夢だった。だからもうこの人を見ることも、そしてあの笑顔を見ることも二度とない。あの夕方を告げるために傾き、オレンジに染まって青の背景を一瞬でオレンジに変えてしまう夕陽。それをバックに、床一面に広がる多彩の色をそれぞれ染み込ませた花たちが集う花畑。そこにポツンと一人で夕陽を見る彼女の姿。僕は彼女を無作為に見つめてしまう。訳もわからずに見つめてしまう。僕がいることに気づいた彼女はこちらに顔を向ける。その顔にはやはり僕を惹きつける何かがあった。満面の笑顔。ただもう僕は……
 
 彼女に会うことはできない

 ー
 世の学生は人を二つに分ける。陽キャと陰キャ。それは絶対権力の参考になるとても重要な資格だ。陽キャになればしたいことはほぼなんでも叶い、失敗も責められることなくただいつも能天気に過ごすことができる学校生活を送ることができる。
 あいにく僕はそれを持ち合わせていない。だからクラスの奴からは基本的に影の薄い存在、いやほぼ影と同化した存在に見られているだろう。
 こんなことを毎日自発的に思ったり考えてしまうのが陰キャだ。
 そしてこの絶対権力を背景にある風潮が小中と続き高校でも起きている。いじめ。陽キャは必ずしも誰かの上に立ちたいという特徴があるのだ。
 'こいつには確実に上だ'
 '俺はこいつより何もかも優れている人間だ'
 そしていじめが生まれるんだ。そしてその標的になりやすいのは陰キャ。彼は誰よりも比較的にそれに当たりやすい。標的というロシアンルーレットに高確率で当たるやつはほぼ顔ぶれは変わらない。
 陽キャが上で陰キャがした。そんな制度はどこから訪れたのだ。そもそもさ……、
 「人間って変わんないんだな」
 僕はさっきまでそれに遭遇して今数学のノートを1ページずつシワだらけにされ、表紙も黒い靴の跡が残って、最終的に教室のゴミ箱に捨てられて。今僕は捨てられたノートを拾い上げる。
 これはもうノートという原型をしていなくて、このゴミ箱にもう放置しても良いように思えてくるが同時に怒りが込み上げてくる。体の奥底からではない。何度も何度も、僕はこれ以上でこれと等しくてこれよりちょっと優しい扱いに晒された。
 こんなことをされても優しいと例えてしまう僕はなんなのだろう。優しくなんかないのに、けれど優しいって。
 時にはくつがゴミ箱にあったり、画鋲がいっぱい入っていたり、筆箱がなくなっていたり、わざとぶつかってきて、わざと踏まれて、机に落書きされて。
「死にたい……………………」
 本当は言いたくないのに、まだ生きていたいのに、僕の心はもう頭と繋がっていないのだろうか。思っていることと違うことを口にしてしまったりしてしまう。
 逆だった。心と頭はしっかりと繋がっていた。それも以前より結束力が高まっている。
 自分の席へ移り席に着くと頭痛が急に襲ってきたから痛みを抑えようと僕は机に頭を打ち続ける。
 "死ね"
 "バカ"
 "キモい"
 黒で書かれた文字が毎度大きくなって少し気持ちが良くて痛い思いをすると小さくなって、そしてまた大きくなって。それの繰り返しを僕は今何度も何度もしている。
 驚いたことがあって、頭を机に打ち続けているのにも関わらず音がしない。唯一する音があってそれが机がズレる時にするガチャンという音。これは何度も何度も耳に入ってくる。
 こう何度も打ち続けていると痛みもなくなるんだな。ズキズキと一般的な痛みは打ち続けている今でも感じないし、ただヒリヒリと痒くなるだけ。血もおでこに回っているのかわからないぐらいに感覚もしだいにはなくなってきている。
 疲れた。それを良いことに僕は机に突っ伏して寝てしまった。無駄な行動で体が根を上げたのだろうか。意識が何処かへ飛んでいく。
 ・
 なんだか暖かい、なんだかポカポカする。そして誰かの声が聞こえる。目をゆっくりと開くとそこには遊園地で見るような入り口が目の前にあった。どこかの王国のようなどっしりと構えた門は外側から見ると立派でけどどこか怖さがある。門は綺麗な白色をしている。けれど目覚めたばっかでぼんやりとした目は綺麗でカラフルな色をしている一つの箇所を留めた。徐々に視覚を取り戻すとそれは花だった。白い柱のそばに花壇があり花が植えられている。
 心が躍っている。心拍数が上がっているのだろうか、心臓の鼓動が速さを増し血流が良くなっている気がする。この建物に興味が湧いてきた体、そしてそれは頭の思考回路へと伝染する。
 一歩また一歩と足が進む。幼い時に家族で一回旅行で行った遊園地の記憶が蘇ってくるようだ。あの時の入る前のワクワクというここに入って何ができて、何が僕を笑わせてくれるのだろうという気分に今なっている。
 受付と思われる所に到着した。受付には一人の若い女性の姿があった。
「ようこそ華広場へ」
 聞き覚えがある声はさっき目覚める前に耳にした声だった。けれどこの遠い距離、僕が横たわっていた所となかなか距離があった。アナウンスだろうか。本当に遊園地みたいだ。
「華広場ってなんですか?」
 おそらくここの遊園地の名前なのだろう。
「『華広場』とは出会いの場です。園内のお客様たちと自由に話したりできますよ」
 出会いの場と聞いてネットを咄嗟に思い浮かべた。最近巷で聞くネッ友とかネット恋愛とか、それらに近いのだろう。それでも僕にはまったく無知の世界だ。
 寒気と恐怖が僕を突如襲った。背中に走る何か良からぬものは一体なんなのだろうか。しかもそれは今体中あちこちと走り回っている。恐ろしく怖いのだ。
 僕はあることを思い出した。
「僕はなぜここにいるのでしょうか」
 さっきまで教室で頭を打ち続けていた。皆が帰った放課後だったから誰も教室なんかにはいなかった。誰かの仕業とかも考えにくい。
「あなたはこの遊園地の社長による抽選で選ばれたのです。それはとても光栄のことなのです」
 淡々と受付の女性は話す。
「ここはどこですか」
 周りにこんなテーマパークはない。いや似たようなものが近くにあるがそれとこれはまた違うような気がした。よくテレビでそこはとても人気のある遊園地故大勢の人がいて、どこを見ても人だかりができていた。それなのに今この場には僕とそして受付の女性の計二人しか見られない。
 静かで風の吹いていないこの空間に吹いていない風が風自体が存在を消すかのように吹いた。
 僕は都市部に住んでいるからこんな遊園地があるとしたら今すぐにでもたくさんの女子高校生やたくさんの大学生がいるはずだ。それなのにそんな人が誰一人としていない。
「夢です」
 またしても受付の女性は言った。冷静にはっきりと聞き取りやすかった。
「僕は夢を見ているのか」
「はい。あなたは今夢を見ています」
 夢を見てこれは夢ですと思うことは今までなかった。目が覚めて今のは夢だったと思うことはありったけあるが見ているときにこれは夢なんてこれが初めてで、不思議な気分にさせられた。
「帰りたい」
 今はそれだけだった。
「ええ、帰ることはできます。しかしお客さんはまたここに来る羽目になることを忘れないでください。その時に来場するということで手続きをしておきます」
 これだけ長いのに一つも噛まずに言い切ったと感心している場合ではない。帰ることはできるのにここにまた来なくてはいけない。
「どうしてまたここに来ないといけないの」
 返事は早かった。
「あなたが候補に選ばれた理由があります。いろいろ理由があるのですが一つの理由が実現する確率がどれよりも高い数値を誇っていました」
 抽選に選ばれるためにも候補を選抜されるようで、そこに僕はあるものがずば抜けてたみたいでよってその後その社長に抽選で来るのが決定した。
「あなたは自殺をするという確率がどれよりも高く90%を裕に越えていました」
 これを聞いてカチンと怒りとイラつきが生まれたのがわかった。右手を握りしめ、またそこに力が入った。体全体の体重が今だけこの拳に集める謎の感覚だ。
「何が原因だ。いじめか、なんなんだよ。何が原因だよ」
 自分でも驚くくらいの声を出していた。
 夢なら覚めてくれ。強く握りしめた右手の拳を自分の頬に思いっきり殴りつけた。
 ・
 椅子から転げ落ちた。右の頬が痛む……………。

 寝る前までに時間は進んだ。お風呂も終わってあとは寝るだけ。寝るのに恐怖を覚えるのだ。学校で見たあれは一体なんなのかとあれから考えない時はなかった。また行かないといけないのなら今寝て僕はまたあそこへ行くことになるのだろう。
 '寝るべきか寝るのを我慢するべきか'
 そんな選択肢を上げたが結局寝ないといけないのだ。明日は学校があるし、寝坊なんてもってのほかだ。
 僕はやむを得ず嫌々ベッドに入り眠りに入った。それは深い深い睡眠だ。
 ・
 目の前には先ほど見た受付の女性がいた。場所は僕が最初に来た時に横たわっていた場所。
「受付はしなくていいのか」
「あなたが来たからここに来たのでしょう」
 言う事一つ一つに棘がある。しかもそれがグサグサと僕の心に刺さる。浅いのだがしっかりと損傷はあるようなかすり傷でも痛いと思うやつに近い。
「何をすればいい」
 ここに来ることがないかもしれないと期待を寄せたけどダメだったようだ。
「ええ、あそこにある門から普通にお入りください。それからはほぼ自由な空間です」
 なんの説明だ。それぐらいならとっとと言ってもらえれば良いのにあの人はやはりよくわからない。あんな人が現実にいなくてよかったと安堵の息を吐く。
 園内に入ると驚く光景を見た。お花畑が周りを覆っている。今は夜と暗いにも関わらず赤、青、黄色、紫とまだまだいろんな色の照明が丁度いい具合の明るさでたくさんの花を照らしている。どこか閉まっている自分の心が少し開いて息がしやすくなった気がする。周りからふんわりとした花のいい香りがする。心が心地良く微細に震え、目が少し湿っぽくなる。
 やはり僕はこの光景を前にして何か吹っ切れたみたいだ。
 深く深呼吸をした。新鮮な空気が体の隅々までに回る。
 周りを少し散策することにした。せっかく来たんだから精一杯楽しもう。ここは何にも縛られない自由な場所で今自分がどこよりも落ち着ける場所。
 僕は近くにあったベンチに少し腰がけることにした。こんなに高揚とした気分になったのはいつぶりだろうか。歩いている時に込み上げてくる何かで僕はテンションが上がっていた。ここまでの状態になったのは本当に久しかったから端的に表すことだって本当に久しい。
 ベンチでそれを少し落ち着かせいつもの自分に徐々に戻っていく。戻りたくない気持ちもあるが自分が自分じゃないような気がこれでもかっていうぐらいして気持ち悪いとも思えてくる。
 黒い影が見えた時に僕はやっといつもの正常に戻った。ただそれと同時にとてつもない恐怖があった。足が地面にしっかりついているのに足の裏から震えが出ている感覚。そしてゆっくりと忍び寄る黒い影と背中から体全体を覆うように寒気が漂ってくる。
 黒い影が一瞬にして消えた時の安心感はとてつもなく忘れ難いものだった。忍び寄って来たあの影は瞬きをして姿を消した。
「見間違えだったかー」
「何が」
「えーと、さっき黒い影があったんだけどさ、なんかいきなりなくな……っ…………て………………」
 多分最後の方はもう言葉になってないし口や声帯がビブラートぐらい震えていただろう。僕今誰と喋ったのか。
 後ろを振り向いた。
 顔が白く上の服しか見えないが白い。
 あの井戸から出てくるお化けは確か、白い服を着て、そして顔も白に近かったような。髪は長っかったのは幼いときに読んだ昔話の本に載っていた。
 この女………髪が…………………………長いな…………………。
 
 目を開くと白くて黒い点と赤い三日月がぼんやりと見える。お花畑に設置されている街頭でうっすら見える。黒い点は点じゃなくて弧を描いていた。でも点はこの赤い三日月の近くにあった。二つの三日月に挟まれて黒いのが見える。
 ぼんやりとした視界が治って頭を落とした。体ごと、ベンチの上から落っことしてしばらく僕は何があったのかを再確認した。
「膝枕………」
 見ず知らずの高校生ぐらいの女の子に僕は膝枕をされ寝ていた。その現実を知ると急に顔が赤面したと思う。熱い、顔が今ものすごく熱い。血流が良すぎて死んでしまうのではないか。それを予兆させるぐらい動揺というものを今現在進行形でしている。
 運よく彼女は今寝ているようだ。弧は瞑っている目で三日月は唇。口が少し開いていたのか。整った、美人と言うよりは可愛らしい愛着の湧く顔で髪は長くて。
「あ、さっきの子」
 思い出すことができて、この子は僕がお化けまたは幽霊と見間違えた子だ。
 呟いた声が大きかったのか彼女は目を覚ました。
「うん、おはよう」
 目をこすっている。
「おはよう」
 と返した。
「膝枕どうだった」
 起きるなり彼女はとんでもない質問をしてきた。
「良かったんじゃないかな」
 ちょっとお互い照れたんだと思う。そんな雰囲気が今この場に優しく舞い降りた。
「まさか、君雪女とかじゃないよね」
 何かこの場を繋げようと奮闘した結果ムードを壊したみたいだ。頭が真っ白になる感覚がわかる。
「ひ、ひどい………」
 わざとらしく泣いて、出てもない涙を制服の袖で拭って、彼女と居心地の良い時間が流れそうかもしれない。
「自己紹介でもしようよ」
 彼女からの提案だ。何もわからないお互いのことを知るためか、それとも会話を続かせようとするためかは今はどうでも良かった。
 佐山香澄。僕と同じ高校一年生と聞いて少し警戒心が薄れたみたいでこの場はまた安全のように僕を惑わせる。部活は無所属のようで勉強ばっかりしている。僕が知る女子とは段違いに違った。
「雪男君の番」
「僕は雪男じゃないです」
「私も雪女じゃありません」
 彼女は常に笑顔だった。
「田中山渉です。香澄さんと同じ高校一年生です。そして部活も香澄さんと同じです。勉強は毎日二時間を規則正しくしようと心がけています」
 静かな夜。僕たちはたわいのない会話で盛り上がった。
 ・
 目が覚めた。香澄さんとあれから静かでけど楽しくて、そんな時を楽しんだ。

 通学路はあまりにも無惨な地獄ロードだ。一歩一歩が本当に重いのにいつの間にか時間が経っていて学校についている。
 '学校に行きたくない'
 これを呟いたり思ったりしたら僕の負けである。これをしようものなら奴らに負けを認めたとしてさらにいじめが加速するはずなのだから。
 始まりを知らせる開始の幕はすぐさま下ろされた。
「靴に画鋲が刺してある」
 僕の下駄箱のロッカーは何者かに開かれていた。そしてそこに密集する人だかり。とても騒がしく感じる。しかもそれは間違えなく僕に関係があるとわかってしまうとそれはやけに騒々しい。
「すみません、どいてください」
 なんとかこの集団を手で払いのけ掻き分け自分のロッカーへと辿りついた。心がざわつき始めた。
 'いつものことだ'
 そう自分に言い聞かせるがあまりにも無様な物を、またそれは紛れもなく自分のものであると改めて知ると心の中身を晒し台に晒されとても恥ずかしく、申し訳なく、孤独という自分を妙に湧きただせてくる。
「これはお前の靴なのか」
 そんな声が聞こえたがたまたま耳に入らなかった、自分は耳が不自由なんだというキャラを演じその場を掻い潜り抜けた。
 唯一の救いはその場に奴らと仲の良い人が誰一人としていなかったこと。
 教室に着きドアを開けると入る前の空気がかなり一変した。楽しい会話で盛り上がっていたのだろうか、それとも教室内でトランプとかして遊んでいたのだろうか。僕が教室に入るなりそれは沈黙でそれは無言中止となっていく。
 皆から冷たい視線が送られて来たからか少し肌寒い。日がよく入る部屋なのに気温もいつもと変わらず比較的温暖なのに。それでも今は寒かった。
 やっとの思いで机に着いたものの案の定机には釘が刺さっていた。一本二本とかそんな数えることのできる数ではない。けれどもう既に慣れていた。なのにこの場に人が集結するとどこかへと追いやられたようで、見苦しい思いを勝手にしてしまう。
「何これ何これ」
 スマホを片手に僕の机を写す海二。彼が奴らのリーダー格だ。スマホの裏側を僕の机に堂々と向けているから動画を撮っているようだ。
「学校の物はしっかり使わないといけないよ」
 そう言って動画の赤い丸のボタンを押して動画を終わらした。彼の顔は今にも誰かを襲おうとしている。間違えなく狙いは僕だった。
 机に蹴りをいれた。ほんの一瞬の出来事だ。蹴られた釘の刺さった机は僕を襲った。見た目よりもこれは重く僕の体にドッシリと乗った。チクチクと背中が痛く釘が乗っかったのだろう。
「間抜けが」
 海二はそう言うなり動画を撮り始めようとしているのかスマホを開いた。机を起こして動画の赤いボタンを押す。
「この子を助け先生の雷から守ります。この釘刺しの机をもとの机に戻していきます」
 彼はニコニコと頬が膨らんでいて目も少し垂れて幸せそうな笑顔をしていた。釘抜きを片手に一本ずつ丁寧に釘を抜いていく。
 周りには男の奴らが毎回のごとく集まっていた。今にも笑いを出そうとしていて、笑っている人もいた。無関係の奴らは決してこちらを見ようとはしなかった。最初の頃はそれがまた新しいいじめのようで心を抉ってきたが今となってそれは救いでどこか心が安定してしまう自分がいるのだ。それが正解なのだ。周りはこんなのに巻き込まれたくない、自分が自分でいれるのならと誰しもが自分優先。
 'それでいい。彼ら彼女らは何も間違えていない'
 自分も何もできなかった。机を起こされてなお今も横になっている自分はケラケラと笑いを浮かべて動画を撮りながら問題児を助けている名義で机の釘を抜く。そんな自分が容疑者となっているこの場をいつも通り呆然と見つめるしかなかった。
 
 朝はしっかりと色鮮やかな具材を並べていた弁当の中身は弁当箱の色と同じ色をしていて、黒い自分の筆箱は白い粉を纏って白く染まって、シャー芯はいつもの半分の長さになっていて、教科書は墨塗り教科書になってさらに黒い埃のマークをつけられて。
 今日はまだマシだったと思いながら自分の担当ではない黒板消しをしている放課後。
 奴らに作られた時間だがこの時間は嫌いではなく、やっと心が休まると待ち望んでいた時間に過ぎない。黒板を消し終えて穴だらけの机に座ることにした。オレンジに染まった夕焼けは綺麗な円をしている。
 '僕の心もあんなに綺麗なら良いのに'
 そう呟くと視界は暗く黒かった。
 ・
「おっはよー」
 目を開いて香澄が明るい笑顔を僕に向けて声をかけた。
「あ、あぁ」
「どうしたのー元気ないなー」
「今、僕は香澄さんのテンションについていけない」
「え、なんでなんでー」
 この質問には答えなかった。答えたくなかった。この場では思い出したくなかった。傾いていく夕陽にはまだこの場にいてほしかった。けどもう沈んでしまうんだね。
 ・ 
 家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って、僕は寝た。
 ・
 気がついたら横に香澄がいて、そして今横に並んで歩いている。放課後に来た時と同様の明るい笑顔を彼女はしていた。お互い足並みを揃えてお花畑を散策し、特に今は何も話さず歩いている。誰もいないから恥ずかしいとかはない。
「渉って日頃何してるとかあるの」
「ごろごろ漫画読んだり、気が向いてたら勉強したりかな」
「勉強なんて真面目だね」
「いや当たり前のことだよ」
 僕は成績優秀なわけでも頭が悪いわけでもない。平均以上の点数をいつもテストで取ってはいるが平均と対して差はない。けど高校に入ってテスト前だけの勉強はもはや通じないんだと実感して勉強はやや積極的な姿勢で取り組んではいる程度。良い大学に行きたいとかもあるわけではないし。
「…………………………………………………だからな」
「なんて」
 長々と何か香澄さんは呟いていた。低く小さい声とそれに備えて聞く耳を立てたわけではないから聞き取れなかった。「ううん」と横に首を振って「何もない」と返した。
「学校楽しい?」
 この場に来てふわふわとしていた僕は一瞬で突き落とされた。言うまでも無いのだが………。
「ごめん、何か触れたらだめだった」
 昨日はすぐに過ぎた時間が今日はとてつもなく遅く感じれた。時間は今の自分と香澄さんの空気上何か仕切りが作られたみたいで話しづらかった。
 ゆったりとした時間なんて今日はなかった。
 
 空が黒から橙、そして青になって僕はこの場を去った。
 ・
 目を覚ました。あの空間は僕の居場所を無くした。まるで陣地をどんどんと奪われて、なんだか周りに見張られていたような気さえもした。僕の心と体はそれをやっとの思いで保っていたんだと思ったのは今僕がとてつもなく震えているから。
 何を飲んだ訳でも何をした訳でもないのに。誰かを失ってしまった寂しさともう一つ何かを失った寂しさがある。ただそれが何なのかは見当もつかないくらいに薄かった。

 転んだ。盛大に教室で転んだ。床に当たった膝が赤く腫れて痛い。
「大丈夫か君」
「はい、大丈夫です。ただ床に当たった膝が痛むだけで……」
 その場にいた数学の教師が声を掛けてきた。膝が僕の全体重を乗せて落ちたから想像以上に痛かった。自分が少し成長したとも少し思えた。そんなことを思いながらズボンの裾を捲って足を見る。実は足に二つの違和感があった。
 一つは今も赤く腫れている床にぶつけた膝の部分。じわじわと忍び寄って出てきたり退いて行ったりを繰り返している。
 二つは最初こそわからなかったが周りの人を見て証拠もないただの言いがかりだがこの人しかいない、この人の仕業だとわかった。足から膝までの下腿に赤い痕があった。
 皆の顔を見た時に一人口を緩め目も敵意をギリギリ与えようと意図した形と視線をしていた。
 怒りが勝ったのか膝の痛みは隠れのちに気配を消した。
 
 いつも通りの被害を受けた。親や先生に言えば収まるのだろうか。ただそれはできないし、もう望みもない。
「先生、僕は海二にいじめられています。物を隠されたり、物を壊されたり、殴られたり」
 こう先生に公言したのは学校が独自で設ける面談週間の時。教師と二人きりで話し合う機会があり一般的に次のテストの対策とかどんな事を将来したいかみたいなよくある進学校と大差ない内容。当時我慢しきれなかった僕はついに言った。言った時は心が軽かった。心を無闇に包んでいた泥とかの障害物を一気に取っ払って軽くなったのだろう。解放されたと思わせてくれた。もう僕はあんな惨めな目に遭うことはない。
 そんな事は終わらないと誰かに頼るなんて馬鹿馬鹿しいとその先生は教えてくれた。
 一部始終話した。この時にこんな事をされて、こんな目に遭って。"死ね"って書かれた紙切れも見せた。これは以前机の中に入っていた物だ。これを見た時の海二の顔は笑っていた。誰かに見られないように表現力の小さい笑だったが関係なかったみたい。僕の心は一部崩れ落ち、崩れ落ち空白の部分は冷たく体を萎縮させるぐらいの気温、風力で追い討ちをかけていた。
「そうか。なら今日君のお母さんに電話しておくよ」
 帰って母に聞いたが電話はなかった。僕が返って来る前も後も。端的に先生は電話をしなかった。この結論が正しい。電話履歴に学校からのものがなかった、というのも僕が見ているところで母は誰かと電話をするなんてなかった。てか家に電話はそもそもない。
「先生、母に電話しましたか」
 次の日先生に思い切って確かめた。ちなみにこの前に靴紐が解けていた、机に"死ね"やら"消えろ"と鉛筆のあの黒く輝きを帯びている線がなぞられていた。
「あぁ。したよ」
 この時点で先生はこいつと表して良いと自分は認めた。
「報告ありがとうございます。渉をこれからもよろしくお願いします、だってさ」
 嘘つきに制裁を加えよう。
「家に電話が無いのに先生はどうやって母と連絡したのでしょうか」
 二度とこいつと話すことは無かった。話す時間が無駄な人と僕は認識したから。
 その後、いじめはいつも通り続く。僕は何かしら行動を起こしていじめという波に何かしらの変異を加えたかった。だけどだめだった。僕の行動は無意味に変貌した。
 なら親は……、
 言えるはずが無かった。父は僕が生まれた後間も無く病気で亡くなり記憶がない。母は母自らの手で僕を今まで育てた。忘れられない思い出が山程ある。母は運転免許を持っていない。だから僕が夜遅くに風邪をひいた時は僕を自転車に乗せ病気まで送った。あの時に何度も励ましてくれた。
「もうすぐだから、負けないで、絶対に」
 母は運動が得意ではなくむしろ苦手で、それなのに息を切らし自転車を走らせている時も呼吸が乱れていてつらくても励ましてくれた。
 信号で止まった時は休憩なんてせずにただ僕に優しく温かい顔を向け、僕が安心に包まれた時だ。
 勿論これだけではない。朝早く起きてお弁当を作って、家事も母が自分でしていた。僕が手伝おうとすると'大丈夫よ'と優しく断る。
 だからこそ迷惑はかけれなかった。必死にここまで育ててくれたのに、こんなやつと落胆させたくない。気持ちはわからないがコツコツと毎日築いてきたものが一気に壊れたみたいな感覚なんだろうか。
 今僕は出来る事は我慢だ。
 
 今日も一日散々だった。ただこれが普通と思える僕になりたいと、そんな僕になりたい。
 普通の人の一日が終わった。
 ・
「あのさ、何かあるんなら言ってくれていいんだよ」
 目を開くと香澄さんがいて、お花畑に囲まれたベンチに連れられ座らされた。その横に香澄さんも座って。
「別に何もない」
 お互い目は合わせない。恥ずかしいとかではなく昨日のあの空気が二人でいると思わされてしまうのだろう。
「まさか、いじめじゃないよね」
 僕の心を読むかのようにまさかの質問をしてきて戸惑う。戸惑って香澄さんの方を見てしまった。目が合った。ベンチ横の街灯が香澄さんの瞳を黒い宝石のように輝かせる。
 こんな気持ちで女子と話したことが無かった。だから今はとても不安定で、例えベンチに座っていても足が震えてしまう。
 その震えはなんなのかと考える隙も与えず次は心に何かが射止められた。痛くも痒くも無い。それは心を酔わす薬が塗られていたのだろうか。
「ねー、どうなの」
 香澄の声で我に返った。何度も声を掛けたらしいがそれに僕は気づかなかったみたいだ。
「なんか、私の事ずーっと見てきたよ。照れちゃったなぁ」
「み、見てねーよ」
「本当かな」
「本当だよ」
 香澄の声ってこんなに魅力を感じる声だったか、こんなにふんわりと僕を安心させて包み込んでくれる声だったか。どうしてか、恥ずかしい事はしていないのに緊張と同じ状態で頭が真っ白だ。
 何も考えれず、話に計画性を作れない。思考力を失った頭は口を開かせた。
「ごめん。実はいじめられているんだ俺」
「嘘つき」
 自分が何を言ったのか一瞬わからなくなったが香澄の返答で何を言ったかわかり、なんで言ってしまったのかと自分を叱る。その叱り方は優しく叱っている僕は笑みを浮かべていた。
「何があったの」
 香澄ならと一部始終話した。あの日あいつに言った事と同じこととそれに加えてあいつの事も。まだ遭って三日程しか経っていないのにこの安心とさせてくれる香澄は接しやすい人だ。
 すべて話した。'よく今まで耐えた'と言って僕の頭を撫でてくれた。頬が少し暖かくて、それに褒めてくれた。
 香澄は顎に手を添え考えている。何を考えてくれるのだろうと楽しみに待つ反面考えさせてしまっているのが申し訳なくて自分もすぐに考え始める。
「ねえ」
 香澄が言った。
「高校ってスマホ使えるの」
「使えるけど」
「じゃあ晒してしまいなよ。自分の日常をさ」
 香澄が何を言いたいのか理解できず何回も質問して答えてもらうのループを繰り返して僕はやっと理解ができた。
 スマホを気づかれないように自分に設置して一日を過ごす。それを僕の一日のルーティンと
してネットに投稿する。顔はプライバシーとかあるから声だけという事も付け加えた。
「本当にいいのかな」
 やや心配で僕は聞いた。すると香澄は両手で僕の顔を挟んでグッと動かした。動かされているのは一瞬でどこに行ったのかわからなかった。動かした先は香澄の顔だった。しかも近い。心臓が鼓動を鳴らす。
「渉はね強いよ本当に」
「え、なんで」
 考えてもいなかった返答につい口に疑問を狙いとした言葉を発していてた。それに気づいて咄嗟に口を手で覆い公言を無くそうとするがすでに遅いのはわかっていた。
「私だったらもう泣いてるだろうな。そして現実を見るのが嫌になって逃げるし」
「僕はなかなか逃げれないんだ」
 そうだ、僕は泣くことも逃げることもできない。母への配慮もあるだろうがこの弱い自分認めたくない。欲張ってこれらの両方を恐れている。
「あ、そうだ」
 香澄さんはそう言ったのと同時に僕の腕を取り遊園地の奥へと連れて行く。
 
 花壇が建物のそばに置かれている。僕が香澄さんによって連れらてきたところは都市部に近い街並みで、テーマパークのお土産を売る売店がズラッと並んでいる。ただ僕はもっと奥へ連れて行かれる。
 僕が最終的に連れらて来たところは機械がたくさん置いてある映画館風なところだ。
「ここで何するの」
 思わず聞いてしまう。あの話の続きなのと、香澄さんのことをあまり知らないから何をするのかの予想もつかないからなのかもしれない。ただそんなことを考えたり思うだけで何も解決することはない。それを前々から知っていて聞いた。
 香澄さんを信頼している一つの場面、仕草なのだと薄々思うこともできる。
「復讐よ」
 僕の顔を見ず重苦しい表情を建物を前にして浮かべている。表情のみならず口調もそれに移っていた。前の話からなんとなくの予想はしていた。心構えもその影響でできていた。ただそれは推測と誤算でしかなかったみたいだ。
「どんなことをするの」
 自分の思考が白黒はっきりとして明暗が見えてきた。水で薄められた絵の具が真っ白の紙に広がっていく。ゆっくりとしたスピードで僕の頭に入ってくる。それが良いとこなのか悪いのかはわからない。
「そいつらの夢に入り込むの。そして痛い目を見させるの。渉が今までされてきたいじめの内容をそっくりそのまま返して自分が何をしていたのかを理解させるの」
 いじめを幾度となくされてきて考えたことがある。海二はこのいじめをされたとして僕のようになるのか。それとも怖気つくことなくそいつらの歯向かうのか。
 こうも印象が植え付けられているのだから前者は考えられない。おそらくその失敗は終わるだろう。いつもいじめている雑魚が何かをほざいたところで何か起きるわけでも何かが変わるわけでもない。
 そんなことは前々からわかっている。僕は少しでもと抵抗したことがあるが見事に全部無意味な防衛で、その記録はしっかりと敗北と頭に記憶されている。
 わかっているはずなのに僕は言った。
「いいね、やってやろう」
 これで少しでも何か変わるかもしれないし、行動しないよりはマシなはずだ。
 僕は少しものの見方を変えたようだ。

 アニメに出てくる戦闘機のコアとなる赤や青のランプが点滅する機械が数多く部屋に置かれていて、目を瞑らない限りこれらを視界に入れないというのは不可能で壁、天井、床も機械になっている。
「これに夢があるの」
 香澄は言う。
「今ね、寝ている人が見ている夢をここで管理しているの」
「夢の監視室みたいななのか」
「まぁそうだね」
 調子を変えることなく言う香澄。顔色も変わることがない。
「海二って苗字はなに」
「山本、山本海二です」
 香澄はパソコンを立ち上げキーボードを叩く。この叩く音は聞いていると心が落ち着くというか集中できるというかの気分にしてくれるが今はそんな気分になれなかった。
「こんな顔かな」
 そう言ってパソコンの画面を香澄は見せる。左上にどこからか入手したのだらうかわからないが生徒証用に取られた顔写真と右は上から名前、学校名、誕生日と個人情報が載っている。
「うん、彼で間違えない」
 正真正銘彼は山本海二だ。
 ・
 彼の夢に入って姿だけは見せた。香澄の計画通りに何か仕掛けるのもありだったが体が動かなかった。彼を前にして自分は萎縮してしまったのだ。
 そこから現実の、現代の俺と変わらなかった。変わらずいじめられ、変わらずの成り行き任せの道を辿った。
 耐えれずに僕は香澄の元へと戻り息を落ち着かせた。呼吸は速かった。
「あれは酷いね」
 僕を鼓舞する側で、だから僕を鼓舞するための声かけのはずなのにやや飽きられ気味な口調だった。
「ごめん」
 僕からはただこの一言で、お互いそれに何かを付け加えたりと追求することはなかった。
 ただ言わなかっただけで香澄は何か考えてくれていた。こんな僕のために。
 何かを変えたい。香澄だけに頼っちゃだめだ。
 ただ何も出来なかった。いざとなると頭で言い訳を作って、そして逃げる。実際逃げれずいじめられてしまう。
 今日はいつもより当たりが強いように感じた。殴られた時の拳の力が体に染み込み赤のあざ、青に染まったあざと変わる。
 いつも通りの一日。側から見たらそうにしか見えない。渉が海二にいつも通りに当たられて負けていて。ただ僕は今日勝ったと思ってしまった。
 海二の口から出た一言。
「今日夢でもおまえ殴ってやったぜ」
 ・
「本当なんだね」
 お花畑で香澄に会うなり今日の出来事を言った。勿論海二がポロリと出した一言の事も。
「嘘ついてどうするのよ」
 笑って言う香澄にどこか安心を覚える。だが昨日、夢に入ったのが原因なのか夢に入らなければいいのにこの場は少し不安定な気持ちになってしまう。
 いつもはなかった。これしか考えられない。
「今日は行けるかな」
 ただ'変えろ'とそれだけだった。
「行くに決まっている」

 下駄箱からの始まり。ロッカーを開く。ただ僕は驚いた。
「靴がある」
 話したと言う感覚、言葉を口にした感覚。それらがあってこそやっと目の前の光景に実感したのだ。
 ただそれだけだった。すぐにその靴を手に取り手で触り傷が無いかを確認する。それらがなかったから無駄に心が騒ぐ。
 水面に模様を施さないこの時間とそれを主にする空間は今の僕と僕の周りを囲んでいる。このテリトリーにはだれも入れないのではと。いやだれも入れてはいけない。この水面を守らなくてはならない。
 やはり邪魔者は海二だった。
 玄関近くの階段から男子の集団による合唱が始まる。歌っているわけではない。騒いでいるのだ。'今日の獲物は誰にしよう''今日はどんな罠をしかけよう'と。
 まんまとかかっては決していけない。いつも体験して心にイレズミとなってつけられたようなものだ。消したくても消せない。
 ただ距離は近い。咄嗟だった。自分の横の誰かもわからない下駄箱へ自分の外履きを入れ、自分はその階段とは反対の階段へと向かう。
 '何もありませんように'
 そう願う他なかった。ただ願うしか無い。階段に上がっているのに祈りの意味を込めて手を合わせ目を瞑る。
 '段を踏み外して落っこちたら'なんて考えもしなかった。

 願いはそう簡単に叶わない。
 玄関の上のフロアで待機して、騒がしい集団がいる空間が静かな空間になるタイミングを待つ。この学校は玄関前がロビーで広い場所になっていて、さらに二階まで筒抜けで玄関からの音、声が良く通る。
 静かになった。
 その絶妙なタイミングを逃さずすぐに玄関を目指す。自分の玄関に自分の靴が置いていないのは変な感覚だ。
 下駄箱の扉を開く。特に何もなかった。さっき見た下駄箱となんの変化もなかった。
 勝ったと少し思った。
 "対象の物、または者が無い場合は特に変化は見られない"
 頭の中にある記録ノートに記す。
  
 次の日、香澄といろいろ話して決めたこと。それをやってやろう。
 海二の視界に入る。ただ何も話さない。効果は特に無いだろうけど。
「なぁなぁ、何してんの」
 海二が声を掛けてくるのを必死に返さないように堪える。ただ何も言わずに海二と逆の方向へ歩く。前を向いて、何も考えるな、俺。
 無事殴られた。昼休み。たくさんの人が流れるように歩くこの廊下でこいつは殴った。
 ・
「殴ったんだね、そいつは」
「あぁ、殴ったよ。人の多い廊下でわざわざ殴ってくれた」
 今日あったことを言うと香澄は愉快そうに笑って、顔にとどまらず足にまで移りうさぎのように跳ねる。
 一見香澄は海二側の人間に思えてしまうこの光景。僕も思ってしまった。慰めもないのかと。ただ僕の耳にこそこそと声を通して香澄のこの行動の一つ一つの意味がわかってきた。
「復讐だね」
「あぁ、そうだな」
 彼女の笑顔に勇気をもらう。
 ・
 自分の教室で思いっきし海二に殴られる。教卓がまるで晒し台だ。昨日と同じ昼休みだが教室にも人はわんさかいる。
 今僕と夢じゃない現実で過ごしている彼女だけこの場を見たら盛大に笑う事ができる。
 ・
「急だけど今夜と明日に早速実行しよう」
「俺もそう思っていた」
 この場には深夜テンションは見られない。まぁこの数日だけで見た自分なりの判断だが。ただやる気が溢れているのは間違いではない。
「なんだか右手が震えてるんだ」
「じゃあなんでそう思った」
 香澄は笑う。
「たぶんこの震えはやってやろうという姿勢の現れなんだよ」
「渉変わったね」
「そうか、自覚はないけど」
「かっこいいよ」    
 やる気がさらに湧いたような気がする。 
「やってこい。渉」
 力強く右手を拳にして前に正確には俺に向けて突き出す。
 'かっこいいのは俺じゃなくて香澄だよ'と言いたかったがためらってしまった。

「おい、海二」
 今日昼に起きたあの光景。俺ら二人は教室の教卓にいる。
「は、なんだよ」
 声の強弱とそしていきなりの呼び捨てで彼の顔は苛立ちの前触れの顔をしている。
 まぁそんなことは知らないが。
 教卓を持った。机と対して重量は変わらなかったから特別な力を必要とせずに持てる。
「何すんだよ」
 困惑しているんだろう。表情が見れないのが残念だ。
 前に力強く両腕を振った。勿論両手を開いた状態で……。
 教室内は金属と木がぶつかる音は聞こえず代わりに鈍い音が聞こえた。
 奴は頭を打った。教卓に負けのだ。
 何かのスイッチが入った。今まで何のスイッチか何の目的かわからなかったがそれは非常停止ボタンとまるっきり逆の意味を持っているのはなんとなくわかった。
 日頃の恨み、憎しみらを自分の拳に込め一人横になっている奴をぶつける。ただぶつける。ただただぶつける。 
 音はさっきよりも鈍く綺麗とか思えない。
 赤い何かが視界一面を染めたような気がして先程のスイッチはオフになった。
 俺の横に人がいた。俺の肩に手を添えていた。俺の姿を見て顔を両手で覆い泣いていた。
「渉、ごめんな」
 気がつかなかったがこの場に集まっている人の目に涙を流した後、もしくはそれが残っていた。
 
「クラスメイトだけじゃないんだよ」
 香澄も泣いていた。
「あぁ、香澄もありがとう」
 やっぱり深夜テンションはあった。何を思ったのか俺は泣く香澄を両腕で包んでいた。
 この小さい体をなぜだか守らないといけないような気がして力が腕に入ったのは気にせず泣き止むまで俺は香澄を包み、いや抱き続けた。
 ・
 海二は孤立していた。教室に入ってそれが一段と目立っていた。それと、
「渉、なんかあったら言ってな」
「お前を決して見捨てないから」
「力になれなくてごめん」
 日頃、いや一度も話したことのない生徒たちが俺に集まってくる。今までに感じたことのない感覚だがこれは気持ちいいものとは言えなかった。夢の中で人を殴った。夢だから良いじゃんとか思わない。
 勝ったとかは思わなかった。

 冬休みに入った。あれからは生活が一変し海二にはあれ以来の嫌がらせはなくなった。それに加えて彼は学校を辞めた。
 クラスメイトの対応も変わった。話疲れてしまうぐらい毎日新しく出来た友達と話して、放課後には寄り道でゲームセンターとかカラオケとかに遊びに行く日々。疲れるが楽しいという感覚を初めて味わった。あのカラオケの『国歌』を歌って皆で盛大に笑って盛り上がったときの記憶が鮮明に残っている。
 そして夢で何度も香澄と話してと日常以上の日々を過ごす。香澄といると心が落ち着く。クラスメイトには申し訳ないが疲れる会話も遊びも香澄だと思い感じることはなかった。
 あと会話が途中で途切れ沈黙とした時間が流れようとも苦に感じることはなかった。
 それにしても冬はこたつに限る。冷えた足をこたつに入れ横になる時間が最高で至福の時間とこの頃思う。
 しかも今親は買い物に行っていてこたつは独り占め状態だから誰かと足があたることもない。
 ぬくぬくと布団では味わえない暖かさと温もりを堪能するこの時間はやはり最高で至福の時間だ。
 ただ問題があり、昼寝の回数が激増してしまう。
 ・
 夢に来た。いつもは夜に来るから周りは明るくて日頃味わってこれなかったことを味わうことができるかもしれない揚々とした気分でいる。
 お花畑を散策する。夜に見る景色とは一変してお花たちは思っていたよりも鮮やかな色で咲き誇っている。
 心を人以外で落ち着かすのはいつ振りだろうか。あれ以来から自分は変わった。
 あの時は未来が見えなかった。自分が今後どうなっていくのかとか自分はどんな将来を歩みたいのか。
 ただ友達ができて、話して、話せるようになって将来の選択肢がみるみると増える。自分が落ち着いているという感覚は絶対的な安心感を俺に与えてくれる。そしてそれは俺を前へ前へと進めてくれる。
 次はどんな風に俺を楽しませてくれるのかみたいなダンジョンを徐々にクリアしていく無邪気な少年の気持ちを演じるかのような気分だ。
 それにしてもお花畑は広い。道がずーっと伸びている。周りも壮大なお花畑に囲まれていて自分も壮大な何かになったようで。
 視野が広がる。そんな例えが非常にわかりやすいのだろうか。
 視野が広がった反面一人の姿が目に入った。ベンチに座っている一人の女性。
 そのベンチ、その女性に近づいて驚愕した。その女性は香澄だった。それも足をベンチの上に持ち上げ両腕を太ももの裏に交え、顔は膝に突っ伏している。おかげで丸くなっていて、それに泣いている。人はこの場に誰一人としていないから人目を気にすることはないが人目を憚ることは完全に忘れたように泣いている。
「香澄」
 聞こえそうで聞こえない程度の声を出してしまっていた。届くように、そう込めた言葉、声は自分の心の阻害される。
「香澄」
 心を変えれたんだ。気づいたら俺は僕を捨てていたし、この年はいろいろでけれどどれも滅多に無いぐらいの経験をすることができた。僕が見ていたらわからず別人と間違えそうだ。
 だからと言わんばかりに今度は香澄の耳に絶対に届く声の大きさで名前を呼んだ。
 泣いて苦しそうな呼吸は止まらずも香澄はやっと顔を上げてくれた。顔は…………、少なからず人には好んで見せれないぐらいの状態。
 空気を読む読まないを気にせず俺は聞いた。
「何があったの」
 香澄の横に腰を下ろす。
「私もうだめなの」
 この返答を聞いて胸騒ぎがした。まさかとは思っていた。一人で号泣とも言えるぐらいに涙を浮かべ泣いて、いきなりいつものあの笑顔が壊れていて嫌な予感というのはしていた。
「詳しく説明してもらっていい」
 嫌だろう、つらいだろう。俺はそんな状態の彼女に失礼極まりないことをしたと思ったが、後悔はなかった。この空間上できることは限れていて俺は選んで香澄も救えるかもしれない道を常に選ぶ。
 ほら。香澄は頷いてくれた。ただやっぱりどこかもし反対されたらと思う考えがあったらしく香澄の頷きは安心を与えた。
 僕が香澄に会った数日前に遡る。
"骨肉腫"
 香澄はそう医者に告げられたそうだ。朝起きると膝部分が赤く腫れ上がっていることに気づいたそうで、すぐ母に告げその日は学校を休み病院に行って先ほどの病気と診察された。
 幸いII Aと軽い重いの半ばの病気だったそう。
「ただやっぱりショックだった。受け入れなかった。なんで私がって医者に言われたときからずっと思い続けていてこれは夢なんじゃないかって何度も思った」
 男の俺でもおそらく同じことを思い続け、同じ状態に陥るだろう。
「けどね、夢を見たんだ。周りがお花に囲まれている公園に一人ポツンといてさ。あの時久しぶりに笑ったな」
 その夢を見た後の数日後の話をしてくれた。
 手術することが決まって少し笑って開いた心はまた閉ざされていく。
「お花畑にいてもなかなか笑えなかったんだよね」
 "そこで渉と出会った"と強調して俺にわざわざ指を指して言う。
「あの日から絶対に手術成功させてやろうって気持ちが湧いたんだ。だから今こうして話せてるのも渉のおかげなんだよ」
 香澄は笑っている。確かこの夢を見て香澄に出会ったのは四月のことだ。ということは既に手術は終わっていて、香澄が笑っているのと俺に感謝してくれたことから湧いて決めた手術成功を叶えた。彼女はこの病気に打ち勝つ第一歩を歩んだんだ。
「無事一昨日に退院したんだよ」
 第一歩。それを歩み始めた香澄はゴールテープを見事切った。拍手をしようと手を前に拝借して叩こうとする。しかけた。してはいない。話は、今に至る原因を香澄は自分より俺を優先とする声のトーン、速さで俺に告白した。
「今さっき車に撥ねられて私は今……脳死じょ………うたい……………なんで…………」
 「す」までは聞こえなかったがそんな言葉なんかもうどこかへ捨てたくなった。よく告げてくれた。俺が今できることはそう香澄を褒めること。
 つらくしている原因を説明してくださいと質問されたものはただでさえ敵以上に嫌うそれを頭いっぱいにしていちいち言わなければならない。それなのに香澄は。
「ごめん」
 説明を終えた香澄は先ほどから顔を手で覆って涙を隠している。どうして隠しているってわかったのかはよくわかっていないがそんな姿で俺の横に座っている。
 訳もわからず俺は香澄を両腕で抱いていた。もう頭に選択肢がなく咄嗟の行動で、香澄の彼氏でもない俺は抱いた後に急に恥ずかしくなる。
 脳死状態。香澄を抱いていた時に生まれた緊張が和らいで無くなった時に頭に浮かんだ。
 いつかどっかで呼んだ小説で主人公のヒロインが確かそう診断されて死んだのを思い出した。
 脳のすべての働きがなくなった状態で脳が死んだと言っても過言ではない。多くは十日以内に命を落とすとされている。
 今ここに香澄がいる理由が俺と同じではない。だから俺は香澄の気持ちもわかることはできる訳がないし、同じ立場に君臨することも不可能。
「私、どうしたらいいのかな」
 知らない間に無言が続いていた空間を呼んだから香澄は俺に問いかけた。もちろんそんな理由で俺に話しかけてきたとは思っていない。
「香澄はもう希望はないんだよね」
 この場で絶対奈禁句である言葉を口にした後はなんとも気が重い。けど言わなくちゃ、俺には香澄の気持ちを少しでもわかって、香澄を支えないといけない。
 だから…………。俺は本当に変わってしまったんだなと次の言葉を発して言葉なのに体全体にそれを痛感させた。
「俺は香澄を支えたい。全力で支えないといけない。今そんな気が使命のようで俺がここに呼ばれた気さえするんだ。だからとは言えないし、身勝手なやつだけど。俺に香澄を支えさせてくれないか」
 顔を覆っていた両手を思いっきり掴んで自分の香澄より一回り大きい手で包む。冷たい手で滑らかで、やっぱり小さい。
 香澄の顔は変わらなかった。頬が赤くなるとか口が緩むとか、目線もだ。
 顔が近付いてきた。どんどんと近づいてくる。
「遅いよ」
 自分の鼻と香澄の鼻がくっつきそうになるぐらいになって香澄の顔に変化が出てきた。笑った、笑ってくれた。
 けれどどうしてこんなに顔と顔が近いのか。
 考える時間はなく口が何か柔らかいものと触れた。

「香澄はこの残された時間何がしたい」
 一瞬のひとときをそごして俺らは落ち着いた雰囲気でベンチに座っている。こんなのんびりとしている間にも香澄の命はだんだんと削られていっていることも知らずにこの静寂な空間を大切にするかのように。
「渉と過ごせたらいいよ」
 香澄はもう泣いていなかった。どちらかといったら吹っ切れたような顔をしていた。
「渉が支えてくれるって言ってくれたら泣けないよ」
 やはり彼女は笑っていた。
「香澄、約束しようよ」
「なに約束するの」
「なにがあっても一人で絶対泣かない。泣くんなら二人一緒に」
「渉泣かないから泣けないじゃん」
「そもそも泣かなくていいんだよ、香澄」
 そういえばいつの間にか香澄を呼び捨てで呼んでいたけど、もう大丈夫かな。大丈夫だよね。だって世界で一人の香澄なんだから。
 
 俺はできるだけ寝ようと決めた。理由は単純明快で馬鹿げていて、けれどそれをある一人の俺を自分の死より大切に見てくれて俺も大切にしている一人の少女に言うと笑って、笑って、笑って。
「香澄、来たよ」
 そう香澄に言うとにっこりと明るい笑顔を浮かべてくれる。残った時間を精一杯楽しむ。もう二度とない時間を俺たちは絶対に後悔しない時間へと変えるのだ。
 理由を言った時の香澄のあの笑顔は毎回笑っている笑顔にデザートが付いてくるぐらいの特別感があって。
「寝ていたらここに来れて、そして香澄に会える。君をできる限り一人にさせないよ」
 意味は多数あってそれらに込められた想いを労力・エネルギーに変換させると地球の中心まで届く。俺はもう君と過ごす一秒一秒を決して無駄なんかに変えない。
「お花畑を散歩したい」
 香澄に何をしたいかと問うとこう答えるから俺は何も言わない。香澄のためでもあるけれど俺もこの方が良かった。
「私に付き合わされてない」
 香澄はこれをよく言うが俺はこれが今一番したいことで間違えない。
 特別にこれをしようとしてみるとどうしてこれをしているか考えだして原因を探る習性が俺にあるからいつもと変わらないこの散歩の時間は本当に何物にも変え難い。
「香澄と一緒にいたいんだよ」
 いつこれが叶わなくなるかわからない。だから、今だけ俺は。
 "誠心誠意込めて今を味わい尽くす。今度はないんだから"
 
 この短い期間を彼女は必死に乗り越えようとしていて俺もその彼女に途中まで着いていく。
「だめ。絶対ダメ」
 力強くそれを断る香澄。怒られた。初めて怒られた。それもそうだ。頑張って我慢している香澄につい溢してしまった。
「香澄と離れたくない」
 ここまでならまだ大丈夫だった。
「俺も死のうかな」
 なんて最低人間なんだ俺は。
 香澄に何回ビンタを浴びらされたか。頬が赤くて熱い。
「ダメだよ、ダメだよ絶対。渉がそんなこと言ったら私、私は……」
 俺は愛する人を泣かせてしまった。最低に最低を積み重ねたクソ人間。
 香澄と交わした約束を香澄がそれを破った悪者にならないように俺は泣いた。けどなにもしなくてもそれはでた。俺は反省の意味を初めて心に入れて、注ぎ込んで、心一杯に充満させて。
 "この反省を二度としない"
 
 この場で培ったことを俺は絶対に忘れない
 ・
 夢じゃない夢を見た
 いつも見ていた夢がいつも見れなくなった
 俺は一般人になった
 
 あの時を思い出そうと記憶を遡る。映画のフィルムのようにあの時の記憶は一つも途切れずにムービーで流れるように記憶に入り映す。

 あの日からちょうど十日が経った。香澄の姿はその日の夕方になった今でもまだあった。
「香澄」
 あの時と一緒だ。香澄が泣いていて、香澄の秘密を知って、そのまた新しい秘密を知ってしまったあの時と。
 俺は相変わらず聞こえそうで聞こえない程度の声を出してしまっていた。届くように、そう込めた言葉、声は自分の心の阻害される。
 "こんな時になってなにやってんだよ俺"
 最後かもしれない。前まで特別だととか言ってたけどやっぱ特別にしないといけない。
「香澄」
 言ったよ。大きな声で、おそらくこの名前を呼ぶのが最後になるだろうと思って言ってやった。
 夕方を告げるために傾き、オレンジに染まって青の背景を一瞬でオレンジに変えてしまう夕陽。それをバックに、床一面に広がる多彩の色をそれぞれ染み込ませた花たちが集う花畑。そこにポツンと一人で夕陽を見る彼女の姿。訳もわからずに見つめてしまう。僕がいることに気づいた彼女はこちらに顔を向ける。その顔にはやはり僕を惹きつける何かがあった。満面の笑顔。ただもう僕は……
 香澄の方へ駆けた。普段走らないからこれで走れているのか不安だったけどだんだんと香澄に近づけていると自分の目で確認するとそんな不安は掻き消された。
「香澄」
「渉」
 俺は腕を広げ抱いた。
 そう、抱いたんだ。
 何もない空間を、そこにある空気を。
 ただ茫然と俺は立ち尽くしてしまった。
 逝ったんだ…………
 現実世界にいる香澄はとうとう寿命を、脳死で必死に耐えていたけど終えてしまった。
 周りにはもう何もないみたいだ。
 足は勝手に最初の受付の女性の方へと向かっていった。
「社長がご逝去されたのでこの遊園地は閉園します。もう二度と開くことはありません。ご来場ありがとうございました」
 深々と下げる頭を見下ろしてしまう。この人が悪いわけではないのにこの人は何もしていなにのに。もう気分はむちゃくちゃで何にも手をつけようとも思わなかった。
 そう。だからその社長の件についても触れようとは思わなかった。
 
 香澄が社長で、その香澄が俺をあの場所に呼んだのだ。訳はわからなかったけれど彼女には尽くせることができないぐらいの感謝がある。もう何もかもだ。
「香澄が人生を変えてくれました」
 俺は今小学校の教師として生活している。生徒から「どうして先生になったのですか」と言われると真っ先に俺はこう言うのだ。
「誰だよその人」
 生徒からは笑われるが彼ら彼女らの笑顔を見ていると香澄の笑顔をついつい思い出してしまう。似てもないけど笑っていると心が安心と言ってくれる。もう思うだけじゃなくて言ってくれるまで成長したんだ。
「その人は俺の何よりも大切な人だ」
 唖然と俺を見る生徒。
 俺はなんだか誇らしげだった。
 授業開始のチャイムが鳴った。
「さぁ、授業始めるぞ」
 
 後悔は今のところしていない。後悔をしてしまったとしても、何かつらいくて乗り越えれそうなことがあったとしてもあの時を忘れずに思い出すのだ。
 いじめてきた海二を香澄と一緒に撃退したあの時を。
 あれから変われた。何か一つのことを成し遂げた時人は変われるんだとわかってからそれを実行に移してきた。おかげで今幸せ。
 そしてその幸せのまま…………………、
  
 ある日息を引き取った。


「渉」
「香澄」 
 一人の、背丈の変わらない少女。名前を知っていて、反射的に呼び返してしまった。
「ここにも綺麗なお花畑があるんだね」
「そうじゃね」
「渉すっかりお爺ちゃんになって、私のこと覚えていないでしょ」
 言葉が詰まった。自分のことをなんて呼べばいいかもわからなくなった今、目の前にいる人は誰なのか。
「香澄」
「お、渉お爺ちゃんもう一回」
「香澄、君は香澄じゃー」 
「そう、お爺ちゃん大正解」
 どこかで見たことがある顔と聞いたことのある声を頭は覚えていなくても体は覚えていて、次第に頭も思い出してきた。
「お爺ちゃんと一緒に行きたいから待ってたんだよ、感謝してね」
 親指を立ててその立てた方の腕を突き出す。
「香澄」
 体がなんだか軽くなってきた。香澄をいつの間にか見下ろす形になっていた。腰が伸びている。手が若々しい。
「渉になったね」
 香澄と会った時と同じ容姿。いや違う。俺らは少し背が伸びている。
「俺ら今二十歳くらいになってないか」
「なってるよ、だから言って」
 現実で夢で言えなかった言葉を俺は言う。
「結婚してください」
 香澄の顔はあの時付き合った時と同じ顔。