梶さんを見送る少し前の正月。僕は源太さんのところの和菓子を手に、父の住む実家へ顔を出していた。薦められて購入したのは、パステルカラーに近い、柔らかな色合いを重ねた手毬の形をした練きりだ。崩してしまうのがもったいないほどに繊細で綺麗だった。商店街を飾る提灯にも似ている和菓子の雰囲気に、あの町を思う源太さんの気持ちが込められている気がした。
芸術的で温かみのある和菓子だから、できれば田舎にいる母と祖母とも一緒にテーブルを囲んで摘まみたかったけれど。そうなるにはまだもう少し僕が努力し、母の具合も考えなくてはならない。
手土産を持って実家に現れた僕を見て、父は頼もしくなったじゃないかと少し驚き、満面の笑顔を浮かべた。本当にそうなら、結城と梶さんのおかげだろう。僕のケツを叩き、前向きになるよう仕向けてくれたのは結城だし。過去に囚われ、いつまでもウジウジと考えてばかりの僕に向かって、自分だけじゃないと真っすぐにぶつかってくれた梶さんがいてくれたおかげだ。
そして、あの商店街のみんなが、僕を受け入れてくれからだろう。
あの町を選んだのは、偶然だったけれど。あの町の。あの商店街の人たちに出会えたことは、僕にとってプラスになることばかりだった。感謝してもしきれない。
おキクさんが言っていたように、次にやってくる。例えば僕のような新入社員がいたなら。みんなが僕にしてくれたように、金物屋兼何でも屋の健さんを紹介して。みっちゃんの情に深いあったかい気持ちと喜代さんのおでんを勧め。源太さんの和菓子の繊細さを話し、幸代さんのところの香ばしく焼きあがったパンを勧めよう。おキクさんのところでは、きっととてもいい経験ができると、話を聞きに行くように勧めるだろう。もちろん、増田さんの処の揚げ物も、新入社員の心許ない財布にはお勧めだと言いたい。
あの商店街には、こんなにも誰かに教えてあげたくて、勧めたくなる人や物があふれている。もちろん。商店街を抜けた先にあるSAKURAも、梶さんのところの雑貨屋も勧めないとな。勧める相手が女性なら、絶対に喜ぶだろうな。あ、誤解しないでもらいたいが、僕は女の子好きの結城とは違う。下心なしの本気で勧めたいだけ。櫻子さんや梶さんのお兄さんのモデルのような容姿を見たら、きっとみんな僕と同じ反応を示すんじゃないだろうか。そしたら、カメラもなく撮影ではないことを教えてあげよう。
僕は実家にいる間に、祖母の田舎に電話をして母の近況を訊ねた。様子は随分と落ち着いてきてはいるけれど、まだ時々一輝のことを思い出し涙すると聞いて心はズキリと痛んだ。いつもの僕ならそこで背を向け、母に何か言うでもなく、会いに行こうとすら思わなかった。一輝を失ってしまったことで落ち込んでいる母を見ることに、耐えられないからだ。
「なぁ、樹」
父が躊躇うように話しだすのは、この時期いつものことだった。僕の顔色を窺い、不安そうな表情をする。そんな父を見て、僕はようやくそれではいけないと一歩を踏み出す勇気を持つ。
「ゴールデンウイークになったら、また母さんに会いに行こうと思うんだ。樹も行くか?」
いつものように断られるだろうと、躊躇いながらも僕を誘う父を真っすぐ見る。
「もちろんだよ」
僕は大きく頷く。初めてはっきりとした答えを返すことができた僕を見て、父はうっすらと涙を浮かべてとても嬉しそうに微笑んだ。
つい最近までの僕は、暗く落ち込んでばかりいて。笑い顔だって、貼り付けたように不自然だった。そんな顔を向けられてしまえば、父だって、周りの人だって心から明るい顔などできるはずがないのだ。
笑顔の傍には、笑顔がやってくる。とても単純なことに、僕は漸く気がつくことができた。
梶さんを見送った日。送ってくれたお兄さんにお礼を言って、僕は商店街に寄り道をしていた。
「そうかぁ。早苗は、ポーランドに行っちまったかぁ」
油を売りに来た僕に、健さんはしみじみとした表情で言葉を零す。
「あいつはいつもチャキチャキしてて、見ているこっちが元気になるようなやつだったからなぁ。寂しくなるなぁ」
腕を組んだ健さんは、店先から商店街のアーチの向こうに広がる青空に視線を向ける。遠い空を行く飛行機を想像し、梶さんを思っているのかもしれない。
「あれだな。空は繋がっているわけだし。スマホも繋がってんだ。声を聞こうと思えばいつだって聞ける。なんなら、顔見ながらだって話せんだからよう。現代文明に感謝だな」
結城が居たら、いつの時代に生まれたんだと突っ込みそうなことを言いながら、健さんはケタケタと笑う。そうしてから、何やら急に思いついた表情をして僕を見た。
これは、まさかいつもの。
「そうだ、いつき。いいもんが入ってきてんだよ」
案の定。何やら僕に勧めたい商品があるみたいだ。健さんは弾むように店内へ戻ると、箱を手にして戻ってきた。
「小間切れチョッパーだ。ここに玉ねぎを入れて紐を引くだけで、あら不思議。あっという間にみじん切りの完成ってな。ハンバーグなんか作った時は、楽ちんだぞ」
健さんは、身振り手振りを付けて商品を売り込む。まるで平日昼間のテレビショッピングのようだ。
「えっと、健さん。僕、ハンバーグを作ったりはしないし。さすがにこれは必要ないかも」
やんわりと断る僕のことを、健さんが真顔で見つめてくる。その時間、優に五秒ほどだろうか。
たかが五秒。されど五秒。気まずい時間というのは、とても長く感じるものだ。鍋やフライパン。それに電気ケトルは必要だったから、勧められるままに購入したけれど。さすがに、料理などこれといってしない僕に、小間切れチョッパーなるものは必要としない。
しかし、この耐えがたい間は、買えと目で訴えてきているのだろうか。
タジタジになりながらも返事を濁していると、健さんは腕を組んでから口を開いた。
「なぁ、いつき。俺な、前々からずーっと思っていたことがあるんだけどな」
前置きをした健さんが、次はどんな売り文句を僕に聞かせてくるのかとどぎまぎしてしまう。
「俺な。この辺りのみんなから、ずっと健さんて言われてっけどよ。実は、違うんだよ」
小間切れチョッパーとはかけ離れた話の展開に、言ってる意味がよく分からなくて僕は操り人形の如くカクカクッと首を傾げた。
「俺の本名はな。健と書いて、タケルって読むんだよ。知ってたか?」
「へ? タケル?」
商品とは何の関係もない、斜め上を行く告白に、僕の目は点になる。
「えっ、だって。みっちゃんも、幸代さんも、みんな健さんのことを健さんて」
「そうなんだよなぁ。俺もさ、気がついたら健さんなんて言われて、ちょっと高倉健みたいでかっけーな。なんて思ってたから訂正すんのもなー、なんて放っておいたんだけどよ。もしかして、みんな俺の本名を知らねぇじゃないかって、不意にそう思ってよ」
健さんが長年の想いを話したところで店の外。商店街の通路に、空の鍋が落ちるキンとしているけれど鈍い音が響いた。
見ると、そこには驚愕に目を見開いたみっちゃんが、さっきまで両手で鍋を持っていただろう格好のまま固まっていた。
「うっ、嘘でしょ。健さんは、健さんだよね?」
いつの間にか健さんの店先に居たみっちゃんは、落とした鍋のこともそのままにワナワナとしている。
「なんだよ、みっちゃんまで。本気で俺のことを健だと思ってたのか?」
健さんは真顔で訊ねながら、みっちゃんが落とした空の鍋を拾い上げている。訊ねられたみっちゃんは、ブンブンと音でもしそうな勢いで首を縦に振った。
「わっ。私、お義母さんにこのこと知ってるか、訊いてくるっ」
健さんから空の鍋を受け取ると、みっちゃんはエプロンをはためかせ、サンダルを鳴らして自分の店へと走って帰ってしまった。
「なんなんだよ。そんなに驚くことか?」
間違われていた本人は飄々とした顔つきで、顎に手をやりみっちゃんの背中を見送っている。
「まったく。ここの連中は、俺に世話になってるはずなのに、本名を知らないなんて、どうなってんだい。ヤレヤレだぜ」
呆れて溜息を零しているけれど、健さんの頬は緩んでいるから、この事態を楽しんでいるのだろう。レジ傍に行くと、僕に椅子を勧め、みっちゃんの驚きようを思い出しては、笑う健さんだ。
そこへ、今度は幸代さんがパン屋の名前がプリントされた袋を持ってやって来た。
「こんにちは」
「おう、さっちゃん。どした」
「みっちゃんから、連絡が来てね」
幸代さんは、クスクスと笑いながら持っていた袋を健さんに差し出した。
「やっと本名を明かしたみたいだから、そのお祝いよ」
幸代さんは笑いながら、焼き立てのパンが詰まっている袋を健さんに渡す。
「えっ。じゃあ、幸代さんは、知っていて健さんと呼んでいたんですか?」
「うん。だって、みんながそう呼んでるし。健ちゃんも、高倉健みてーだろ? なんて決め顔するから」
幸代さんは、またクスクスと笑う。
「おキクの婆さんだって、源太だって、知ってるはずだぞ」
じゃあ、知らなくて驚いているのは、僕とみっちゃんだけ?
「どうだろ? 増田さんのところのご夫婦も知っているとは思うけど。あまりに長い間みんなが健さんて呼ぶから、もしかしたら記憶が塗り替えられちゃってるかもしれないわね」
幸代さんは、わざとそう言って健さんをからかい笑っている。
四月に越してきてからもう少しで一年が経つけれど、この商店街には僕の知らない楽しいことがまだまだ潜んでいるのかもしれない。梶さんが戻ってくるころには、そんな商店街のことを訳知り顔で話せたら楽しいかもしれないな。
「で、僕はこれから何と呼べば」
健さんに向かって苦笑いで訊ねる僕を見て、何故か幸代さんが応えた。
「健さんでいいよ。ね、健ちゃん」
「お、おう」
押し切られるように幸代さんに断言されてしまった健さんを見て僕が笑うと、二人も同じように笑った。
僕はさっき健さんがしたように、アーチの向こうに広がる青空に目を細める。彼女にお帰りというその日を待ち焦がれながら。
芸術的で温かみのある和菓子だから、できれば田舎にいる母と祖母とも一緒にテーブルを囲んで摘まみたかったけれど。そうなるにはまだもう少し僕が努力し、母の具合も考えなくてはならない。
手土産を持って実家に現れた僕を見て、父は頼もしくなったじゃないかと少し驚き、満面の笑顔を浮かべた。本当にそうなら、結城と梶さんのおかげだろう。僕のケツを叩き、前向きになるよう仕向けてくれたのは結城だし。過去に囚われ、いつまでもウジウジと考えてばかりの僕に向かって、自分だけじゃないと真っすぐにぶつかってくれた梶さんがいてくれたおかげだ。
そして、あの商店街のみんなが、僕を受け入れてくれからだろう。
あの町を選んだのは、偶然だったけれど。あの町の。あの商店街の人たちに出会えたことは、僕にとってプラスになることばかりだった。感謝してもしきれない。
おキクさんが言っていたように、次にやってくる。例えば僕のような新入社員がいたなら。みんなが僕にしてくれたように、金物屋兼何でも屋の健さんを紹介して。みっちゃんの情に深いあったかい気持ちと喜代さんのおでんを勧め。源太さんの和菓子の繊細さを話し、幸代さんのところの香ばしく焼きあがったパンを勧めよう。おキクさんのところでは、きっととてもいい経験ができると、話を聞きに行くように勧めるだろう。もちろん、増田さんの処の揚げ物も、新入社員の心許ない財布にはお勧めだと言いたい。
あの商店街には、こんなにも誰かに教えてあげたくて、勧めたくなる人や物があふれている。もちろん。商店街を抜けた先にあるSAKURAも、梶さんのところの雑貨屋も勧めないとな。勧める相手が女性なら、絶対に喜ぶだろうな。あ、誤解しないでもらいたいが、僕は女の子好きの結城とは違う。下心なしの本気で勧めたいだけ。櫻子さんや梶さんのお兄さんのモデルのような容姿を見たら、きっとみんな僕と同じ反応を示すんじゃないだろうか。そしたら、カメラもなく撮影ではないことを教えてあげよう。
僕は実家にいる間に、祖母の田舎に電話をして母の近況を訊ねた。様子は随分と落ち着いてきてはいるけれど、まだ時々一輝のことを思い出し涙すると聞いて心はズキリと痛んだ。いつもの僕ならそこで背を向け、母に何か言うでもなく、会いに行こうとすら思わなかった。一輝を失ってしまったことで落ち込んでいる母を見ることに、耐えられないからだ。
「なぁ、樹」
父が躊躇うように話しだすのは、この時期いつものことだった。僕の顔色を窺い、不安そうな表情をする。そんな父を見て、僕はようやくそれではいけないと一歩を踏み出す勇気を持つ。
「ゴールデンウイークになったら、また母さんに会いに行こうと思うんだ。樹も行くか?」
いつものように断られるだろうと、躊躇いながらも僕を誘う父を真っすぐ見る。
「もちろんだよ」
僕は大きく頷く。初めてはっきりとした答えを返すことができた僕を見て、父はうっすらと涙を浮かべてとても嬉しそうに微笑んだ。
つい最近までの僕は、暗く落ち込んでばかりいて。笑い顔だって、貼り付けたように不自然だった。そんな顔を向けられてしまえば、父だって、周りの人だって心から明るい顔などできるはずがないのだ。
笑顔の傍には、笑顔がやってくる。とても単純なことに、僕は漸く気がつくことができた。
梶さんを見送った日。送ってくれたお兄さんにお礼を言って、僕は商店街に寄り道をしていた。
「そうかぁ。早苗は、ポーランドに行っちまったかぁ」
油を売りに来た僕に、健さんはしみじみとした表情で言葉を零す。
「あいつはいつもチャキチャキしてて、見ているこっちが元気になるようなやつだったからなぁ。寂しくなるなぁ」
腕を組んだ健さんは、店先から商店街のアーチの向こうに広がる青空に視線を向ける。遠い空を行く飛行機を想像し、梶さんを思っているのかもしれない。
「あれだな。空は繋がっているわけだし。スマホも繋がってんだ。声を聞こうと思えばいつだって聞ける。なんなら、顔見ながらだって話せんだからよう。現代文明に感謝だな」
結城が居たら、いつの時代に生まれたんだと突っ込みそうなことを言いながら、健さんはケタケタと笑う。そうしてから、何やら急に思いついた表情をして僕を見た。
これは、まさかいつもの。
「そうだ、いつき。いいもんが入ってきてんだよ」
案の定。何やら僕に勧めたい商品があるみたいだ。健さんは弾むように店内へ戻ると、箱を手にして戻ってきた。
「小間切れチョッパーだ。ここに玉ねぎを入れて紐を引くだけで、あら不思議。あっという間にみじん切りの完成ってな。ハンバーグなんか作った時は、楽ちんだぞ」
健さんは、身振り手振りを付けて商品を売り込む。まるで平日昼間のテレビショッピングのようだ。
「えっと、健さん。僕、ハンバーグを作ったりはしないし。さすがにこれは必要ないかも」
やんわりと断る僕のことを、健さんが真顔で見つめてくる。その時間、優に五秒ほどだろうか。
たかが五秒。されど五秒。気まずい時間というのは、とても長く感じるものだ。鍋やフライパン。それに電気ケトルは必要だったから、勧められるままに購入したけれど。さすがに、料理などこれといってしない僕に、小間切れチョッパーなるものは必要としない。
しかし、この耐えがたい間は、買えと目で訴えてきているのだろうか。
タジタジになりながらも返事を濁していると、健さんは腕を組んでから口を開いた。
「なぁ、いつき。俺な、前々からずーっと思っていたことがあるんだけどな」
前置きをした健さんが、次はどんな売り文句を僕に聞かせてくるのかとどぎまぎしてしまう。
「俺な。この辺りのみんなから、ずっと健さんて言われてっけどよ。実は、違うんだよ」
小間切れチョッパーとはかけ離れた話の展開に、言ってる意味がよく分からなくて僕は操り人形の如くカクカクッと首を傾げた。
「俺の本名はな。健と書いて、タケルって読むんだよ。知ってたか?」
「へ? タケル?」
商品とは何の関係もない、斜め上を行く告白に、僕の目は点になる。
「えっ、だって。みっちゃんも、幸代さんも、みんな健さんのことを健さんて」
「そうなんだよなぁ。俺もさ、気がついたら健さんなんて言われて、ちょっと高倉健みたいでかっけーな。なんて思ってたから訂正すんのもなー、なんて放っておいたんだけどよ。もしかして、みんな俺の本名を知らねぇじゃないかって、不意にそう思ってよ」
健さんが長年の想いを話したところで店の外。商店街の通路に、空の鍋が落ちるキンとしているけれど鈍い音が響いた。
見ると、そこには驚愕に目を見開いたみっちゃんが、さっきまで両手で鍋を持っていただろう格好のまま固まっていた。
「うっ、嘘でしょ。健さんは、健さんだよね?」
いつの間にか健さんの店先に居たみっちゃんは、落とした鍋のこともそのままにワナワナとしている。
「なんだよ、みっちゃんまで。本気で俺のことを健だと思ってたのか?」
健さんは真顔で訊ねながら、みっちゃんが落とした空の鍋を拾い上げている。訊ねられたみっちゃんは、ブンブンと音でもしそうな勢いで首を縦に振った。
「わっ。私、お義母さんにこのこと知ってるか、訊いてくるっ」
健さんから空の鍋を受け取ると、みっちゃんはエプロンをはためかせ、サンダルを鳴らして自分の店へと走って帰ってしまった。
「なんなんだよ。そんなに驚くことか?」
間違われていた本人は飄々とした顔つきで、顎に手をやりみっちゃんの背中を見送っている。
「まったく。ここの連中は、俺に世話になってるはずなのに、本名を知らないなんて、どうなってんだい。ヤレヤレだぜ」
呆れて溜息を零しているけれど、健さんの頬は緩んでいるから、この事態を楽しんでいるのだろう。レジ傍に行くと、僕に椅子を勧め、みっちゃんの驚きようを思い出しては、笑う健さんだ。
そこへ、今度は幸代さんがパン屋の名前がプリントされた袋を持ってやって来た。
「こんにちは」
「おう、さっちゃん。どした」
「みっちゃんから、連絡が来てね」
幸代さんは、クスクスと笑いながら持っていた袋を健さんに差し出した。
「やっと本名を明かしたみたいだから、そのお祝いよ」
幸代さんは笑いながら、焼き立てのパンが詰まっている袋を健さんに渡す。
「えっ。じゃあ、幸代さんは、知っていて健さんと呼んでいたんですか?」
「うん。だって、みんながそう呼んでるし。健ちゃんも、高倉健みてーだろ? なんて決め顔するから」
幸代さんは、またクスクスと笑う。
「おキクの婆さんだって、源太だって、知ってるはずだぞ」
じゃあ、知らなくて驚いているのは、僕とみっちゃんだけ?
「どうだろ? 増田さんのところのご夫婦も知っているとは思うけど。あまりに長い間みんなが健さんて呼ぶから、もしかしたら記憶が塗り替えられちゃってるかもしれないわね」
幸代さんは、わざとそう言って健さんをからかい笑っている。
四月に越してきてからもう少しで一年が経つけれど、この商店街には僕の知らない楽しいことがまだまだ潜んでいるのかもしれない。梶さんが戻ってくるころには、そんな商店街のことを訳知り顔で話せたら楽しいかもしれないな。
「で、僕はこれから何と呼べば」
健さんに向かって苦笑いで訊ねる僕を見て、何故か幸代さんが応えた。
「健さんでいいよ。ね、健ちゃん」
「お、おう」
押し切られるように幸代さんに断言されてしまった健さんを見て僕が笑うと、二人も同じように笑った。
僕はさっき健さんがしたように、アーチの向こうに広がる青空に目を細める。彼女にお帰りというその日を待ち焦がれながら。