結城はSAKURAの甲板を軽快な足取りで降りると、さっそく道路を渡り梶さんの店に向かった。渋々ながらついていく僕は、梶さんが留守にしていてくれないだろうかという、とてもありえないことを願っていた。

 首を伸ばして中をのぞき込むようにしながら、結城が店に足を踏み入れる。僕はそのうしろで、このあとどんなことが起きてしまうのかとビクビクしていた。

「いらっしゃいませ」

 僕が一度だって聞いたことのない明るい声が、結城に向かってかけられた。そして、背後霊のように気配さえ残念な僕が後ろにいることに気が付いた梶さんが、一瞬だけ眉間にしわを寄せる。その後はすぐに営業スマイルを浮かべ、ゆっくり見て行ってくださいねとまた結城にだけ声をかけた。背後にいる僕には眉間のしわ一つだけだったことが、秋風のように心をカサつかせた。

 物珍し気に店内にある商品を見て歩く結城を遠巻きにし、僕は入ってすぐの場所で立ち止まっていた。これ以上中に入ったら、あの眉間のしわが一瞬ではなく、永久に向けられてしまいそうな気がしたからだ。

 近くにあったペンを手に取り眺める。試し書きに置かれていたメモ用紙に文字を滑らせてみたけれど、書き心地は普通だった。万年筆のパーカーやモンブランなどのレベルを期待していたわけではないけれど。日本の文房具が優れているということがよく分かる。いや、そもそも書き心地どうこうではないのかもしれない。可愛らしさやデザイン性が売りで、不通に書ければ充分なのだろう。

「お買い上げですか」

 店の奥に行ってしまった結城のことを気にもせず、好きな文房具のことを考えていたらいつの間にか梶さんがそばにいた。
 驚いて、持っているペンを落としそうになる。

「慌てなくても大丈夫ですよ。落としたら、買ってもらうので」

 能面のような薄い笑みを向けられて、震えあがりそうだ。

 そもそも、顔が整っている人が上辺の笑みを浮かべると、空恐ろしい雰囲気が醸し出されるのだ。お願いだから、僕に向かってその笑顔はやめてください。

「少しは、反省しましたか」

 梶さんの能面にビクついていると、思わぬことを言われた。

「はん、せい?」

 何のことを言っているのか解らず、語尾が上がった僕の言葉を聞いて、さっき見た眉間のしわが復活した。
 しまった。

 慌てた僕は、一体何をやらかしたかもわからないけれど。多分、酔って泥酔した歓迎会の日のことだろうと考え、まずは謝罪しようと口を開いた。

「えっと。何かご迷惑をかけたようですよね。すみませんでした」

 梶さんに対する迷惑行為に何一つ思い当たらないというのに、とにかく謝らなければと頭を下げる。そんな僕の行動を見て眉間のしわはそのままに、探るような目を向けられた。

「憶えてないの」

 鋭い視線と共に問い詰める表情は、まるで尋問されているみたいだ。そのうえ、厭きれたような溜息も付け加えられてしまった。僕が梶さんに対して、どんな迷惑行為を働いたのかはわからないけれど。これだけ怒っているのだから、相当なことをしたに違いない。

「ごめんなさい。会社の歓迎会で飲み過ぎて、記憶がなくて」

 ぼそぼそとした言い訳を口にすると、再び深いため息を吐かれてしまった。完璧に厭きれられてしまっている。

 このままでは嫌われて、二度と口さえ聞いてもらえなくなってしまうと、焦りに変な汗が浮いてくる。けれど、何をどう言えばいいのか言葉が見つからず、頭ごなしに叱られた子供みたいに委縮していた。

「おーい、深沢。これよくないか」

 そこで結城が声をかけながら、何やら手に持ちやってきた。その瞬間、緊迫していた空気に風が吹いて流れが変わる。

「見ろよ。このマグカップ。女の子が好きそうじゃね」

 結城が手にしてきたのは、前回僕が買わされたものと似た柄のマグカップだった。一つ一つ手描きだから、全く同じではないけれど。ほぼほぼ一緒だ。

「女の子が家に来た時に、これにコーヒーを淹れて出したら、いい話題にもなるだろ?」

 意気揚々と話す結城を、さっきまで鋭い視線で僕を睨み厭きれてしまっていた梶さんが微笑みながら眺めている。ピンと張りつめていた空気に緩みが生じて少しばかりほっとしたけれど、僕には到底向けて貰えない梶さんの微笑みを向けられている結城に嫉妬してしまう。

「買うのか」

 梶さんの微笑みを独占した結城に、素っ気なく訊ねた。

「ペアでな」

 お前が女の子とペアで使おうとしているそのマグカップは、僕ともペアになるんだぞということは黙っておくことにした。なぜなら、僕がたった今発令した梶さん独占禁止法に触れたからだ。

 二つのマグカップを手にした結城と梶さんがレジへ向かう。レジ前で何やら楽しそうに会話する二人を羨むように眺めた。

 歓迎会でしこたま飲んで酔いつぶれたりしなければ、僕だってきっとあんな風に会話することができたはずなんだ。

 ウジウジとあの日の出来事を呪ったところで、時間が戻ることはない。たらればを持ち出したところで、何の解決にもならないのは解っているから、僕は結局ガクリと肩を落とすことしかできない。

 話が途中で遮られ、置き去り感の強い僕だけれど、再びその話に戻すこともできないままマグカップを購入した結城と共に梶さんの店をあとにした。外に出ると相変わらずの快晴だというのに、梶さんに吐かれた深いため息が僕の心の中に何度も空っ風を吹かせた。

 再び駅方面に向かった僕たちは、結城の提案で娯楽施設に行くことにした。羽目を外すと言っていたわりには健全な遊び場だ。久しぶりにボーリングがしたいという結城に付き合い、何故かオンラインで関西のご老人チームと対戦することになった。張り切って挑んだ僕と結城だが、三ゲーム中三ゲーム共ものの見事に惨敗だった。伊達に充実した老後を過ごしていない。その後同じ施設内にあるカラオケに行き、重いボーリングの玉にやられた右腕をプルプルと震わせながらマイクを握り二時間ほど熱唱した。

「深沢って、歌は上手いのな」

 なぜか上から目線で結城に褒められ、ミスチルの曲を何度も歌わされた。散々騒いだあとは、駅前にあるチェーン店の安い居酒屋に向かった。

「腹減ったな」

 テーブル席でメニューを広げ、料理を注文しビールで喉を潤す。苦みと炭酸の刺激に顔を顰めながら、今日一日でかなり散財してしまったなと、心許ない財布の中身に思いを馳せる。四杯目のジョッキ辺りで、結城の酔いが回ってきていることを気遣い、帰らなくても平気なのかと訊ねると、だらしなく酔った目がニタニタと垂れ下がった。

「帰るわけないじゃん。俺、今日は深沢んちに泊まる予定だし」
「えっ?」

 語尾を伸ばして言った結城は「家に帰ってからも飲むからな」ととても楽しそうな笑みを向けるから、つられて僕も頬が緩んでしまった。

 どうせ明日も休みだ。居酒屋から宅飲みの二次会くらいなら、羽目を外すにしても問題ないだろう。財布の中身については、折角楽しい時間を過ごしているのだから、今は考えないようにする。

 結城という男は、そこそこ嫌味臭いことや感じの悪いことを言っているはずなのに、相手をあまり嫌な気分にさせないという特殊スキルを持ち合わせているようだ。懐にするりと入り込み、相手の気分を上手に盛り上げる。ペットみたいに人懐っこさかがあるものだから仕方ないなぁ、なんて許してしまいたくなるのだ。なんて羨ましいキャラだ。

 途中商店街にある酒屋で缶ビールを仕入れ。増田さんのところで摘まみになる揚げ物を買い。並びにある焼き鳥屋でも焼き鳥を買い。どんだけ食うんだよ、という僕の突込みも無視した結城が、俺が出すから遠慮するなと、他の店でもあれもこれもと山ほど買い込み満足そうにしていた。

 酔った結城を連れて部屋に戻り、宅飲みが始まった。因みに、増田さんからは「若いっていいねぇ」なんていう言葉を貰っていた。

 酔った勢いで、買ってきた缶ビールやつまみをドサリと勢い良くテーブルに置いた結城は、部屋の隅に置かれているケージに目を止めた。

「おっ。なんか飼ってんのか。さすが動物学者」

 どうやら僕は、いつの間にか動物学者を目指す人間から、動物学者そのものに昇進したようだ。

 結城は匍匐前進のようにうつぶせになったままズリズリとケージに近寄ると、しげしげと中を覗いて首を傾げている。

「なー、深沢。冬眠でもしてんのか? なんもいねぇぞ」

 それはそうだ。マシロは、僕の不注意で逃げ出してしまったのだから。

「……うん。いなくなったんだ」

 言葉少なに返すと、ムクリと起き上がった結城が僕の顔をまじまじと見てきた。何か言うのかとしばらく待っていると、結城は探るようにしてしばらく僕を見続ける。そうしてから、漸くというように口を開いた。

「まるで、同棲中の彼女にでも逃げられたみてーな顔してんな」

 やっと話しだしたと思ったら、こんなセリフ。

 彼女に逃げられるよりも、マシロがいなくなってしまったことの方がずっとつらい。とは言えず、曖昧な顔をして取り皿やグラスを用意した。とはいえ、同棲など経験したこともなければ、彼女に突然逃げられたという経験もないのだから、どちらがどうとは言い難いのだけれど。

 酔った勢いのままグラスにビールを注いだ結城は、溢れんばかりに泡立ったビールをズズズズと吸い、口の周りに泡をくっつけている。その後、部屋をきょろきょろと観察すると、ベッド傍に置いてある写真立てに気がついた。

「おっ。兄弟か。そっくりじゃん。深沢って、双子なのか?」

 幼い一輝と並んで写る姿を見た結城に、返事もせず曖昧なかおをしてしまう。けれど、結城は写真を見たままだったから僕の表情には気づかない。

「お前の誠実さがよく出てるよ。兄弟の写真なんて、普通は飾らないだろう」

 一輝との姿を眺めたあと、結城はローテーブルの前に胡坐をかいて座り、グラスを用意していた僕を窺い見た。何か訊ねたそうな表情に、写真立てをどこかにしまっておけばよかったと後悔した。確かに、社会人男性が兄弟の写真を飾っているなんてないだろうな。だけど、僕は普通じゃない。自ら普通でいられなくしてしまったんだ。

 結城に一輝のことを訊かれても、今は応えられる気分じゃない。これ以上触れられないようにと視線を逸らし、用意したグラスにビールを注いだ。僕の様子をじっと観察でもするみたいにして見ていた結城は、テーブルを挟んだ目の前で胡坐をかいたまま背筋を伸ばした。

「深沢はさ。なんつーか、壁があんだよな」
「壁?」

 伸ばした背筋を少しだけ丸めると、買ってきた焼き鳥を一本手にして齧り付く。むしゃむしゃと噛んで飲み込むと、唐揚げの袋を破りザザッと皿にあけた。

「影があるって言えば、ちょっとダンディズムを感じなくもないが。深沢の場合は、単に暗いだけなんだよ」

 ズバッと切り裂くような言い方をしたあと、体の力を抜くみたいにふわっとした表情を向けてきた。

「まー。たかだか二十年ちょっと生きてきただけで、なんも知らない俺だけどさ。話聞くことくらいできるんだよ、これが。すげーだろ?」

 語尾を少しだけふざけた調子にすると、僕の取り皿に唐揚げを摘まんでおいた。

「俺だって、いつも女の子のことばっか考えて、仕事の愚痴ばっか言ってるわけじゃないんだぜ」

 結城のまなざしは優しくて。僕の周りにいる人たちの温かさにまた一つ気づき、心が苦しくなっていく。こんな風に優しくされる権利なんて、僕にあるのだろうか。目の前で命を閉じようとした弟に何もできず見捨ててしまった僕に、気遣う言葉をかけてもらう資格などあるのだろうか。

 結城。僕は大事な弟一人を助けることもできなかった、どうしようもない人間なんだよ。残念だなんて言われているよりも、もっとずっとどうしようもない奴なんだ。心に蟠る感情を吐露出来たなら、どれほど楽になるだろう。けれど、そうしてはいけないんだ。僕が生きていること自体罪なのだから、楽になるなんてしちゃいけないんだ。

 結城は多くを語らず、ただ優しい表情を僕にくれた。なんでも話せばいいというように、広い心で受け止めてくれようとしている。けれど、結局僕は何も語ることなく口を結んでしまう。結城が、ほんのちょっと切ない目を向けて缶ビールを煽った。