「東方の大陸には、夏の前にひと月以上雨が降り続ける雨季があると聞いたことがありますが……」
「まさにそんな感じの天気ね……」

 6月。夏の到来ということで、宮殿では屋外でのパーティーや音楽会が連日行われる頃だが、今年は予定されていた半数以上の催しが中止となっていた。

「本来はこの時期に、大広間の大規模な手入れをするのですが、屋外で予定されていたものをあそこで開催することが多く、なかなか手をつけられません……」

 そうぼやくのは、宮廷家財管理総監……以前アンナが務めていた役職の男だった。

「大広間は専念改築したばかりです、急いで手入れをする必要もないでしょう」
「それは、確かにそうなのですが……」
「とりあえず、宮廷の家財に関する報告書はいただきました。下がってよろしくてよ」
「は、はい……」

 家財管理総監が退室すると、アンナは深くため息をついた。

「呑気なものよね……」
「彼なりに、自分の職務に忠実であろうとしているのでしょう」

 マルムゼが家財管理総監をフォローする。

「それは、もちろんわかっているけども……」

 この長雨が与える影響はそれどころではないのだ。広間のルビーやダイヤモンドのくすみを取り除けないから何だというのだ。
 アンナは、国務省から送られてきた報告書の文章をもう一度読む。何度目を通したところで、その内容は変わらない。

 先月、南部の穀倉地帯で霜が大発生した。
 5月の、春の真っ最中の霜など聞いたことがない。これにより麦を中心に農作物が壊滅的な打撃を受けた可能性があると、報告書には書かれている。
 それ以外にも、今年は異常気象が続いていた。
 今、帝都近郊を襲っている長雨もそのひとつだ。河川の増水による、堤防や橋の崩壊の知らせが何件か届いている。
 また、"銀嶺の国"との国境に近い街モン・シュレスでは季節外れの猛吹雪により、街道が寸断されているという。

 後年、「夏のない年」と称される空前規模の異常気象が、"百合の帝国"のみならず大陸全土を襲っていた。

「つくづく、昨年のうちに"獅子の王国"との和平を樹立できてよかったと思います」
「そうね……」

 マルムゼが言う。確かに農作物が壊滅した中での戦争など、考えるだに恐ろしい。
 この異常気象を理由に休戦しようとしても、互いに譲歩するラインを見誤り、交渉はまとまらないだろう。そして、やがてくるだろう飢えに怯え、敵国の麦を奪おうと地獄のような戦いが泥沼化していく……。

「それでも、せめて5年……いえ3年は猶予が欲しかった」

 霜や長雨のせいで、今年の税収が見込めないもはほぼ確実だ。戦争を終えたばかりの国に、この打撃は大きい。

「この数年、この国は豊作続きだったのよ……! でも、今年を乗り切る余裕が国庫にはない! 収入の大半は貴族の懐に収まってしまった……!」

 顧問となり、初めて帝国全体の財政状況を把握することができたのだが……これほど切迫した状態だとは思ってもいなかった。自分がエリーナとして、改革案を用意していた頃からはるかに悪化している。
 もっと早く、自分が権力を握っていればこうはさせなかった。いや、アルディスが健在でフィルヴィーユ派による改革が成功していれば、今年の凶作くらい乗り越えられる国力を蓄えることができたはずだ……!

「過ぎたことをお悔やみになりますな、らしくありませんよ?」

 報告書を握り、震えるアンナの手をマルムゼが握る。その温もりと少しだけ硬い感触を感じることで、いくらかの冷静さを取り戻すことができた。

「……そうねマルムゼ。どんな錬金術を用いても、時を戻すことはできない。意味のない悔やみだったわ」
「あなたは、そのお身体で目覚めて以来、常に最良の選択をなされた。ずっと横で見てきました。そう確信しています」
「うん……ありがとう」

 アンナは手のひらを反転し、マルムゼの手を握り返した。

「これからを考えるわ。多分、これまでによりもはるかに難しい選択が続くから……」

 ただ災害や凶作の対策をするだけではない。何せ今年は、マリアン=ルーヌ女帝が即位した年なのだ。この難局を乗り切らなければ、女帝に統治能力なしと判断され、国が乱れることは疑いない。
 恐らく、クロイス派はそれを見越して動くだろう。連中が民のことなど省みるはずもない。この異常気象を自分たちの天下を取り戻すためのチャンスと思い小躍りしているに違いない。
 一方で、帝都の市民たちの動向も不安だ。今は女帝の人気が高いが、その評価が覆れば果たしてどうなるか。ベルーサ宮にたむろする革命派などが、暴発する可能性は十分ある。そしてその時、リアン大公をはじめとした亡きアルディスの弟妹たちがどう動くのだろうか……?

「私たちが今の信頼を維持する方法があるとすれば……錬金術よ」
「例の、賢者の石ですね」

 職人街の錬金工房は春先に、建物が完成した。今は、バルフナー、シュルイーズ両博士の他に、旧工房が閉鎖された時に散り散りとなった錬金術師たちも戻りつつある。彼らは、工房地下の秘密通路を使い、バティス・スコターディ城の地下にある()()を研究中だ。

「賢者の石が秘める魔力。それを産業に転用できれば……」

 "薔薇の王国"で起きた、蒸気機関による産業革命と同等か、それ以上の変革を社会に起こすことができる。今年、あるいは来年、この国を襲う難局を直接打破することには繋がらないかもしれない。でも、社会を活気づけ、10年後のこの国に、強靭な体力を与えることは出来るはずだ。
 しかも、この研究は"鷲の帝国"と共同で行なっている。竜退治者を始祖とするこの2大国で同時に変革が起きれば、その社会的・経済的な影響は、他の国にも波及していくはずだ。今年の災厄の爪痕を、早々に大陸中から拭い去ることができるかもしれない。

「今のままでは、絵空事でしかないけれど、それでもいくらかマシな絵空事だと思う」
「私はどこまでもついていきます。ご自身の望む道をお進みください」

 アンナの背中を押すように、マルムゼは言う。

「ありがとう。……けどまぁ、これでしばらくは眠れない日が続きそうね」

 すでにアンナの机には、各地の被害報告に、今後の予測、錬金工房からの研究報告書などがうずたかく積み上げられている。

「そうなると、宮廷行事も後回しにせざるを得ないかもしれませんね……」

 顧問アンナのもっとも重大な職務。それは本来、女帝の名の下に行われる行事を滞りなく遂行することにある。その他の政務に、アンナが首を突っ込むことができるのは、この職務の遂行のために必要なこと、と拡大解釈しているからなのだ。
 本来、政務の統括は彼女の政敵である宰相クロイス公爵の領分である。

「可能な限り、陛下のおそばにいなくては、とは思っている……」

 しかし実際の所、宮廷向きの仕事は女官長グリージュス公クラーラに任せることが増えていた。

「不本意だけど、頼らざるを得ないわ。彼女や"真珠の間"の面々にね……」