まだほんの一ヶ月程しか住んでいないというのに、マシロのいなくなった部屋は、とてもひっそりとして寂しい空間になってしまった。やんちゃだけれど人懐っこかったマシロは、ケージから出してやるとすぐに僕の傍にやって来た。人肌というものに安心感を覚えているのか、そばに来ては肌を寄せるように座り込み。餌をやれば、モグモグと口元を動かし一生懸命に干草を食べていた。それは、一輝が一番見たがっていた仕草だった。

 空っぽのケージの前に座り込み、何度溜息を吐いただろう。いくら後悔したって、いなくなってしまった以上は、どうにもならないというのに、僕の体から出る溜息は尽きることがない。一階に走り窓の下をはいずり回るように探した時、血痕はどこにも見当たらなかった。それを考えれば、少なからず怪我をしたということはないはずだ。きっと、運良くツヅジの茂みがクッション代わりになったのだろう。そう、思いたい。

 週末の今日は、新居に必要な細々としたものを買いに出かける予定でいたが、マシロの失踪で気力がなくなってしまった。しかも。

「気持ちわるい」

 マシロのことでアドレナリンが出ていた時はすっかり忘れていたが、昨夜の歓迎会でしこたま飲まされ二日酔いだったことを思い出した。それに、階段から落ちた擦り傷と打撲が今になってヒリヒリとし、ジンジンと痛みを訴える。気力を削がれた僕は、益々二日酔いに拍車がかかりゾンビのようにベッドまで這っていき、そのまま布団に潜り込む。呻きながらも負の感情に背を向けるように目を閉じていると、いつの間にか眠りに落ちていた。


              ◇◇◇


「兄ちゃん。先生が言ってたけど、うさぎって、朝と夜に動くんだって」
「ふーん」
「だから、うさぎは僕たちが学校に行っている間に寝てるでしょ。それで、帰ってきて少しすると起きるんだよ。だから、学校から帰ったら静かにして、急いで宿題を早く終わらせて。ご飯もお風呂も早く済ませて。夜になって起き出したうさぎと、たくさん遊ぼうと思うんだ」

 夜になると活動が活発になると聞いた一輝は、飼う前からうさぎの生活時間帯に合わせようと張り切っていた。毎日のようにペットショップの前にいるうさぎを眺めては、僕にそうやって話をしてくれていた。

「わかったよ、一輝。俺、頑張ってはやく宿題終わらせるよ」

 勉強の苦手だった僕だけれど、一輝のためならと一生懸命に机に向った。


              ◇◇◇


「一輝」

 自分の寝言で目が覚めた。瞼を持ち上げると外は薄暗く、随分と長い時間眠っていたことが分かった。この一ヶ月。引っ越しや慣れない場所での緊張感。初めての会社勤めに昨夜飲んだ大量のアルコール。きっとそれらのせいで自分が思っている以上に、体力や精神を消耗していたのだろう。

 寝返りを打ち、ケージのある場所に視線をやった。中は相変わらず空っぽのままで、マシロの姿は見当たらない。
 さっき見ていた夢が、まだうすぼんやりと脳内に記憶されていた。ペットショップのうさぎをワクワクとした表情で眺めていた一輝の顔が思い起こされる。

 幼い頃、勉強の苦手だった僕は、一輝の足を引っ張らないようにと、まだ飼ってもいないうさぎに夢を抱き必死になって宿題をしていた。

「あん時は、ほんと必死に勉強してたな。僕、頑張ってたと思わないか?」

 写真の一輝に向かって訊ねると、腹のやつが情けない音を立てた。いくら二日酔いとは言え、朝からなにも食べていないのだから、いい加減腹も空くってものだろう。

 一日中寝ていたせいか、具合の悪さはすっかりなくなっていた。再び空っぽのケージに目をやり、実は中に入れてある干草の陰に潜り込んでいやしないかと起きて中をかき分けてみる。姿どころか気配もないことに、何度目かの諦めの溜息を吐きシャワーを浴びた。