厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女

 それから数日間。アマリは荊祟への贈り物の事ばかり思案していた。裁縫は得意なので、何か作ろうかとも考えた。しかし、(よこしま)な物ではないとはいえ、相反する異能を持つ者の念がこもった品など、持ち難いかもしれない……と諦めた。
 自分と彼の間にある抗えない隔たりを今更ながら痛感し、少し悲しくなる。

 ――『悲しい』? 私は、彼と、もっと仲を深めたかったの……?

 悩みに悩んだ結果、礼として神楽舞(かぐらまい)の一つを披露することにした。魂鎮(たましず)め――鎮魂の舞だ。悲しみに落ちた生物全てを慰め、また召された魂を鎮める為、尊巫女の慈悲を込めて舞うという奉納の儀式が人族の界にはある。
 災いを誘発する厄神に、そんな舞を披露するのは痛烈な皮肉か、挑発にも思えた。が、何も持たず無知な自分が、あえて自らの手を汚す酷な務めを背負う彼に出来る事は、これ位しかない……と考えたのだ。

 話を聞いたカグヤは、面食らいながらもそんなアマリの頼みを聞いてくれた。髪を巫女結びに結い上げ、荊祟から貰った鼈甲(べっこう)(かんざし)を、花冠(はなかんむり)の代用として頭部に装着する。
 この屋敷に巫女装束や神楽鈴(かぐらすず)があるはずもなく、以前与えられた(あけぼの)色の小袖に月白(げっぱく)の羽織を(まと)い、鈴の付いた藤色の扇子を手にするという、独自の仕様になった。

 ――尊巫女の正装で無い格好…… しかも、妖厄神(ようやくじん)様から頂いた着物で舞を披露するなんて、母様が知ったら卒倒されるわね…… きっと仕置き部屋に入れられて……

 過去の出来事が脳裏に再生され、能面から般若(はんにゃ)に変貌した母が現れる。怖れる像を慌てて振り切るが、アマリの奥底に深く刻みついた。



「荊祟……いえ、長様。今宵、お呼び出しなど致しまして、誠に失礼(つかまつ)りまする。大層なものではございませぬが、貴方様ヘの御礼の意を……捧げとうござりまする」
「なんだ仰々(ぎょうぎょう)しい。礼は要らぬと、あれ程申したのに……意外と頑固だな。お前は」

 迎えた当日の黄昏時(たそがれどき)。荊祟の都合をカグヤに伺い、あの石造りの庭園に彼を呼び出したのだ。開口一番、尊巫女らしい振る舞いを見せるアマリに、荊祟は苦笑する。
 彼女の格好を一見(いっけん)し、何かを舞踊するつもりなのだろうと気づいたが、あえて触れなかった。自分が贈った花の(かんざし)や着物を身に着け、いつになく一生懸命な様子が、やけに可笑(おか)しく……微笑ましい思いだった。

「改まってどうした? 厄払いでもするのか」
「ち、違います‼」

 焦って(つぶ)らな()を目一杯見開き、慌てて否定するアマリの素振りに、ぶは、と荊祟は素顔のまま吹き出し、くっくっ、と喉を鳴らした。そんな彼を、アマリは軽く睨む。気を許してくれたからだとわかってはいても、悪い冗談を言う厄神に憤慨したのだ。
 だが、からかうような琥珀の瞳に、仄かな光が灯っているのに気づいた。かつてなく穏やかな優しい眼差しで自分を見ている荊祟が、今までとまるで別人のように感じる……
 自身の感情の機微に疎いアマリでも、ようやく自覚していた。今の彼ヘの想いは、ただの好意や尊敬の念ではない。前よりもずっと切なくて、激しくて、知られたら死にたくなる位に恥ずかしい……
 赦されるならずっと傍にいたい。この方の事を知りたい。自分だけを見ていて欲しい…… そんな欲に溺れ切った、弱く、愚かしい激情――

 ――こんな想いを抱く資格なんて、私には無いのに……

 そんな動揺を覚られないよう、努めて冷静に、アマリは説明する。

「魂鎮めの舞でございます。貴方様とこの界の皆様、そして…… あらゆる世の方ヘの……慰安の意を込め、奉納いたします」

 後半の言葉と神妙な物言いに、荊祟は彼女の意を察した。以前、独白した自身の責務、過去、思いが過り、なんとも言えない動揺が身体中に走る。
 自分の力により破壊され、失われてしまった、人族の界の自然の富、尊き生命…… 出来る事なら暴挙や脅威に頼って、過ちを知らしめたくはないのだ……

 鋭利な眼を見開き、驚きつつも許容したかのような彼を確認し、アマリは扇子を持つ腕を振った。チリ……ン……シャラ……チリン……と小さな鈴が鳴り、辺りに儚くも涼やかな音色が響く。
 厄界ももうじき春を迎えようとしているが、もう陽が沈みかけている。頼りなげな儚い陽光だけが仄かに射し込む、紫紺(しこん)暮明(くらがり)に包まれた庭園は、どこか心(もと)無い。黄昏時などという美しい印象ではなかった。どちらかといえば、逢魔ヶ刻(おうまがどき)――向かい側の林から、邪鬼や魔物が今にも飛び出してきそうな妖しさがある。
 そんな空間の池の(ほとり)に、アマリの月白の羽織が、ひらり……ひらり……と広がり、はためく。しなやかに、ゆるやかに、手にした藤色の扇子が宙を舞う度、薄紫の花弁(はなびら)が踊り降るようだった。

 荘厳華麗――という言葉があるが、今の場は荘厳『優麗』という表現の方がふさわしいな……と、荊祟は唐突に感じた。自身の立場を忘れずにいられない程、目の前の舞――いや、彼女自身が発している(オーラ)に……魅了されている。
 この想いは何という気持ちで、どんな名を持つのか、どう扱えば良いのか、厄神の自分にはわからない。ずっと見ぬ振りをしていたのだ。
 やるせない苛立ちまで伴い、億劫に感じながらも、それすら何故か大切にして隠しておきたくなる――そんな不可思議な感情は……

 刹那、彼女の身体から淡い光の玉が、ふわり、ふわり、と浮かんでは宙に飛ぶ。池の水面、足元に落ちる刹那(せつな)、それは姿形を変えた。京紫と白の混じった丸い花――蓮華草(レンゲソウ)だった。庭園のあちらこちらに落下しては、ぽつり……ぽつり……と、薄紫色に(とも)ってゆく。
 いつの間にか宵に落ちていた、蒼黒(そうこく)に染まる空間に灯り、咲いてゆくそれは、まるで花の灯籠(とうろう)のよう――

「……⁉」

 動きを止めたアマリは驚き、自身と辺りを交互に見渡す。信じ難い光景に、茫然と立ち尽くした。
 ずっと花能(はなぢから)として召喚した事しかなかった為、今起きている現状がわからない。自分の意思に反し、身体から出てくる美しい花達が不気味にさえ感じた。
 助けを求めるように、荊祟の方を無意識に向いたが、彼も驚いたように辺りを見回している。
 ……何も決められず、選べなかったはずの自分が、彼と出会ってから変わり出し、今までの自分でなくなってきているのには気づいていた。が、こんな異例な状態は初めてで、どうしたら良いのかわからない――

 ――……止まらない……どうしたらいいの……⁉

 途方に暮れたアマリは背中を丸め、頭を抱えた。

「おい。まさか、お前また無茶を……⁉」

 花能を使ったと誤解した荊祟は、焦って近づく。

「……‼ 大丈夫です‼」

 必死の形相で、アマリは否定し、制止した。

「――生気は、使って……いません」
「どういう、事だ……?」

 茫然とした荊祟はそろりと、足元の薄紫の灯に、反射的に腕を伸ばす。

「‼ 駄目(だめ)‼ 触らないで下さい‼」

 彼女のただならぬ勢いに圧され、また拒否された事に少し衝撃を受けた荊祟は動きを止めた。今にも泣き出しそうな顔で、アマリはそんな彼を凝視し、錯乱状態に(おちい)る。
 この花に触れたら伝わり、ばれてしまうかもしれないと危惧したのだ。今、自分が、何を思っているかを……!

 ――知られたくないのに。知られてはいけないのに。軽蔑されてしまう。困らせてしまうだけ――‼

「どうした」
「ごめん、なさい。申し訳ありません……! ごめんなさい! ごめんなさい……!」
「おい……⁉」

 涙混じりの掠れ声で、アマリは詫び続ける。自分の顔がどんどん熱くなり、火照(ほて)ってゆくのがわかった。きっととんでもなく見苦しい振る舞いをしているだろう…… 今すぐにでも消えてしまいたかった。

「何があった⁉」

 屈んだまま見上げたアマリの白い頬が紅色に染まり上がっている。そんな顔を隠そうと、扇子で必死に覆っている。荊祟が贈った薄桃の着物が、砂利がぶつかり合う耳障りな音と共に、じりじり、と自分から逃げるように遠ざかっていく。

 そんな事態が、彼に追い討ちをかけた。鼓動が暴れ、速まり、喉奥が詰まる――

 ――何故、逃げる? 去っていくのか? もう会わないつもりか……⁉

 荊祟の胸の奥底に、苛立ちを伴う焦燥が爆ぜた。激しい衝動が稲妻のように貫き、背を突き立て、前のめりに全身が動かされる。

「――落ち着け」

 細い手首を掴み、身体全体で被さるように彼女の動きを止めた。胸元に彼女の顔を押し付け、抱き締めるように抑え込む。
 アマリの意識は、彼方に飛んだ。現状を把握できないまま、自身に起きている事が、現実なのか夢なのか……判別できなかった。曖昧(あいまい)に揺れ動く思考の中、重く絞り出したような、掠れた低音が――響く。

「大丈夫だ」
「……⁉」

 一息ついた後、観念したように荊祟は告げる。自身の奥深くに隠していたモノを見せ、差し出した。

「――多分……俺も、今……似たような事を、思っている」

 それを何と呼ぶのか、人族は名付けているのか、神族で禍神である荊祟にはわからない。
 初めは『罪無き哀れな生物』を保護し、生かしておくだけのつもりだった。いつからだろうか。そんな愛玩(あいがん)対象でしかなかった、この人族の女を次第に乞い、求め止まなくなってしまったのは……
 一方、アマリにも、一つだけ確信している想いはあった。生まれたばかりで拙く、ひりつく痛みを伴う温かな(おも)いが、互いの身体にしがみつく芯に芽吹き、息づき始めている――

 “あなたは 私の苦痛を 和らげる”

 ――……諦めたのは、いや、忘れてしまったのは、いつだったろうか。心の底では、何よりも乞い、求めてやまなかった。
 自分だけに向けられた、温かく優しい想い。慈しみあふれる(やわ)らかなぬくもり。傷つき荒んだ心も癒えてゆく力……
 だが、今、自分の全身で触れ合っている目の前の異種者(いのち)が、内に秘めたそんな渇望を呼び起こし、その欠片(かけら)を差し出してくれたような気がした。
 ……けれど、何故か受け取ってはいけない。そんな怖れもあった。自分が触れたら、たちまち消えてしまう……畏れ多い宝。もしくは、触れてしまえば、二度と元の自分には戻れない、(あやかし)の術のような――


 春はまだ遠く先の冥闇(くらやみ)の中、互いの身体にしがみつくように、異種の生物二人は抱き合ったままだ。そんな二人を見守るかのように、蓮華草の(あかり)は、ふわり……ふわり……と蛍の(ごと)く儚く舞い、吸い寄せられるように凪いだ水面に静かに落ちてゆく。
 そんな薄紫の仄かな灯火(ともしび)は、死者への遺憾(いかん)を込めた灯籠のようだったが、手向(たむ)けられた(はなむけ)のようにも……映る。

 経験した事の無い位の力強い抱擁に、アマリは放心状態になっていた。先程まで自分が何をしていたのかも、何者であったのかも、脳裏から消えている。
 暗闇というものは、アマリには忌まわしい記憶の中にしかなかった。独りきりで眠る夜更け。輿入れの夜に入った凍てつく籠の中。
 こんなにも仄かに温かく、心を落ち着かせる反面、高揚する暗さがあったのか…… 視界に映る漆黒の世界にただ戸惑い、慣れない感覚に目眩がした。

 ――これは、何……?

 一方、荊祟(ケイスイ)は、自分がしている事を認識出来ていなかった。ただ、離したくない。離してはいけないという、彼全てを焦がすように、占めていく激情だけが()った。

 ――こんな感情(おもい)は、知らない……

 身体を密着させる時間だけが、刻々と過ぎてゆくと共に、怖いような安堵するような、矛盾した震えが互いの芯に走った。

 ((――どうしたら、いい……?))


 辺り一面を仄かに照らしていた薄紫の灯が、一つ、また一つと消えてゆき、次第に濃い蒼黒の空間に戻っていく。光を失った蓮華草の花は、朧に姿を溶けてゆくように消えていった。
 そんな状況を察知した荊祟は、ようやっと我に返り、はっ、と眼を開いた。抱き締めていた腕を解き、彼女の身体を自分から引き離す。
 突然消えた温もりに驚いたアマリは、彼を見上げた。無表情な見慣れた顔にある琥珀の眼に、初めて目にする(やわ)く艶な熱と、静かな哀しみが交じえている。泣き出しそうだった先程までの激情を、不意に呑み込む。

「悪かった」
「え……」
「こんな事……するべきでない。先程の言葉も……忘れてくれ」

 何故、そんなふうに悲しげに謝るのだろう。嫌じゃなかった。怖くもなかった。初めて感じる類の『うれしい』があったのに。
 消え入りそうな声で、アマリは口を開き、自身の心の声を絞り出す。

「わ、私は……‼」

 さっきとは違う類いの泣きたい思いが、心の中を(めぐ)り回る。どう伝えるべきなのか、伝えて良いのか……わからない。伝える事すら、怖かった。

「――『似たような思い』って、何ですか……?」

 ぴく、と動揺した彼の手の甲に、アマリはそっ、と触れた。人族と変わらないように見えた彼の皮膚は、少しかさついていて、硬みを感じた。骨張った長い指先には、鋭利な爪が伸びている。
 だが、温もりはやはり自分と同じだった。むしろ今は、彼の方が熱く感じる。血の色も自分と、きっと同じ……

 きまり悪さを振り切るように、荊祟は白く柔らかな指を払った。

「――『忘れろ』と言ったろう。とりあえず……戻るぞ。すっかり(とばり)が落ちた」

 傷ついた心を密かに隠すアマリ。彼にだけは、(うと)ましく思われて嫌われたくない……

「はい……」

 闇が濃くなる中、ゆらり、と差し出された鋭い爪の大きな手。当たり前のように確固して、アマリの目の前に()る。
 拒否された直後の、いつもの優しさに戸惑いながら見上げた彼の顔には、また違う陰を落とした琥珀の眼が、宵闇の中で切なげに揺れていた。
 その妖艶な光に惑いつつ掌を差し出すと、彼女の手はしっかりと握られる。たちまち胸の奥が熱くなり、再び全身が震える。

 ――こんな事、いけないのに…… 私、どうしたの……

 尊巫女は、どんな時も……例え依頼人に激しく非難されたとしても、民の前で情を乱してはいけないと、幼い頃から厳しく(しつけ)られた。
 それなのに今の自分は、どんなに抑えても、我慢しても、荊祟という厄神の眼差しを受けただけで全身が沸騰し、精神(こころ)がおかしくなってしまう。
 ずっと自分が自分でなくなっていくのが怖かったが、今の変化は明るみも感じる。その事が嬉しくも……どこか哀しかった。


 一言も言葉を交わさない気まずい状態で、荊祟に手を引かれるがまま屋敷に帰って来たアマリは、放心状態で離れの畳部屋に戻った。

「おかえりなさいませ。長様の御反応はいかがでしたか」

 部屋で待っていたカグヤは、ゆるゆる、と(ふすま)を開けた彼女の姿を見た瞬間、真っ先に尋ねた。手助けしたものの、やはり色々と心配だったのだ。

「……は、反、応……⁉ えっ、と……特に何も、なかった、なくて……」

 先程の出来事をどう捉えたらいいのか、彼女に話していいか判らないでいたアマリは動揺し、頓珍漢(とんちんかん)な答えを返した。

「……舞の、でごさいますが」

 神楽舞の感想を聞いていなかった事に、アマリはようやく気づいた。が、一連の出来事を思い出すだけで狼狽(うろた)え、硬直してしまう今は、とても頭が回らない。
 明らかに挙動不審、様子のおかしい彼女に、カグヤは勘づく。思い当たる事は、一つしかない。

「何か、ありましたか。……長様と」

 くノ一の真剣な面持ちと、どこか(えん)にほのめかした物言い。そして、荊祟と同じく心許した琥珀の眼に心配そうに見つめられ、アマリはたどたどしくも、話し始めた――


 アマリの話は、カグヤが大方予想していた展開だった。最近の二人の様子を間近で見ていた彼女には、『遂にきたか』という印象の出来事…… そして、花能(はなぢから)の変化以上に驚愕したのが、別の事だった。
 
「――笑われた、のですか」

 無表情の彼女には珍しく瞳孔が開き、ぽかん、と唇を無意識に開けていた。

「……はい」

 そんなにおかしな事だろうか、とアマリは不思議そうに返す。

「アマリ様……何かお辛い事をまた思い出されたのですか?」
「いいえ……?」

 続けて問われる内容に、ますます混乱する。

「どんな風に、笑われたのですか」
「……えっ、と……私を(からか)われて…… こう、吹き出された後、軽く喉を鳴らしておられました」

 あの時の荊祟の仕草を思い出しながら、口元に手の甲をあて、少し嬉しそうに再現する。表情を怜悧(れいり)に戻したカグヤは、神妙な面持ちで発した。

「――アマリ様」

 改まった、凛とした重厚な声色に、はっ、と異界の者でもある彼女をアマリは見遣(みや)る。言わなければいけない、重大な秘密を明かす予兆が漂う。

「『厄神が笑う』事の意味を、ご存知でしょうか」
「――え」
「厄神が楽しげに笑うのは、人族の負の念を目の当たりにした時のみ、です」

 知らずにいた、彼の秘密。いや、真の在り方を再び感じたアマリの脳裏に、自分がこの界に来た理由が、不穏に霞める。

(おご)り故の怨念や憎悪に狂った人族の念を受けた時、それが強力であればある程、長……妖厄神様の力は、更に脅威的になります」

 言い淀みながらも(しか)りと、最後の宣告をくノ一は放った。

「高笑いと共に全身に痣が現れ、より凶暴化した……(たた)り神に変貌されるのです」
「……‼」

 信じ難い真実が、忌々しくアマリを再び襲った。円窓(まるまど)の外は冥闇(くらやみ)に染まっている。既に夜が更けたばかりの(こく)。出来るなら、このまま明けないでほしいと、切に願った。
 あの温かな漆黒の世界に、いつまでも包まれていたかったから。
 あの時の温もりと共に、哀しげな(やわ)い熱のある眼差し、何より初めて目にした彼の微笑を思い出す。そんな恐ろしいモノとは程遠いと思った瞬間、アマリは必死に誤解を解こうと口を開いた。

「そんな、そんな御様子はありませんでした。高笑いや(あざ)なんて……!」

 自分の感覚に確証など無い。不明瞭な怖さもあったが、この()に映っていた姿だけは、信じたかった。

「御家臣様から上のくノ一づてに、この仕事を始める時に聞いた話です。私も実際に目にした事はありません。ですが……」

 懸命に主を庇う人族の女の姿に、カグヤは複雑そうに続ける。行灯(あんどん)(だいだい)の灯りに照らされた彼女の顔には、微かな動揺が見え隠れしている。

「微笑とはいえど、変貌が無いまま楽しげに笑われたお姿も見た事がありません。おそらく、この界全ての者がそうでしょう」

 次々に明かされていく意外な真実に、アマリは思考も言葉も失い、茫然とした。話を理解は出来るが、受け入れられない。

「……貴女と接する時、長様は、より人族に『近く』なるのかもしれません。それが良い事なのか悪い事なのかは、私には判りかねますが…… 大きな変化が起きているのは確かでございます」

 自分と関わる事で、厄神である彼に少なからず何かの影響が出ている……つまりはそういう事なのだろう。事態の深刻さに、アマリも本来の自分の在り方、課せられた企てが久しく(よみがえ)り、すっかり眠気が覚めた脳裏をひやり、と刺した。

「――それから」

 一息つき、今まで以上に表情を張り詰め、真剣な眼差しでアマリを凝視したカグヤは、一層、物々しい声色で告げた。

「私達、厄界の者全ての()琥珀(こはく)に似た色をしておりますが、長様の眼は一際、特殊な力を宿しておられます」
「特、殊……?」

 声を震わせる彼女に、カグヤは神妙に頷く。この人族……尊巫女には伝えねばならないと、覚悟を決めたように。

「長様の眼には、(まじな)いの力が宿されています」
「⁉」
(いにしえ)のとある時代、琥珀は祈祷師(きとうし)を始め、魔除けなどの神聖な儀式に使用された媒体の一つだそうですが…… 時には()しき(のろ)いに用いられた史実もございます。長様は妖厄神として、その(まこと)の琥珀を、(まなこ)に受け継いでおられるのです」
「……ほ、ん……物」

 無意識に口元を抑え、掠れ声でアマリは復唱する。琥珀は艷やかで美しい石だが、その負の歴史と恐ろしい威力は、尊巫女の知識として知っていた。禁術に利用する尊巫女や異能者がいたという事例も……

「人族の界に災厄を引き起こす際に使用される…… あの方の(ちから)の源なのです」

 内容の重大に、カグヤは自分を信用し、心配してくれているのだと、アマリは(さと)った。彼女が話してくれた話は、頭では理解した。
 だが、心の奥では、別世界の全く別人の話、他人事のように遠く感じていた。


 その夜、一睡も出来なかったアマリは、自身に何度も問いかけた。今まで見聞きしてきた荊祟(ケイスイ)と、先程知った彼の厄神としての顔が交差し、混乱する。何を信じ、何を受け入れたらいいのか…… そんな事が決められる程、彼女には知識も経験も、自信も積み重ねていないのだ。
 そして、どんなに抗っても逃れられない、本来の自身の在り方を痛感する。人族の尊巫女だから出会ったが、だからこそ相容(あいい)れてはいけない存在……

 ――どうして、私は、この異能(ちから)を授かったの……?

 今日、荊祟が離れに訪れた時、どんな顔をしたら良いのか分からず、朝が来た後も困惑していた。
 が、彼は来なかった。数日経っても、何も音沙汰が無い。カグヤも何も聞いていないらしい。黎玄(れいげん)が来た気配もなかった。
 カグヤは『長様も揺らぎ、悩んでおられるのでは』と慰めてくれたが、初めて彼に避けられているという事態に狼狽(うろた)え、打ちのめされている。
 自分に会いに来る事は義務でもないし、約束をした訳でもない。その事に今更ながら気づき、アマリは愕然とした。彼との間に、確かな繋がりなど無い。いつ終わりが来るかわからない、曖昧(あいまい)で不安定な関係でしかないのだと……

 そもそも、自分に負の念が全く無いとは思えない。自身の内の奥深い所で、いつも何かが(うごめ)き、微かな悲鳴をあげている気がしていた。それは、決して綺麗なものじゃない。どんな姿形をしているのか判らない、何種もの重苦しい物体が、痛みを(ともな)いながら、どろどろ、と混ざり合い、滞留している。
 そんな気持ちの悪い(モノ)……厄神である荊祟なら見逃さないはずだ。それなのに何故、今まで変貌がなかったのだろうか……


 そんなある深夜。初めて見る類いの悪夢をみたアマリは、また(うな)されていた。
 黄金(こがね)の眼光をぎらつかせ、全身に呪言の文様の痣を発した、人の姿を崩していく荊祟が、今にも自分に襲いかかろうとしている。
 もうだめだ、と縮こまるアマリの身体を、彼はきつく抱き締め、高らかな雄叫びをあげた。
 刹那(せつな)、哀しく微笑(わら)い、『ニ・ゲ・ロ』と告げ――……


 ……――瞬間、強烈な寒気を感じ、はっ、とアマリは()を開いた。ぼやけた視界に映る、自分に向けられた烈な殺気ある圧と、鋭利な銀の閃光――

「――⁉」
「アマリ様――‼」

 聞き慣れた凛とした()の、尋常ない叫び声が耳に飛び込んだと同時に、柔らかな重みがアマリの身体に伸し掛かり、そのまま吹き飛んだ。
 床に何かがグサリ、と突き刺さる鈍い音と同時に、壁に二人分の身体がぶつかる大音量が響いた。(ふすま)が外れ倒れ、辺り一面に(ほこり)が舞う。

「……っ!」
「カグ、ヤさん‼」

 我に返ったアマリは、自分に覆い被さる重みがカグヤだと気づき、悲鳴をあげた。鋭利な刃で斬られたのか、左腕から赤の鮮血が流れている。苦痛に顔を歪めながらも、カグヤは背後を向いた。

曲者(くせもの)‼」

 忌々しい者の方を睨みつけ、くノ一は叫ぶ。床に刺さったモノを素早く抜いた長身の影が、ゆらり、と近づいて来た。直線に伸びた刀らしき物を手にしている。
 少し離れた床下から開いた隠し扉を目にやりながら、黒ずくめの者は淡々と言葉を放つ。

「腕を上げたな。少々見くびっていたようだ」
「隊、長……?」

 一転、間の抜けた声色で、影から現れた名を呼ぶ。ずきずきと痛む傷口を抑えながら、信じ(がた)い姿を見たのだ。長と屋敷を警護する、護衛部隊の隊長だった。カグヤ含む部下からの信頼は厚く、(しのび)としての実力も、隊で最も高い。

「……何故、貴方程の方が」

 わざわざ、という続きの言葉が消え去る。何かを察したのだ。

「その女を亡き者にしろという、とある方からの密命でね」
「……‼」

 無機質にさらり、と発せられた一言の『とある方』という単語に、以前、自害を勧めた家臣をアマリは思い出した。長である荊祟の意図に逆らえる程の地位があり、尊巫女である自分を邪魔に思う者は限られている。
 カグヤも同じだった。やはり、という思いが、吊り上がった細い眉と、噛み締めた一文字の唇に表れる。

「そこを退()け。お前まで殺したくはない」
「隊長‼」
「俺も雇われの身だ。悪く思わないでくれよ」

 一瞬、躊躇(ためら)い怯んだが、カグヤは(しか)りと言い放つ。

「私とて長様から命じられた……この方をお護りするという任務を放棄など……出来ません。己の命など案じては恩義に反し……くノ一の名にも恥じます」
「カグヤ、さん……」

 彼女の崇高な覚悟を改めて切に感じ、アマリは息をのんだ。

「なら、俺と闘うか? お前の力では勝てないのは解ってるだろう。……せめて、二人揃って楽に()の世に送ってやる。大人しくしてろ」
「……‼」

 絶望と悔恨(かいこん)の余り、カグヤは眼孔を見開く。遂に、ここで命尽きるのか……と、アマリは諦めの域に入った。
 どうせ、一度は()()()に失うはずだった命だ。こんな厄介な自分に優しくしてくれて、沢山の喜び、初めて覚えた甘い温もりをくれた人達だけは、せめて守りたいと思った。

「――カグヤさん、今までありがとうございました。長様にも、宜しくお伝え願います」

 そう告げた瞬間、驚くカグヤを全力で押し退()け、忍装束の男に向かって、アマリは駆け出した。
 
「アマリさまぁ――‼」

 カグヤの絶叫が響き渡った次の瞬間、頭上から漆黒の塊が落下して来た。アマリと隊長の間に割って降りた塊は、颯爽と着地したが、衝撃で畳がミシミシ、と鳴る。重みある声音(こわね)が、其々(それぞれ)の耳に入った。

「何事だ。騒々しい」

 刀を抜き、戦闘態勢に入った荊祟だった。黄金(こがね)の眼光を放ち、辺りを凍てつかせる闘気を(まと)った身体で、庇うようにアマリを後方に追いやる。黎玄がカグヤの近くまで飛んで来た。

「荊祟、様……」

 理由のわからない高鳴る胸元を静めながら、アマリは漆黒の背中に向かって名を呼ぶ。命の危機が救われた事以上に、彼が『自分の所に来てくれた事』に何よりも安堵し、『うれしい』と思ったのは、確かだった。
 安堵したのはカグヤも同じだ。そんな彼女に荊祟は背後を見ず、(ねぎら)いの言葉をかける。

「遅くなった。よくやった」

 (おさ)の姿を目にした隊長は、静かに、素早く刀を(さや)に戻し、収めた。自身に命じた者も(おそ)れる、界の(あるじ)だ。

「予想より、お早いお越しでしたね」
「……お前は、今夜は別任務のはず。しかし、誰も姿を見ていないという。側近の四名を問い(ただ)している中で、この騒ぎだ。誰の差し金かは、大方の予想はつくが」

 闘気が消えた相手に、怒りを努め静め、刀を構えたまま荊祟は説いた。

「――長様。その尊巫女をどうするおつもりですか」

 外見だけなら自身と変わらない年頃の主に対し、打って変わってシン、とした声色で、隊長は返した。

「近日の長様の変化は、忍の私でなくとも明らかです。(ちか)しい者程判る。故に、貴方様と界を案じた方が、私に命じられた。……罰せられるのを覚悟して」

 今の現状を憂いめいた口調で語る部下の姿が、影を落とした黄金(こがね)の眼に映る。荊祟の胸中に哀しい罪悪感が走った。己の判断と不甲斐なさから起きた不祥事を受け止め、解決せねばならないと……

「立場上、その女を殺せない事情は解ります。ですが、閨事(ねやごと)が不可なら、(めかけ)にも出来ない。そんなに御執心なら、傍に置くだけでも……何かと、問題でしょう」

 慎重に言葉を選びながら、隊長は忠告する。荊祟の口元が僅かに引き締まり、揺れた。構えていた肩が下り、切れ長の眼が伏せる。
 一方、アマリは事態の深刻さと共に、閨事という単語に動揺し、狼狽(うろた)えた。荊祟の背中越しで、密かに頬を熱くする。相手が神とはいえ、比較的高い位の輿入れを控えた女として、漠然としか知らずにいた事柄。そして、全く頭になかった展開だ。

「とりあえず……この事は内密にし、任務に戻ってもらおうか。お前に命じた者には、俺が直談判する」
「長様」
「その代わり、お前は処罰しない。不用意に騒ぎを広めるのは得策ではない」
「……御意(ぎょい)

 その言葉を最後に、隊長は突風の如く消えた。彼を見届けたと同時に、荊祟は振り返り、アマリを見遣る。

「さて。次は、お前の今後だ」

 どこか切羽詰まった表情だが、淡々と静かな低音で話を続ける彼に、アマリはようやく落ち着きを取り戻した。琥珀に戻った()に向かって、返答する。

「は、はい」
「今後は、本堂の……俺の部屋がある階に住まえ。無論、カグヤと共に」
「っ⁉ ……はは、い」

 一連の衝撃や恐怖も吹き飛び、瑠璃の眼が揺れた。無意識に変な声を出しそうになったが、少なくとも彼から離れなくて良いのだ、という安堵感が、この展開と処遇を自然に受け入れていた。

「長様。宜しいのですか。いくら内密とはいえ、尊巫女が離れから消えたら、すぐ屋敷内に噂が広まります」
「……今の状況下では、こやつがまたどんな目に遭うか判らん。仕方あるまい。だからこそ、お前と共に来てもらう」

 (ふすま)が外れ、丸見えになった暗がりの廊下から、心配そうに声をかけるカグヤに、荊祟はきっぱりと返す。一瞬、アマリを目にしながら言い切る主に、彼女は息を呑んだ。

「こやつは俺が連れていく。お前は医師の元へゆけ。任務中に負傷したと申せば良い」
「……了解しました」

 アマリの身を案じているのは自分も同じだ。了承し、深く頷いた。

 手拭いで自ら傷口を縛ったカグヤは、黎玄と共に瞬く間に消えた。彼女も瞬間移動はお手の物のようだ。
 急いで少ない手荷物をまとめたアマリも、荊祟に抱えられ離れを抜け出た。どうやら彼方此方(あちこち)に隠し扉や抜け穴があったらしく、離れから去ると、あっという間に本堂の瓦屋根に辿り着く。そこから再び、木製の渡り廊下に降り立ち、駆け出す。
 ずっと、一つの界の主の御殿らしくない、立派だが質素な外観の屋敷だと思っていたが、人族の界の忍者屋敷のような造りなのだろうか……と、まだ錯乱しているアマリの思考は捉えていた。


「着いたぞ。入れ」

 流れるまま運ばれながらも、今までの事を耽っていたアマリは、荊祟の言葉で我に返った。
 見事な水墨画で猛々(たけだけ)しい(たか)や鶴が描かれた、豪奢な襖を荊祟自らが開け、アマリを招き入れる。

「ここ、は……?」
「俺の書斎、兼寝所(しんじょ)だ」
「……しっ……⁉」

 離れの部屋の倍以上はある、広々とした畳部屋を眺め、圧倒されていたところに、そんな心臓に悪い……いや、艶な予感を匂わす言葉に、アマリは反射的に後退る。

「……案ずるな。お前は、カグヤと隣の空部屋に住まえば良い」

 屋敷の上層……一族の血縁者が住まう階の部屋が、空室な理由をアマリは茫然としながらも覚り、彼の孤独な境遇を改めて憂いた。

「そ、そうですね。本当に……ありがとうございます。助けて頂いた事も……」

 不躾(ぶしつけ)にならないよう配慮しながら室内を見渡しつつ、先程の事件が甦る。恐怖、安堵、それから――

「カグヤさんは……大丈夫でしょうか……」

 哀しい、罪悪感。任務とはいえ、体を張ってまで自分の命を護ってくれた。共に食事をし、相談事に付き合ってくれた。アマリの中では既に護衛以上の存在だが、友人と言うには遠くて、姉代わりと言うにはおこがましい……――恩人だ。

「お前はどうなんだ。斬られなかったとはいえ、身体をかなり打ったようだが」
「私は、大丈夫です。大した事ありません」
「大した事、なんだな。どこが痛むか教えろ」
「ほ、本当に、大丈夫です!」

 詰めた後、黙り込んだ荊祟は、そっ、とアマリの左の肩甲骨(けんこうこつ)付近に手をやり、軽くさすった。

「……つっ……!」
「やはりな。何故、そうやって一々(いちいち)、痩せ我慢をする」
「少し、痛む程度でしたから…… カグヤさんの方が、ずっと酷い怪我ですし、私の事など……」

 一瞬の間の後、荊祟は深く、静かな溜息を吐いた。彼女の考えている事は、大方予想出来る。自分を庇って、深手を負ったカグヤに遠慮しているのだろう。

「カグヤはカグヤで、きちんと治療させる。お前はお前の身体を案じれば良いだろう」
「……カグヤさんは、私のせいで(なん)に遭われたのに…… 私が痛むなどと、騒げません……」

 やはり、と荊祟は呆れた。が、謙虚でありながら、どこか卑屈めいたアマリらしい考えに、許容と同情が交えた温かなものが、彼を包む。

「カグヤは自身の任務を全うしただけだ。お前が気に病む(いわ)れは無い。それに」

 然りと言い聞かせるよう、説いた。

「お前が自分の痛みを我慢して、あやつが喜ぶとでも思うのか」

 はっ、と何かが覚めた思いで、アマリは荊祟を見上げた。考えもしなかった事だ。

「そう、ですね。益々(ますます)、気にされてしまいますよね……」

 どこまでも自分を(ないがし)ろにしがちな彼女に、荊祟は今更ながら、深い哀しさを覚えた。この娘の精神(こころ)の傷は、相当……

「……今の状況下では、医師含め部下が信用出来ん。お前の傷は、俺が手当てする。見せてみろ」
「――え」
「応急処置の施術は心得ている。任せれば良い」
「いえ、あの……」

 アマリは俯き、自身の襟元に目をやった。慌てて飛び出して来た為、寝間着の襦袢(じゅばん)姿なのを思い出した。慣れない類いの恥ずかしさが込み上げ、頬が熱くなる。そして、左肩付近の素肌を(さら)すという事は……
 完全に固まってしまったアマリに、ようやく荊祟は自身の失言に気づく。彼も少し頬を薄紅に染め、きまり悪そうに呟いた。

「……診るのは、片側の背中だけだ。前は隠せば良い」


 下ろした長い黒髪を胸元に垂らし、更に手拭いを腹に巻いた後、荊祟の手当てを受ける。夜更けの暮明の中、障子から透ける微かな月明かり。そして、行灯の(だいだい)に照らされたアマリの姿は儚くも、魅惑的だった。

「軽度だが……打撲だ。暫くは痛む」

 そんな動揺を密かに打ち消し、荊祟は、そっ、と赤黒く腫れた痛々しい患部と、周辺の白い素肌に順々に触れる。壊れ物を扱うかのように、ゆるり、と指でなぞられる度、激しい羞恥(しゅうち)と、名の知れぬ胸の高揚に襲われ、アマリは錯乱した。

「……平気、です……」

 ただ怪我の手当てをされているだけなのに、今すぐ逃げ出したい反面、身体は甘やかに震え、全身の皮膚が泡立つ衝動的な感覚。そんな自身が、どうにもいけない存在に思え、居た(たま)れなかった。

「……助けが遅れて、すまなかった。家臣の企ても見抜けなかった。お前にあんな大口を叩いておいて……情けないな」
「いえ! もう来てくださらないと、考えていましたから……」

 離れに来なかった理由がずっと気になっていたが、様々な事態が続き、切り出せなかったアマリは、彼の思わぬ言葉に反射的に首を振り返した。
 軟膏(なんこう)らしき薬の器を手にした荊祟と視線がぶつかる。哀しげな琥珀の眼が、微かに揺らいだ。いつか見た、和い熱を含んだ、どこか艶のある――

「――お前を嫌った訳ではない」

 此程(これほど)美しく、魅惑的なのに凄まじい力を持つ眼が、傷つき、悩み、苦しんでいる荊祟自身を滲ませている。
 今の彼は――何者なのだろう。神か。化物か。忌まわしき『生き者』か。アマリにも、彼自身にも……判断しかねないでいた。
 魅入っているうち、彼の眼に胸元を向けている状態に気づき、慌ててアマリは前に向き直る。

「それなら……良かった、です。……すみません」

 内心動揺していたが、荊祟も我に返り、態勢を立て直した。

「……薬を塗る。少し滲みるが堪えろ」

 背中にひやり、とした感触とじわじわ、とした痛みが混じって、アマリの思考を少し冷ました。自分の存在で、慕う人を困らせている状況。同時に、ひりつく患部に薬が滲みていく様が、次第に和らげていく安堵感。
 この方は……薬草のようだわ、とアマリは思った。苦味や痛みを伴うが、いつの間にか自身の傷を治癒してくれる。心地良くて離れ(がた)いけれど、よりによって自分のような者が独り占めしては、周りにも彼自身にも迷惑になる……

 ――いつまでもこうしていてはいけないのに…… 甘えてしまっていいの……?

 だからといって、自分に選択肢も決定権も無い。『傍にいたい』という本音が叶うか否かは、荊祟の言動次第だ。
 だが、彼から離れるのは怖い。いつから、こんなに狡く、我儘になってしまったのだろう……


「終わったぞ。もう……良い」

 気恥ずかしさで居た堪れなくなり、襦袢を急いで着直しながら、何気なく視線を動かす。部屋の片隅の屏風(びょうぶ)が目に入った。銀箔が貼られた地に、壮大な山々とソメイヨシノと思われる桜の木が幾つも描かれている。
 界の主の部屋に飾るには、やや控えめ過ぎるが、荘厳さの中に安寧を感じる見事な仕様だった。この屋敷付近で初めて花の姿を見たアマリは、思わず問いた。

「――桜……お好きなのですか?」
「ん? ああ……この界には咲かぬが……あれは好ましい。……人族の里で……見た事がある」

 後半は少し言い淀みながらも、荊祟は柔らかな口ぶりで答えた。アマリに花の趣向はあった事、そして花能(はなぢから)を思い出す。彼女も好みそうだと、ふと感じた。

「お前は、どうだ?」
「……! そうですね。淡い薄紅が儚くも優麗で、うつくしく、て……好き……です、が」

 一瞬、間があいた後、アマリは珍しく早口で語り、やがて段々とか細く、拙い口調に変わった。後ろ姿からでも動揺しているのが判る。

「……何かあるのか」
「……少し、苦手……で」
「どういう事だ」

 思わずアマリの顔を覗き込むと、さあっ、と青白くなった。血色が失われていく、かつて無い彼女の変化に、荊祟は狼狽え、動揺した。

「無理に話さずとも良い」
「いえ。大丈、夫……」

 言葉が途切れ、息を呑み込む。身体が震えた。だが、アマリの奥底から何かが這い出そうとしている。明らかに挙動がおかしい自分を、荊祟は心配そうに見つめてくる。あの琥珀の眼差しで。
 彼の声は、言葉は、眼差しは、アマリの心をぐずぐずに溶かし、無理矢理廃棄していた感情や意思の『残骸』までが、姿を現してしまう気がした。そんなモノ、彼にだけは晒したくない。

「……っ」

 つうっ――と、淡い瑠璃の眼から熱い(しずく)が垂れ落ちた。そんな自身に驚き、慌てたアマリは手の甲で拭う。だが、止まらない。ぐしゃぐしゃになった心の蓋の欠片が、ぽろぽろ、と両の眼から零れる。

「……ふっ……う……」
「――苦しいのか。楽になるなら……聞くが」

 荊祟の赦しの言葉が、アマリの護りを弱くする。いつの間にか、すぐ傍で座り込んでいた二人は向き合い、互いの息遣いや温もりを感じられる位置にいた。
 アマリの白い頬に濡れ残った滴を、荊祟は長い指の節で拭う。

 ――言ってもいいのかもしれない。他でもない、この方になら……

「昔、の話ですが」 
「ああ、構わん」

 彼の落ち着いた返しが、溶け跡に残った残骸を拾い上げる背を押した。

「異能で……召喚した事があるのです。桜の、花」

 アマリにとって無かった事にしてしまいたい、忘れたいのに忘れられない、忘れてはならない思い出。

(とお)になった年……尊巫女に成る試験で、初めて花能(はなぢから)を披露しました。――己の親に『施す』という課題でした」

 荊祟の顔色は変わり、真顔になった。何かを聞き間違えたかと疑いたくなる位、衝撃的な未知の世界。存在するのが当たり前のように、彼女の口から、今、語られている。

「一番(ちか)しい者の心中すら理解出来ぬなら、治癒の花巫女として務まらないから、という理由でした」

 呼吸する事すら忘れ、荊祟の瞳孔はいつの間にか開いていた。

「私の父母は、両家の利害関係で婚姻しました。その為だけではなかったようですが……不仲で、いつも険悪でした。陰で互いを罵り、不満を口にし、父は母含め、私達姉妹にも無関心になりました」

 口にする度、胸元を絞める苦しさをやり過ごしながら、少しずつ、アマリは拾い上げた残骸と向き合い、涙声で淡々と続ける。

「何も知らず、解らず幼かった私は、心を美しくしたら関係が良くなるのではと、考えたのです。尊巫女の在り方として、両親がいつも私に説いていたから…… 浅はかでした」

 項垂(うなだ)れ、自身の掌をきつく握る。一際、重苦しい口調に変わった。

「――酷く……叱られました。『我らの心が醜いとでも言うのか。親をそのように見るなど恩知らずの所業だ。恥を知れ』と……」

 桜の花能……精神(こころ)の美。純潔。非常に徳の高い力を持つ難術だった故、召喚にも時間がかかった。そして、幼いアマリの心身への負担も多大だった。それでも……

「両親に仲睦まじくなって欲しかったのです。そして……認められたかった。これだけの難術を使えるのなら、きっと褒めて貰えると……愚かな願いでした」

 それ以来、喚んだ事は一度も無い。何を(もっ)て、心が美しいと言えるのか知りもしないで、とアマリは己を責めた。『心を操る』という禁忌に値する起来があるからと、依頼者に『施す』事も禁じられた。

「花能を使う資格など、本来、私には無いのです。どんな心持ちで……在り方なのか……殆ど知らないのに」

 桜だけではない。他の花も同じだ。効力は知っていても、実際の意味を体感した経験は、ほんの僅かだった。

「……その、召喚した桜は、どうしたのだ」

 ようやく、荊祟は実感の無い、重い口を開き、問い返した。

「淡く拙い姿……完全体で無かった為、私の体内に戻しました。花能としては使用出来ないので…… 後日、改めて試験は行なわれ、両親其々(それぞれ)が望みそうな別の花を召喚し、辛くですが……合格しました」

 鋭利な眉をひそめ、哀しげな眼差しに変わった荊祟は、ごく、と密かに詰めていた息を下した。

「資格はあるだろう」
「え……?」
「いくら完全体で無かったとはいえ、挑んだが末、徳の高い力を()んだのだ。花巫女としての素質はある」

 彼女が文字通り、精魂を費やして果たした偉業が、(おご)った私情により無きものにされてしまった。それはあってはならない……赦し難い事だと、荊祟は憤っていた。

「……私は……私の在り方、全てが……嫌いなのです。本来は、賞賛して頂けるような存在では……ありません」
「何故、そこまで卑下する」

 感極まり声を荒げた荊祟を、アマリは見上げた。微かに黄金(こがね)の炎を宿した琥珀の眼差しが、哀しく労るように自分を包んでいる。
 だが、自身でも驚く程、冷めた抑揚の無い声色で、言い放っていた。

「皆様が褒めてくださる、私の美徳と言われるものは…… いつか貴方様も仰られた、他者によって培養された、作りもの――『(まが)いもの』なのです」
「……擬い、もの」

 以前、自身が彼女に放った台詞が、改めて荊祟に問いかけてくる。

「……人族としての正しい生き方や美徳の教えを、沢山説かれてきました。そして、尊巫女としてそれらを努め行う事を……命じられました」

 関を切ったように過去、心情を吐露(とろ)している今の自分は、自分では無い。他の誰かが語っている。そんな錯覚を、ふとアマリは感じた。

「……教えは素晴らしいものばかりでした。慈悲ある心を持つ事、聡明である事、常に他者を思い遣る事、気高くある事…… 尊巫女でなくとも、こんな人族でありたいと願える、夢や希望あふれるものばかりでした」

 幾多の能持つ花を生み出す為、其々(それぞれ)の力の効力、知恵も浴びるように学んできた。
 境遇を哀れんでか、普段は交流の無かった姉や祖父が、こっそり優しくしてくれた幾つかの温かな記憶。その僅かな経験で得た『想い』で、人族としての『アマリ』が、かろうじて成り立っていると自覚する。

「ですが、真の意味では、その半分も……理解していなかったのです」

 在り方だけではない。人族としても尊巫女としても、自分は決して()ではない事実の哀しさと虚無感。アマリの奥底で、最も重く滞留している()()だった。
 別の()()に憑かれたままのアマリの喉奥からは、今まで考えもしなかった……いや、口にするのが恐ろしかったはずの問いが、飛び出した。

「荊祟様。……私の邪念は、見えませんか?」
「……⁉」

 一瞬、何を言われたのか解らなかった荊祟は、らしくなく思考が停止し、息を詰めた。百年以上存在した彼が、一度も耳にした事のなかった問いかけだ。

「貴方様は、人族の負の邪念を受けると、祟神(たたりがみ)に成られるのでしょう?」
「――聞いたのか」

 無意識だったが、彼女にだけは知られたくなく、あえて口にしなかった事だと、荊祟は打ちのめされながら気づく。黄金(こがね)の炎は消え、漆黒の陰が落ちた。

「私も、人族……人間です。聖人君子でも、神の乙女でもありません……!」

 悲痛な叫びだった。時には羨まれる肩書きではあるが、アマリにとっては呪縛でしかない。

「醜い心がお分かりなら、ご遠慮なく変貌して下さい。尊巫女は普通の人間だと証明して下さい。恐ろしくなどありません。私は、自分自身の方が、余程、不気味なのです……」

 昔、誰かに言われた言葉が甦る。人間らしい情がなく、不気味で怖いと。尊巫女という理由だけではない、自身の在り方の問題だとも感じていた。

「私は……空っぽです。空虚しか無く、何も……ありません。真の自我どころか、まともな心すら無いのです」

 予測外な願いに、荊祟は瞳孔を開き唖然とする。アマリの切実な願いは、彼にとっては残酷な所業だ。醜く変貌した姿を晒すのだから。
 だが、初めて感じるむず痒い瞬きが弾け、胸中に風穴を開けた。涙に濡れた淡い瑠璃の眼に、自身の姿が映っている。自分は人族から見れば忌まわしき化け物同然だが、彼女の世界()では……

「――アマリ」

 神妙で、重い。が、どこか優しい声音で初めて名を呼ばれ、烈に興奮していたアマリの心に、瑞風(みずかぜ)が吹いた。

「それなら、俺も……マガイモノだ」
「……え」
「真っ当な神でも無ければ、完全な人族でも無い。その血をひく者は、(いわ)く付きの出だ」

 淡々と、改めて出自を語る荊祟に、アマリに憑いた()()はさあっ、と引いていき、我に返る。入れ替わるように、酷い事を強請(ねだ)ってしまったと、激しい後悔が襲った。

「好ましい(モノ)さえ、不可抗力で壊滅させるかも知れぬ力を持つ。そんな存在(バケモノ)だ」

 奥の銀箔の屏風に描かれた桜を哀しげに見遣り、ふ、と嘲笑う彼の姿に、アマリの視界が揺れた。もしかしたら、『好き』という情を自分は(いだ)けない、抱く資格が無いと、彼は考えているのではないか……

「……荊、祟様」
「だが、これが俺だ。己が望んだ在り方でも無いのにな」

 アマリの言葉に合わせるように、戸惑う彼女を見つめながら、ゆっくりと続ける。

「お前から伝わるのは、静かな悲しみ、憤り、絶望、諦め、嫌悪…… それも(わらべ)が無垢に抱く程度のものだ。変貌する(ちから)に足るには、何分の一にもならんな」
「……そう……です、か……」

 哀しく苦笑しながらも、どこか微笑ましげな口ぶりで答える彼に、返す言葉が見つからなかった。困惑し座り込んだまま、再び俯いてしまったアマリに、荊祟は逆に問いた。

「……その教えとやらを、実際に……特にお前に対し、行う者はいたか?」

 見据えたように言い当てられ、アマリの脳内に稲妻が落ちる。

(いびつ)自尊心(プライド)を持つ者は、口先はどうあれ、本心は変わりたくないのだ。今までの己を否定する事になるからな。慢心して(おご)り、他者を非難している方が楽に生きられる」

 辛辣な物言いに反射的に顔を上げ、一瞬、両親や一族の者を庇いたくなった。が、また別の()()がアマリを止めた。
 そんな自分をどうしたら良いか判らず、確かめるように彼の琥珀の眼を見た。

「お前一人が、理念理想を具現化してあれば良かったのだ。人族は弱い。時に耳障りの良い、都合の良い言葉のみを乞い、慰めにする。縋るに足る存在なら尚更なのだろう。悪い事では無いが……過ぎると怠慢だ」

 胸が潰され、苦しくなったが、少し居た堪れなくもなった。荊祟の言葉一つで安心したり、傷ついたりする自分が、今、此処(ここ)()る。

「我が界の根も葉もない悪評が広がったのは、母の一族と癒着していた奴らのせいだけでは無い。吹聴した内容が、元々我らを疎んでいた人族にとって都合が良かったからだ。鵜呑みにして拡張し、事実無根と疑う者はいなかった」

 どこか遠い眼差しをしている荊祟は、見えぬ何かに吐き出すように続ける。

「不思議なものだ。正の力は尊いが儚く、瞬く間に散る。が、負の力は簡単に広まり、しぶとく根付く」

 荊祟が語る人族の像は、異種族が語るものとは思えない位、同調できるものばかりだ。彼が見てきたものは、実は同じだったのではないかと、アマリは感じた。

「元来、清廉と真逆の気質、むしろ疎む者が、よりによって神職者として生じた。望んだ在り方では無い……奴らも俺と同じか」

 最早、彼女に語る訳ではなく、独り言のように、荊祟は呟く。

「傷つき、虐げられたという大義名分で、全てを憎み、怨んで見当違いな対象にまで攻撃する者もいるが」

 いつかの雪の夜に見た、自身を犠牲にする道しか選べなかったアマリの姿を思い出す。

「悲しみ嘆きはしても、恨み続けるのは苦しいのだろう。お前は」
「……荊祟……様」
「皮肉だが……そんな素質だから会得出来たのだろう。実直で繊細、慈悲ある気質を活かし、努めて得た(ちから)には誇りを持てば良いと……俺は思う」

 不覚だが、そんなアマリだから惹かれた自分がいる。あの雪の夜、自らの命を断つ為に喚んだ、白い花にさえ……

「教養にしろ武道にしろ……いくら教え込んでも、端から学ぶ気の無い者、素質の無い者には付け焼き刃程度にしかならん。そんな部下を大勢見てきた」

 言い切った後、少しきまり悪く付け足す。

「まぁ……その動機は身勝手極まりない故、お前自身は不本意な所業だと思うにも仕方ないだろうが……」

 語られ続ける荊祟の言葉に、別の()()が打ちふるえているように、アマリは感じた。自分に言われている実感があるようで、無い。

「この界では尊巫女の花能など必要無い。皮肉だが……どんな影響が出るか危険だからな。まぁ、万人にとって何が尊く美しいと称するのか……俺にはよく解らんが」
「――元々、花は美しい生き物だと、それだけは、思います。地に然りと根を張り、逞しく生きる瑞々しい様には……敵いません」

 花と関わりながら生き、苦しみもしたアマリが唯一、主張できる持論。

「そうだな。真に生きる命にかしかない、尊いものはある。――だが」

 そっ、と荊祟はアマリを抱き寄せた。衝動的でも焦燥的でも無い。自然のまま動いていた。
 両の腕と鋭利な爪先で護り、身体で温め、いとおしむ。それが当たり前かのように。

「この、『アマリ』という(いのち)にしかない力があるのだろう」
「……荊……祟、様……」
「踏まれ蹴られても腐らず、歪だろうと懸命に生き続けた花が、美しくない訳なかろう?」

 静かで温かな衝撃に、固まった身体がふるえ、両の眼が再び熱くなった。耳元で何かの(まじな)いの言葉が聞こえる。遠すぎて、心に入って来ない。

「まあ…… お前が魂まで削らなく生まれた花の方が、遥かに好ましいがな」

 ――すき。この方が……すき

 全てが(すす)がれ、それだけが、残った。厳しく、激しく、美しい。そして、なんて残酷な神様なのだろう。
 どんなに慕っても、傍にはいられないのに、心の穴を真綿(まわた)で埋めてくれる。

「……蓮華草なら、お目にしています。魂鎮(たましず)めの舞で喚んだ……」
「ああ…… 確かに、あれは綺麗だった。何と言うか……今まで見た中で、一番……和んだ」

 驚きでアマリの眼孔が静かに見開いた。彼は蓮華草の花能を知らないはずだ。
 この想いは知られていない。知られてはいけない。けど、精一杯の感謝の気持ちは、伝わっていたのだろうか。

「私も、貴方様の眼差しを受けると……心が和らぎます」

 彼の眼に呪いの力があったとしても、なかったとしても……

「……そうか。なら、良かった」

 穏やかな低音に落ち着き、甘やかな安堵感に包まれたアマリの意識は、次第に柔らかな世界に入っていった。暮明の視界に更に幕が下り、全身の力が抜けていく。

 寄り添うように抱えていた彼女が、急に重く伸し掛かる様に、荊祟は動揺した。

「……アマリ?」

 返事の代わりに聞こえてきた、ささやかな呼吸音に、更に慌てる。

「おい。ここで寝るな。カグヤが戻るまでは起きろ」

 軽く揺さぶるが、眠りに落ちた身体はぴくり、とも動かない。眉尻を下げ、荊祟は静かに溜息を吐いた。


 慎重に床に寝かせ、羽織っていた漆黒の羽織を、月明かりと行灯で仄かに浮かぶ襦袢姿の身体に被せる。
 麻の畳に散り広がる、ゆるやかな長い黒髪。白い掌から伸びた細い指先には、桜貝が五枚飾られている。先程まで開いていた、憂いが混じる淡い瑠璃の眼差しは、常に真っ直ぐで……

 ――うつくしい、な

 微熱を帯びたため息を、密かに洩らす。だからこそ、すぐに消えてしまう事を、荊祟は嫌と言うほど知っている。

「俺は厄病神で……()でもあるのだぞ」

 苦笑し、困ったように眉をひそめる。

「無防備過ぎる」


 胡座(あぐら)をかき、暫しの間、頬杖をついたままアマリの寝顔を眺めていた中、背後の襖越しの気配に気づいた。

「入って来て良い」

 黎玄と共に、忍びやかに部屋に足を踏み入れたのは、左腕に包帯を巻いたカグヤだった。
「離れにいらっしゃらなかったので、こちらではないかと参りました。アマリ様のお怪我の手当て……恐れ入ります」
「構わん。お前も足労だったな。もう少し早いとみていた。黎玄づてに知り得てはいたが、任務中の負傷者が多かったようだな」
「はい。一先(ひとま)ず応急処置だけされ、暫く待ちましたもので。ですが、構いません。任務ですし、いくらでも動きます」
「――何か、あったか」

 声をひそめて背を向けていた荊祟は、少し離れたカグヤの傍まで移動して座り込み、報告を聞く。

「人族の界で不穏な動きがあるようです。探りを入れようと先入していた忍が怪しまれ、手討ちされかけたらしく…… 間一髪、逃げ延びたようですが」
「……そうか。そろそろ仕掛けて来る頃合いと考えていたが」
「長様」

 無機質に淡々と(しら)せていたが、どこか物言いたげな口ぶりだったカグヤは、一転、静かな声色で訴えた。

「貴方様は、この界を治める主です。そして……これ以上、アマリ様を不幸にされる事だけは……お止め下さい」

 主は勿論だが、自分と同じく、すぐ傍に横たわる人族の女を、この忠実な部下は本気で案じている。

「――俺のもう一つの姿、()の力について話したか」
「……! 私ごときが許可も得ず、誠に申し訳ございません。お二人を見ていて、あの方には知らせるべき事だと、恐れながら独断致しました」
「カグヤ」

 深く土下座して詫びるカグヤに、荊祟は清閑な口調で、告げた。

「俺は不幸をもたらす厄神だが…… せめて、この娘に対してだけは、そう在りたくない。出来るに限るが……何をしてでも、と決めたのだ」

 確固たる決意を宣言した長に、カグヤは驚愕した。だが、どこかでその言葉を聞きたかった気もする。

「……長様がそうお決めになられたのなら、私は何も申しません。ただ、それは神族の長としてですか。一人の男として、ですか」
「何が言いたい」
「そこまで肩入れされるのが不思議なのです。(まつりごと)に関しても、決して私情を(かい)しないと謳われておられる、貴方様が……」

 以前、自分がされた問いと同じ事を、カグヤは無意識に尋ねていた。

「――わからん」

 鋭利な眉をひそめ、腕組みをしたまま自身に問うように呟き、項垂(うなだ)れた。刹那、そのまま仰ぐように、天を見上げる。

「百年以上存在してきたが、人族の……特に、恋だの愛だのという情は、理解出来ないまま生きてきた。それは、今でも変わらない」

 父である一族の長を破滅に追いやった原因でもある、盲目的な激情か、狂わせる欲望……という認識でしかなかった。

「ただ……彼女には、どうにか生きていてほしい。――それだけだ」

 一寸の間の後、自嘲気味に付け足す。

「殆ど、私情なのやも知れぬな。生かすなら彼女にとってなるべく安寧の場で、とは考えてはいるが…… それが己の傍であってほしいとも……望んでいる」
「長様」

 初めて本音を洩らした主に、終始茫然としていた部下を、意味ありげに荊祟は見遣った。

「お前になら……理解出来るのではないか?」

 左腕の包帯への視線に気づき、感嘆を込め、カグヤは(うなず)く。

「何故、アマリ様……尊巫女の護衛という重大任務に、くノ一としてまだ未熟な私を選ばれたのか……ずっと不思議でした。油断させる為に年若い者を……という理由だけではないでしょう?」

 この確固した決意も強力な呪いのようだと、密かに嘲笑えた。が、たとえ狂気めいた縛りだとしても、それでも良いと、誇れる自分もいる。
 今度こそ、自分の大切な人、尊い人を……救いたい。その力になれるのなら、何でもできる気がした。
 部屋に置かれた姿見(すがたみ)に視線を送りながら、今度はカグヤが問う。

「私達は似た者同士。そして、あのアマリ様も……あらゆる箇所が異なるけれど、どこか似ている。無意識であれど、貴方様も(さと)られていたのではありませんか」

 鏡に映された己の姿形は同じだが、動きは真逆に映っている故、別の自分のようにも見える。

「……お前が、くノ一として(ひい)でていると判断したからだ。それに、間違いはなかった」

 つられて荊祟も姿見を見遣り、僅かに苦笑しながら答える。

 表裏一体した三種の鏡が合わさる時、向こう側に映された己は、また少し朧に異なる。
 憎悪に呪われた自身の魂は転じてゆき、いつの日か解放の時が来る。厄を多く生きる二人は、そんな予感がした。


 障子窓から仄かに射し込む陽光に、微睡(まどろ)んでいたアマリの意識は醒め、眼を開いた。至極、幸福な夢を見た気がする。こんな心地よい目覚めは、一体いつぶりだろう……
 軽く首を振ると、自分は柔らかな羽毛布団に包まれているのが判った。だが、今では見慣れた光景に変わった離れの部屋ではない。もっと広々としていて、間取りも家具の仕様も全く違う。襖の柄も家財道具も、控えめで品ある印象だが、上質なのが判る。一晩で、何処やの奥座敷に移動したようだ。

「お早う御座います。アマリ様」
「……カ、グヤ、さん⁉」

 唯一、聞き慣れた凛とした声に引き寄せられたアマリは、布団の傍に正座する彼女に気づいた。いつもと違う左腕の痛々しい包帯に気づいた瞬間、眠気が一気に覚め、青ざめる。昨晩の出来事が次々に甦り、激しい罪悪感が再び湧き上がった。

「あの、お、お怪我の具合は……⁉」
「大した事ありません。仕事上、よくある程度です。暫くの間、少々不便にはなりますが」

 ようやく自分の背の痛みにも気づき、顔を歪めるアマリに苦笑し、「そんなにご心配されないでください」とカグヤは付け足す。その姿に引きずられ、()()()の出来事も朧気な脳裏に再生され、アマリの頬が薄紅に染まった。
 表情はまだ乏しいが、こんなにも感情を体現させている彼女が、カグヤには感慨深かった。

()い仲になられたのですね。長様と」
「……⁉ 違、います。昔の事を思い出して、泣いてしまい……慰めて下さったのです。それだけです」
「……板挟みの中でも、貴女様を助けに来られたのですよ。お怪我の手当ての事も伺いました」
「そ、そうです。その後、優しくして頂いたのです。話をして、仲……は、良くなったかもしれませんが」

 初めは、彼女らしく謙遜や羞恥で言っているのかとカグヤは思ったが、どうやら本気で恋仲になった訳ではないと考えているらしい。
 昨夜、荊祟が洩らした告白を聞かせたいと思ったが、勝手に告げて良いものか…… 

「……暫くは安静にしているようにと伺っております。今日は、この階をご案内しましょう。長様は、もう務めに出ておられますので」

 相変わらずすれ違う二人に、無表情のままのカグヤは、内心頭を抱える。自分も色恋の類いは疎いのだ。どうしたものか教えて欲しいと、焦れるしかなかった。


 夕刻。逢魔ヶ時。アマリとカグヤの住まう隣室を荊祟は訪れた。珍しく浮かない表情を見せる彼に、二人は少し驚き、(おのの)く。

「密命を下した側近と話した。やはり……お前と会った……()()者だった」
「……そう、でしたか」
「先代と同じ道をゆくのではと懸念したらしい。増して、後継となる子を成さぬまま逝くのは、長として無責任、言語道断だと」

 重く熱くなった息を、アマリは呑み下す。致し方ない、至極当然の忠告だと思った。()()行為は、自分と荊祟の間では許されない……

「どうしてもお前を生かしたいのなら、他界に行かせろと申してきた」
「……‼」
「前例に無い花能(はなぢから)の使い手を受け入れる長は限られているだろうが、元・尊巫女という肩書きの妾か側室が欲しいという、名家の(あるじ)相手なら可能やもしれぬと……」

 言い(にく)そうな彼の声で放たれる話が煮え湯となり、アマリの喉奥から胸を焼いた。懸命に痛みを堪え、平静を装う。

「……そんな方……いらっしゃるでしょうか」
稲荷(いなり)の界なら望みはあると、交渉を始めるそうだ。……彼らが好むのは豊穣に必要な異能者だからな」
「……()を喚ぶ能を持つ姉が、数年前……輿入れされました。その後の経緯は知りませんが」
「そうだったのか」

 今ならわかる気がした。おそらく、姉は稲荷の長の伴侶になったのだと。治癒能力では務まらないが、本当に萌芽促進の素質がアマリにあるなら、輿入れする可能性もあったのだ。既に伴侶がいるなら、自分がゆく必要は無い。

 ――姉様なら、当然だわ。皆が口を揃えて、とても賢くてお綺麗だったと言われた方だったし…… 後で叱られるかもしれないのに、こっそり優しくしてくださったような方だもの……

 ふと、姉の日向(ヒナタ)の栗色がかかった黒髪は、陽光が当たると黄金(こがね)に輝いていた事を思い出す。それは、荊祟の眼光のようで……

「――皆様の為にも、私自身の為にも、その方が良いと判断致します」

 取り留めのない考えを振り切り、作り慣れた毅然とした声色で、元・尊巫女は答える。

「本当に殊勝な女子(おなご)だな。お前は」
「恐れ入ります」

 穏やかに苦笑しながらも、どこか哀しげな眼差しの荊祟を、アマリは神妙に見返す。精一杯の嘘を()いていた。
 胸の底では()()が、悲鳴をあげている。彼と離れたくない。みっともなくとも、惨めでも構わない。どんな形でもいいから、此処(ここ)に居させて欲しいと、泣いて叫んでいる。
 だが、息するように蓋をして、密かに隠す。昔からの憂鬱な習慣だが、今はどこか誇れる自分がいた。

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