彼女と話すのにこれほど緊張するのは、初めて出会った迷路温室以来かもしれない。

 アンナは朝一番で皇妃の村里におもむき、女帝がくるのを待っていた。
 人造池のほとりに置かれたテーブルには、すでに朝食の準備が整えてある。彼女の好物であるブリオッシュと、柑橘類を数種しぼったジュース、帝室専用の牧場で作られたチーズ。あとは、彼女が到着したら村里で今朝獲れた卵でオムレツを作る。

(あの場面を見ていたことは伏せたほうがいいわよね……)

 昨日、大広間の仕掛け鏡の裏から目撃した、ダ・フォーリス大尉の接吻。あれを陰から覗き見していたというのは、ちょっと良くない。とはいえ、全く知らない態度でいては話を進めることもできないだろう。
 法務省から戻ってきた後、一部始終を侍女から聞いたという体にしておこうか。それならば半分は嘘にはならない。
 そんなことを考えているうちに、使用人がやってきた。

「そろそろ陛下がお見えの時間です」
「わかりました。それじゃあ、オムレツの用意をお願い」

 アンナはそう指示を出すと、村里の入り口に向かう。ちょうど小道の奥から馬車がやってくるのが見えた。

「おはようございます、陛下。昨日は舞踏会に出席かなわず、大変申し訳ございません」

 馬車が到着すると、アンナは頭を下げて彼女を出迎える。

「お、おはよう……」

 侍女に手を取られて馬車から降りる女帝は、体をぎこちなく強張らせていた。盲目ゆえに、足を踏み出す事に躊躇している、と言うわけではない。頬をほのかに染め、アンナにかける言葉を探している様子だ。どうやらアンナと同じ、いやそれ以上に緊張している。彼女の方でも、昨日の件を相談するつもりでいることは一目瞭然だった。

「さあ、お手を。テーブルまでご案内します」

 当事者以上に緊張したり狼狽えたりするわけにはいかない。アンナはそう思い直し、持ち前の胆力を発揮して女帝の手を取った。
 感覚共有の異能を使って視界を共有するが、同時に感情も悟られては、女帝も相談しにくくなるだろう。

「あの……その……」
「まずは朝食をいただきましょう。いま、オムレツを焼かせています」
「そ、そうね……」

 女帝を椅子に座らせ、自分も反対側に着席すると、食事を開始する。

「……」

 女帝は、使用人が焼きたてのオムレツを持ってきても、ナイフとフォークを握りしめたまま上の空で手を動かそうとしない。

「陛下、召し上がらないのですか?」
「え? ああ、そうね……えっと……まずはミルクをいただこうかしら。

 そう言って、手元のコップに口をつけると中身を喉に流し込み……思い切りむせた。今朝の飲み物は柑橘のミックスジュースだ。牛乳だと思いながら飲めばそうもなろう。献立については今しがた説明したのだが、聞いていなかったらしい。

(これは……重症ね)

 話を切り出すタイミングも何もあったものではない。アンナは、真正面から女帝にぶつかる事にした。

「昨日の話、伺っております。素敵な殿方との出会いがあったそうで」
「う……」

 使用人たちがこぼしたジュースを片付けている中で、申し訳なさそうにしていた女帝の表情が固まった。

「ダ・フォーリス大尉。なかなか情熱的な方のようですね」
「ア、ア、アンナ! 私、一体どうすればよろしいのでしょう!?」

 ほんのりと頬が火照っている程度だった彼女の顔が、みるみるうちに赤みを増していく。耳の先まで熟れた苺のような色に染まってしまった。

「あのようなことをされたのは初めてで……」
「落ち着いてください陛下。陛下は、彼の振る舞いはお嫌ではないのですね?」
「嫌などとは……でも、本当にわからないの、こんなこと生まれて初めてで……!」

 そうであろう、この国に嫁いできたとき、"鷲の帝国"の皇女マリアン=ルーヌはまだ14歳の少女だった。そして直後に失明し、大貴族たちへの恐怖や羞恥心から、引きこもり同然の生活をするようになる。彼女が積極的に外に出て人と関わるようになったのは、アンナと出会ってからのここ数年のことだ。
 引きこもっている間は、夫アルディス3世との間も冷え切っていた。彼に成り変わり皇帝の地位を欲しいままにしていたホムンクルス、マルムゼ=アルディスは、何者かの指示で彼女との接近を図っていたがその2人の間にも愛情のようなものは一切育まれていない。

 つまり、マリアン=ルーヌという女性は、今もまだ恋愛の機微を知らない、うぶな少女のままなのだ。

「わからないの……こんな目の見えないような私に恋をしたなどと……彼の方は私をからかっているのでしょうか?」
「決してそのようなことは……」

 大陸最強格の大国の君主を、色恋でからかおうなどと考える者もおるまい。そのような傑物がいたら、むしろその胆力を買って、自分の配下としたいくらいだとアンナは思った。

「ではいったいどうして!?」
「陛下、陛下は君主としてはもちろん、女性としても十分魅力的であると私は思いますよ? 目のことなど、この際関係ございません」

 実際、年齢に比して幼さが残るものの美しい容姿であることは間違いない。形の良い鼻や優美な曲線の額。彼女が本来持ち合わせていた翡翠の色の大きな目が開かれてなかったとしても、あまりあるほどの美貌だ。
 そして文学や音楽を嗜む教養を持ち、夫の死と共にクーデターを断行する胆力を備え、何より一時はアンナに「優しすぎる」とまで思わせた朗らかな人柄がある。
 単純に考えて、女帝マリアン=ルーヌは、世の殿方をとりこにするだけの素養があるのだ。

「……わかりません。私にはまったく」

 とはいえ、この女帝が自身の魅力に確信を抱くには、もっと世間擦れする必要もあるだろうとは思う。

「それにしても……」

 アンナは密かに抱いていた違和感を女帝にぶつけてみる。

「珍しいですね。陛下が、あのような場所で初対面の殿方と接するなんて」

 アンナが取り仕切る催しではこの人はそんなことを望まなかったし、それを理解していたアンナもむやみに人を紹介することはしなかった。
 おおかた女官長のクラーラが、半ば無理やり引き合わせたのだろうが、それにしても盲目の彼女が一緒にダンスまでしたというのは、どんな気まぐれだったのか?

「それは……彼の方にも見えたんです、光が」
「光……?」

 聞き捨てならない言葉が出てきた。

「それは、もしかして私たちと同じような……」
「はい。それで私、つい気を許してしまったの。彼と一緒に踊ることができたのも、その光で彼の位置がわかったから……」

 マリアン=ルーヌの言う「光」とは、恐らくは魔力や魔法に関わるものが発する、特殊な気配のことだ。となれば、あの仮面の男はただの異国の軍人というだけでは済まされなくなる。

「そう、ですか……」

 アンナは考える。そんな怪しげな人物を女帝と引き合わせていいのか。恋の相手として問題ないのか……?
 顧問の力を持ってすれば、あの男を女帝に近づけないことは容易だろう。しかし、それは本当に女帝のためになるのか?

「……また、大尉と会いたいとお思いですか?」
「正直わからない……でも」

 女帝の表情がふっと緩んだような気がした。

「楽しかったのは確かよ」
「左様でございますか。……ならば、もっとお会いになられませ」
「えっ?」
「頬への口付けなど、この帝国の社交界ではあいさつのようなものです。あれだけで、2人の未来が決したわけでもありませんし、大尉もそのようにお考えでしょう。もっと2人の時間を重ねてからでも、彼を恋愛の相手とするか決めるのは遅くありませんよ」

 それはアンナにとっては危うい道かもしれない。
 エリーナの頃より魑魅魍魎のひしめくこの宮廷で生きてきた。その経験からくる勘は、警告を発している。

「あなたは、それを許してくれるの?」
「ええ」

 もちろん、無条件に2人の交際を認めるわけにはいか。まずはあの男の身辺をしっかり調査する必要がある。が、もし信用に足る人物であれば、若き女帝の将来へ良い影響を与える可能性は十分ある。

「本当によろしいのでしょうか、そのようなことをして……?」
「君主であると同時に、陛下はこの国で最も素晴らしき女性です。そして最も不自由な女性でもあります。その窮屈さを和らげるのに、恋愛ごとはうってつけですよ」
「けど私は、未亡人です。亡き夫に操を立てる必要があるのでは……」
「アルディス帝への義理立ては十分になさったかと存じます。きっと彼もお許しになりますわ」

 ここで言うアルディス帝とは、もちろんあの不貞な偽物ではない。マリアン=ルーヌと婚礼の儀をあげた本物のアルディス帝のことだが、そんな事は彼女も承知だろうからあえて言わなかった。

(お許しに……ね。どの口が言っているんだか)

 かつての自分の恋人の気持ちを代弁している事実に、アンナは奇妙な感覚を覚えた。アルディスは、今アンナの目の間にいる女性との関係構築に失敗した。が、決して愛がなかったわけではない。だから実はアンナも、かつてはこの繊細で可憐な女性に嫉妬したことが、幾度となくあったのだ。そんな自分に、彼の言葉を代弁する資格などあるのだろうか?

『陛下には幸せな恋愛をして頂きたいとは思います』

 なぜか不意に、昨夜のマルムゼの言葉が思い返された。
 幸せな恋愛。ああ、そうだ。私も、この人には素敵な思いをして頂きたい。
 
 様々な事情があったとはいえ、エリーナ・ディ・フィルヴィーユは、皇妃マリアン=ルーヌからアルディス3世を寝とった女であることは間違いない。アンナの前世は、彼女から女性としての幸福を奪った張本人なのだ。
 できる限り直視を避けていた事実だが、こういう状況では、目を背けてばかりもいられない。

(もしも……)

 もしも女帝陛下が今後、特定の男性と愛を育む意思があるのなら、少なくとも自分だけは、彼女の恋路を邪魔する資格はない。

 胸の内に、そんな思いが湧き起こった。