タフトが人差し指を差し出すと、その小さな手はぎゅっとそれを掴んだ。
 不意に涙が零れ落ちそうになる。なんと儚く、非力な手なんだろう。それなのに、すべてを包み込むような暖かさも感じる。

「エリーナ」

 タフトは娘の名前を呼んだ。

「きゃっきゃっ……」

 赤ん坊は、可愛らしい笑い声を返す。
 まさか自分が子をなすとは。サン・ジェルマン村の惨劇から82年、夢にも思わなかったことだ。

「あなた、エリーナに構うのはいいけれど、お仕事が貯まっているんじゃなくて?」

 娘を抱く妻が苦笑する。

「ああ、そうだったな。工房へ納品する金属管があるんだ」
「でしたら、まずはそれを片付けてくださいな。この子を育てるためにも、お金が必要なんですから」
「わかってるよ。それじゃあな、エリーナ」
「うー」

 エリーナに手をふると、娘はそれに答えるように手をばたつかせる。その姿が愛らしく、仕事場に入る気持ちを鈍らせてしまう。

 幸福、だった。

 7年前より、タフトは帝都の職人街へ移り住んでいた。その中心部にある、帝立錬金工房の内情調査のためだ。
 古城でのホムンクルス研究は行き詰まりを見せていた。何をどのようにしても、器の身体に魂を移すことが出来ない。タフトは、サン・ジェルマン伯爵を名乗り、各国の錬金術師としきりに情報交換をしてきた。それでも問題を解決することは出来ず、十数年の月日を浪費することとなった。

 この時代の錬金術は、直接的な魔法の復活を諦め、別の手段で魔法と同等の力を生み出す方向に移行しつつあった。"薔薇の王国"で、水蒸気の膨張を使って力を得ようとする蒸気機関の研究が盛んになったことなどは、その風潮の象徴と言えるだろう。
 そんな中、"百合の帝国"と"鷲の帝国"の工房のみが、魔力研究の部門を残していた。両国とも、竜退治の勇者を祖にもつ国であったため、魔法復活を諦めきれていなかったのだ。

 それまでタフトは、帝立錬金工房の学者とは距離を置いていた。彼らは恩師である"伯爵"を追い出した者の末裔であり、仇的である簒奪者の家臣たちなのだ。近づく気にもなれない。
 しかし、自分たちの研究が行き詰まり。この先の展望がない。一時は50人以上いた孫弟子・曾孫弟子たちも今では4人まで減っている。

『錬金工房の成果を手に入れ、我々の研究に組み込むことは出来ませんでしょうか?』

 そう提案したのは、最年長の孫弟子だ。今では彼が、古城でタフトに次ぐ古参の錬金術師となっている。
 タフトは最初、その提案に激怒した。が、すぐにその提案が有用だと思い直し、彼に「サン・ジェルマン伯爵」を名乗らせ、工房に送り込むこととした。

 そして自分はすぐ近くの職人街へ移った。弟子は、高待遇で迎え入れられたが、客員錬金術師という立場上、研究の全貌を知ることは出来ない。そこでタフトも職人として工房に忍び込み、2方面から研究を盗み出そうと考えたのである。
 この頃タフトはすでに90歳になっていたが、外見の年齢はその1/3にも満たないような若者の姿のままだった。この姿を利用し、流しの金属加工職人を名乗り、地元の職人に弟子入りをした。70年以上積んできた研鑽によって、タフトは基礎的な金属加工技術なら本職顔負けの技量をもっている。その腕を親方に見込まれ、可愛がられるようになった。

「ほぎゃあ!ほぎゃあ!」

 仕事場に入り、旋盤に金属塊をセットしようとした時、エリーナの泣き声が聞こえてきた。

「よしよ~し、どうしたの? お腹が空いたのかな~?」

 続いて、妻がそれをあやす声。彼女はタフトの面倒を見てくれた親方の娘だ。
 その親方は3年前に他界した。病気ではない、貴族の乗る馬車に轢かれ、内蔵を潰されてしまったのだ。
 3代続いた工房の火を途絶えさせたくない。そう望む彼は、今際の際にタフトに娘との結婚を申し入れてきた。

 錬金工房の内情を探るという当初の目的を考えれば、想定外の事態だ。
 けどタフトには、職人らしい気風の良い彼の願いを無碍にすることが出来なかった。それに娘がタフトに想いを寄せていたことは、タフト自身も気づいていた。
 
 一方、サン・ジェルマン伯爵として錬金工房に出入りしていた孫弟子の心境にも変化があった。
 確かに工房内に魔力研究の部署はあったが、その研究は古城で自分たちがやってきたことに遠く及ばず、ホムンクルス開発に役立ちそうなことは何もなかった。
 しかし、それ以外の部署は世界大国の錬金術にふさわしい水準を誇っていた。

 その輝かしい錬金術の最前線に、孫弟子は魅了されてしまったのだ。
 彼は、タフトの復讐にそれほど熱意を持って付き合っていたわけではない。純粋に学問を志す男だった。それゆえ帝立工房で自身の研究を始めたいと志すようになったのだ。

 もともと、下の世代を復讐に突き合わすことに後ろめたさを感じていたタフトである。彼の想いを理解し、それを許した。古城に残っていた弟子たちも呼び寄せ、彼らは新たな研究を始めることとなった。
 後に「サン・ジェルマン伯爵」とその門下生たちは、錬金合金やガス灯の開発に多大な貢献を果たすこととなる。

「ここいらが潮時かもしれんな……」

 タフト自身、そういう心境になっていた。タフト自身が諦めさえすれば、帝国の破滅を望むものなど誰もいなくなる。
 確かに大貴族たちの専横には問題がある。しかし、十数年前にタフト自身が協力していた革命思想も広がり、革新的な考えを持つ貴族や官僚が増えてきたのも事実だ。
 現在の皇帝であるアルディス2世は、そういった者たちの声にも耳を傾ける名君だとされている。そしてその息子、後にアルディス3世と呼ばれるであろうアルディス皇太子も聡明な少年だともっぱらの噂だ。

 世界は徐々に、良い方へと進んでいる。
 今さら、それをひっくり返すことにどれほどの価値があるのだろう?

 少なくとも、これから健やかに育っていくであろうエリーナにとっては、国家の破滅など悪夢でしか無いはずだ。

「すまないヴェル……。私はもう降りようと思う……」

 タフトは、復讐の契機となった80年前の想い人に向けてつぶやいた。その声には力がなく、しかしどこかほっとしたような響きがあった。