まだ立春を迎えたばかりの日暮は早い。そんな季節の流れは、人族の界と同じだった。
宵に落ちる前にと、荊祟はアマリを抱え、宙を舞い飛ぶ。だが、暫く身体を動かしていない彼女を案じ、『少しは体力をつけた方が良い』と、以前も訪れた池囲いの庭園からは、歩いて帰る事にした。
今では馴染みがある道になったが、暗がりの中を慣れない着物で歩くのは心許ない。おぼつかない足取りで、心無しかゆったりと歩く荊祟の後ろを、転ばないよう必死に付いて行く。
――歩調を合わせて下さってるのかしら……?
いつもならもっと俊敏な動きで振る舞う彼が、気遣ってくれていることが嬉しく、少し息が上がって辛くなってきた状態が言い出せないでいる。
そんな中、突然、目の前に漆黒の布地が迫った。つんのめり、反射的に見上げる。
「辛いなら遠慮なく言え。止まるから」
眉や目元は変わらず鋭く、涼やかだが、少し困ったような、それでいて心配そうな眼差しでアマリを見下ろす。彼は自分よりも頭一つ分の背丈がある事に、今頃気づいた。
「も、申し訳ありません。遅れるといけないと思いまして……」
「……あと少しで帰れる。多少暮れてもかまわん」
躊躇いがちに、ゆっくりと荊祟はアマリの手をとった。自分より一回りは小さな掌に、鳥のように鋭く伸びた爪が触れ、そのまま固まった。アマリも同じように硬直する。
だが、彼とは違う理由だ。荊祟の口から紡がれた『帰る』という言葉、触れられた手に、異様に意識が集中する。
「……あ、の」
「……腕に掴まれ。足元にだけ注意しろ」
少し上擦った声で手を離し、今度は左腕を曲げつつ差し出した。視線はアマリから反れている。
「……はい。ありがとうございます」
動揺した心を抑え、今度は気遣いに甘えた。恐る恐る、彼の二の腕を羽織越しに掴み、身体を軽く預ける。
その様子を確認した後、荊祟は再び歩き出した。先程よりも、更に速度が落ちる。そんな行動の何もかもに慣れないアマリの心が翻弄する。ふわふわ、と芯から浮いているようで落ち着かない。こんな風に優しくしてもらった事も、誰かと密着する事も、記憶になかった。
気恥ずかしい沈黙をごまかしたくなり、何か話題を探す。……ふと、彼の年齢を聞いていなかった事を思い出す。確か、先代の尊巫女が献上されたのは、百年近く前だという。その後、彼が産まれ、代替えしたという事は……
「……あの、荊祟様は、おいくつなのですか?」
「神界の長は、尊巫女と契るまで年をとらん。故に成人……代替えした十七のままだ」
「じゅ、十七……!?」
まさか年下だったという事実に驚愕する。怜利で大人びていて、威厳ある一族の長だ。年上だと思っていた。
ずっと前を向いていた荊祟が、少し顔を向け、怪訝そうに返す。
「そんなに可笑しいか」
「いえ! ただ……驚いて……」
「たかが一つ違いだろう。それに、お前よりも何倍もの年月を生きている」
「そう、ですけど……」
何が不満なんだと、少し拗ねたような彼に、急に親しみを覚え出してしまう。そんな自分が不思議で、本当に……可笑しかった。それだけではない。
――出来るなら、このまま屋敷に着かないでほしい……
という、自分でも理由のわからない願望を抱き出している。
「……気づいているだろうが、黎玄はもう向かわせていない。何か要望があれば、カグヤに言え」
明らかに挙動不審なアマリを、ちらり、と不思議そうに一見した後、彼自身も理解できない動揺を秘かに抑えながら、そう告げた。
その夜は、生まれて初めてと言っても過言ではない、昂る想いと喜びに包まれながら、アマリは久方ぶりに安らかな眠りについた。
だが、翌日から、次第に悪夢を見る回数が増えていった。人族の実家にいた時も見る事はあったが、大抵は疲れ切って沼に沈むように眠るか、逆に情緒が落ち着かず眠れない、という事が多かった。
夢の内容は様々で、ほとんどが抽象的だった。目覚めた時にはほぼ忘れているが、至極後味の悪い余韻と頭痛が、しっかりと残る。
何かに襲われ、追いかけられ、罵倒され…… 時には、実際に言われた言葉が、何度も頭に鳴り響く。
「昨晩は眠れず、ひどくお疲れだったようで仮眠をされていたようです。異変を察し、こちらに来た時には、ひどく魘されておいでで…… 恐ろしい夢でも見ておられるのでしょうか……」
まだ日は明るい中、どうにか寝かせた敷き布団に横たわり、「う、あ……」と呻くアマリを心配そうに見ながら、訪れた荊祟にカグヤは告げる。側の畳には、以前、荊祟が渡した書物が開かれたままになっていた。
「先程から何度もお声掛けしたのですが、お目覚めにならないのです」
「……いや。もう、嫌なの……誰か……」
掠れた声でうわごとを口にし、苦痛に耐えるように、うつ伏せのままアマリは敷き布を握りしめる。
そんな彼女を哀しげに見ていた荊祟は、少し躊躇った後、そっ、とその手をとり、恐る恐る、数本の長い指で握った。鋭い爪で彼女の柔らかな掌を傷つけないように、優しく包む。
ぴくん、とアマリの身体が震え、うめき声は少し静まった。自分の掌を包んでくれている少し固く、温かな何かにすがるように、力なくも握り返す。
「長様」
「……こうするだけなら、問題無いのだろう?」
荊祟の心境を改めて感じたくノ一は、複雑そうに、声を掛ける。彼の眼差しには哀しみと労りが含んでいる。だが、その瞳の奥には、戸惑いと共に、和かな熱も帯びていた。いずれ苦しみを伴う、兆しの想いが……
外が宵に落ちた頃。アマリはようやっと目を覚ました。
「……?」
まだ痛みの残る脳裏に、昔の自室と今の部屋の記憶が交差する。虚ろげに眼球を回すと、暗がりの中、行灯に灯る温かな光が映り、少し安堵した。此処は『ここ』だと認識する。
「アマリ様。大丈夫ですか?」
聞き慣れた凛とした穏やかな声に、更に気がゆるみ、張り詰めた心がほどけた。
「カ、グヤさん……」
「昼過ぎからお眠りになっていましたが、随分と魘されておいでだったので、隣から参りました」
ずっと看ていてくれたのだろうか。確か、自分は読書をしていた。寝不足で睡魔が襲ってきて、それから……
カグヤに背中を支えられながら、重い身体をゆっくりと起こす。ふと、枕元に菓子折らしき包みと小箱、一通の文が置かれているのに気づいた。
「……これ、は……?」
「夕刻、長様がいらしまして…… 貴女様に渡すよう頼まれました。気が滅入った時などに良ければ食べるよう、との事です」
藤色の綺麗な紙箱を開けると、一口計の小さな饅頭、羊羮、干菓子、練りきり等が、色とりどりの可愛らしい仕様で詰められていた。驚きで眼を見開くアマリに、苦笑しながらカグヤが付け足す。
「最近の若い女が何を好むかわからないから、密かに調べてくれと言われました。こんな任務は初めてでしたよ」
虚ろな陰を落としていた瑠璃の瞳に、微かな光が灯った。続けて小箱の方をそっ、と開ける。
中身は、鼈甲製の土台に、紅白の山茶花をつまみ細工で象った櫛形の簪だった。所々に真珠がちりばめられた美しい仕様の品が、薄紅の薄紙に包まれている。
目を疑ったアマリは、急いで文の方を開く。見覚えのある達筆な文字で、たった一文が記されていた。
『花をあまり見せてやれなかった詫びだ。遠慮なく受け取れ』
「詫び、って……! こんな高価なお品……!!」
悲鳴のような感想が洩れた。何故、彼はこんなに優しくしてくれるのだろう。自分は何も出来ないのに。返せないのに。
「後日、ご自分で渡された方が良いのではと申し上げたのですが…… 早い方が良いと仰いまして」
「荊、祟様……」
思わず文を抱きしめたアマリの瞳に、再び涙が滲む。弱り切った心に沁みた素っ気ない思いやりは、あまりに不意討ち過ぎて、温か過ぎて、甘過ぎた。
悪夢に襲われていた最中、覚えのあるぬくもりが意識を包み、ふわり、と開花した事を思い出す。あの時の感覚は、ちょうど今、感じている想いに似ていた。
宵に落ちる前にと、荊祟はアマリを抱え、宙を舞い飛ぶ。だが、暫く身体を動かしていない彼女を案じ、『少しは体力をつけた方が良い』と、以前も訪れた池囲いの庭園からは、歩いて帰る事にした。
今では馴染みがある道になったが、暗がりの中を慣れない着物で歩くのは心許ない。おぼつかない足取りで、心無しかゆったりと歩く荊祟の後ろを、転ばないよう必死に付いて行く。
――歩調を合わせて下さってるのかしら……?
いつもならもっと俊敏な動きで振る舞う彼が、気遣ってくれていることが嬉しく、少し息が上がって辛くなってきた状態が言い出せないでいる。
そんな中、突然、目の前に漆黒の布地が迫った。つんのめり、反射的に見上げる。
「辛いなら遠慮なく言え。止まるから」
眉や目元は変わらず鋭く、涼やかだが、少し困ったような、それでいて心配そうな眼差しでアマリを見下ろす。彼は自分よりも頭一つ分の背丈がある事に、今頃気づいた。
「も、申し訳ありません。遅れるといけないと思いまして……」
「……あと少しで帰れる。多少暮れてもかまわん」
躊躇いがちに、ゆっくりと荊祟はアマリの手をとった。自分より一回りは小さな掌に、鳥のように鋭く伸びた爪が触れ、そのまま固まった。アマリも同じように硬直する。
だが、彼とは違う理由だ。荊祟の口から紡がれた『帰る』という言葉、触れられた手に、異様に意識が集中する。
「……あ、の」
「……腕に掴まれ。足元にだけ注意しろ」
少し上擦った声で手を離し、今度は左腕を曲げつつ差し出した。視線はアマリから反れている。
「……はい。ありがとうございます」
動揺した心を抑え、今度は気遣いに甘えた。恐る恐る、彼の二の腕を羽織越しに掴み、身体を軽く預ける。
その様子を確認した後、荊祟は再び歩き出した。先程よりも、更に速度が落ちる。そんな行動の何もかもに慣れないアマリの心が翻弄する。ふわふわ、と芯から浮いているようで落ち着かない。こんな風に優しくしてもらった事も、誰かと密着する事も、記憶になかった。
気恥ずかしい沈黙をごまかしたくなり、何か話題を探す。……ふと、彼の年齢を聞いていなかった事を思い出す。確か、先代の尊巫女が献上されたのは、百年近く前だという。その後、彼が産まれ、代替えしたという事は……
「……あの、荊祟様は、おいくつなのですか?」
「神界の長は、尊巫女と契るまで年をとらん。故に成人……代替えした十七のままだ」
「じゅ、十七……!?」
まさか年下だったという事実に驚愕する。怜利で大人びていて、威厳ある一族の長だ。年上だと思っていた。
ずっと前を向いていた荊祟が、少し顔を向け、怪訝そうに返す。
「そんなに可笑しいか」
「いえ! ただ……驚いて……」
「たかが一つ違いだろう。それに、お前よりも何倍もの年月を生きている」
「そう、ですけど……」
何が不満なんだと、少し拗ねたような彼に、急に親しみを覚え出してしまう。そんな自分が不思議で、本当に……可笑しかった。それだけではない。
――出来るなら、このまま屋敷に着かないでほしい……
という、自分でも理由のわからない願望を抱き出している。
「……気づいているだろうが、黎玄はもう向かわせていない。何か要望があれば、カグヤに言え」
明らかに挙動不審なアマリを、ちらり、と不思議そうに一見した後、彼自身も理解できない動揺を秘かに抑えながら、そう告げた。
その夜は、生まれて初めてと言っても過言ではない、昂る想いと喜びに包まれながら、アマリは久方ぶりに安らかな眠りについた。
だが、翌日から、次第に悪夢を見る回数が増えていった。人族の実家にいた時も見る事はあったが、大抵は疲れ切って沼に沈むように眠るか、逆に情緒が落ち着かず眠れない、という事が多かった。
夢の内容は様々で、ほとんどが抽象的だった。目覚めた時にはほぼ忘れているが、至極後味の悪い余韻と頭痛が、しっかりと残る。
何かに襲われ、追いかけられ、罵倒され…… 時には、実際に言われた言葉が、何度も頭に鳴り響く。
「昨晩は眠れず、ひどくお疲れだったようで仮眠をされていたようです。異変を察し、こちらに来た時には、ひどく魘されておいでで…… 恐ろしい夢でも見ておられるのでしょうか……」
まだ日は明るい中、どうにか寝かせた敷き布団に横たわり、「う、あ……」と呻くアマリを心配そうに見ながら、訪れた荊祟にカグヤは告げる。側の畳には、以前、荊祟が渡した書物が開かれたままになっていた。
「先程から何度もお声掛けしたのですが、お目覚めにならないのです」
「……いや。もう、嫌なの……誰か……」
掠れた声でうわごとを口にし、苦痛に耐えるように、うつ伏せのままアマリは敷き布を握りしめる。
そんな彼女を哀しげに見ていた荊祟は、少し躊躇った後、そっ、とその手をとり、恐る恐る、数本の長い指で握った。鋭い爪で彼女の柔らかな掌を傷つけないように、優しく包む。
ぴくん、とアマリの身体が震え、うめき声は少し静まった。自分の掌を包んでくれている少し固く、温かな何かにすがるように、力なくも握り返す。
「長様」
「……こうするだけなら、問題無いのだろう?」
荊祟の心境を改めて感じたくノ一は、複雑そうに、声を掛ける。彼の眼差しには哀しみと労りが含んでいる。だが、その瞳の奥には、戸惑いと共に、和かな熱も帯びていた。いずれ苦しみを伴う、兆しの想いが……
外が宵に落ちた頃。アマリはようやっと目を覚ました。
「……?」
まだ痛みの残る脳裏に、昔の自室と今の部屋の記憶が交差する。虚ろげに眼球を回すと、暗がりの中、行灯に灯る温かな光が映り、少し安堵した。此処は『ここ』だと認識する。
「アマリ様。大丈夫ですか?」
聞き慣れた凛とした穏やかな声に、更に気がゆるみ、張り詰めた心がほどけた。
「カ、グヤさん……」
「昼過ぎからお眠りになっていましたが、随分と魘されておいでだったので、隣から参りました」
ずっと看ていてくれたのだろうか。確か、自分は読書をしていた。寝不足で睡魔が襲ってきて、それから……
カグヤに背中を支えられながら、重い身体をゆっくりと起こす。ふと、枕元に菓子折らしき包みと小箱、一通の文が置かれているのに気づいた。
「……これ、は……?」
「夕刻、長様がいらしまして…… 貴女様に渡すよう頼まれました。気が滅入った時などに良ければ食べるよう、との事です」
藤色の綺麗な紙箱を開けると、一口計の小さな饅頭、羊羮、干菓子、練りきり等が、色とりどりの可愛らしい仕様で詰められていた。驚きで眼を見開くアマリに、苦笑しながらカグヤが付け足す。
「最近の若い女が何を好むかわからないから、密かに調べてくれと言われました。こんな任務は初めてでしたよ」
虚ろな陰を落としていた瑠璃の瞳に、微かな光が灯った。続けて小箱の方をそっ、と開ける。
中身は、鼈甲製の土台に、紅白の山茶花をつまみ細工で象った櫛形の簪だった。所々に真珠がちりばめられた美しい仕様の品が、薄紅の薄紙に包まれている。
目を疑ったアマリは、急いで文の方を開く。見覚えのある達筆な文字で、たった一文が記されていた。
『花をあまり見せてやれなかった詫びだ。遠慮なく受け取れ』
「詫び、って……! こんな高価なお品……!!」
悲鳴のような感想が洩れた。何故、彼はこんなに優しくしてくれるのだろう。自分は何も出来ないのに。返せないのに。
「後日、ご自分で渡された方が良いのではと申し上げたのですが…… 早い方が良いと仰いまして」
「荊、祟様……」
思わず文を抱きしめたアマリの瞳に、再び涙が滲む。弱り切った心に沁みた素っ気ない思いやりは、あまりに不意討ち過ぎて、温か過ぎて、甘過ぎた。
悪夢に襲われていた最中、覚えのあるぬくもりが意識を包み、ふわり、と開花した事を思い出す。あの時の感覚は、ちょうど今、感じている想いに似ていた。