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 あやかし三つ子兄弟に見送られながら、「すぅぷや鎌切亭」をあとにした私は駅に向かって歩いていた。

「迷わず駅まで行けるはずですよ。来店されたときとは違い、琴羽様の心は迷われてませんから」

 切也さんの言葉通り、最寄りの駅がすんなりと見えてきた。鎌切亭を見つけた時とは違い、まっすぐ歩いてるだけなのに。今晩は本当に不思議なことだらけだ。

「タクシーを呼んでおいたからね、琴羽さん。駅の近くで待っていれば来てくれるはずだよ」

 紗切さんがタクシーを呼び寄せてくれたのなら、あとは待っていればきっと大丈夫だ。
 駅の前に古びたベンチがあったので、そこに腰を下ろすとスマホを取りだした。今度は問題なくスマホを操作できた。壊れたわけではなかったようだ。

「雄太の電話番号は、と」

 別れてすぐに、雄太の電話番号を消そうと思った。けれど、「あとでいいわ。今は忙しいし」などと言い訳しているうちに、元カレの電話番号は今もしっかりと電話帳に残されている。今思えば、単純に私が消したくなかったのだと思う。
 画面に表示されている雄太の電話番号を前に、私はしばし考え込む。

「電話しても大丈夫かな……」

 鎌切亭で決心できたはずなのに、いざ自分ひとりで連絡するとなると、どうしても緊張してしまう。
「元気してる?」って連絡するのはどうだろう? うーん、私はふられた側なのに、ちょっと不自然な気がする。
「あなたの声が聞きたくなって」と話すのはどうかな? ダメだ、未練たっぷりなのがバレバレだ。
 頭の中であれこれ考えているうちに、手にしていたスマホが突如として鳴り響く。誰かからの電話だ。

「え……雄太?」

 スマホの画面には、今さっきかけようか迷っていた電話番号と名前が表示されている。番号を変えたとかでなければ、雄太からの電話で間違いないと思う。

「ど、どうしよう?」

 少し悩んでしまったけれど、このまま無視するわけにもいかない。震える手で画面をタップして、電話に出た。

「は、はい……」

 一瞬の間をおいて、こちらを伺うように静かな声が響く。

『琴羽……? 雄太だけど』

 とくんと、胸が弾むのを感じた。きっと今の私は心拍数も上がっているだろう。

「う、うん。こんばんは」
『こんばんは。突然電話したりしてごめん。今、話して大丈夫か?』
「うん。今日はもう仕事終わってるから」
『そっか。お疲れ様』

 ぎこちない会話だけれど、彼の声を聞いているだけで体が熱くなってくるのを感じる。

「それで、何か用事でも、あった?」

 聞き方ってものがあるでしょ、私! せめてもう少し愛想よくしないと……。
 自分で自分自身につっこんでしまった。要件だけを手早く聞きたいと思うのは、私の悪い癖だ。

『あのさ……。俺の部屋に、琴羽の好きな本が残ってて。返したほうがいいかな、って』
「べ、別にいいよ。好きにしてくれたら。本はまた買えばいいし」
『そっか……。じゃあ、そういうことで』

 会話があっさりと終わってしまった。雄太がすでに電話を切ろうとしているのを感じる。
 このままじゃダメだ。ようやく再び繋がることができたのに。

「あ、あのね、雄太。私もあなたに伝えたいことがあるの」
『……なに?』

 雄太が私の話を聞こうとしてくれている。以前は当たり前だったことが、今はこれほど嬉しいだなんて。
 伝えてみよう。今もあなたが好きだと。そして別れた理由を知りたい。

「雄太、私ね。あなたがいてくれたから、明日も頑張ろうって思えたの。ずっと一緒にいてくれて、本当にありがとう。感謝してる。でもね、私は今でもあなたが好き。だから別れる理由を教えてほしい。じゃないと私も、前に進めないから……」

 雄太の負担にならないよう、できるだけ簡潔にまとめて話したつもりだ。
 電話先の雄太は、しばし無言だった。話すべきか迷っているのかもしれない。

「私の気持ちだとかは考えないでいいよ。正直に教えてほしい」

 もう一度お願いすると、雄太は言葉を選ぶように少しずつ話し始めた。

『琴羽とは、お互いの仕事の都合で会えなくなってしばらくして。おやっさん……店長の店が閉店したんだ』

 それは私が想像さえしていなかった話だった。 
 雄太の言葉少なめの説明に、私は当時の状況を理解できた気がした。
 雄太が言う『おやっさん』とは、彼が父のように慕っている町の洋食屋の店主のことだ。雄太の家は母子家庭で、生活も楽ではなく、家計を助けるため高校に入ると同時にアルバイトを始めた。小さな洋食屋の店長は雄太の真面目な性格と家庭環境を知り、何かと優遇してくれたと聞いている。同時にお世話になっている店長の人柄と腕に惚れこみ、弟子入りする形で雄太は洋食屋のコックとなったのだ。

「いつか、おやっさんの店を継いで、町の洋食屋を続けていけたらいいなぁ」

 雄太は常々そう言っていた。父とも慕う店長の店を守るのは、雄太の夢でもあった。
 私も何度もお邪魔させてもらったけれど、雄太と洋食屋の店長の絆は本物だったと思う。

『俺さ……何もできなかったんだ。経営が少しずつ苦しくなり、体調も悪くなる中でも、店長はいつも笑顔だったから。馴染みの客と、弟子の俺に心配させたくなかったんだと思う。で、ある日言われた。『店をたたむことになった。雄太、すまん……』って』

 とても辛そうに、ぽつぽつと話す雄太の声を聞いているだけに胸が絞めつけられる。彼はどれだけ苦しんだことだろう。
 高校生の頃からずっと働いていた店が閉店する哀しみ。恩人でもある店長の苦しみに気づき、支えてあげられなかった後悔。生きがいと夢であった場所が消えていく寂しさ……。
 
「辛かったでしょう? 雄太……。どうして、私に何も話してくれなかったの?」

 今となっては遅いけれど、悲しむ雄太を支えてあげたかった。状況を変えることは難しくても、落ち込む彼の隣にいてあげたかった。

『そんなの話せないよ……。琴羽は命を預かる仕事に就いてるんだから。前に話したろ? 俺の父さんは病気で若くして亡くなったって。病院は俺にとって辛い記憶しかないけど、琴羽に出会って変わったんだ。琴羽が働いてる場所だって思ったら、怖くなくなった。だから琴羽には看護師の仕事を大事にしてほしかった』

 雄太は私の負担を考えて、自分の事情を何も話さなかったのだ。
 ああ、この人はこういう人だ。誰より優しくて強い。だから私は雄太が好きになった。

『なんて、かっこいいこと言ってるけどさ。現実は厳しくて……。店長の紹介で別の店のコックに就職が決まったんだけど、そこは人気チェーン店のひとつでさ。いろいろとシステム化してるから、新しい店に馴染めなくて……。情けないけど、落ち込むことが増えていて、頑張る意味もわからなくなってた。そんな中で琴羽に電話で、『仕事、頑張れ』って言う自分がなんか、惨めでさ……。ごめんな、琴羽。理由も言わず、別れてほしいだなんて、勝手だよな……』

 スマホから聞こえる雄太の声は、かすかに震えていた。
 どうして雄太が謝る必要があるのだろう。むしろ謝らなければいけないのは私のほうだ。
 雄太の辛い状況に、何一つ気づいてあげられなかった。彼の苦しみに寄り添ってあげられなかったのは私なのに。

「私のほうこそごめんなさい。私、何にもわかってなかった。自分だけが辛いような気持ちになってた」
『琴羽が謝る必要はないよ。俺が不甲斐ないから……。琴羽のこと、支えてあげられなくてごめん』
「ちがう、支えてあげられなかったのは私のほう。ごめんなさい……」
『琴羽……』

 私たちが別れることになってしまった理由。
 それは私にも雄太にも、どうにもできないことだったのかもしれない。二人とも仕事と生きることに必死で、お互いを気遣う余裕さえなかったのだから。

「雄太、私ね。あなたにお願いしたいことがあるの」

 どんな事情があったにせよ、別れて生きることを選択してしまった私たちだ。かつての関係には戻れないかもしれない。それでも私は雄太に伝えたい。彼が元気になれるであろう言葉を……。

「私、あなたの作ったミネストローネを食べたいの。雄太とあなたの料理が大好きだから……」

 電話の向こうで、彼が声を押し殺し、泣いているのが伝わってくる。それは私も同じだ。涙で視界がぼやけているのを感じながら、懸命に言葉を伝える。

「あなたが許してくれるなら、働いてるお店にも食べに行くから。だからお願い。明日も……」

「明日も頑張ろう」って言おうとした。でも伝えてもいいものか、悩んでしまう。雄太はもう十分なぐらい頑張っているだろうから。

『わかったよ、琴羽。明日も仕事を頑張るよ。働く場所が代わっても、これまでの経験を生かせる場所を紹介してもらったんだもんな。だからまた俺のミネストローネを食べに来てほしい。琴羽が『美味しい』って喜ぶ顔が見たいんだ……』

 ああ、良かった。私の思いが伝わった。雄太はきっと大丈夫だ。落ち込むことはあっても、きっと前を向いて歩いていける。

「うん……。私も頑張る」
『ああ、頑張れ』
「あの、あのね……」
『ん?』
「もしも迷惑じゃなかったら……また電話してもいい?」

 少しでもいい。雄太と繋がっていたかった。

『ああ。俺からも連絡するよ。また話そう』
「雄太……!」

 雄太とよりが戻ったわけではない。でも完全に途切れるわけではないとわかって、たまらなく嬉しかった。
 あふれる涙の向こうから、タクシーがライトを光らせて走ってくるのが見えた。

「タクシー来たから、電話切るね。またね、雄太……」
『ああ、またな』

 再会を願い、「またね」という言葉を再び使える喜びを感じながら電話を切った。
 頬に流れる涙を拭い取り、夜空を見上げる。月と夜の星がきらめく宝石のように輝いている。この優しい光を、私は生涯忘れることはないだろう──。