「コーヒーでも飲もうか」

 言われるまま彼のあとに着いて行き、僕たちはSAKURAに入った。

「梶君、いらっしゃい。珍しい組み合わせね」

 カウベルのあとに出迎えてくれた店員さんが、僕たちをテーブル席に案内してくれた。

「ここのコーヒーが美味しいのは、知ってるかい?」
「知ってます」

 焦りながら梶さんを探している僕とは対照的に、メニューを手にしたお兄さんは普段通りというような落ち着いた態度で窺うように見る。まるで、そんなに焦らなくてもいいじゃないかと、宥められてでもいるようだ。けれど、悠長にしている場合ではないのだ。梶さんは、今すぐにでもポーランドへ行ってしまうかもしれないのだから。

 ただ、仕事を抜けて僕に付き合ってくれようとしているお兄さんの手前、逸る気持ちを抑えるようにした。

「櫻子さんはね、海外でバリスタの修行もしているからね」

 お兄さんは、レモン水を運んできた店員さんをにこやかに見る。

 随分とお店に通っていたけれど、彼女の名前を初めて知った。SAKURAという店名は、櫻子という名前からとったのかもしれない。

「デザートや食事も美味しいけど、どうする?」

 僕は、力なく首を横に振り遠慮した。ここで提供している物はどれも美味しいけれど、今はのんびりと味わっている気分じゃない。お兄さんが何をもって僕をここに誘ったのか解らないけれど、早く話しを済ませて梶さんを探しに行きたい。

「じゃあ、僕もコーヒーだけにしておこうかな。あとでまた食事に来るよ」

 お兄さんは、櫻子さんに向かってコーヒーを二つだけ注文した。

 店内は相変わらずの居心地の良さで。芳しいコーヒーの香りや、美味しそうな料理の匂いが漂っている。僕の座っている位置からは通りを見渡すことができて、さっき敦と呼ばれたアルバイトだろう店員が、店先の雑貨を整えている。梶さんがいた時も、彼は働いていただろうか。今まで見かけたことがない店員の動きを眺めていたら、コーヒーがテーブルに届いた。

「ごゆっくり」

 櫻子さんに微笑みを返したお兄さんが口を開いた。

「僕たち兄妹は、傍から見るとあまり会話をしているようにも、仲良くしているようにも見えないらしいんだ」

 コーヒーのカップに手を触れると、ソーサーから持ち上げることなくこちらを見る。僕は一瞬視線を外し、藍色の小華柄が描かれたカップを見てから、再びお兄さんに視線を戻した。

「早苗は小さい頃から活発で、僕はどちらかと言えば大人しい方だったせいか。外で一緒に遊んだ記憶というものが少なくてね」

 今度はカップを持ち上げ、香りを楽しんだあとにそっと口へと運んだ。

「うん。今日も美味しい」

 お兄さんは、レジ傍にいた櫻子さんを見て目を細める。応えるように、彼女も目を細めた。二人の間には、恋人同士のような雰囲気が漂っていた。けれど、さん(・・)付けで呼んでいるところを見れば、そういう関係ではないのかもしれない。

「小学生のある日を境にしてから、中学に入るまでの早苗はとても無気力でね。あんなに元気に飛び跳ねていたのに、ピタリと静かになり、家に籠ることか多くなったんだ」

 そう切り出された瞬間に、梶さんが告白してくれたあの夏の日を思い出した。彼女が一輝と出会った日の遠い記憶。

 岸田君の事故があった夜。僕を必死に鼓舞した梶さんだけれど、一輝のことがあってから同じように殻に閉じこもってしまったのだろうか。彼女が落ち込んでいる姿は上手く想像ができなくて、僕はお兄さんの話を他人事みたいに聞いていた。

「僕は外に出るよりも家にいることが好きだったから、そんな早苗のそばにいることが多くなった。ただ、元気がなくなった早苗にどんな言葉をかけたらいいのか少しもわからなくてね。とにかく自分が興味を持っているものをどんどん勧めたんだ。入学祝に買ってもらった図鑑の全集を毎日一緒に見て、綺麗な花や不思議な虫について話したこともあるし。毎月一冊ずつ買って貰っていた絵本を、読み聞かせたこともあった。父に頼んで大きな図書館に行ったこともあったし、切手の博物館や郷土資料館にも行ったな。とにかく早苗が何かしらに興味を持って、以前のように明るく笑い、話をしてくれないかと必死だったよ。そのうちにポーランドで働いている叔母が、休みを利用して遊びに来ないかと声をかけてくれてね。海外に行くなんて思ってもみないことに、僕たちはとても不安になったし、両親から離れて遠く知らない地へ行くことが怖かったな。けれど、行ってしまえばとても楽しくてね。不安や恐怖を覚えていたことなんて、あっという間に忘れてしまったよ。見たことのない景色や、聞いたことのない言葉。馴染みのないクラシック音楽に口にしたことのない食べ物。それは、僕たち兄妹を一瞬で虜にしたんだ。僕も早苗も、ポーランドという国に一気に魅了された」

 お兄さんは世間話をするように、のんびりと昔話を語る。

 今の話から、あの夏の日を境に梶さんが落ち込んでしまったのだろうということは理解できた。お兄さんが梶さんを元気づけようとしていた努力も知った。でも、あの日彼女に何があったのか。どんな気持ちで僕の手を握り、慰めてくれたのかまでは聞いていないだろう。彼女のことを理解できるのは、あの日の出来事を共有し、涙を見せあった僕たちだけなんだ。どんなに血の繋がりがあって、お兄さんが梶さんのことを考え思っていたとしても、あの日抱えた言葉にできない感情を理解し合うことはできない。僕と梶さんの中に、入ってくることなんてできない。お兄さんが話す梶さんの過去は、正に過去の出来事でしかなくて。実際に一輝と過ごした梶さんと僕の気持ちなど、お兄さんにはわかるはずがない。

 梶さんが落ち込んでいた過去の出来事を穏やかな表情のまま話すお兄さんの言葉は、身内だからこその気遣いはあっても、それ以上踏み込むことのできない領域があることを知らない。そこには滑稽さがあると、僕は勝手に心の距離をおいていた。

 それよりも、兎に角梶さんを見つけ出し、彼女が日本を離れてしまう前にどうしても会って話したくて、少しずつ焦りと苛立ちが募っていた。

 僕の心境など知る由もないお兄さんは、淡々と話しを続ける。

「物静かになってしまった早苗が、ポーランドを訪れてからまた少しずつ快活になっていったんだ。日本に戻ってから図書館に行き、絵画展や写真展を観に行くこともあったけれど、それ以上に外に出て体を動かすことを好み始めた。一緒に居られる時間は減ったけれど、僕はとてもほっとしたよ。いつも元気に笑っていた早苗が、少しずつ戻って来てくれたことに、ほっとしていたんだ」

 梶さんの行方を知りたい僕は、お兄さんの話を聞きながらも視界に入る通りに視線を向けていた。もしかしたら、雑貨屋に顔を出しにくるかもしれない。このSAKURAにだってやってくるかもしれない。話半分のように昔語りを聞きながら、通りを気にしつつチラチラと自分の腕時計の時刻に視線をやっていた。

 こんな風にしている間にも、彼女はポーランドへ発つ準備をしているかもしれない。もしかしたら隣の部屋はすでに空っぽで、彼女自身も空港に向かっている途中なのかもしれない。そう考えると居てもたってもいられず、焦りばかりが募った。その焦りが膨れ上がり、昔話に付き合いきれないと思った時だった。

「あの夏のこと。僕も知っているよ」

 かけられた言葉に、心臓が大きく鼓動を打った。思いがけずドアを勢いよく開けられた時のように、驚き過ぎて時間が止まったようだった。

 完全に油断していた。突然の告白に、一瞬で嫌な汗が噴き出てくる。あの日のことを知っているのは、僕と梶さんと。そして、梶さんのお祖母ちゃんだけだと思っていた。理由もわからず殻に閉じこもってしまった梶さんが、立ち直るまでの昔話を聞かされているだけだと思い込んでいた。

 さっきまで穏やかに話していたお兄さんが、今どんな顔をして僕のことを見ているのか知ることが怖くて、腕時計に向けたままの視線を戻すことができない。梶さんが引きこもるようになった原因が、僕に関係があると責めている気がして顔を上げられない。

 お前のせいだ! 今にもそう罵声を浴びせられるんじゃないかと、僕はビクビクとしていた。あんなに誰も僕を責めずに辛いなんて零していながら、突然突き付けられた現実に、僕の心は震えあがっていた。誰も僕を責めなかったあの夏。僕自身が自分を責め、罪悪感に涙さえ流さなかったあの夏の出来事を、目の前のお兄さんも知っていた。

 ジワジワと追いつめられるような感覚が、僕を窮屈な狭い部屋へと閉じ込めようとする。今からでも遅くない。その身をもって責任をとれ! そう言われている気がして血の気が引いていく。

「君に会ったと聞いた時。僕は正直、とても動揺したよ」

 再び口を開いたお兄さんの声に、体がビクリと反応した。この世の終わりがきたように、逃げられない現実を突きつけられるのだと生きた心地がしない。呼吸がうまくできなくなりそうな中、お兄さんの話を黙って聞くしかできない。
「祖母から聞いていたあの夏の出来事をまた目の前に突きつけられて、すっかり消えたと思っていた傷からまた血を流してしまうんじゃないかって。あの頃の引きこもるように静かになってしまった早苗の姿が頭を過った僕は、すぐにでもポーランドから駆け付けようとしたくらいだ。けれど、早苗にも止められたし、理由をよく知らない叔母にも止められたよ。過保護すぎるって」

 お兄さんは息を小さく吐くようにして口元をほんの少し歪める。うまく視線を合わせられない僕の体は、凍えるような恐怖にカタカタと震えていた。

「早苗は根が真面目だから、とても周りに気を遣うんだ」

 一呼吸置くように一旦言葉を止めると、お兄さんは僕の名前を優しく呟いた。

「樹君」

 呟いた声は悲しげで、寂しそうで。さっきまで感じていた恐怖をやわらげた。僕は、ゆっくりと視線を上げる。

「君もきっと、そうなんだろうね」

 まるで自分があの時のあの場所にいたかのような、とてもつらそうな表情が僕のことを見ていた。

「再び君に会えたことで、早苗はまた変わったよ。周囲を気にかけるだけじゃなくて、ちゃんと自分のことにも気を遣い、優しくできるようになった。生傷になるどころか、骨折した箇所が強くなるみたいに、もっと前向きになったし。自分のことを好きになったみたいなんだ。自分を好きになり優しくできるっていうのは、とても大切なことだと思うんだよ。厳しくし過ぎているのを見ていると、いつかポキッと折れてしまうんじゃないかって、見ているこっちの方が辛くなってしまうからね」

 お兄さんは、とても穏やかな表情で僕を見ていた。そして、切なげだけれど、温かみのある優しい顔で言った。

「君も。ずっと肩に力を入れて、頑張って生きてきたんだね」

 瞬間、自分でも驚いたくらいに大きな涙が一粒零れ落ちた。テーブルを濡らした雫に慌てた僕は、近くにあった紙ナプキンを引き抜き、ゴシゴシとこする。何度も何度もこすり、そこに消せない汚れが付着したようにこすり続けた。

「君も、もういいんじゃないかな」

 かけられた言葉は、僕の中に長年絡み続け居座っていた呪縛を、丁寧に解いていくようだった。

「もう、いいんだよ」

 僕の涙は再びテーブルを濡らしたけれど、そのままでいいというように、お兄さんは僕に向かって優しく頷いた。

 こんな風に元気づけるよう諭されてしまうなんて思いもしなかった。僕の涙は、この兄妹に操られてでもいるみたいだ。

 子供みたいに袖口で涙を拭う僕を急かせるでもなく。お兄さんは、僕の気持ちが落ち着くまで、穏やかな空気を纏わせ待ってくれている。涙を止めようとすればするほど、次々とあふれてくる涙は、まるであの日に我慢してきた感情をここぞとばかりに流しているみたいだった。