――……ひと月ほどの時が流れ、季節が通り過ぎた。
アマリと荊祟は、いつかの川沿いに訪れていた。以前、来た時よりも暖かい空気が漂うそこは、ゆるやかな春の匂いに変わっている。
あの時咲いていた水仙は姿を消している。彼らが花開く期間は終わったのだ。
そして、もう一つ変わった事がある。監視は一切無い。この界に来てから初めての二人きりの外出だ。
……――あの後。厄神明王の力を授かったアマリと荊祟は、互いに重傷を負っていたにも拘らず、異例の早さで回復した。
勿論、彼らの厄払いの力のお陰こそだが、医師達の尽力の成果にもあった。
『我らの救いの力は、人族の力あってこそ。生命を救う務を担う者。全力を尽くせ』
そう言い残し、厄神明王の二人は天に昇り、消えていった。事実、未だ身体の治療は続いており、もう暫くは絶対安静だと、医師達から言い渡されている。
そして、双子神から受けたというもう一つの重大な告知が、当時、気を失っていたアマリは心に引っ掛かっていた。
『荊祟殿ら二人の再生に、巫女殿の元来の異能を多大にお借り申した。巫女殿は異能者では無い、無能の人族になられた』
事実、陽光が当たっても濡羽色のままの自身の髪に視線をやり、アマリの胸中に様々な想いが過る。
あれから花能は発動させていない。利用する機会がなかったのもあるが、使える『感覚』が無くなった気がしていた。明らかに、今までの自分では無いのも自覚していた。
身体の奥底に在った花の像が消え、彼らの囁きも感じられなくなったのだ。何者でもない、肩書きも無い、ただの人族の女となった。
その事がアマリの胸中を乱し、複雑な思いにさせていた。
同じくその事実を全てカグヤや家臣から聞き、知った荊祟は、今日、アマリが抱えていた紫紺の風呂敷包みに視線をやった。
「……そろそろ、それについて尋ねても良いか」
複雑な思いの中にあふれ止まない、高揚した昂りを必死に堪え、なるべく平静を装い、尋ねる。
「女中さんにお願いして、調理法を教えて頂きながら、私が作りました」
いつかの夜に交わした『約束』の時、荊祟と共に食事をしたいと考えていたが、『せっかくなら憧れていた手料理を』と、アマリ直々に女中頭に頼み込んだのだ。
だが、『元とは言え尊巫女様に飯炊きなどをさせ、しかも自分達のような者が指南するなどとんでもない』と、彼女は顔面蒼白になった。
「随分な啖呵を切ったそうではないか。もう屋敷中に広まっているぞ」
一連の出来事は、既に荊祟の耳に入っている。その場を想像し、思わず苦笑しながら荊祟は言う。堪えようと口元を拳で抑えていたが、くっくっ、と喉の痙攣が止まらなくなっていた。
全て知られていた事に、今更ながら恥ずかしい思いが込み上げ、アマリは俯いた。
それでも、言わずにはいられなかったのだ。自分が放った言葉が脳内で再生され、錯乱する。
『私は、もう尊巫女ではありません。ただの人族の女です。それに、命を活かし保つ為の食物を万人の口に合わせ、毎日毎日、美味しく作れる貴女方の手練れは、誇るべき職人技でございます! 事実、貴女方が作られた食事のおかげで、私は何度も心身ともに回復出来たのです!』
普段上手く回らない口から、よくあんな大層な事が発せられたと、自分でも驚いていた。だが、そんな立派な仕事が、雑用などと下に見られる風潮が、アマリには理解出来ない。
心からの言葉で、意思だった。
「わ、私はもう、ただの……人族ですから」
変に特別扱いされるのは嫌だし、不当だと思っていた。
無能となった娘に目もくれず、『能は無くなったのだから、望み通り厄界に居たら良いでしょう』と、一族と共にあっさり帰っていった両親の眼差しと後ろ姿が、今の自分の在り方を思い知らせている。
これからこの界で生きてゆくのだから、尚更身の程を弁えたい。
「女中頭がカグヤに申したらしい。『長様と貴女のような用心深いくノ一様が、尊巫女様とは言え得体の知れない人族に絆され、信頼された理由がわかった』と」
どこか意味ありげに、それでいて穏やかな琥珀の眼差しを荊祟は向ける。
「……⁉」
「お前は他者の心を解し、和ませ、開かせる。まっさらな眼で物事を捉え、偏見などものともしない。どんな経緯であれ、それはお前が生きて積み上げた財産だ。異能があろうと無かろうと、それは変わらん」
意表を突かれ、アマリは荊祟を見つめた。彼は、今の自分の胸中を見抜いているのだろうか。
「そ、そんな事、初めて聞きました……」
「あの頃と今は違う。疑心暗鬼に探り合う必要は、もう無い」
確かに、それは良い変化ではある。界の者に信用してもらえてきたのも喜ばしい。あれだけアマリの存在を危惧していた家臣達からも、『長様を変貌から鎮めた恩人』という目で見られるようになった。
お陰でいつかの夜に交わした『約束』を果たしたいが為に、長である荊祟直々の頼みを許してもらえたのだ。
だが、それはこのまま此処……彼の傍にいられる理由にはなれない。むしろ、別の理由で厄介者になるのではと考えていたアマリは、ずっと気に留めていた事を、遂に口にした。
「あの」
驚く程の大きな、それでいて切羽詰まった声が、喉奥から出た。
「この命尽きるまで、お傍にいさせてくださいませんか。この界に根を張り植物学を学んで、学者様、庭師の方と共に、この界の土壌改善をお手伝いをしたいのです」
瞳孔が開き、『何を言う』と言いたげな怪訝な表情を荊祟は浮かべた。自分の傍にいるなど、当たり前の未来だと彼は考えていた。
だが、アマリには決死の考えだった。人族は荒らし、壊すだけでは無い。造り上げ、直し、再び甦らせる。新しく生み出せる生き物だという事を実現させたい……
「……カグヤさんの過去、ご本人からお聞きしました。彼女のご実家の作物が育ちにくかった、不作が多くなった事に、この界の土壌や質にも一因があるのではないかと考えました」
「――聞いたのか。だが、そこまで話していたとは…… カグヤは、よほどお前を信頼したのだな」
変わらず植物、草花に関心を向け、愛着を見せるアマリの姿勢に、消えてなくなったはずの花能の残像を感じた。
それしか能力が無いなどではなく、それが彼女が生まれ持った資質なのだと……
「――いつの日か、貴方様に新たな尊巫女が差し出されたその時は……他界に行くなり陰の身となりましょう。ですから……」
続きの言葉は、途切れた。いや、封じられたのだ。彼の深い口付けによって。
初めて感じた少し荒々しい所為の息苦しさで、涙を滲ませたアマリの瑠璃の眼を捉えた後、ゆっくりと唇を離した荊祟は、びりっ、とした声音で制した。
「二度と、その様なことは口にするな」
妖艶な眼差しの奥に、怒りににも近い哀しみと、雄の本能にぎらつく琥珀の光が見え隠れしている。風呂敷包みを持っていたアマリの手が、思わずふるえた。喉奥に詰まる、熱い息を呑み込むのすら忘れる。
「……お前は何故、自分に対する眼は曇り、値を下げるのだ」
アマリの両肩を掴み、半ば言い聞かせるように嘆く荊祟の声色は苛立ちを含んでいたが、どこか哀しみも滲ませていた。
「……も、申し訳ありません。ですが、尊巫女ですらなくなった私は、いずれにしろ貴方の傍には……」
相対する異能者故に伴侶になれないでいたが、無能の人族の女としても、それは同じなのではないか。神の伴侶としての資格はない……そんなふうにアマリは考えていたのだ。
「俺はもう、お前無しの日々などあり得ない。……一つの界の主として……情けない話だが」
きまり悪そうに少し視線を逸らす荊祟を、アマリは未だに信じられない思いで見た。
あの時、瀕死の最中、愛を告げられていても、自分に言われている実感が未だにない……
「……以前、お前を傍に置くのは界の者から守る為だと言ったが…… 半分は、嘘だ」
「え」
「界の為にも己の為にも、お前の為にも、離れた方が良いと、一度判断したのも確かだ。故に、他界に嫁がせる事も……考えた」
自虐的な彼女の心に少しでも届くよう、言いにくそうでいて、次々に放たれる真摯な言葉がアマリの、固くひび割れていた心に沁みた。
厄介者だった自分の行く先を、どれだけ真剣に考えてくれていたのか。それだけは伝わっていた。



