教えてほしいことがあるのです。
人間は、なぜ働くのですか?
毎日のように学び舎に行くのはどうして?
今日と明日の食い物があれば、仕事も勉強も必要ないと思うのに。
最初はちょっとした好奇心でした。人間を見つめるようになったのは。
人は辛いときや哀しいことがあると、泣いたり落ち込んだりしますよね。
それでも人はやがて上を向き、二本足ですっくと立ちあがる。
辛いなら、じっとうずくまり休んでいればいいのに。
なぜ前を向こうとするのでしょう。
そんな人間が不思議で、わざと転ばせ、鎌で足をちょんと切りつけたこともありました。
ちょっとした悪戯です。悪気はありませんよ。少し休めばいいと思ったのです。
ところが人間は、それでも歩むことを止めないのです。
「痛い」と言いながらも、自らの手で傷口を押さえ、また歩き出すのです。
驚いた僕らはぬり薬でそっと、人間の傷を癒してやりました。
傷を負い心に痛みを抱えながらも、人間は再び立ち上がり、また歩き始める。
僕らはそんな人間を不思議に思いながらも、どこか憧れていたのかもしれません。
教えてください。
半端者の僕らが、人間のように強くなれる方法を。
人間の心に寄り添うことができたなら、僕らにもわかる日がくるのでしょうか──。
***
『ごめん、琴羽。別れてほしいんだ』
スマホの画面には、夜空の月のように別れの言葉だけがぽっかり浮かんで見えた。
「別れてほしい、か……。六年も付き合ってそれだけですか」
恋人からの別れの言葉は、実にそっけないものだった。
『了解です。今までありがとうございました』
別れを受け入れる言葉と感謝の気持ちを手早く送信すると、スマホをカバンにしまった。
「『了解です』か。私も大概よね。仕事のメールじゃるまいし」
六年付き合った雄太とは、最近はほとんど会えてなかった。お互いの仕事が忙しかったからで、気持ちが離れたわけではない。共に仕方ないことだと理解していた。
会えなくても毎日メールやSNSでやり取りをしていたし、電話もしていた。会えなくても心は通じ合えている。だって六年も付き合ったのだから。
少なくとも私はそう信じていた。雄太とは、将来も共に生きられたらいいと願っていた。
「でも雄太は私と同じではなかったってことよね。それなら私たちはもう潮時ってことだわ」
大好きな人と別れることなった理由を自分なりに分析する。状況を素早く理解して対応するのは得意なほうだ。いちいち泣いたりもしない。だって泣いてる時間がもったいないもの。泣くよりも先にすべきことが、私にはたくさんある。
「さて、明日も仕事だ。早く寝ないと」
恋人との別れを粛々と受け入れると、ベッドにもぐりこみ電気を消した。
明日に備えてしっかり休もう。明日も仕事を頑張るために。
元気に働けるように、毎日適度な量を食べて、しっかり休む。社会人ならば、当然のことだ。
休むことは問題なくできていた。仮眠をとるのも得意だから。
雄太とは、いずれ別れる日が来るかもしれないと予感していた。それが現実になっただけの話。生きていれば様々な出会いがあり、同時に別れもやってくる。雄太とは別れる運命だったということだろう。
私は平気。恋人との別れなんて、世間的にはよくあること。世の中には、もっと辛い思いをしている人が大勢いるのだから、いちいち感傷に浸っている場合ではない。私は、大丈夫。何も問題はない。夜もちゃんと眠れているもの。
これまでと変わらない充実した毎日。
そう思っていたのに。
「なにこれ、ゴムでも食べてるみたい……」
雄太と別れて一ヶ月後。意外なところで、影響が出てきてしまった。
何を食べても『美味しい』と感じることがなくなってしまったのだ。
甘い、辛い、酸っぱいといった感覚は舌に感じるので、味覚がなくなったわけではないと思う。
「疲れとストレスかな……」
ストレスの理由は、すぐにわかる気がした。恋人との別れが、自分でも気づかないうちに心身に悪影響を与えていたということだと思う。仕事は常に多忙だし、疲れすぎてストレスが溜まっているのも理由だろう。
「ということは一時的なものだよね。うん、病院に行くほどじゃない」
冷静に分析できたことで解決した気分になった私は病院を受診せず、自己治癒力に任せることにした。
「何食べても美味しくないなら、サプリメントや固形の栄養食品を食べよう。手早く食事を終わらせることができるから、むしろ助かるわ」
ネットで大量のサプリメントや栄養食品を購入し、三食の食事はそれらで済ませた。
「食事なんて、胃に入れて消化さえできれば何でもいいわ。美味しく感じられなくても問題ない」
美味しいとは感じない食べ物を、口の中に押し込むだけの食事時間。
食への喜びが消えた毎日を、仕事をこなしながら過ごしていく。
私は、大丈夫。何も問題はない。
仕事は精力的にこなしていたけれど、一日の業務が終わると、ぼんやりとすることが増えてしまった。仕事帰りの電車の中でも、何をするでもなく窓の外を眺める。ぼうっと外を見ているうちに、降りる駅を間違えていたことに気づいていなかった。
「ここ、どこの駅? 終着駅まで気づかないなんて……ありえないわ」
さすがに自分自身の状態が心配になってきた気がする。私、どうかしているのだろうか?
「と、とりあえずタクシー見つけよう。タクシーで自分のアパートに帰ればいいものね」
見知らぬ夜の町を、タクシーを求めて歩き始めた。駅の近くなら、きっとタクシーはあるはず。
「なんでタクシーが一台もないの? どれだけ田舎なのよ、この駅」
駅の周辺をぐるっと回ってみたけれど、タクシーどころか、人さえも見かけない。ぼんやりと光る街灯はあるので、暮らしている人はいると思うのに。
「タクシーが見つからないなら呼べばいいのよ。スマホでね」
スマホを取りだし、画面をタップした。ところが、スマホがまったく反応しない。
「うそ。もしかして壊れた?」
お昼ぐらいまで問題なく使えていたのに、どうして急に。ありえない話ではないけれど、なぜ今なのだろう。
ということはスマホを使えず、人にも出会えない夜の町で、一人きりになってしまったということになる。
「さすがにこの状況、かなりマズイのでは……?」
状況を冷静に分析するのは得意だったはずなのに、解決策をすぐに思いつくことができなかった。
今にも消えてしまいそうな街灯の下を、とぼとぼ歩く。行く場所が見つからず、気持ちがどんどん暗くなっていく。どれだけ気持ちを奮い立たせても、不安が強くなっていく。足はすでに棒のようだ。ついに歩くのを止めてしまった私は、暗闇にひとり立ち尽くした。
「なんだか疲れちゃった……。いっそこのまま消えてしまえばいいのに」
本当は心のどこかでずっと、消えてしまいたいと思っていたのかもしれない。
毎日ただ必死に働くだけ。何のために、誰のために頑張るのか。それすらもうわからない。
疲れすぎて体はとっくに悲鳴をあげているのに、気づかないふりをしていただけ──。
「いたっ」
左のふくらはぎに、かすかな痛みを感じた。とっさに手で確認すると、うっすら血が出ている。ケガというほどではないけれど、何か鋭利なもので軽くひっかかれたような傷に思える。
「暗すぎてよく見えないけど、小枝か何かで切ったのかな?」
足に痛みを感じたせいか、冷静さを取り戻した私は改めて周囲を見渡してみた。せめて明るい場所で、ちゃんと手当てをしたい。
すると少し先にお店らしき灯りが、闇に浮かぶ月のようにぽっかり光っていた。さっきまでなかった気もするけれど、動転してたから見落としていたのかも。
「とりあえず行ってみよう」
目的地が決まったことで、再び歩き出す元気が出てきた。頑張って歩こう。あと少しだ。
目的のお店は案外近くにあったようで、わりとすぐに到着した。月明かりに思えたお店は、古びた雰囲気の小さなレストランだった。店名を示す看板が、穏やかな光を放っている。
「えっと。『すぅぷや 鎌切亭』……? なんだか物騒な名前のお店ね」
鎌切亭という店名の横には、鎌らしき三本の棒が重なるように描かれていて、それがこの店のロゴマークのようだ。
「でもスープなら体も温まるし、今の私でもなんとか食べられそうね。ついでに足の手当てもできると思うし」
鎌切亭という、どこか物騒な名前のスープ屋。少し奇妙で、不思議なお店との出会いだった。
人間は、なぜ働くのですか?
毎日のように学び舎に行くのはどうして?
今日と明日の食い物があれば、仕事も勉強も必要ないと思うのに。
最初はちょっとした好奇心でした。人間を見つめるようになったのは。
人は辛いときや哀しいことがあると、泣いたり落ち込んだりしますよね。
それでも人はやがて上を向き、二本足ですっくと立ちあがる。
辛いなら、じっとうずくまり休んでいればいいのに。
なぜ前を向こうとするのでしょう。
そんな人間が不思議で、わざと転ばせ、鎌で足をちょんと切りつけたこともありました。
ちょっとした悪戯です。悪気はありませんよ。少し休めばいいと思ったのです。
ところが人間は、それでも歩むことを止めないのです。
「痛い」と言いながらも、自らの手で傷口を押さえ、また歩き出すのです。
驚いた僕らはぬり薬でそっと、人間の傷を癒してやりました。
傷を負い心に痛みを抱えながらも、人間は再び立ち上がり、また歩き始める。
僕らはそんな人間を不思議に思いながらも、どこか憧れていたのかもしれません。
教えてください。
半端者の僕らが、人間のように強くなれる方法を。
人間の心に寄り添うことができたなら、僕らにもわかる日がくるのでしょうか──。
***
『ごめん、琴羽。別れてほしいんだ』
スマホの画面には、夜空の月のように別れの言葉だけがぽっかり浮かんで見えた。
「別れてほしい、か……。六年も付き合ってそれだけですか」
恋人からの別れの言葉は、実にそっけないものだった。
『了解です。今までありがとうございました』
別れを受け入れる言葉と感謝の気持ちを手早く送信すると、スマホをカバンにしまった。
「『了解です』か。私も大概よね。仕事のメールじゃるまいし」
六年付き合った雄太とは、最近はほとんど会えてなかった。お互いの仕事が忙しかったからで、気持ちが離れたわけではない。共に仕方ないことだと理解していた。
会えなくても毎日メールやSNSでやり取りをしていたし、電話もしていた。会えなくても心は通じ合えている。だって六年も付き合ったのだから。
少なくとも私はそう信じていた。雄太とは、将来も共に生きられたらいいと願っていた。
「でも雄太は私と同じではなかったってことよね。それなら私たちはもう潮時ってことだわ」
大好きな人と別れることなった理由を自分なりに分析する。状況を素早く理解して対応するのは得意なほうだ。いちいち泣いたりもしない。だって泣いてる時間がもったいないもの。泣くよりも先にすべきことが、私にはたくさんある。
「さて、明日も仕事だ。早く寝ないと」
恋人との別れを粛々と受け入れると、ベッドにもぐりこみ電気を消した。
明日に備えてしっかり休もう。明日も仕事を頑張るために。
元気に働けるように、毎日適度な量を食べて、しっかり休む。社会人ならば、当然のことだ。
休むことは問題なくできていた。仮眠をとるのも得意だから。
雄太とは、いずれ別れる日が来るかもしれないと予感していた。それが現実になっただけの話。生きていれば様々な出会いがあり、同時に別れもやってくる。雄太とは別れる運命だったということだろう。
私は平気。恋人との別れなんて、世間的にはよくあること。世の中には、もっと辛い思いをしている人が大勢いるのだから、いちいち感傷に浸っている場合ではない。私は、大丈夫。何も問題はない。夜もちゃんと眠れているもの。
これまでと変わらない充実した毎日。
そう思っていたのに。
「なにこれ、ゴムでも食べてるみたい……」
雄太と別れて一ヶ月後。意外なところで、影響が出てきてしまった。
何を食べても『美味しい』と感じることがなくなってしまったのだ。
甘い、辛い、酸っぱいといった感覚は舌に感じるので、味覚がなくなったわけではないと思う。
「疲れとストレスかな……」
ストレスの理由は、すぐにわかる気がした。恋人との別れが、自分でも気づかないうちに心身に悪影響を与えていたということだと思う。仕事は常に多忙だし、疲れすぎてストレスが溜まっているのも理由だろう。
「ということは一時的なものだよね。うん、病院に行くほどじゃない」
冷静に分析できたことで解決した気分になった私は病院を受診せず、自己治癒力に任せることにした。
「何食べても美味しくないなら、サプリメントや固形の栄養食品を食べよう。手早く食事を終わらせることができるから、むしろ助かるわ」
ネットで大量のサプリメントや栄養食品を購入し、三食の食事はそれらで済ませた。
「食事なんて、胃に入れて消化さえできれば何でもいいわ。美味しく感じられなくても問題ない」
美味しいとは感じない食べ物を、口の中に押し込むだけの食事時間。
食への喜びが消えた毎日を、仕事をこなしながら過ごしていく。
私は、大丈夫。何も問題はない。
仕事は精力的にこなしていたけれど、一日の業務が終わると、ぼんやりとすることが増えてしまった。仕事帰りの電車の中でも、何をするでもなく窓の外を眺める。ぼうっと外を見ているうちに、降りる駅を間違えていたことに気づいていなかった。
「ここ、どこの駅? 終着駅まで気づかないなんて……ありえないわ」
さすがに自分自身の状態が心配になってきた気がする。私、どうかしているのだろうか?
「と、とりあえずタクシー見つけよう。タクシーで自分のアパートに帰ればいいものね」
見知らぬ夜の町を、タクシーを求めて歩き始めた。駅の近くなら、きっとタクシーはあるはず。
「なんでタクシーが一台もないの? どれだけ田舎なのよ、この駅」
駅の周辺をぐるっと回ってみたけれど、タクシーどころか、人さえも見かけない。ぼんやりと光る街灯はあるので、暮らしている人はいると思うのに。
「タクシーが見つからないなら呼べばいいのよ。スマホでね」
スマホを取りだし、画面をタップした。ところが、スマホがまったく反応しない。
「うそ。もしかして壊れた?」
お昼ぐらいまで問題なく使えていたのに、どうして急に。ありえない話ではないけれど、なぜ今なのだろう。
ということはスマホを使えず、人にも出会えない夜の町で、一人きりになってしまったということになる。
「さすがにこの状況、かなりマズイのでは……?」
状況を冷静に分析するのは得意だったはずなのに、解決策をすぐに思いつくことができなかった。
今にも消えてしまいそうな街灯の下を、とぼとぼ歩く。行く場所が見つからず、気持ちがどんどん暗くなっていく。どれだけ気持ちを奮い立たせても、不安が強くなっていく。足はすでに棒のようだ。ついに歩くのを止めてしまった私は、暗闇にひとり立ち尽くした。
「なんだか疲れちゃった……。いっそこのまま消えてしまえばいいのに」
本当は心のどこかでずっと、消えてしまいたいと思っていたのかもしれない。
毎日ただ必死に働くだけ。何のために、誰のために頑張るのか。それすらもうわからない。
疲れすぎて体はとっくに悲鳴をあげているのに、気づかないふりをしていただけ──。
「いたっ」
左のふくらはぎに、かすかな痛みを感じた。とっさに手で確認すると、うっすら血が出ている。ケガというほどではないけれど、何か鋭利なもので軽くひっかかれたような傷に思える。
「暗すぎてよく見えないけど、小枝か何かで切ったのかな?」
足に痛みを感じたせいか、冷静さを取り戻した私は改めて周囲を見渡してみた。せめて明るい場所で、ちゃんと手当てをしたい。
すると少し先にお店らしき灯りが、闇に浮かぶ月のようにぽっかり光っていた。さっきまでなかった気もするけれど、動転してたから見落としていたのかも。
「とりあえず行ってみよう」
目的地が決まったことで、再び歩き出す元気が出てきた。頑張って歩こう。あと少しだ。
目的のお店は案外近くにあったようで、わりとすぐに到着した。月明かりに思えたお店は、古びた雰囲気の小さなレストランだった。店名を示す看板が、穏やかな光を放っている。
「えっと。『すぅぷや 鎌切亭』……? なんだか物騒な名前のお店ね」
鎌切亭という店名の横には、鎌らしき三本の棒が重なるように描かれていて、それがこの店のロゴマークのようだ。
「でもスープなら体も温まるし、今の私でもなんとか食べられそうね。ついでに足の手当てもできると思うし」
鎌切亭という、どこか物騒な名前のスープ屋。少し奇妙で、不思議なお店との出会いだった。