皇妃の村里は、今も変わらずアンナたちの政治的な拠点として使われている。

「私が、大臣に?」

 今日、この村里を訪れていたのは顧問アンナと一時帰国中の"鷲の帝国"駐在大使ラルガ侯爵の2人。村里の主人たるマリアン=ルーヌ女帝は公務のため来ていない。だがアンナは、彼女の不在時でも自由にここを使い、ゲストを呼ぶ特権を与えられていた。

「はい。ベレス伯爵が引退して以来、宮内大臣職が空位となっていますが、いつまでもそのままとはいかないでしょう?」
「しかし、顧問派から大臣を出すことを、クロイス宰相がお認めになりますか?」

 かつて「皇妃派」と呼ばれていた勢力は、マリアン=ルーヌの戴冠とアンナの顧問就任によって、「顧問派」と呼び名が変わっていた。
 と言っても、これまでもアンナが実質的な盟主だったため、実態はほとんど変わらない。

「すでにクロイス公の了承は得ております」
「なんと!?」
「ドリーヴ大公の件と引き換えです」
「なるほど」

 元寵姫ルコットは女帝の戴冠とほぼ同時期に男児を出産した。
 その実態は、ホムンクルスを用いた傀儡ではあるのだが、公式には先帝アルディス3世の唯一の息子である。
 父と同じアルディスという名を与えられたこの男の子に、女帝はドリーヴ大公の位を封じた。
 通例では、ドリーヴ大公位は皇太子に与えられる。そればかりか女帝は、この子が10歳になれば自分は退位するという宣言までした。
 つまり、この男の子は十年後には、"百合の帝国"皇帝アルディス4世となることが約束されたのだ。

「まさか陛下があそこまで譲歩されるとは思いませんでした。これもあなた様の策謀のひとつなのですか、顧問殿?」
「確かにいくつかのアドバイスはしていますが……実はあの子をドリーヴ大公に、というのは陛下が言い出したのですよ」
「陛下が?」

 グリージュス公の娘の件といい、どうやら女帝は子供に甘いらしい。しかも、どれだけ憎い相手の子供でも、感情を切り離してその子を慈しんでいる。

 もちろん、ただの子供好きというだけではない。ルコットの男子については別の感情も、女帝マリアン=ルーヌは抱いているようだ。

『私は結局、子をなすことができなかったから……』

 ルコットの息子をドリーヴ大公にしたいと言い出した時、彼女はアンナに胸の内を打ち明けた。その一言に、あらゆ想いが詰め込まれている。

 結果的に上手くはいかなかったが、アルディス3世とマリアン=ルーヌは、一度は良好な夫婦関係を築く事を試みたのだ。
 その後アルディスは死に、偽物がこの国を支配した。そしてその偽物が、クロイス公爵の娘を寵姫とし、唯一の男子を遺した。しかし、その男子には偽物のアルディスとすら血のつながりが無い。

 嘘に嘘を重ねた末に産まれた子。誰との血のつながりもないのに"百合の帝国"の皇帝の血を引く者として、生を受けたホムンクルス。

 ならば彼の事を自分の息子・皇太子として慈しむ、そんな嘘を重ねたって良いのではないか?

 屈折した考えだ。しかし、まともな人間関係を育むことなどできないのが、宮廷である。
 アルディスはまともな関係を求めた結果、他国の皇女マリアン=ルーヌではなく、市井の職人の娘エリーナを選んだ。
 そして、エリーナもまた、マリアン=ルーヌと同じく、アルディスとの子を望み、それをなすことが出来なかったから……。

 だからであろうか。アンナはそれが不利益につながるとわかっていながらも、女帝の願いを叶えなくてはいけないという義務感にかられた。

『かしこまりました。では、必ずこれも一緒に宣誓してください』

 そう言ってアンナが提案したのは、新ドリーヴ大公アルディスが成人したら自らは退位するという約束だった。
 一見するとこれは、クロイス派に対する異様なまでの歩み寄りに見える。だがこれは、女帝の身を守るための最大の自衛策だ。

 幼いアルディスが後継者に決定すれば、必ずクロイス派は女帝を亡きものにしようと動き出す。彼女が死ねば、自動的に自分たちの天下となるのだから、暗殺を考えないはずがない。
 しかもできるだけ早く動くだろう。アンナたちが対策を講じたり、女帝自身が心変わりしないうちに……。

 そうさせないために、期限を設けた。リスクなしに帝位が転がってくるなら、10年待てというのは決して悪い話ではないはずだ。
 しかしアンナももちろん、権力と命を10年後に手放すつもりはない。この10年で何もかもをぶち壊すつもりだった。クロイスら大貴族どもの権威も、それを生み出した貴族社会も。
 ラルガの大臣就任は、その最序盤の一手というわけだ。

「それで、私は空席となった宮内大臣に?」

 ラルガは話題を自分の人事へと引き戻した。

「いえ。宮廷女官長と宮内大臣が両方とも顧問派となれば、我々が宮廷を牛耳ることになります。流石にクロイス公もそれは許しませんでした」
「では、他の閣僚が宮内大臣にスライドし、空いたポストに私が入る、と言ったところですかな?」

 さすが、この英明な老人は話が早い。

「はい。法務大臣ブラーレ子爵が宮内大臣となり、あなたをその公認に据えたいとの事です」
「法務大臣、ですか」

 ラルガは、少し意外そうだった。

「あそここそクロイス派の牙城。高等法院とブラーレのタッグで、貴族のあらゆる不祥事がもみ消されてきたはずですが」
「実質的な力を持つのは高等法院です。そこをクロイス派がしっかり押さえていれば、あなたが大臣になったところで対抗できる、と考えたのでしょう」
「対抗、ですか。ではあなたは、この老体と高等法院の大喧嘩を期待しているので?」

 ラルガ侯爵は今年72歳となる。もう引退してもおかしくない年齢だ。

「帝都の防衛総監に任じられたのが4年前。2年も勤めた後は息子に爵位を譲り、どこかの山荘で隠居暮らしと思っていたのですがな」

 アンナと関わった結果、"獅子の王国"との和平交渉に参加し、さらに大使として"鷲の帝国"におもむき、そこから1年も立たぬうちに法務大臣に指名されることとなった。

「穏やかな老後を邪魔してしまったことについては申し訳ありません。ですが、今の私たちにはあなたの手腕が必要なのです」
「ふふ……誤解なさらず。むしろ楽しんでいますよ。田舎で狩りや養蜂をやっていても、これほど張り合いのある日々は送れていなかったでしょう」

 ラルガは言った。

「クロイス派の専横を苦々しく思いながらも、私ひとりではどうすることもできなかった。そこにあなたが現れ、この国を変えようとしている。人生の終盤で、こんな刺激的な時代が訪れた事に喜びを抱いてさえいますよ、私は」
「ラルガ侯爵……」

 かつてエリーナだった頃、この老人は政敵だった。フィルヴィーユ派の改革を急進的だとして、度々衝突してきたのだ。
 そんな彼が、マルムゼと並ぶ自分の最大の味方となったのは奇縁という他ないだろう。

「では法務大臣の件、よろしくお願いいたします」
「承知しました。高等法院を黙らせて、司法の世界の風通しをよくして差し上げましょう」

 顧問派の宿老とも言うべき老人は、そう言うとめずらしく朗らかな表情を見せた。