流れで、そのまま春人くんとは一緒にお昼ご飯を食べることになった。
「何食べたい?」
 春人くんがこちらの要望を聞いてくれた。あたしはうーんと考える。久しぶりの外食だ。「ラーメン!」
 昨日のラーメンだけではまだラーメン欲が満たされていなかったのだ。
「らーめん……」
 春人くんがオウム返しをした。
「ん? ラーメンイヤ?」
 では他の物にしようか。そう考え始めると、春人くんは「いやいや」と手を振った。
「嫌じゃない。けど、若い女の子が男とラーメン屋行きたいって、どんだけラーメン好きなんだよ、と」
 どうやら昨日もラーメンを所望してしまったから、生粋のラーメン好きと思われてしまったようだ。間違いではないので、特に訂正はしなかった。
 ラーメン屋に入る。あたしは今日は醤油ラーメンにした。春人くんは「なんか、俺も食べたくなった」と言って昨日あたしに作ってくれた味噌ラーメンを注文した。
 春人くんは苦笑していた。
「ラーメン、ラーメンって、どうせ家ではカップ麺ばっか食ってんだろ」
「いや? カップ麺なんて手間のかかるもの、食べる気力はないよー」
「手間、かかるか……?」
 そんな楽しい(?)会話を交わしながらラーメンを食べる。久しぶりの外食は格別だった。
 満足しながら店を出た。
「紬ちゃんは、これからどうすんの? 良かったら、お茶でも……」
「あ、あたし、転職活動しまっす」
「は?」
 あたしは転職活動しようと思い至った経緯を説明した。
 公園のベンチに座りながらあたしの話をうんうんと聞いていた春人くんは、思い切ったように言った。
「それ、一刻も早く転職したほうがいいぞ。とりあえず、カップ麺くらい作れる環境にしないと」
「うん、でもとりあえず次を決めてからじゃないと不安だから」
「なら、芽衣の言うとおり、うちの管理人やればいいだろ? 今まで二人で回ってた仕事を三人で回すってんだから、そんなに心配するような労働環境じゃねえって」
「うーん」
 だいぶ心が傾いてきた。
 しかし、うまい話には裏がある。
 川瀬さんには懐かれているからスカウトされたのだと思うが、春人くんにまでスカウトされる理由がよくわからない。
 疑問をそのままにしておくのは良くない。だから聞いてみた。
「なんで春人くんはあたしに管理人を薦めるの?」
 すると、春人くんはぐっと詰まった。
 ん? これは何か裏がある?
 その表情を見逃さないようにずいっと身を乗り出すと、春人くんは視線を逸らした。
「ねえ、なんで?」
 春人くんは深く息をつくと、あたしの肩を掴んで自分から遠ざけた。目は合わせないままだ。
「心配、だろ」
「ん?」
 あたしはきょとんと首を傾げる。
 春人くんはあたしに向き直った。
「過労と栄養失調で倒れちまうような生活送ってる奴、ほっとけないだろ」
 春人くんは眉を寄せながらそう絞り出した。「てゆーか、芽衣も今のうちに辞めさせたほうがいいって、叔父さんたちにも言っとく」
「それもそうだね」
 あたしは同意した。川瀬さんのようなかわいい女の子があたしみたいになってしまうのは考えただけで苦しい。
 あたしがうんうんと考えていると、春人くんは立ち上がった。
「俺、そろそろ仕込みの時間だから行くけど」
「あ、うん。またそのうち」
 あたしはベンチに腰掛けたまま手を振った。春人くんはじっとこちらを見下ろした。
 どうしたのかな、と思っていると、春人くんは胸ポケットから一枚のカードを取り出した。見覚えがある。
「今日の夕食も食べに来いよ。住民価格でご提供するぞ」
「えっ、悪いよ」
 あたしは慌ててそのマンションのセキュリティカードを返そうと立ち上がった。が、春人くんはそれを押しとどめる。
「今日の夕飯の予定はなんだ?」
 そう聞かれて、あたしは思い巡らせた。
「冷凍庫に、冷凍チャーハンが入ってたから、それにしようかな」
「よし、食べに来い」
 そう宣言すると、春人くんはマンションへ向かっていった。

 夕方の六時。あたしは例のマンションの前に立っていた。
 結局夕飯の誘惑に負けてやってきてしまった。
 ロビーを抜け、一番奥まで歩いて行くと、例の定食屋さんがあった。
 あたしはそろりと中に入っていく。店内は半分くらいの席が埋まっていた。
「いらっしゃいませー」
 エプロンを着けた中年の女性がこちらに挨拶したあと、不思議そうな顔をした。
「あら。新しい入居者さん?」
 あたしは背筋を伸ばした。そうだった。ここはマンション住人専用食堂。いわゆる会員制レストランのようなもの。
「あ、あたし、はる……こちらの店長の紹介で」
「あ、来たか」
 厨房の奥から、黒いエプロンを着けた春人くんが顔を出した。
 女性はあたしと春人くんの顔を交互にせわしなく見ると「あらあらあらあら」とにこにこした。
「店長ー。お嫁さんを迎えるんですねー」
「ちが……!」
「あ、ちがいます。管理人を募集してると聞いてやってきました」
 あたしが淡々と答えると、春人くんは気まずそうに咳払いをした。
「町田さん。食べたいもの聞いて、適当に出してやってください」
「はいはい、わかりましたよ」
 町田さんと呼ばれた女性はあたしに席に着くように勧めた。メニュー表のような紙を広げる。
「これが今日のメニューね。ここの住人の人は前日までにこの中から食べたいものをオーダーしておくことになってるんだけど、あなたはどれでもいいわよ」
「わあ、どれにしようかなー」
 あたしは手をたたいた。今日のメニューは、ハンバーグ定食、たぬきうどん、カルボナーラ、中華丼、鯖の味噌煮定食の五つだった。
 なるほど。事前に予約を取っておくことによって、無駄のない経営をしているのか。今日のメニューということは、多分飽きが来ないように毎日違うものを提供しているのだろう。食材の有効活用も考えてメニューを決めているのに違いない。
 あたしはふんふんとこのお店の経営について思い巡らせた。
「ここに書いてないけど、おにぎりとお味噌汁はいつでもあるわよ」
「あ」
 あたしは口の中が昨日食べたシャケおにぎりになった。
「おにぎりとお味噌汁にしてください」
「え、それでいいの?」
 あたしは頷いた。あの美味しいおにぎりがまた食べたい。どうしても今はあれが食べたい。
 町田さんからオーダーを聞いた春人くんは少し驚いた顔をした。そして、こちらに向かって微笑みかけた。
「他のメニューは今度また食べてくれよ」
「うん!」
 それは、またこのマンションに食べに来てしまうということを意味していたが、その時は気が回らなかった。ただ、春人くんの料理を食べられるのが楽しみだった。
 次はハンバーグ定食が食べたい。今度ハンバーグ定食がメニューに上がるのがいつだかはわからないが。味噌ラーメンも美味しかった。塩ラーメンもあるのだろうか。
 周りをきょろきょろと見回してみる。
「今日はノー残業デーだったからくたびれたよ」
「わかる。毎日がノー残業デーで済む仕事量にしろってんだよな」
 スーツを着た男性が二人、愚痴りながらも楽しそうだ。
「あなた、そのハンバーグひとくち頂戴」
「じゃあ、お前の鯖の味噌煮一切れ俺にくれ」
「一切れやったら、こっちの食べるものがなくなるんだけど」
 若いご夫婦だろうか。仲が良さそうで微笑ましい。
「ごちそうさーん。明日の夕飯もよろしくー」
 食べ終わった人が出て行くと、また次のお客さんがやってくる。店内は活気があり、なかなか忙しそうだ。
 あたしはなんとなくわくわくとした気持ちになってきた。
「はい、お嬢さんどうぞ」
 しばらくすると町田さんがお盆を持ってやってきた。
「シャケと昆布だそうよ」
「わーい」
 あたしはつやつや光るそのおにぎりに感動しつつ、ぱくりと口に入れた。
「こっちが昆布でした」
 あたしが町田さんに話しかけていると、配膳に入っていた春人くんが顔を出した。
「紫蘇も入れてあるからな。うまいか?」
「うん!」
 あたしがにこにこおにぎりを頬張っているのを、春人くんは目を細めてみつめてきた。やはり、自分の作った物を美味しく食べてもらえるのは料理人冥利に尽きるのだろう。
「あらあらあら。胃袋を掴むのがうまいこと」
「町田さん!」
 春人くんと町田さんが何やらわいわい言っていたが、あたしはお皿に載っているウインナーをいつ食べるかに気を取られてよく聞いていなかった。
 食後、給湯器から無料のお茶を飲む。あったかくて美味しい。
 驚いたことに、この食堂、どのメニューを選んでも四百円だそうだ。量が足りない人の為に、スープやサラダのサイドメニューを追加で頼めるらしいが、それはどれも五十円。どうなっているのだ。お得すぎる。家賃にある程度上乗せされているのかも知れないが。
 一息ついたので帰ろうとバッグをごそごそ整理していると、裏からアラフォーくらいのお兄さんが顔を出した。
「店長、今から入りまーす」
「あ、よろしくお願いします」
 もう一人の料理人のようだ。あたしはそんなやりとりを見ながら、お会計のお盆に四百円を入れた。レジがない。人を信用しすぎだろう、と心配になったが、あたしが口を出すことでもないので「ごちそうさまでしたー」と店内に声を掛けて出口に向かった。
「あ、紬ちゃん、ちょっと待て」
 春人くんがエプロンを外しながらこちらに声を掛けた。
「林さん、ちょっと抜けるんでこっちお願いしていいですか。今日土曜なんでそんな混んでないので」
 なるほど。むしろ土日のほうが食堂はすいているのか。他に外食に行ったり、ゆっくり自炊する時間があるのかもしれない。
 そんなことを考えつつぼーっと突っ立ていると、横に来た春人くんが一言「送る」と言った。
「え。なんで?」
 あたしは首を傾げる。首を傾げられて春人くんは困惑したようだ。
「なんでって、夜だから」
「まだ七時だけど」
 都会の七時など、まだまだ明るくて人通りも多い。というか、うちまですぐそこ、歩いて十分もかからない。いつも今日は午前様なるか、というチキンレースを繰り返している者にとっては、不可解極まりなかった。
 春人くんは少し考えるように口を噤んだ。その後、とってつけたように言った。
「昨日の今日だろ。体調心配だから」
「はあ。でもさっきあたし置いて仕事行っちゃっ……」
 言葉の途中で林さんと呼ばれた男性が顔を出した。
「お姉さん! 店長が送りたいんだって。男を立ててやって。店長は送り狼になれるような甲斐性はないから安心して」
「林さん!」
 春人くんは怒ったようで真っ赤になって林さんを睨み付けたが、林さんはにやにやしながら作業に戻って行った。
 春人くんはこちらに向き直った。
「違うから。でも、紬ちゃんが自宅を知られたくないって言うなら、無理にとは」
「いえいえいえいえ」
 これからここの管理人になったとしたら、自宅の個人情報も何もない。ここは林さんの言うとおり、彼を立てるとしたものだろう。
 じゃあ、ということで、あたしたちは店を出た。
「ほんと近くなんだよ。このマンションとは職場挟んで反対側。『マンションA』って言うんだけど、知ってる?」
 春人くんは目を見開いた。
「『マンションA』!? それ、めちゃくちゃ家賃高いとこじゃねえか!」
「うん。睡眠時間確保の為に、職場に近いところにしたの。背に腹は変えられぬとはよく言ったもので」
 すると、春人くんは頭を抱えた。「そんなとこに住んでたのかよ……」と呟いた。そして、顔を上げる。
「住み込みならうちのマンションは家賃ゼロだけど」
「やちん、ぜろ」
 あたしは繰り返した。
 十三万が浮く。これは断る理由が見当たらないのでは。
 そんなことを話しているうちに、マンションに着いた。
「管理人の件、前向きに考えさせていただいてよろしいでありましょうか……」
 早く決めなければ、他になり手が出てきてしまうかも知れない。あたしは上目遣いでおどおどと尋ねた。春人くんは一瞬目を逸らしたあと、「ああ、急がないから考えてみ」と言ってくれた。
「あ、山崎さーん!」
「へ?」
 春人くんと二人して振り向くと、街灯に照らされながら川瀬さんが手を振ってこちらに走って来るところだった。
「良かったー。今、母からうちのマンションのパンフレットもらって来たんですよう」
 春人くんを無視して、川瀬さんは手に持った紙袋をごそごそした。
「こっち入居者向け、こっち従業員募集です」
 あたしはそれを受け取る。ぱらりとめくると、春人くんも一緒に覗き込んだ。
「あと、これ。契約してる警備会社のパンフレットですー」
「そんなのまで用意してくれたの? 川瀬さん、大変だったでしょう」
「あたしの父が社長やってる会社なんで、すぐですよう」
「そ、そう」
 お母様はマンション経営、お父様は警備会社社長とか、どんだけお嬢様なんだ。
 あたしたち三人は、マンションの前でパンフレットを覗き込んだ。
 ふむ。夜間、早朝はこの警備会社が対応してくれるのか。ならば、一日中気が抜けないというわけではないな。
 川瀬さんはあたしの腕に自分の腕を回した。「ね、やりましょうよー。あたしも山崎さんと一緒に働きたいですー」
 あたしより小柄な川瀬さんがごろごろと甘えるように額を押しつけてくる。春人くんの顔が何故か強張っていた。
「てことは、川瀬さんも転職するの?」
 募集は二人だったのだろうか。人時生産性的に大丈夫なのかと考えてしまうあたしは立派な社畜だ。
 川瀬さんはきらきらした瞳をあたしに向けた。
「はい! 一緒に管理人さんやりましょー」
「おいおい、待て、芽衣」
 ずっと黙っていた春人くんがやっと口を開いた。
「お前、そんなに勝手に」
「お父さんからはいいって言われたもーん」
「ったく、お前んちはどんだけ娘に甘いんだか」
 じゃれあっている二人を尻目にあたしはパンフレットをぱらぱらと眺めた。
 美味しそう。
 そこには「住民食堂完備!」と春人店長のお店が掲載されていた。「疲れた夜も、こちらでゆっくりおくつろぎください」と。
 落ち着いて考えれば、このマンションに入居しなければ、もう春人くんのごはんは食べられないのだ。
 それはなんというか。とても嫌だな。
「ね、やりましょ?」
 川瀬さんが潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
 あたしは決意した。
「うーん。かわいい後輩にそう言われて受けなきゃ女が廃るよね」
 春人くんのごはんが目当てだということは、食い意地がはっていると思われてしまうので言わなかった。
「やったあ! 決まりですね」
 川瀬さんの腕に力が籠もった。そして、何故か春人くんのほうを向いて勝ち誇ったような笑顔を見せている。
「そうだな」
 春人くんはひきつりながら川瀬さんに笑いかけた。その後、あたしのほうを見て「じゃあ、よろしくな」と言ってくれた。