かくしてアンナは、皇妃の散歩友達として遇されることとなった。
 新グレアン伯となったアンナは、皇帝への謁見や、他貴族との人脈づくりのため、数日に一度は宮殿に参内している。そして、その度に庭園を訪れていた。

「伯爵、近ごろ皇妃と仲良くしていると聞いたが?」

 その話はアルディス皇帝の耳にも入ったらしく、ある謁見の時にそう尋ねられた。

「はい。恐れおおくも庭の散歩に付き添わせていただいています」
「それは大儀である。彼女はあの目のせいか、人を避けがちでな。これからも仲良くしていただきたい」
「かしこまりました」

 心の中では苦笑を禁じ得なかった。かつてのアルディスは、マリアン=ルーヌとエリーナを極力会わせようとしなかった。
 皇妃と寵姫なのだから当然だ。エリーナは公式の場でしか彼女と会話したことはない。
 それが今では、私と皇妃が会っているのを喜ぶのだから皮肉な話だ。もちろんアルディスもマリアン=ルーヌも、アンナの正体を知る由もないのだが……。

「こちらですわ、伯爵!」

 謁見が終わり、庭園に降りると皇妃が待っていた。
 目が見えないにも関わらず、近づいただけでアンナが現れたことに気付いたようだ。つくづく、非凡な感覚をお持ちの方だ。

「仰られた通り、馬車を用意させました」
「ありがとうございます。いつも同じお散歩コースではお飽きになってしまうかと思いまして」
「楽しみです! ヴィスタネージュの庭園は広大と聞きます。私がこれまで歩いていたのは本殿の周りばかりでしたから……」
「陛下の御身を思ってのことです。ご理解ください」

 宮廷女官長ペティア夫人が面白くなさそうに言う。
 これまで散歩に随行するのは自分の特権だったのに、それを得体の知れぬ女に奪われてしまったのだから、無理もない。

「グレアン夫人、どうしてもおふたりで行くと言うのですか?」

 ペティア夫人は、頑なにアンナのことを伯爵ではなく、伯爵夫人として扱おうとしていた。
 女性に爵位など無用、あくまで殿方の付き添いとして振る舞うのが、宮廷の秩序というものだ。そう言いたげに。アンナも夫人と呼ばれるたびに訂正していたが、やがて馬鹿馬鹿しくなり、聞き流すようになっていた。
 
「ご心配なく。陛下のスケジュールを乱すつもりはございません。3時の読書会までには戻ります」
「そういう意味ではございません! もし陛下の御身に何があったらいかがなさるおつもりです」
「ならば、近衛兵の一大隊でもお呼びすればよろしい。遠巻きに私を監視なさり、もし陛下に危害を加えるとお認めになれば、どうぞ私を狙撃なさい」
「ななな……」

 ペティア夫人の顔が青くなる。

「ペティア夫人! 私です。私が伯爵と二人きりになりたいとわがままを言ったの! 彼女を責めないでください」
「陛下……」

 皇妃が懇願すると、女官長は何も言えなくなってしまった。

「それでは失礼。先ほども申した通り読書会までには戻りますので」

 アンナは皇妃の手をとり、二人乗りの馬車に乗り込んだ。

 * * *

 ヴィスタネージュ大宮殿の庭園は4つの区画に分かれている。
 本殿に最も近いのが、噴水と花壇が幾何学的に配置された西苑。
 球戯場や競馬場など、遊興のための施設が点在する南苑。ここには帝都方面からの直通の門もあり、貴族たちの社交の場となっている。
 皇族や寵姫の私的な空間である東苑。開放的な南苑とは対照的に、こちらはごく限られた者しか立ち入りを許されない。
 そして狩場として広大な森がそのまま残されている北苑だ。面積はこの区画が最も広い。

 それぞれの区画だけでもで、諸外国の宮殿がすっぽりおさまってしまう程の広さを持つ。
 本殿や付属施設も含めた宮殿全体の総面積は、帝都のそれに匹敵すると言われている。これがヴィスタネージュ大宮殿の全容だ。

 この広大な宮殿内の移動は、徒歩だけでは無理だ。だから本殿から離れた区画へ向かうには、今回のように馬車を使う必要がある。

「東苑? あそこは皇族でなければ入れないのでは?」

 行き先を聞いた皇妃は、少し驚いたような口ぶりでアンナに尋ねた。
 
「であるからこそ、皇妃様にわがままを申し上げました。お許しを」
「いえ。それは良いのですが、どうしてあそこの内部をご存知で?」
「以前、養父が申しておりました。先帝陛下に付き添って一度だけ東苑に入ったと、そこに良い場所があるそうなのです」

 もちろん嘘だ。あの男が東苑への立ち入りを許されるほど、先帝から信頼されていたとは思えない。
 東苑の内部を知っているのは、他ならぬエリーナ自身がそこに別邸を持っていたからだ。

 各区画の間には運河で区切られている。石造の橋を越えたら、ここからが帝室の私的な世界だ。

「ここで停めてください」
 
 アンナは御者に指示を出すと、馬車が停まる。
 御者はアンナの腹心マルムゼだ。彼が認識迷彩を用いて、皇妃付き御者に紛れ込んでいたのだ。

「さぁ陛下、お手を」

 馬車から降りる皇妃の手を握る。二人は手を繋いだまま、歩き出す。
 この辺りでいいだろう。ある程度進んだところで、アンナは"感覚共有"の異能を発動した。

「まぁ……」

 そこは、やや大きめの池のほとりだった。
 花壇と噴水で人口的に整備された西苑とは違い、自然の景観を再現するように植木が配置されている。足元に広がるのは石畳ではなく、野生に近い花畑だ。
 皇妃と散歩を共にするようになってから、そろそろ3ヶ月。春の兆しが訪れ始めた東苑の花畑には、色とりどりの花が咲き乱れている。

「花の香りが強いと思っていましたが、まさかこんなに綺麗な場所だったなんて」

 アンナの手に繋がれたまま、辺りを見回す。体をかがめて、足元の花を観察したかと思えば、大きく伸びをして全身で風を受ける。

「お気に召しましたか」
「ええ、とっても! 素敵なところを教えてくれてありがとう!」
「ここなら誰に気兼ねする事なく、お話を伺うことができます」
「え?」
「お悩みなのでしょう? お茶会の件で」

 マリアン=ルーヌ皇妃の表情がこわばった。

「ご存じ、でしたの?」

 アンナは黙って頷く。

「よろしければ私にお話しください。私とふたりきりになりたいというのは、この相談をするためでございましょう?」

 * * *

 話は3週間ほど前にさかのぼる。

「寵姫にべったりだったグリージュス公爵夫人が、皇妃様に近づいているようです」
「ということは」
「ええ、始まったみたいですね」

 宮廷内の噂話を影から聞き続けていたマルムゼがそう報告してきた。
 どういう風の吹き回しか、寵姫様のご友人が皇妃様のお茶会の手伝いをしているらしい。

「けど、これまで皇妃様がそういった行事を主催することはなかったわ。それがどうして急に……?」

 そのあたりは、週に一度の散歩仲間であるアンナも聞いていない。

「それこそが、ルコットの企みのようです。グリージュス公爵夫人が、皇妃たる者の務めとして強引に求めたのだとか」
「なるほどね」

 "百合の帝国"の歴代皇妃には、社交的な女性が数多くいた。
 彼女たちは、好んでお茶会や舞踏会を主催し、そこに参加する貴族たちからの忠誠を得ていた。
 これらの催しは政治的にも重要な意味を持つこともあり、皇妃の地位を向上させるものになったという。

「マリアン=ルーヌ皇妃はあの目のために、社交界に出ることはありませんでした。しかしそれでは皇妃としての権威が損なわれてしまう、グリージュス夫人はそんな風に彼女を脅したのでしょうね」

 そして影では皇妃の足を引っ張り、慣れない主催で大失敗するよう誘導しているのだろう。虫酸が走るやり口だ。

 * * *

 東苑の花畑で、皇妃は自分の悩み事をアンナに打ち明け始めた。

「先日、帝室御用達の菓子職人から連絡があったのです。当日の納品が難しくなったって」
「納品が難しい? 確かお茶会は来週でしたよね」
「小麦の高騰で在庫が切れてしまったというのです。私そんな事全く知らなくて」

 おかしい。そんな話は聞いたことが無い。昨年の帝国のどの地域でも特に不作などはなかった。
 "獅子の王国"との戦争も、今は落ち着いており軍需物資の増産などもない。小麦の値が上がる理由がない。
 いや、そもそも帝室御用達の職人が、原価高だからと言って皇妃の注文をキャンセルするというのがありえない。
 多少の在庫薄ならなんとしてでも解決し、注文通りの菓子を作る。そして帝室には正当な金額を請求する。
 そういう事ができる職人だからこそ帝室はお墨付きを与えているのではないか。

「手に入らないのなら、お菓子が用意できないのは仕方ないですが……今から別の職人を探すのも難しく……」
「確か、グリージュス夫人がお手伝いされていたのですよね? あの方はなんと?」
「諦めてお茶会を中止するしかない、と。でも私、すでに招待状も出してまっているのです。あの方に言われて、各国の大使夫人にも……今更中止になどできません」

 諸外国の大使夫人をもてなすことに失敗すれば、外交問題にもなりかねない。
 グリージュス夫人は、きっとここまで懇切丁寧に皇妃を助けてきたのだろう。
 慣れない彼女に丁寧にアドバイスをし、雑務を引き受け、成功したときのことを想像させて喜ばせる……。
 そして後に引けないところまでいった所ではしごを外し、笑いものにするのだ。お茶会すら満足に開けない皇妃だと。

「分かりました。このアンナ・ディ・グレアン、微力ながらお手伝いさせていただきます」

 アンナは頭を下げる。

「大丈夫。小麦の高騰など大した問題ではございません。必ずや皇妃様のお茶会を成功させてご覧に入れましょう」
「本当ですか?」
「ええ。私は何があっても皇妃様のお味方です」
「あ、あ……ありがとうございます」

 皇妃は心底からの安堵の表情を浮かべた。