漸く気持ちが落ち着いてきた頃を見計らい、お兄さんはニコリと笑みを浮かべる。女性なら、一撃で恋に落ちてしまいそうな微笑みだ。
「長々と引き留めて悪かったね。早苗のことを探していたんだよね」
訊ねられて、ゆるゆると頷いた。
「僕は、また日本に住むことになってね。今日早苗には、新しい部屋に必要な日用品を頼んであるんだ。多分、今頃は金物屋の健さんのところにいるんじゃないかな」
「えっ、健さんのところですか」
ここへ来る途中声をかけられたあの時、店内には梶さんがいたということか。灯台下暗しじゃないか。
驚きながらも慌てた僕が財布を取り出していると止められた。
「急いでるんだろ? 話しを聞いてくれたお礼に奢るよ」
「え、いや、でも」
戸惑う僕に頷きを返すお兄さんに、恐縮ながら頭を下げた。
「あの日の早苗のことを知っている人がいて、よかった。樹君、ありがとう」
ありがとうなんて、言われるのはおかしな話だ。けれど、お兄さんは僕の目を真っすぐ見たあと、この町に来てくれてありがとうと口にした。
僕は深く深く頭を下げて、SAKURAをあとにした。
SAKURAでひと休憩とったとはいえ、こうもずっと走り続けることなどないせいで、公園を抜けた頃にはすっかり息が上がっていた。健さんのところにいることは解っていても、焦る気持ちを止められず、とにかく足を前へ前へと繰り出し急ぐ。
ゼイゼイと呼吸をし、健さんの店がある角を曲がったところでスピードを緩めた。呼吸の苦しさで胸に手をやりながら、いつもどおりの店構えをしている店内に入っていく。
「おっ。樹。急ぎの用事は済んだのか?」
訊ねる健さんの後方に梶さんの姿を見つけ、コクコクと頷きを返しながらそちらへ向かった。
自分の横を通り過ぎて梶さんのもとへ向かった僕を、健さんが視線で追ってくる。
「かっ、梶さん」
「あ。深沢樹」
何故フルネームなんだという突っ込みよりも、眉間にシワも寄せず、普通に対応してくれたことの方に安堵した。
「あのっ。幸代さんに訊いてっ。僕――――」
「――――ストップ!」
みなまで言い終わる前に、梶さんは右掌を思い切りこちらに向けて僕の言葉を遮った。
「健さん。これ、あとで取りにくるんで、預かっててよ」
「おう。いいよ。なんなら、優斗のところに届けても構わねぇし」
「そうしてもらえると助かる」
勝手知ったる我が家というように、僕と健さんの会話よりも。梶さんと健さんの会話の方がずっとフランクで、長年の付き合いがあるんだと改めて感じた。
「じゃあ。よろしく」
支払いを済ませた梶さんと共に健さんの店を出る。彼女は、さっき僕がきた道を再び辿りSAKURAへと導いた。
Uzdrowionyの店先に居たお兄さんが、僕に向かって笑みを向けるからぺこりと頭を下げる。SAKURAのカウベルが鳴った。
「あら、いらっしゃい。今度は、早苗ちゃん?」
櫻子さんの言葉に僕は苦笑いをし、彼女は小首をかしげた。しかも、梶さんが選んで座った席は、さっきお兄さんと話したテーブルと同じだから、ドッキリにでもかけられているんじゃないかと思えたほどだ。
「コーヒー二つ」
お兄さんと違うのは、僕にメニューを勧めるどころか注文を自動的にされてしまうところで、梶さんらしいと口元が緩む。
「幸代さんから聞いたって。私がポーランドへ行くこと?」
レモン水とおしぼりしがテーブルに届かないうちに、梶さんはさっさと話しを始める。前置きの長かったお兄さんとは本当に真逆だ。
「うん。お兄さんが戻って、店をやることや。代わりに、梶さんがポーランドへ行くことを聞いて、焦ってしまって」
「どうして君が焦るのよ」
僕の想いなど知る由もない梶さんは、クスッと笑い届いたレモン水を口にした。そこへ、香り立つコーヒーが運ばれてくる。
「さっきのとは違う種類の豆にしたから」
櫻子さんが気を利かせて一言添えると、梶さんが僕を見る。
「さっきって。今日ここに来るの二度目?」
少しばかり目を丸くして訊ねた梶さんに頷くと、早く言ってよねと笑ってしまっている。
「ここのコーヒーは美味しいから。何度でも歓迎だよ」
「ありがとう。これサービス」
櫻子さんは、テーブルに手作りのクッキーを置いていく。
「ここのアイスボックスクッキーも美味しいよ。レジ横に置いてあるから、気に入ったら買っていってよ。あ、ほら。あの彼にも勧めてみたら」
「結城?」
「そうそう。女の子受けするって言ったら、たくさん買ってくれそうじゃない」
笑みを浮かべたあと、梶さんはクッキーを一つ摘まんで口に入れた。サクサクとしたいい音が聞こえてきて、僕も一つ戴く。
「うん。美味い」
「でしょ」
まるで自分が作ったかのように自慢げな顔をする梶さんは、子供みたいで可愛らしい。
「で、さっきの話だけれど。幸代さんから聞いたとおりよ。兄が戻ってきて店を続けて、今度は私がポーランドに行く」
淡々と告げられたことに、心臓がズキンと痛んだ。ドラキュラじゃないけれど、胸に太い杭でも刺されたみたいな鈍く重い痛みだ。
「叔母がね、私にももっとポーランドのことを知ってもらいたいし。たくさんのことを経験させたいって言ってくれてね。輸入雑貨の仕事を手伝いながら、勉強しに行こうと思って」
もう決まったことだというように、さっぱりとした表情で語る梶さんに、ポーランド行きを覆す気など全くないことが分かった。
「どのくらい?」
「期間は、未定。気が済むまでって感じかな。兄も好きなだけ行ってくればいいって言ってるし。いつになるかわからないけれど、戻ったら戻ったで一緒にUzdrowionyを切り盛りするか、一人でやっていくか」
行くこと自体は決定していても、いつ戻るのかも、戻ってからのことも明確に決めていないようだ。
「いつ発つの?」
「年明けを予定してる」
年明けって、もう二ヶ月もないじゃないか。
この町に住んでいる限り、梶さんの顔を見られなくなることなどないと考えていた。少しずつでも関係を近づけて、いつか彼女の一番近くに居られる存在になりたいと思っていた。僕が残念と言われるのは、こういうところなのだろう。自分ではなかなか行動せず、時間に任せていればどうにかなるだろうと他人事のように構えてしまう。けれど、そんな悠長なことを言ってる場合じゃなくなってしまった。自分の望む形があるのなら、何かアクションを起こさなければ、今あるものが変わることなんてないのだ。
「あのっ」
自分の中で膨らんでいった感情のまま声を出したら、思いの外大きく店内に響き。目の前の梶さんだけじゃなく。櫻子さんも、近くに座っていた他のお客さんも、一瞬僕の方を注目した。
以前の僕ならヘコヘコと頭を下げて、すみませんという態度を取り、背を丸め、口を閉ざしていたことだろう。だけど、それがダメなんだ。残念と言われてしまう所以なんだ。僕は残念な自分を振り払う。
「ポーランドへ行くまでの間。僕と会ってくれませんか。梶さんの時間を、僕に下さいっ」
きっぱりと言い切ると、彼女はコーヒーカップを手にしたまま固まってしまった。
空気が止まった。シンという音がしそうなくらいで、静かに流れていた音楽だけがこの空間を占めていた。
数秒ののち、梶さんはゆっくりとコーヒーを一口飲み、静かにカップをテーブルに戻す。そして、僕の顔を見たまま応えた。
「行くまでの間、お店の手伝いは続けるのよ」
そう切り出されて、ああ断られるんだと胸のうちで覚悟を決める。引っ越しの準備もあるだろうし。ウダウダとした情けない僕につきあっている暇などないのだろう。
断られると思っても尚、未練がましい期待が心の隅に残っていて。祈るように彼女を見てしまう。
「仕事が終わるのが、毎日夜の九時過ぎ。休みは毎週水曜と隔週火曜。その空いている時間でいいなら」
「……え」
言葉の意味を理解するのに手間取っていたら、イタズラに片方の口角を上げた梶さんが口を開いた。
「不満?」
真顔で訊ねられて、僕は首が飛んで行くんじゃないかというほどに、ビュンビュンと横に降る。レジ横にいた櫻子さんが、口元に手をやり微笑みながら傍に来た。
「じゃあ。お互いの連絡先を交換しなくちゃね」
僕にというよりも、梶さんに対して促すような笑みを向け、なんとなく不満な顔をしながらも彼女はスマホを取り出した。
「長々と引き留めて悪かったね。早苗のことを探していたんだよね」
訊ねられて、ゆるゆると頷いた。
「僕は、また日本に住むことになってね。今日早苗には、新しい部屋に必要な日用品を頼んであるんだ。多分、今頃は金物屋の健さんのところにいるんじゃないかな」
「えっ、健さんのところですか」
ここへ来る途中声をかけられたあの時、店内には梶さんがいたということか。灯台下暗しじゃないか。
驚きながらも慌てた僕が財布を取り出していると止められた。
「急いでるんだろ? 話しを聞いてくれたお礼に奢るよ」
「え、いや、でも」
戸惑う僕に頷きを返すお兄さんに、恐縮ながら頭を下げた。
「あの日の早苗のことを知っている人がいて、よかった。樹君、ありがとう」
ありがとうなんて、言われるのはおかしな話だ。けれど、お兄さんは僕の目を真っすぐ見たあと、この町に来てくれてありがとうと口にした。
僕は深く深く頭を下げて、SAKURAをあとにした。
SAKURAでひと休憩とったとはいえ、こうもずっと走り続けることなどないせいで、公園を抜けた頃にはすっかり息が上がっていた。健さんのところにいることは解っていても、焦る気持ちを止められず、とにかく足を前へ前へと繰り出し急ぐ。
ゼイゼイと呼吸をし、健さんの店がある角を曲がったところでスピードを緩めた。呼吸の苦しさで胸に手をやりながら、いつもどおりの店構えをしている店内に入っていく。
「おっ。樹。急ぎの用事は済んだのか?」
訊ねる健さんの後方に梶さんの姿を見つけ、コクコクと頷きを返しながらそちらへ向かった。
自分の横を通り過ぎて梶さんのもとへ向かった僕を、健さんが視線で追ってくる。
「かっ、梶さん」
「あ。深沢樹」
何故フルネームなんだという突っ込みよりも、眉間にシワも寄せず、普通に対応してくれたことの方に安堵した。
「あのっ。幸代さんに訊いてっ。僕――――」
「――――ストップ!」
みなまで言い終わる前に、梶さんは右掌を思い切りこちらに向けて僕の言葉を遮った。
「健さん。これ、あとで取りにくるんで、預かっててよ」
「おう。いいよ。なんなら、優斗のところに届けても構わねぇし」
「そうしてもらえると助かる」
勝手知ったる我が家というように、僕と健さんの会話よりも。梶さんと健さんの会話の方がずっとフランクで、長年の付き合いがあるんだと改めて感じた。
「じゃあ。よろしく」
支払いを済ませた梶さんと共に健さんの店を出る。彼女は、さっき僕がきた道を再び辿りSAKURAへと導いた。
Uzdrowionyの店先に居たお兄さんが、僕に向かって笑みを向けるからぺこりと頭を下げる。SAKURAのカウベルが鳴った。
「あら、いらっしゃい。今度は、早苗ちゃん?」
櫻子さんの言葉に僕は苦笑いをし、彼女は小首をかしげた。しかも、梶さんが選んで座った席は、さっきお兄さんと話したテーブルと同じだから、ドッキリにでもかけられているんじゃないかと思えたほどだ。
「コーヒー二つ」
お兄さんと違うのは、僕にメニューを勧めるどころか注文を自動的にされてしまうところで、梶さんらしいと口元が緩む。
「幸代さんから聞いたって。私がポーランドへ行くこと?」
レモン水とおしぼりしがテーブルに届かないうちに、梶さんはさっさと話しを始める。前置きの長かったお兄さんとは本当に真逆だ。
「うん。お兄さんが戻って、店をやることや。代わりに、梶さんがポーランドへ行くことを聞いて、焦ってしまって」
「どうして君が焦るのよ」
僕の想いなど知る由もない梶さんは、クスッと笑い届いたレモン水を口にした。そこへ、香り立つコーヒーが運ばれてくる。
「さっきのとは違う種類の豆にしたから」
櫻子さんが気を利かせて一言添えると、梶さんが僕を見る。
「さっきって。今日ここに来るの二度目?」
少しばかり目を丸くして訊ねた梶さんに頷くと、早く言ってよねと笑ってしまっている。
「ここのコーヒーは美味しいから。何度でも歓迎だよ」
「ありがとう。これサービス」
櫻子さんは、テーブルに手作りのクッキーを置いていく。
「ここのアイスボックスクッキーも美味しいよ。レジ横に置いてあるから、気に入ったら買っていってよ。あ、ほら。あの彼にも勧めてみたら」
「結城?」
「そうそう。女の子受けするって言ったら、たくさん買ってくれそうじゃない」
笑みを浮かべたあと、梶さんはクッキーを一つ摘まんで口に入れた。サクサクとしたいい音が聞こえてきて、僕も一つ戴く。
「うん。美味い」
「でしょ」
まるで自分が作ったかのように自慢げな顔をする梶さんは、子供みたいで可愛らしい。
「で、さっきの話だけれど。幸代さんから聞いたとおりよ。兄が戻ってきて店を続けて、今度は私がポーランドに行く」
淡々と告げられたことに、心臓がズキンと痛んだ。ドラキュラじゃないけれど、胸に太い杭でも刺されたみたいな鈍く重い痛みだ。
「叔母がね、私にももっとポーランドのことを知ってもらいたいし。たくさんのことを経験させたいって言ってくれてね。輸入雑貨の仕事を手伝いながら、勉強しに行こうと思って」
もう決まったことだというように、さっぱりとした表情で語る梶さんに、ポーランド行きを覆す気など全くないことが分かった。
「どのくらい?」
「期間は、未定。気が済むまでって感じかな。兄も好きなだけ行ってくればいいって言ってるし。いつになるかわからないけれど、戻ったら戻ったで一緒にUzdrowionyを切り盛りするか、一人でやっていくか」
行くこと自体は決定していても、いつ戻るのかも、戻ってからのことも明確に決めていないようだ。
「いつ発つの?」
「年明けを予定してる」
年明けって、もう二ヶ月もないじゃないか。
この町に住んでいる限り、梶さんの顔を見られなくなることなどないと考えていた。少しずつでも関係を近づけて、いつか彼女の一番近くに居られる存在になりたいと思っていた。僕が残念と言われるのは、こういうところなのだろう。自分ではなかなか行動せず、時間に任せていればどうにかなるだろうと他人事のように構えてしまう。けれど、そんな悠長なことを言ってる場合じゃなくなってしまった。自分の望む形があるのなら、何かアクションを起こさなければ、今あるものが変わることなんてないのだ。
「あのっ」
自分の中で膨らんでいった感情のまま声を出したら、思いの外大きく店内に響き。目の前の梶さんだけじゃなく。櫻子さんも、近くに座っていた他のお客さんも、一瞬僕の方を注目した。
以前の僕ならヘコヘコと頭を下げて、すみませんという態度を取り、背を丸め、口を閉ざしていたことだろう。だけど、それがダメなんだ。残念と言われてしまう所以なんだ。僕は残念な自分を振り払う。
「ポーランドへ行くまでの間。僕と会ってくれませんか。梶さんの時間を、僕に下さいっ」
きっぱりと言い切ると、彼女はコーヒーカップを手にしたまま固まってしまった。
空気が止まった。シンという音がしそうなくらいで、静かに流れていた音楽だけがこの空間を占めていた。
数秒ののち、梶さんはゆっくりとコーヒーを一口飲み、静かにカップをテーブルに戻す。そして、僕の顔を見たまま応えた。
「行くまでの間、お店の手伝いは続けるのよ」
そう切り出されて、ああ断られるんだと胸のうちで覚悟を決める。引っ越しの準備もあるだろうし。ウダウダとした情けない僕につきあっている暇などないのだろう。
断られると思っても尚、未練がましい期待が心の隅に残っていて。祈るように彼女を見てしまう。
「仕事が終わるのが、毎日夜の九時過ぎ。休みは毎週水曜と隔週火曜。その空いている時間でいいなら」
「……え」
言葉の意味を理解するのに手間取っていたら、イタズラに片方の口角を上げた梶さんが口を開いた。
「不満?」
真顔で訊ねられて、僕は首が飛んで行くんじゃないかというほどに、ビュンビュンと横に降る。レジ横にいた櫻子さんが、口元に手をやり微笑みながら傍に来た。
「じゃあ。お互いの連絡先を交換しなくちゃね」
僕にというよりも、梶さんに対して促すような笑みを向け、なんとなく不満な顔をしながらも彼女はスマホを取り出した。