近衛連隊長が掲げる短剣を前に、白薔薇の間に呼び出された大多数の人間が言葉を失っていた。
 その沈黙に耐えられなかったのか、迂闊にも口にしてはならぬ事をつぶやいてしまった者がいる。

「あの短剣はサン・ジェルマン伯が……なぜここに……」

 その声の主は、宮内大臣ベレス伯爵だ。
 すぐに、クロイス公が彼を睨みつけ、伯爵も余計な口を滑らせてしまったことに気づいたが、遅かった。
 そして、その名前に人一倍敏感な女性が、この部屋にはいた。

「サン・ジェルマン伯? 何故今その名前が、あなたの口から?」
「あ……う……」
「どうやら宮内大臣は、この短剣に関する面白い話を知っているご様子」

 グレアン侯爵アンナの鋭い視線が、ベレスを射抜く。

「え、えと……それは……」
「ベレス大臣! 一体どういうことだ!」
「え?」

 返答に窮したベレスを一喝したのは、彼の盟主であった。

「帝位を保証する三遺物の管理は宮内省の管轄。まさかお前は短剣の在処を把握していなかったのか?」
「宰相閣下!? そ、それは……」
「こうして()()()()の手元に戻ったから良いものを、考えられぬ不祥事であるぞ!」

 大臣たちも、女官長グリージュスや実の娘たる寵姫ルコットも、そしてマリアン=ルーヌやアンナたちも、クロイス公の発言に唖然とした。つい先程までの立場をかなぐり捨て、マリアン=ルーヌの即位を認めたのだ。

 もしかしたらこの変節の早さこそ、陰謀渦巻く宮廷で頂点に君臨し続けた彼しか出来えない芸当だったなかもしれない。常に勝者の立場にいたからこそ、クロイス公爵家はここまで大きくなったのだ。

「ではクロイス宰相、あなたは私の即位を認めるというのですね?」
「はい」
「お父様! 何を言い出すのです!?」

 ルコットが父の腕を引っ張る。年明けに生まれる彼女の子こそが次代の皇帝になるのではないか? ルコットの声音には咎めるような色が含まれていた。

「陛下、あなた様の仰る通りです。私の野望は、先帝陛下が生きていたからこそ成しえたもの。今となっては両派が手を携えなくては、この難局を打破できないでしょう」

 そう言ってから、ベレス宮内大臣を睨みつける。

「何やら宮廷内に、とてつもない背信行為がまかり通っていた様子。感知できなかった事、宰相として恥いるばかりですが、その膿みをしっかりと出す事で、せめてものの償いをしたく……」

 つまり、自分の地位を保証してくれるなら、他のクロイス派は煮るなり焼くなりして良い、という宣言だ。

(なにを白々しい……)

 その茶番を眺めていたアンナは心の中で毒づいた。
 リュデイスの短剣の紛失をこの男が知らないはずがない。アンナが台頭するまでの間、クロイス派とマルムゼ=アルディスや彼の主人は蜜月関係にあったのだ。
 しかも、これほど手早くベレスを切り捨てたとなれば、クロイス本人も、サン・ジェルマン伯爵の存在まで知っていることは疑いない。
 
「女官長どの」

 たまらず、アンナは末席にいるグリージュス公爵に声をかけた。

「わ、私?」

 思いもよらぬタイミングで名を呼ばれ、宮廷女官長グリージュス公爵は戸惑う。

「以前の……皇帝の小麦の一件の時を思い出しました。あの時あなたの亡夫殿も、こうして責任を押し付けられ自決なされた……。あなたが盟主と仰ぐ人物が、それに相応しいかよくお考えになられませ」

 あくまで女官長に向けた言葉だが、他の大臣たちもざわついた。そんな中、クロイス公だけが平然とした顔でそれを聞いている。そのふてぶてしさには、アンナも舌を巻かざるをえない……。

「アンナ、それくらいにしなさい。私たちは彼らに協力を頼む立場です」

 そう言って、マリアン=ルーヌが諌める。

「はい。失礼しました」

 アンナは頭を下げて、その話はそこで終わりにした。確かに今の流れで必要以上にクロイス公を糾弾するのは、あまり意味のある行動ではない。

「ともかく、他の大臣の皆様も、私の即位をお認めください。これは要請ではなく命令です。近衛連隊はいつでも実力行使に出られる事をお忘れなく」

 それが、マリアン=ルーヌの勝利宣言だった。

 * * *

 ほんの一年前まで、クロイス派の体勢が揺らぐなどとは、誰も考えていなかっただろう。それが今、2人の若い女性によってなされようとしていた。
 ひとりは盲目の皇妃。そしていまひとりは、出自すら定かではない成り上がりの女貴族だ。

 ようやくここまで来た。そんな感慨は、アンナには無かった。
 むしろ早すぎるように思っている。

(ホムンクルスは歴史の流れを早める、か……)

 "鷲の帝国"の皇帝ゼフィリアスがサン・ジェルマンに言われたという言葉を思い出した。
 確かにその通りだ。ホムンクルスの肉体を得てからまだ3年も経っていないのだ。本来なら10年以上かかる遠大な計画を、数倍のスピードで成し遂げてしまった。

「これでよかったのかしら、アンナ?」

 大臣たちが近衛兵の護送によって、それぞれの屋敷に返され、白薔薇の間にはアンナとマリアン=ルーヌだけが残っていた。

「はい。私たちだけで政権を運営することはできません。しばらくはクロイス派の力が必要です。しかし、すでに立場は逆転しています」

 クロイス公の変節が効いた。確かにベレスの一言は、クロイス派の命運を決めかねない問題発言だったし、即座にその芽を摘み取った公爵の判断は、必ずしも間違いではない。
 が、あの身勝手な言動で大臣たちの結束にヒビが入った事は間違いない。ここからは個別撃破で、彼ら一人一人に引導を渡していけば良い。
 そして代わりに皇妃派の人間を送り込むのだ。同じ事を繰り返し、じわじわとクロイス派の人数を減らしていく。

 同時にベレスたちからはサン・ジェルマンの情報を吐かせなくてはならない。
 あの錬金術師とその一派が、この国に対してどれほどの裏切りをしてきたかを明らかにする。
 そして、マルムゼやアンナ自身との因縁にも決着をつけるのだ。

「それにしても私が女帝になるなんて……まるで母の宿命をなぞっているようね」
「"鷲の帝国"の先帝、マリアン=シュトリア陛下ですね。聡明にして果敢な名君であったと聞きます」
「そして、多くの者に恨まれていた方でした。おそらくは私も……」
「陛下、今のあなた様の境遇を作ったのは私。もしあなたさ様が誰かに恨まれるとしたら、それは私の責任です」

 アンナは新たな帝王の手を掴み、言った。

「ですからお約束します。どのような悪意や恨みからも私がお守りします。陛下は正しき王として、民の上に君臨してください」
「ありがとう、アンナ。ならば私もあなたに約束します。帝国の実権は、あなたのものです。どうかお好きなようにこの国をお導きなさい。そのために必要なものは全て差し上げます」

 その日、宮内省から帝国の全国民と諸外国の大使たちに向けて、皇帝アルディス3世の死と、皇妃マリアン=ルーヌの女帝即位が発表された。
 戴冠式は来年となり、当面はアルディスの代理という形を取るが、実質的には新帝の誕生である。
 その布告には宰相クロイス公爵の署名も付けられており、彼を中心とした政権は彼女を支持するという表明にもなった。

 それは、決して時代の終着点ではない。
 これを契機に、歴史はさらに加速していく。ひとりの復讐鬼が生み出したこの流れが、どこへ向かっているのか。それは、誰にもわからなかった。

第Ⅱ部 宮廷掌握編 -完-