――これは現世の何処かに存在すると伝えられてきた、古の理が息づく別世のお噺。
そこに生きる人族の民は、八百万の神々を崇め、妖を畏れる暮らしと共に在った。
その中でも、彼らを祀り、鎮める社を護る一族に生まれ、特異な能を持つ人族の女は『尊巫女』と呼ばれる。
彼女達は、十八になると神々の住む神界に向かうという契約が、遥か昔からあった。雨喚ぶ巫女は龍神界、陽をもたらす巫女は稲荷界へ行き、彼らの神力を借りる梯子と成るのが生まれながらの役目、責務である。
神族と人族の混血である、その地を統べる其々の長に認められれば、子孫繁栄の為の伴侶となる。否な場合は贄となり、その地の一族に喰われて力を吸収されるという、至極、酷な慣わし……因習だった。
――全てを諦め、搾取される事を存在意義に生きていた女は、
放置という名の歪な自由と思慮を得て、自身を知った。
――全てを嫌悪し、忌み嫌われる力を虚しく感じていた厄神は、
少しずつ息を吹き返す花に安らぎを得て、情愛を知った。
『再生』と『破壊』――両極の能持つ異種の二人が歪に出逢い、恋におちた先は……
生物というもの……特に 人は、何かしらの不運や不幸に遭う事、災厄に襲われるのを恐れながら生きている。なるべく避けたい、平穏無事に一生を終えたい、というのが命ある者の本質であり、本能だろう。
そして、比較的軽い不運が遭った時、遭いたくない時に、古来から言われる決まり文句がある。
『ついてなかったな。疫病神が来た』
『厄日だから、結納は避けなさい』
どこの国でも、世でも、それは……――変わらない。
「あ…… 雪……?」
曇天の空から、ふわ、と顔に落ちた冷たい華。気づいた一人の巫女装束の少女が、そっ、と嬉しそうに手を伸ばす。
今年の初雪だ。ひらり、ゆらり、と舞いながら、白く小さな羽根のように、儚く降りて来る。足下の砂利がぶつかり合い、耳障りに鳴るのも構わず、少女は祠の側を歩き回る。
美しいけれど、決して掴めない。そんな事実はとっくに知ってはいるけれど、それでも手に取りたくなるのは、十八歳の若さ故の好奇心だろうか。
「アマリ様? 参拝の方……お客様がいらっしゃいましたよ」
「申し訳ございません。今、参ります」
初雪と無邪気に戯れる少女は消え、しゃん、と背筋を伸ばし、凛とした面持ちの尊巫女に変わる。境内の建物に戻っていった彼女には、これから重要な『仕事』があるのだ。
彼女――アマリは、社を護る一族の生まれだが、尊巫女の中でも極めて異質で、稀な存在だった。
陽光が当たると紅紫に透ける、濡羽色のゆるやかな長い髪。初雪が積もった直後のごとき白い肌。淡い瑠璃色に煌めく円らな眼。
見目麗しいというよりは楚々とした素朴な顔立ちではあるが、彼は誰時を思わせる風貌だった。その出で立ちは周囲を魅了するが、稀と謂われるのは、外見だけではない。
「奥様。本日は、いかがなさいました?」
落ち着きある白檀の香がほのかに漂う、檜を基に造られた八畳程の畳屋。中央に火鉢を挟み、自分よりも年長者の依頼人と向かい合い、正座する。
厳かというよりは温もりと安寧を感じさせる空間の中、しっとりとした澄んだ声で眼前の常連者に語りかけ、雅やかな微笑をアマリは浮かべた。
純白と朱の巫女装束に、紅紫の羽衣を纏う出で立ちは、正に高貴な生まれの神職者と言った印象だ。彼女の実家が司る、この社に訪れる者も、位の高い一族や裕福な者が多い。
彼女の面談式の『施し』は大変評判が良いが、ある理由で頻繁には行えない為、本人の意思とは無関係に、付加価値が付けられ対価が高額になっていたのだ。
今日の参拝――依頼者は、人族の都の重職に就く男の奥方だ。見合い……政略婚だったが運良く良縁で、仲睦まじい夫婦だったらしい。しかし、年月が経つにつれ、熱も情も次第に冷め、衝突が増えた。思い悩んだ末、遂に体調を崩したのだという。
「やはり、主人と上手くゆかず…… 何を聞いてもあの方が理解し難く、こちらの事も理解して貰えずで…… 苛立ちが抑えられないのでございます」
「……お嫌いになられたのでございますか?」
ずっと固くなっていた身体が震え、はっ、としたような表情になり、俯いて夫人は静かに首を振った。
「お見受けしたところ、ご主人様の嫌な面ばかり気に障るのでは……?」
「アマリ様。私に非があるとでも、仰るのですか?」
少し荒立てた素振りで問う夫人を、アマリは変わらず穏やかな態度を崩さず、静かな声色で続ける。
「いいえ。誰しも精神が疲弊すると、良くない方に目がゆくものです」
ぴくり、と顳かみが微動した様子を確認し、アマリは白魚のような右手を掲げた。眼を閉じて精神統一し、天に祈りを捧げると、ほのかな虹色の光と共に、一輪の花が現れた。
素朴な淡い瑠璃色の――亜麻の花だ。
「花能は『あなたの親切が身に沁みる。感謝します』でございます。手に取って、ご主人様にして頂いて嬉しかった事、お好きな所を思い出して下さい」
可憐な亜麻の花を手にした夫人は黙り込み、泣き出しそうな面持ちになった。微かに肩が震えている。夫の事をまだ好いているのだろう。だからこそ、仲違いをしては悩み、苦しむのだと考えた。
そんな彼女の心情を宥め癒していくように、夫人の掌の中で亜麻の花は朧気に瞬きながら溶けてゆく。幻想的で、美しい光景……
アマリが召喚した花は、花言葉の意味が具現化する力――『花能』に変わり、術者が念じた相手の心深くに授かる異能だった。
「落ち着かれましたら、今一度、ご主人様と今のお気持ちを話してみて下さい。因みに、この花の精油には、滋養に良い成分が含まれております。お身体の疲労は精神にも障ります。ご自愛もなさって下さい」
「アマリ様……‼ ありがとうございます‼」
両手を合わせながら首部を垂れ、夫人は何度も礼を言った。彼女の帰路を見送った後、艷やかな絹地の座布団の上に座り込み、アマリはゆったりと足を崩した。僅かな汗が額に滲んでいる。
「アマリ様。大丈夫ですか」
「問題ありません。いつもの事です。少し疲れただけですよ」
彼女の異能は、自身の生気を利用し、その力を変換することで発揮される。故に、施しを受ける者は限られている。その事は侍女も承知だった。複雑そうに微笑み、労るように言う。
「……亜麻の花、美しゅうございました。こんな季節に見られるのも、アマリ様のおかげでございます」
亜麻は春夏の花だ。紅葉の見頃が終わったばかりの、今の時期には咲かない。
「そう言えば、アマリ様のお名の由来でもございますね。目のお色と合わせて『亜麻璃』……素敵です」
「ありがとう」
微笑を浮かべ、丁寧に会釈する。いつか両親にその事は聞いた時は、アマリも嬉しかった。だが、その名には隠された裏の意味がある。その事を下女の噂話で知ってしまった時の、裏切られたような絶望感は忘れられない。
侍女が「お茶をお淹れ致しますね」と告げ、その場を離れた。一人きりになったアマリは、ぽつり、と呟く。
「……『殿方と婚姻する』って、どんな感じなの……?」
先達者のように説いてはいるが、依頼者の悩みを、アマリが実際に経験した事は無い。相手の心情を感知し、それに合わせた力を授けるという、全て異能ありきなのだ。
どんな形であれ自分には縁の無い、得られない事柄だと言う事は、はっきり判っていた。この社を取り巻く以外の世界を、彼女は知らない。知らないまま、間もなく人生の終わりを迎える……
そんな未来が、時折、何とも言えない無力感、やるせなさを覚えさせる。
「アマリ様。一刻程後、次のお客様がいらっしゃいますので、ご一服下さいませ」
施しが終わった後、毎回耳にする侍女の同じ言葉。変わらない仕組み。そんな状況でも、今まで通りの一日が繰り返されている。何事もなかったように。これからも無いかのように。
尊巫女の中でも、極めて稀な異能を持って生まれた亜麻璃の一生は、十八になったばかりの冬までだと……先日、決まった。
「アマリ。お前のいき先が決まりました」
先日のある夜更けの刻。アマリの暮らす離れに、両親が揃って訪ねて来た。最後に顔を合わせたのはいつだったか覚えていない。
次に会う時は、その時が来た事を告げられるのだろうと、覚悟していた。幼少は神々や一族の昔話を寝物語として乳母から、物心ついてからは自分の生まれ持った責務と宿命を、礼儀作法や教養の師範に説かれている。
どこぞの神の伴侶となるか、その一族の贄となるか。何れにしろ、二度とこの屋敷、社や両親、弟妹達の元には帰って来られない。先に旅立った姉が、そうだった。
「……どちらの神の方の元へ、でしょうか?」
姉の御相手は、確か稲荷様だったろうか…… 幾月ぶりにアマリは回想した。『物静かだが大層な別嬪で、聡明な方』とだけ聞いていた、姉の婚姻の結末を彼女は知らない。
あえて知らされなかったのかもしれないが、哀しさを感じつつ、あまり気にならなかった。異能の力が強くなった、物心がついた頃、本堂から離れた『施し』を行う一室に一人置かれた。それから十年程、侍女が衣食住の世話に来るだけの暮らしに変わり、親姉弟と疎遠になったからだ。
他の姉弟妹も家族の関係、情というものが希薄だったが、そんな扱いをされたのは自分だけだった。そんな処遇に戸惑い、疎外感と孤独感に苛まれていた。
「妖厄神(厄病神)です」
「……⁉」
様付けすらしない、神に対する称とは思えない呼び方。両親だけではなかった。この人族の間では、皆、彼の事を似たような概念で見て、呼んでいる。
そして今、そんな立場に置かれる者に、彼らは自分の娘を差し出そうとしている。長年隔離されていた世間知らずのアマリでも、とんでもない状況だということは判る。
唖然とした面持ちを隠せない彼女に、今度は父が語った。
「この役目は、お前にしか果たせない。頼む」
「解って頂戴。これが貴女の宿命です」
幼い頃と変わらず、形式的な言葉しか口にしない父と、神妙な形相で迫るように乞う母。自分も姉と同じ道をゆく事を予期はしていたが、さすがに両親の意図が解せず、困惑した。
「父様、母様…… ですが……何故……?」
尊巫女としての威厳を忘れ、無意識に声が震えていた。その神の元にゆく事は、伴侶にされる道は絶たれるという、酷な事実を意味していたからだ。
妖厄神――『禍神』の一類とされ、他の神々とは異なる立ち位置にいた。その名の通り、人族の地に神出鬼没に現れ、疫病を主に、あらゆる不運、災厄を誘発させる力を持つ。その度に多くの人族や生物が滅しして不幸になるため、人族から当然忌み嫌われ、死神並みに恐れられていた。
とはいえ、妖怪に値する存在ではないので、神々の間でも扱いに困り、煙たがっていたのだ。同じ種族には、疫病神、貧乏神などがいる。恐ろしい疫病を流行らせたり、獲物の金品財産を奪い、徐々に貧困に陥れる力を持つ。
それでも神の名が付く族にいるのは、彼らの能が驚異的であり、一理で罷り通るからなのだ。しかし、その非情で傍若無人な所業から、『人族を伴侶にするなど有り得ない』『そんな怪異な者に太刀打ちできる巫女などいない』と、今までどこの社も、尊巫女を出さなかったのだ。
「あの一族に対抗できる尊巫女は、他におらんのだ」
「贄となり、貴女が鎮めて頂戴。この為に力を使いこなし、鍛えてきたのです」
父母の説得は、解るようで解らない。自分の異能は、そんな脅威な力に対抗できるとは、とても思えなかった。
「そんな…… 私には、無理です……!」
「今まで人族の方々の治癒の為に使って来ましたが、本来の貴女の力は、生命萌芽……自然再生なのです。逆風となり相殺され、彼らの力を少なからず抑え込む事ができるでしょう」
「……‼」
知らずにいた真実に、アマリは絶句した。ならば、何故、今まで隔離されていたのだろう。最初から贄となり死ぬしか無い宿命だったなら、独りきりでいたくなかった。
例え希薄な家族間でも、軟禁まがいに離れに籠り、『仕事』や教養、芸事の稽古にばかり費やして暮らすよりは、ずっと良かった。少し位なら、日々の楽しみも得られたかもしれない……
茫然自失状態になり、目を臥せて黙り込んでしまった彼女の様子に、いつも通り娘は従い、受け入れたと父母は思ったらしかった。
「神界への『輿入れ』は、次の新月の夜になります。支度はこちらで進めますから、貴女は今まで通り……頼みますね。――アマリ」
駄々っ子を宥めるような口調の最後に、言い聞かせるよう念を込めた母の言葉が、普段動かない彼女の心を抉った。
完全に大人しくなった娘を満足げに見やりながら、父母が離れの襖から出て行く。後を追いかけ、問いかける気力はわかなかった。
アマリは『甘利』とも書く。利益を甘んじる、最上位にするという意味の名だ。彼女が産まれた時、祈祷師が重々しい口振りで、こう予言したらしい。
『この童はやがて尊巫女となり得るが、極めて稀な力を宿している。有り余る富をもたらすか、手に余る災いをもたらすかは……貴殿方次第でございましょう』
それを聞いた両親や親戚は、歓喜の一方、畏怖を覚えたという。そこで決まったのが、娘を上手く飼い慣らし、一族の為に利用する事だった。
全ての真実を知ったのは、僅か数年前。屋敷に仕える下女の立ち話を、物陰で偶然聞いた時だ。
『お気の毒よねぇ……いくら未知の能をお持ちだからって、神具扱いじゃない』
『けど私、あの方が不気味だったのよ。穏やかで楚々としていらっしゃるけど、何を考えてるのかわからなくて』
『姉の日向様も大人しい方だったけど、もっと利発でいらしたものね。あの方はお綺麗過ぎて怖かったけど』
『――しっ! 誰か……奥様の耳に入ったら……』
会話の内容、言葉全てが芯に刺さり、アマリの視界を消した。それまでの違和感、絡まりが一気にほどけ、そのまま崖下に引き落とされ――信じてきた人、信条、自分自身……全てが壊れ、崩れ落ちた瞬間――
……どのくらいの時が経ったかわからないまま、ふらり、とアマリは離れの庭園に出た。深夜の初冬の空。この小さな庭が、彼女の唯一の外の世界だ。
『施し』の仕事を始める時、依頼者にどんなに乞われても絶対に叶えてはいけない、幾つかの叶えられない事柄を、厳しく教えられた。
『死者の生還』『心を操る』『金品財宝などの富を与える』等……
どれも倫理に反していて、アマリへの負荷も多大で、命に関わるからだと聞いた。その時は、これは親の愛情なのかと嬉しくなったが、今では、それすらも信じられない……
庭の生け垣に、ちらほらと紅白の花が咲いている。世話は庭師が行っているが、季節の花を観賞する事は、限られた中の趣味の一つでもあった。
今は山茶花が見頃で、多く植えられていた。宵闇の中、赤と白に浮き上がるように咲く、雅で艶やかな様がアマリは好きだった。
――せめて一度だけでも、薄紅色が観たかった……
山茶花には桃のような薄紅色もあるが、ここは紅白のみだ。植えてもらえないかと庭師に申し出てみたが、尊巫女としての印象の為、巫女装束に使われる紅と白だけ植えるよう、奥方様に頼まれているから……と申し訳なさそうに言われた。
薄紅色の山茶花の花能は……『永遠の愛』。時折、特に女性の依頼者に望まれるが、アマリの異能では叶えられない事だ。
――そうだったわね。かなわない、のよね。何もかも
――『愛』が、何かもわからないまま、死ぬのだから……
闇夜に浮き出る紅白の花の前で、涸れ切っていた瑠璃の瞳を、独り滲ませた。
憂鬱な事柄が待ち受けていると、時が進むのが早いというが、今まで通りの多忙な暮らしを送っていたアマリには、感傷に浸る余裕すら無いまま日々が過ぎてゆく。
「アマリ様。おめでとうございます」
「尊巫女様。誠に有難うございます……!!」
『輿入れ』が決まってから、参拝者始め、屋敷に仕える侍女や下女に至るまで、顔を合わせる度、あらゆる人間に礼を言われ続ける。ある者からは泣かれながら、ある者からは恭しく頭を下げられながら……
いつも世話をしてくれる侍女は、少し複雑そうな眼差しで彼女を見つつも、普段通りの態度で接していた。
――もう、何も考えない。考えられない。考えたくない…… これが、私の生きる理由、運命、宿命……
自身に呪文をかけるように、何度も何度も、同じ言葉を繰り返し、念じ聞かせる。
この数年、年替わりに天変地異を始め、疫病、火災、飢饉、治安の悪化という様々な災厄が、人族の地を襲っている。原因はともかく、恐怖と絶望に陥った人々が、何かの救いを求めたがるのは無理も無いと思った。
自分がその元凶の一つを少しでも鎮められるのなら、これが自分の役目で存在意義なのだ……と、自身に改めてアマリは諭した。
拒否した時の彼らを想像すると、罪悪感で痛ましくもなる。自分の命や人生の事など、少しでも気にしたら、自身の何かが狂ってしまいそうだった。為す術が無いという以前に、そんな考えや疑問すら持つ事自体、決して赦されないのだと、生まれた瞬間から暗に圧され命じられている。
そして、初めての『仕事』の依頼者……相手は、アマリの両親だった。一番親しい者の情すら察せぬなら、花能の尊巫女など務まらないという意の試験だ。父母に認められたい一心で、不仲な二人其々の情を必死に感知し、なんとか合格したのだった。
瞬く間に、いよいよ明日が『輿入れ』の夜となった。さすがに前夜は、処刑を待つような心境になるだろうと予測していたが、心身共に疲れ切っていたアマリは、無気力……虚脱に陥っている。
この離れに連れて来られてから、一人で夜を過ごすのは当たり前だった。寂しさと心細さで泣いても、来てくれる者は誰もいない。時に、悪夢による恐怖で助けを呼んでも『騒がしい。眠れない』と、咎められる。
舞などの稽古中、厳しさに思わず涙すると師範に注意され、その後、母にきつく叱咤された。そんな日々が過ぎてゆく中、一つ、また一つと何かを諦め、気づいた時には、全て、棄てていた……
――妖厄神様…… せめて、完全に殺してから、贄にして下さらないかしら……
――あ……だけど彼にとって、私は毒なのよね…… 本来なら、夫になる立場の方に奇襲するなんて……嫌われてしまうわね……
朦朧としたまとまりの無い脳裏に、『人族の力になって役に立つ』『神族との梯子になって支える』という、尊巫女の誇りと義務感が揺らいでは、浮かぶ。少しでも気を緩めると、歪に壊れてしまいそうな心境の中、婚礼前夜が過ぎていった。
翌日。ほとんど眠れなかったアマリは、朝から始まった『輿入れ』の支度にも、されるがままだった。まずは社の地下水を沸かした湯で体を清め、長い濡羽髪を結い上げ、白粉を施し、紅を差す。
この役目を代々任されてきた侍女達によって全て行われ、慣れた手つきで、彼女達は順序良く事を進めていく。仕上げに白無垢……花嫁衣装を纏った時には、淡い瑠璃の瞳が白一色の姿に一層映え、神秘的な美しさを醸した姿になっていた。
――……私……死ぬのよね……? これから……
出来上がりを姿見に映され、『お美しゅうございます』『素晴らしい出来映えです』と絶賛される。そんな状況が、当人のアマリは不可思議……滑稽な思いでいた。
相手が神族とはいえ、いつかは花嫁衣装を着るという未来は憧れだったが、上質な白無垢も丁寧に施された化粧も、今となっては逝く為の死装束にしか見えない。
それなのに……と、ぼんやりした脳内の中が、改めて空虚感で埋まる。が、今更な事だ……とも同時に思う。今までずっと、当たり前のように当人の意思や疑問は無視され、あらゆる事柄が進められていった。止める術も止められる者も無い。
全て始めから、見知らぬ何かによって決められていた出来事……人族の為に犠牲となる尊き巫女の清く潔い姿を、民に見せつける儀式……祭典の一環なのだと、改めて思い知らされる。
宵の帳が落ち切った、新月の夜更け、申の刻。真冬の夜空からは、ちらほらと粉雪が降って来ていた。
そんな凍てついた気温の中でも社の屋敷の入口付近には、周辺に住む人族の民が、今夜『輿入れ』する尊巫女を一目見ようと集まっている。彼女の行き先は、既に人族の間に知れ渡っていたのだ。
自分達の為に、あえてあの妖厄神の元へゆく……何と気高く、慈悲深い尊巫女様だと、手を合わせながら崇め、奉り、中には憐れみを含んだ眼差しを向ける者もいる。
皆、この婚姻は尊巫女が厄神の贄となり、忌まわしい力を抑える為の儀式であり、『花嫁の死』によって終わると知っていた。昼間の明るい青天の下ではなく、宵闇に紛れながら目立たず婚儀を行う理由も、暗に了解しているので誰も不平不満を言わない。伴侶が主に日暮れ後に現れ、決して手放しで祝福できない婚姻……それが、亜麻璃という尊巫女、一人の女性の宿命という事も……
屋敷全体の入口である、立派な門構えの近くに、一人用の駕篭を携えた、社に仕える二人の従者が待っていた。浅い烏帽子を被り、上質な袴姿という高貴な印象の出で立ち。暖をとる為でもある、炎の灯った松明を手にしてはいるが、漆黒や鉄紺を基調にした羽織を纏い、顔の下半分を布で隠した姿は、あの世への案内人のようにも見えた。
門から少し離れた場所を取り囲むように、人族の民が傍観する中、侍女に付き添われた白無垢姿のアマリが現れた。暗がりの中、綿帽子を深めに被り、目を伏せている彼女の表情は見えない。それでも全身から放つ、清楚で雅やかな気は隠せないでいる。
そんな淑やかな出で立ちに、民も待機していた従者達も、ほうっ……と密やかに感嘆のため息をついた。
「尊巫女様。こちらへ」
従者の一人が、アマリに駕篭に乗るよう、恭しく促す。無言のまま静かに会釈した後、アマリは引き込まれるように、そろり、そろり、と壇を踏み、華奢な身体を中へ押入れる。
純白の花嫁を乗せた駕篭は、そのまま屈強な従者二人にようやっと担がれ、雪舞う道へ進み、やがて闇夜に消え入った。
どのくらいの時が過ぎたろうか。暗がりの狭い駕籠の中、アマリの意識は寝不足と空腹で朦朧としていた。昨夜から今日一日、社の地下水しか口にしていない。人族の世界――俗世の気を少しでも身体から失せさせる為と聞いた。
窓どころか隙間も無い駕籠の中からは、外の様子は全くわからない。何処を通っていて、どの方角に向かっているのかも、弱った頭や身体では感じ取れずにいる。万が一、尊巫女が役目を放棄し、逃亡出来ないようにする狙いでもあったのだ。
帰り道がわからないよう、アマリは道順を教えられていない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、そこからは別の者が引き継ぐ、という手筈な事は聞いていた。
規則的に左右に揺れる駕籠の中で、懐からふと、布に包まれた一つの陶器の小瓶を手にする。今日、支度の最後に持たされたのが、これだった。いざ贄となる際、なるべく苦しまないよう、せめてものはからいだと、母から渡されたもの。強力な催眠作用の薬らしく、神界に着いたらすぐに飲むよう言われた。暫し後、強烈な睡魔に襲われ、意識を失うという。その間贄になり得る、という事だろう……
そんな曰く付きの代物を改めて手にしても、既に麻痺していた心は、何も感じなかった。ただ、一刻も早く終わってほしい、とだけは思った。
せめて正気を保っていられるうち……恐怖や怨恨に狂い、見苦しい様を晒しながらは逝きたくない。それが、今のアマリに残っていた、唯一の自尊心だった。
――もう、今すぐ飲んでしまいたい……
何に対してかもわからないまま、瓶を握りしめながら祈り、逃避するように視界を閉じた。
「尊巫女様。大変お待たせ致しました」
「通過地に到着しましたので、お降り下さいませ」
さすがに疲労と睡魔に負け、うつらうつらと微睡み始めた頃。揺れが止まり不審に思った刹那、駕籠から出るよう促す声が聞こえた。寝ぼけた頭を軽く振り、眼を指で擦る。開かれた扉から外を覗くように、アマリは身体を押し出した。
ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、目を凝らさないと対岸は見えない程の雄大な河。目の前を流れ行く水の音が、未だ粉雪が舞う宵闇の中、静かに響いていた。
「ここは……?」
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一の繋ぎ――聖域でもあります」
従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在は、尊巫女としての知識の一つとしてアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。ごく限られた者しか行けない禁じられた聖域だとも両親から聞いていたが、どんな時に何の目的で利用するのかは、何となく察しがついていた。
「……我々は此処まででございます。後は、彼方の者達がご同行致します」
続けて告げた従者の言葉に不安になった時、少し離れたところから、彼らとは異なる声が降ってきた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
声のした方――岸辺に二つの人影があった。藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男達が、先端に純白の紙垂を幾つも吊り下げた独特の仕様の櫂を、それぞれ手にして立っていた。すぐ傍に木製の舟が停まっている。
「……貴殿方は?」
「厄界の長様の命により、お迎えに参りました」
「我々は、この八百万の河の番人。ここから神界に行くまで、貴女様を無事にお運びするのが役目でございます」
言葉使いや物腰は丁寧だが、その佇まいは明らかに人族では無い、独特のものだった。辺りに唸るように低く鳴り響く、琵琶の音のような声色。纏う空気も異様で、不気味な気が交えているのが本能的に察知出来た。顔形は人族と変わらないようだが、よく見ると彼らの両耳は笹の葉のように尖っており、犬歯が突飛抜け出ている。
ふと、彼らが手にしている櫂の先端と同じ仕様の紙垂が付いた、注連縄のような物が舟全体を護るかのように巻かれているのに気づく。この場で唯一、アマリがよく見慣れた仕様だ。
「――結界、ですか?」
少し意外に思い、おののきながら問いかける。ここは社でも神宮でも無い、人族の住む土地の一つ……邪や妖に狙われ脅かされない、平穏であるはずの場だ。
しかも、彼らは神界ではなく禍神の類……厄界の者。厄祓いの神具でもある、大幣を彷彿させる仕様の櫂を手にしている状況にも、アマリは戸惑っていた。
「左様でございます。ここは人族と神界の境目。護りが曖昧になり、道中、貴女様を狙った物怪や妖共が襲って来ないとも限りませぬ故」
白地の羽織姿の彼らは、河の番人というよりは、山伏のようにも見える。これから向かう見知らぬ世界の、自身の常識など全く通用しないであろう異質さを、アマリは身に沁みて感じた。本当に人族の世から去り、神の住む異界に行くのだと改めて実感する。
「……では、我々は此れにて。失礼致します」
順々に丁寧に頭を下げ、別れの挨拶を告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、颯爽とした足取りで、来た道を戻って行く。ようやっと、様々な意味合いの重荷を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自虐的な思いで、アマリは見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
彼らの姿が見えなくなった頃、異界の番人達が、琵琶の低い音を鳴り揃え、彼女を促した。
ゆらり、ゆらりと今度は不規則に全体が揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。
「暁の刻までには到着致します故、暫しのご辛抱を」
軽い酔いと雪降る深夜の冷え込みが堪え出し、気を紛らわしたくなったアマリは、近くにいた番人の一人に尋ねた。
「……貴殿方は、妖厄神様をご存知なのですか?」
「これは珍しい。あの方をそのように呼ばれる人族は、貴女様位ですぞ」
彼は愉快そうに、軽い笑い声を上げた。
「何故ですか? 禍神といえ……神様でしょうに」
「その通り。が、大抵は『厄病神』『妖厄神』などと呼び捨てる。むしろ、我々が問いたいものだ。何故、そのように?」
彼女の方は見ず、少し皮肉るような口振りで、番人は逆に尋ねる。アマリは返答に詰まった。無意識に口にした名称だが、今から会いに行く者は、あくまで神族の長なのだという、欠片程になっていた尊巫女の誇りと自尊心の表れと……自覚したのだ。
「……」
「もうじきです。到着次第、長様が風の如く参られます。お覚悟を」
うつむき、無言になったアマリを一瞥し、淡々と彼は告げた。遂にその時がくる。
懐にしまっていたあの小瓶を取り出し、密やかに栓を開けた。軽く一息ついた後、一気に液体を飲み干す。苦味があるため気をつけるよう注意されていたが、凍てつき切っていた彼女の舌は、もう、何も感じなかった。
夜空の藍が朧気に霞み始めた頃。いつの間にか視界に映っていた、鬱蒼とした水草の茂みを潜るように抜けると、舟場のような入り江に到着した。
柳らしき木々と、停留している何槽か停留している木舟に囲まれるように、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、前方に少し離れた所に見えた。
「あの橋を渡った先が我々の地――厄界になります」
「あちらに長様が参られます。暫しお待ちを」
河はまだ先に続いているが、どうやらここが彼らの終着点らしい。特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界への入口を抜けて来たようだった。
「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる伝達役の鷹を、今から呼び寄せます」
「到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。なあに、奴もあの方も突風の如く飛んで来られるので、あっという間です」
舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。『そう……ようやく……』と、疲労困憊状態のアマリは思った。――瞬間。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く間際、両手首を掴まれ、あっという間に羽交い締めにされる。
「な、に……⁉」
困惑する彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。
「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」
思いがけない問いに、アマリの心臓が、ぎくり、と恐怖で絞られた。彼らが自分の方を見ていない隙に急いで飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。
「何かの薬……まあ臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが……些か感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が何か良からぬ謀を企み、貴女を我々に差し出した事など、既にお見通しでございます。――あの方も」
「……‼」
番人の言葉に意識が遠退き、さあっ、と血の気が引いた。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか……
伴侶にも贄にもされず、ただ無意味に折檻されて終わるなど……いくら何でも惨めで――酷すぎる。
麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。捕まれた手首を必死に振りほどこうとするが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、思うように抵抗できない。頭にふらつきを感じ、眩暈まで起こり始めている。
「ああ……やはり、催眠剤でございますか。贄となられる為の積極的な心構え……健気でなんともお痛わしい」
そんな彼女の状態を愉快そうに眺めている、もう一人の番人が、嘲笑混じりの皮肉を言う。
「い、嫌……‼ お止め下さい……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかり、その清いお身体で楽しませて頂けたら」
「左様。勿論、純潔を奪うなどという、鬼畜な所業は致しませんよ。我々に何かしらの影響が起こり得るかもしれないと、あの方も仰いましたしねぇ」
能面の笑みの二人は、琵琶の重い声色を震わせ、そんな恐ろしい思案を言う。背後で手首を掴んでいた方の番人が、白無垢姿のアマリを強引に抱え、乗っていた舟底に無理矢理横倒した。そのまま覆い被さると、年季の入った木舟が揺れ、ギギイッ、と軋む音が耳障りに鳴る。
「痛っ……!」
「ふむ、白無垢の花嫁の柔肌を曝すというのは、なかなか興奮しますな。あの方が実に羨ましいが、尊巫女とあっては迂闊に手出しできない……なんとも口惜しい事で」
顔形は人族と変わらないが、ぎょろり、と見下ろす吊り上がった眼は、黄金色にぎらついている。飢えた獣――化け物の目だ。吐く息も荒くなっている。彼らは本気で自分に無体をはたらく気だと、アマリは本能で危険を察知した。
「止め、て‼」
助けが欲しかったが、今のアマリに味方は皆無だ。絶望的な状況だが、いくら何でもこんな目にまで遭うのは御免だと、必死に渇いた口を開く。
「間もなく……妖厄神様が、いらっしゃるのでしょう? このような、勝手な仕打ちが……赦される訳……」
震える声で絞り出した切り札だったが、能面から下卑た笑みに変わったもう一人の番人が、そんな彼女を更に蹴り落とす事実を告げる。
「案ずる必要はございません。あの方には、雪の為、到着は明日になると伝えております。折角ではございませんか。貴女も尊巫女の務めなど忘れ、我々と楽しみましょうや……」
信じたくない、恐ろしい返答が飛び込んできた瞬間、押し倒していた方の番人の手が、乱暴に白無垢の襟元を引き下げる。獣のように鋭く伸びた爪が、上質な絹生地をビッ、と裂き、切れ目を入れた。
もう完全に逃げ場は無いのだと、映る闇が更に濃くなり、無力感に陥る。
――また、こうなるの……? 嫌でも抵抗出来なくて、騙されて、利用されて……
――……ああ、そうだった。始まりも、終わりも…… それが『私』の、元々の在り方で……宿命……
『諦め』『自棄』という類いの思いが、疲労と薬で朦朧とした脳裏に、再び過った――刹那。
ヒュ――シュッ――‼ という、かまいたちのような鋭利な音が、その場を切り裂くように、駆けた。
「早い仕事だったな。ご苦労」
ずっと緊迫していた場に初めて響く、抑揚の無い冷淡な音で発された声が、明け出した宵空から降ってきた。途端、番人達がみるみる青ざめ意気消沈し、ガチガチ震え出す。ごく、と密かに息を呑む音が、どちらかともなく鳴る。
聞こえた賞賛の言葉に反し、今にも斬りかからんばかりの重圧が、周囲に放たれている。眼前の番人の首元に当てられた、ギラリ、と鈍く冴える刃先が、アマリにも向かっている。
だが、今の彼女には救いの天啓、天明のように聞こえ――映った。
「けっ、荊祟、様……⁉」
アマリと襲いかかっていた番人から、少し離れた場所にいたもう一人の番人が、幻でも見たような間の抜けた声色で叫ぶ。
その声に合わせるように、荊祟と呼ばれた青年らしき男は、首元に当てていた刃先を、今度は彼の額ぎりぎりのところに移動させ、そのまま追い立てるようにアマリから離れさせた。一呼吸する間の、ほんの一瞬の出来事だった。
壁になっていたものが無くなり、ようやく開けたアマリの視界に、震え上がってへたり込んでいる番人の額に、日本刀らしき刀を突き付けている黒っぽい長い人影が映った。
明らんできた暁の逆光でよく見えないが、濃灰の硬質な長めの前髪は非対称に分けられ、短い方と襟足は後方に雑に流している。ほのかな光に当たった部分は月白に透け、銀糸の如く煌めいていた。
漆黒の羽織に藍鼠色の長着物の下は、忍装束のような漆黒の履き物と草履。細身の腰には革紐がきつく巻かれ、刀の鞘と小ぶりの巾着袋、数珠玉がぶら下がっている。
人族の世界だと、野武士か忍と判別するような出で立ちだが、耳はやはり笹のように尖っていた。顔下半分を被い隠した、黒地の布で表情は分からない。が、髪の隙間から見え隠れする、黄金色に鋭く光る切れ長の眼を、より一層、印象的に魅せている。
やはり人族とは違う異界の者なのだと、安堵から再び朦朧とし始めた脳で、アマリは思った。
「……長様、何故……こんな、早く……?」
先程までとは別人のように狼狽え、刀を向けられた番人が、情けない声色で問いかけた。
「黎玄を飛ばし、密かに様子を伺わせていた。……念のためだったが、我ながら賢明だったな」
淡々とした抑揚のない物言いだったが、その声色は重く、静かな怒りが含まれているのがアマリにもわかった。威厳という冴えた圧を感じさせるのは、彼が一族の長だからだろうか。
ギャア、と高らかな鳴き声を上げ、朱色の眼光を放つ鷹が、バサッ、と焦茶の翼を羽ばたかせ、布が厚く巻かれた彼の腕に止まる。「よくやった」と荊祟は呟き、懐に下げた袋から木の実のような物を左手で取り出し、指の空いた漆黒の手袋越しに渡した。
以前、実家の屋敷に都の遣いで来られた鷹匠のようだと、アマリは思った。彼の長く伸びた指先には、黎玄と呼ばれた鷹とさして変わらない、鋭く伸びた爪が光っている。
「……この女を喰うなり犯すなりすると、我ら一族の力が失墜するやも知れぬ。その事はお前達も知っているはず」
眼光だけで斬られるのでは、と錯覚するような鋭利な黄金の眼差しで、顔面蒼白の番人二人を交互に睨み付けた。一人には刀を突き付けたまま、じりじり、と詰める。
「長である俺に逆らってまで、珍しい女が欲しかったのか……? 反逆か?」
「……とんでもございませぬ!! 我々はそのような謀反を企てたのではございません!」
赦しを乞おうと、刀を向けられた番人がまくし立て、慌てふためきながら弁解する。
「左様でございます! 人族とはいえ……女でございましょう? 折角の厄界にいない種……見栄えも悪くない。少しばかり味見をしても良いのではないかと伺いました」
「如何にも。要は、契りを交わさなければ良いのですから…… 何なら荊祟様が楽しまれた後でも構いません」
この言葉で、ざわり、と周囲に烈な殺気が満ち、荊祟の眉が吊り上がった。こめかみに青い血管が浮かび上がり、発した眼光が稲妻のそれに変わった。
「……貴様等も、俺を色狂いの獣とでも思っているのか……?」
「い、いえ‼ 決してそのような事は……‼ 私共は、ただ……」
完全に長の怒りを買ってしまった事を認識し、番人二人は急いで土下座しようとした。
「もう良い。粛清する」
チャキ、と鍔を整える音が鳴る。と同時に、へたり込んでいる方の番人の首元に、再び刃を強く押し付けた。彼の汗ばんだ皮膚から、今度は一筋の赤い滴が流れる。
――私達と同じ、色……
そんな至極緊迫した状況だったが、完全に茫然としていたアマリの脳は、そんな唐突な感想を浮かび出す。
「戻って仕置きを受けるか、この場で俺に斬られるか、とっとと選ぶが良い。どうする」
残酷で容赦のない最終警告に、今では哀れに見える位に縮み込んだ番人が、涙声で答えた。
「――仕置きの程を……」
「……この女の処分は、俺が決める。早まった事はするな」
ようやっと気が鎮まったらしい彼は、ゆらり、と刀を下げて鞘に収めた。そして、すっかり茫然自失状態、死んだ魚の目に変わった番人二人を、木船に備えていた縄で、そのまま易々と合わせ縛り上げる。
「……あ、ありがとう、ござい……ました。助け、て頂……」
此処に現れてから、一度も自分の方を見ない彼に対し、反射的に呂律の回らぬ口で、アマリは礼の言葉を発していた。ようやく、荊祟は彼女の方を向いたが、冷ややかな眼差しでそんな様子を凝視している。
次第に思考が曖昧になり、目の前が揺らいでふらつき出した。ゆるゆる、と力が抜けていくにつれ、彼女の身体はうつ伏せに倒れ込む。もう、限界だった。
このまま眠り込んでしまったら、長である彼に殺されるかもしれない。とは言うもの、抵抗する力はもう無かった。どうせ全てばれている。今更、彼が自分を贄として一族に渡す事も、伴侶にする事もないだろう……と薄らぐ意識の中、アマリは考えた。
尊巫女の責務は果たせないが、人族……女の尊厳だけは、どうにか守れたようだ。それだけでも幸いだったと思うしか、無い……
自分の人生とは何だったのか……と、一瞬思ったが、次を考える間もなく、アマリの思考には靄がかかり、視界には蓋がされ……やがて、意識は彼方に消えた。
――…………
ふわり、ふわり、と身体が妙に軽い。どうやら宙に浮かび、飛んでいるらしい。心地好い風に流されているようだ。そんな朧な感覚が、彼女が最後に覚えていた事だった。
――嗚呼……冥土に向かっているのね……? どなたかお迎えにいらしたのかしら……
そんな疑問がぼんやりと過ったが、間もなく襲った突風と強烈な閃光により――消え失せた。