時間、休み時間だとしても真っ直ぐ一直線に俺の背中、姿を捉えていた。いや、捕らえていた。間違えない。
 次の日には背中だけではなく体のあちこちからあれを浴びた。もう口に出したくない。俺は今寝不足だ。後遺症だ。あれを浴びて想像以上の何かを俺の体に残した。そしてあれは、昨日よりも強く鋭い視線。俺を刺した、貫いた。そんな気にさえされた。あぁ、間違えない。
 犯人は彼だ。名前は知らない。顔もあいまいの彼だ。転校がこの日、この人生を狂わしたと思った瞬間だった。けれど違うんだ。
 また次の日、シャープペンシルがなくなった。地理の教科書に引き続き物がなくなった。なんのこれしき、シャープペンシルは替えがまだ筆箱の中に数本ある。流石にかなくなったのは一本だけだったのでこれに関しては切り替えることができた。しかし、ターニングポイントといえるような、そこのポイントでまた俺は怖くなったのは言うまでもない。切り替えることはできた。けれど切り替える前にいろいろと俺の頭には行き交った。シャープペンシルがなくなった怖さ、しかもそれは教科書に続いているというミステリという謎、俺の存在はまだあるという少々の安堵。
 決定的なのが一つ。
 "俺は狙われている"
 何も思わないでおこう。
 ノートがなくなったのはそれから一週間後のこと。ただ、このノートは余っていわゆる余分のノートだ。前のシャープペンシルと同じようなことを俺の体で繰り返す。そう、頭にいろいろと行き交うあの光景。
 怖くなる。何も思わないでおこう。切り替えよう。切り替える。
 消しゴム、参考書、くつ。次々と俺の私有物はなくなっていく。消しゴムは買えばいいものの参考書は学校のものだから容易に手に入れることは難しいし、くつなんて学生でしかも中学生だからなかなか高額。だから、また一つと不思議なことができた。
「彼はなぜ今もなおこの行為を繰り返すのだろうか」
 学校が終わって、今は自分の家。一冊のノートにこれを書き込み一つ一つと理由を増やしていく。そして呟く。まさに独り言。
 ノートの真ん中に呟いたことと同じことを書き丸で囲む。歪な丸をどうしても描いてしまうのはどうしようもない。
 自分なりの解答はある。
「これは俺に気づいて欲しい?」
 あの視線で気づかれていないと彼は思っているのだろうか。だとしたら俺を舐めすぎている。ただ、俺もスパイとかそんな特殊な人種でもない。自身がない。
 けれど考えれば考えるほどこれは隠したいこと。バレてバレて誰がやっているのかというのもバレるレベルのこの行為は何か物足りない。関係があるかわからないが彼は学年で上位層の成績を誇るいわゆる俺よりも頭の良いやつ。バレない行為を遂行するのはこのままだと俺が一枚上手になる。
 そこでもう一つの仮説。彼はこれがまさか初めてで苦手でいかにもこのようなことになってしまったのではないか。人は歴史を学んで次に活かす。だから前失敗したことはその失敗の原因を追求し成功へと導く。だがそんな彼は歴史を持っておらず、さらにを考えるとこういった行為をする環境にもいなかったとか。
 今はこの二つの仮説しか浮かばない。浮かばなかった。
 中学三年になるとこれはなくなったから今となってはどうでもいい記憶。
 驚くことにピタリと止んだ。一体彼は何がしたかったのか、目的はなんだったのか。残念ながらこれらはわからずという結末に終わった。卒業まで彼とは一言も会話を交わすことはなかった。毎日がつまらなくなった。それが起き始めたのは現実の俺ぐらいの時期だからか春の温暖な空気、花の香りがあの頃の記憶を掻き立てる。
 一週間に一回。していることはよくないことだけどイベントのような次は何が隠されるのかと何か良い評価をされるぐらいの楽しみの日だった。マイナスで受け止めることはなかった。プラスでもないだろうに俺はそんな今では考えにくい思考でそのことを受け止めていたんだ。
 その楽しみがなくなった今、俺は何を楽しみに生きていけばいいの……。
  
「大智、大智」
 聞き馴染みのあるかないか際どい声が俺の鼓膜を揺らす
「大智、大智………、」
 声は反応を示さない俺へさらにさらにと強くなると思っていたが、声が聞こえれば聞こえれるほど鼓膜は揺れなくなっていく。頬に生ぬるい何かが落ちた。俺は植物かそれとも自動車か、その何かが落ちて俺の視界は瞬く間に広くはっきりと周りを映す。何かは水かガソリン、だとしたら液体なのか……。
 声はやがて聞こえなくなったと同時に俺は元の俺に戻ったみたいだ。物に触れる感触や服の絶妙な重さと肌と布、糸が触れ合う感覚がいつもよりも鮮明に感じられる。そしていつもと違う感覚を俺はお腹部分に感じた。お腹が何かによって押されている。腹痛とかではないから外部から。何が原因だとは一瞬わからなかった。理解が追いつかなかったというのもまたひとつ。
 女性だった。そして、店長、そう明日奈だ。頭がこんがらがるということはこういう感覚なんだ。"落ち着きたい"とこれが今の望み。ただ明日奈を俺が起き上がるためにずらすのがどうもためらわれた。頭がこんがらがるとどうも正常を保てないらしい。明日奈と近くにある観葉植物を目で何度も往復するから明日奈の顔は見れなかった。それに気づいてしまったからどうもやりにくい。
 気持ちよさそうに自分の腕を交わして枕がわりにして寝ている。なんとも卑怯だ。あぁ、俺は今、明日奈の役に立っているのだろうか、そうだったらいいなと心で呟く。声は出さないと俺の全部の体の組織は理解していた。今は思ったことは心にだけにとどめておこうと。
 それからの朝はすぐだった。窓から差し込む光とさっきまで俺のお腹で寝ていた明日奈の大きなモーニングコールで目覚めた朝。顔は心当たりがないが俺が何かをしてしまったのか、鬼の形相だ。けれど、顔の端というべきというあまり表に出すところではないところで明日奈は笑っているんだとどこか感じてしまう。そう幸せの印が小さく出ていた。
 そういえばという記憶が頭の片隅にあった。だから朝の支度を済まして朝食をとっているときに明日奈に聞いてみた。
「お爺さんたちって結局はどうなったの」
 聞かないべきだったと悟った頃にはもう手遅れだった。頭に浮かんだ疑問をしっかりと最初から最後まで俺は言った。もっと早く思い出せばよかった。"そうだった"心でただひたすらと呟くだけで俺は止めた。口に出していないのに出したような気がして一言一言と心で呟いていると明日奈を取り囲む雰囲気という名のオーラが黒く燻むのが見える。
「ごめん。ただ不思議だったんだ。いろんなものを見せられ夢でいろいろと転々して、やがてには昔の記憶まで出てきた。これが今までになくて、初めてで……」
 "怖かったんです"は口に出したけど上手く発音できたかどうか。言葉が上手く繋がらない。言いたいことと伝えたいことが多い。手で拳を握ると中がゆっくりと夏のあのじめっとした感触に近い、それぐらいに俺の拳は湿っていく。自分のしたことがなかなかまとめられず思いつき出したものから順序良く口に出したのが今俺らを狂わせている。
「謝らなくてもいい。大智はしっかりとやってくれた、守ってくれたんだよ」
 混乱、反論。俺は何をやっているのだろう。孤独の暗闇に取り残された気持ちになる。ただ、"守ってくれた"ってなんだという疑問で俺は何を行い何を成し遂げたのか。一人の暗闇はなんだか楽しい。
「私、あそこに大智がいなかったらきっと連れていかれてた。和治さんに腕を掴まれて絶対にどこかへ連れて行かれてた。声に言葉にできなかったけど怖かった……」
 俺のある記憶では明日奈は和治さんに腕など掴まれていない。だから俺は何もせずにただあそこにいただけ。
「大智がいたから和治さんは何も出来なかったんだ。だから私は大智にありがとうって言ったんだ」
 "俺は何も出来ていない"
 俺はあそこで自分の過去を甦らす夢を見たんだ。あれを見ただけの俺は誰かを守ったなんて言えない。あの時の俺は俺じゃなかった。あれは夢を見ていない俺が何かをしたのだろう。彼に感謝を伝えるべきだ。
「俺は明日奈を守れていないんだ、守ろうともしていない。明日奈を守ったのは俺で俺じゃないんだよ……」
 明日奈の口は結ばれた。そうなるのも無理はないと思う。第三者からしたらおかしいに決まっている。黙るに決まっているんだ。そして次はこの自惚れた俺を笑うのか、俺を罵って笑いを込み上げ爆発させるのか。
「臆病なんだよ……俺は……」
 頭を抱えている、俺はこのあと何をする。頭が壊れたテレビだ。何も写さない、気持ちも述べない、何も聞こえない。
 自分は惨めと下へ下へとおとしめる。じゃないと俺はこの場に居てはいけないし存在すら許されない。
 笑ってくれたよ。明日奈は笑った。"大智何言ってるのよ"と俺を茶化すように笑ってみせた。そういえばさっきから話しているときに明日奈の顔は見れなかった。本人が意図的に隠しているといえばそういうふうに読み取れる。明日奈は泣いていた。心の表面が引き裂かれるぐらいに熱い。俺は自分のことも守れなかったのかと自分に制裁を加えるための現象なのだろうか。
 明日奈の瞳と頬に一本の水の道が出来ていた。
「泣いていたの?だから顔を故意に見せなかったの?」
「泣いた顔なんて見せられないし、自分は強くありたい」
 嘆いていたのは自分だけじゃなかったよう。窓から差し込む日の光が朝食を奏でる机に並べられているグラスを差しているからかグラスの中にあった氷は水になっている。そういえばと思い出したのはその時だった。
「明日奈、俺のお腹で寝てたよ」
 和んだ空気を作ろうと出た行動はやはり急かされた判断だったためか乏しいものとなって和やかになる空気は冷たいものになってしまった。なぜこの話題を選んだのか、ほんの数秒前の自分が憎たらしく感じる。
「今それ言うのかよ」
 この冷たい空気に合わせてと言わんばかりの顔をしてくれる明日奈。空気を読んでくれた、そんな些細なことだけど"ありがとう"と心で俺は呟いていた。日差しのおかげであって欲しいけど、今二人でいる二人だけの空間は冷たかったのに暖かくなった。