翌朝。目覚めたあたしはショックを受けていた。
 ーー初対面の男性の部屋(?)に泊まって、ぐーすか熟睡してしまった!
 あたしは頭を抱えた。倒れてしまったのだから、そこまでは不可抗力だろう。しかし、その後も居座ってしまった。というか、ラーメン食いたいとおごってもらってしまった!
 なんという図々しさ。なんというふてぶてしさ。
 あたしは自己嫌悪に陥りながら部屋のドアを開けた。
「あ、山崎さーん。大丈夫でしたか?」
「わ、川瀬さん?」
 ドアを開けた先、店内の窓際のテーブルでは、川瀬さんが座ってパンをかじっていた。
 そうだ、確か鍵を渡してあると言われたのだった。きっとあたしが起きてくるまで待っていてくれたのだろう。
「ごめんね、待った?」
「ううん、今来たとこ。なーんて! きゃはっ!」
 川瀬さんは朝から元気だった。低血圧で朝が死ぬほど辛いあたしとは大違いでうらやましい。
「山崎さん、今ごはん出しますね。食べられます?」
「う、うん」
 後輩に面倒掛けてしまって情けない。そう一瞬躊躇したが、川瀬さんが「サンドイッチでーす」と紙袋から取り出した途端、お腹が鳴ったので、ありがたくいただくことにした。 川瀬さんの向かいに腰掛けて「いくら?」と聞いた。昼、夜、と続いてこの上朝ご飯までタダ飯を食らうわけにはいかないだろう。コンビニサンドならおよその値段はわかるが、これはどうやら手作りだ。
「あ、これ春人くんが作った奴だからお金いらないですよー」
「えっ」
「てゆーか、すみません。『お前は食べるなよ』って言われてたのに半分食べちゃいました」
 川瀬さんはしょんぼりと目を伏せた。
「そ、そっか」
 あたしは深く突っ込まずにありがたくサンドイッチをいただくことにした。
「冷蔵庫入ってたんで、ちょっとパサついてて申し訳ないですー」
 そう言われたが、よく違いはわからないので美味しくいただいた。
 というか、うまい。
 昨日のお昼はお腹がすいていたから美味しく感じられるのかと思ったが、やはり料理人のつくる物はひと味違う気がする。
 食べ終わると、あたしは深いため息をついた。
 久しぶりにまともな朝ご飯を食べた。
 平日はだいたいよくてもコーヒー一杯、休日は起きるのが昼になるので、社会人になってから朝ご飯などほとんど食べたことがなかった。
「仕事、やめたいなあ」
 窓から差し込むあたたかな朝日を感じながら、自然と呟きが漏れた。
 ここ一年、家には寝に帰るだけだった。今を乗り切れば、と思えればよいのだが、その前の二年間も、家では食べて寝て終わりだった。
 川瀬さんが身を乗り出してきた。
「え、次の仕事のあてとかあるんですか?」
「うーん。あてというか」
 履歴書に書ける資格をいくつか持っている。まだ二十五なら、転職できるのではないかと思う。今より給料は下がっても問題ない。なぜならば、職場直近のマンションの家賃がワンルームなのに十三万もする。寝る為に十三万必要な職場ってなんだ。あたし、なんの為に働いてるんだ。
「あの、山崎さん!」
 川瀬さんがあたしの手を握った。
「な、なに?」
 自分の世界に入っていたあたしはびっくりしてのけぞった。
「うちのマンションの管理人、やりません?」
「は?」

 朝ご飯を食べ終わったあと、川瀬さんと別れて、帰宅した。そして、あたしはマイスイートホームを見回した。
「ゴミ屋敷予備軍……」
 腐るゴミだけはこまめに捨てるように心がけている。が、他はどうだ。
 リサイクルに出そうと思い放置してあるペットボトル、段ボール。仕事のストレスから通販でポチりまくった服やバッグが入っている段ボールや紙袋。いつの間にか枯れてしまっていた観葉植物。棚には白く積もる埃。日差しの心地よかったワンルーム。カーテンは土日の午後くらいしか開けない。
 あたしはそっと玄関を開けて外に出た。
「いや、ないわ」
 暗い気持ちでマンションの階段を降りる。
 あたしって、学生時代はもっとはつらつチャレンジャーな生を謳歌してなかったっけ?
 近くのデパートに向かいながら朝方に川瀬さんに言われたことを思い返す。
 先程、マンション管理人にスカウトされた。聞くところによると、マンションに常駐している管理人さんが一人、通いの管理人さんが一人いるそうだ。ただ、管理人さんが共に男性で、女性の入居者から女性管理人さんも入れて欲しいとの要望を受けていたという。
「住み込みの管理人さんとか、いいと思うんですー」
 川瀬さんはそう言っていた。
 とても、心が動く。
「先輩管理人さんたちが親切に教えてくれるから、初心者大歓迎ですよー」
 とも言ってくれていた。
 が。
「住み込み管理人とか、今より自由時間がないんじゃ……」
 もしかして、夜中でも早朝でも何かあればたたき起こされるのではないか。
 そう思うと「実家に帰ったほうがいいのでは」とも思うのだが、実家は兄夫婦が同居しているため、おいそれとは帰れない。
「うーん」
 あたしは一枚のエプロンを手に取った。転職について考えながらも、きちんと買い物も実行しているあたしはすごい。別のエプロンを手に取る。
「あ、これがいいかも」
 黒や茶色が多い男性向けのエプロンの中で、そのベージュのエプロンは明るくて爽やかな感じがした。
「汚れが目立つかな。でも、これが気に入ったなー」
 これはお礼だ。昨日お世話になった春人くんへの。
 最初は無難に金券にしようかと思ったのだが、相場がわからない。それならば、料理人ならエプロンは消耗品だろうと思い、買いにきたのだ。
 春人くんの顔を思い出す。まだ若そうだったな。三十はいってないだろう。もっと冒険して派手な柄でもいいかもしれない。
「あ、これかわいい!」
 真っ赤なエプロンの胸元にくまさんがいる。「これ欲しい」
 あたしは買い物の目的をあやうく忘れそうになった。あたしは、料理をする時にエプロンなど着けない。というか、そもそも料理はここ三年ほどしていない。
「あれ? もしかして、山崎さん?」
 聞き覚えのある声に振り返ると、後ろには昨日お世話になった春人くんがいた。Tシャツにジーパンというラフな格好だ。こちらに向かって歩いてくる。
「良かったです。元気になったみたいで……」
「あ、春人くん」
 びっくりして目を丸くすると、春人くんは耳を赤くした。
「偶然ですね、って、なんか、照れてます?」
 すると、春人くんは視線を微妙に逸らした。「いや、いい年して春人くんてガラじゃないので……」
 川瀬さんがそう呼んでいたから真似したのだが。
「おいくつなんですか?」
 あたしは尋ねてみることにした。
「あ、えっと、二十七ですが」
 それを聞いてあたしはしょんぼりとした。
「あたし、今年二十六になるんですけど、まだ自分は若いモンには負けないと思ってるんですが」
 すると、春人くんは慌てた。
「いや、若いです! 俺も自分で言うのはなんですが、ぴっちぴちだと思ってますね!」
「ぴっちぴちって、古いですね」
「どっちだよ!」
 そう突っ込んだ春人くんは、あたしの顔を見ると、ぷっと吹き出した。あたしもつられて吹き出した。
「春人くん、じゃああたしのことは紬ちゃんて呼んでいいですよ」
「わかりましたよ、紬ちゃん」
 そう言ったあと、春人くんはちょっと考え込むように顎に手をあてた。
「くん、ちゃん、づけで敬語ってのもなんですね。タメ口でいきましょう」
「そうですね!」
 あたしが元気よく同意すると、春人くんは「そうだな」と笑った。
 あたしは嬉しくなって春人くんのシャツを掴んだ。
「これ、どっちがいい? 春人くんへの昨日のお礼なんだけど!」
 ベージュのエプロンと赤いくまさんエプロンを手に持って見せる。
「いや、別にお礼なんて」
「どっちがいい?」
 遠慮するのでごり押しすると、春人くんはベージュのエプロンを指さした。あたしは再びしょんぼりした。
「赤いのは好きじゃない?」
 ベージュもいいけど、今は赤いくまさんの気分だったあたしは首を傾げて尋ねた。
 すると、春人くんは、こちらを見て一瞬声を詰まらせた。そのあと、咳払いをして「いや、かわいいけど俺には派手すぎて」と答えた。
「てか、気に入ったんなら赤いのは自分用で買えば?」
 あたしはがばりと顔を上げた。
「春人くん……!」
 春人くんはわずかに身を引いた。そのあと、しまったというような顔をした。
「あ、それ俺が買ってやろ……」
「あたしは決めた! このエプロンを買って、お料理をする!」
 そうだ、これを機に料理をしよう。元々料理は嫌いじゃない。疲れているのにやりたいほど好きではないだけで。
 となると、やはり転職だ、転職。
 マンションの管理人の仕事も含めて、転職活動スタートだ!
「買ってくるからね! 待っててね!」
 あたしは後ろで呆然としている春人くんを尻目に、意気揚々とレジに向かった。