その夜の夕餉時。いつものように、部屋でカグヤと食事を摂りながら、ずっと気になっていた事をアマリは相談した。反物の礼に何か出来ないか聞いた時の荊祟の返答が腑に落ちなかったのだ。
「……確かに、大したお役には立てないでしょうけれど…… 女中の皆様の負担を、少しでも軽く出来ると思うのです…… 気を遣って下さったのでしょうか……」
「だと、思いますよ。そもそも、貴女様は、長年の疲労が重なってか、お身体が少々弱っていらっしゃいます。初めてこの界にいらした時、長様が医師を呼ばれましたが、そのように診断されています」
自分が気を失っている間に起きていた事、知らなかった事実にアマリは茫然とした。自分の身体の件より、そんな配慮までしてもらっていた事に驚き、荊祟への感謝の念が再びわき上がる。
「『何故、尊巫女がこんな状態になっているのか』と不思議がっておられました。花能の事を知り、納得されたのではないでしょうか。それであのように申されたのでは」
今日、硯などと一緒に持って来てくれた書物を思い出す。花や植物についての書、界で有名な服飾誌、この厄界の歴史や風俗関係のものだった。
異界から来た自分を、彼は本気で自ら治める世界に迎えてくれようとしている。『好む事を探せ、この界に慣れる為に勉強しろ』……そんな意図が伝わり、泣きたい位嬉しくなった。
「今は、心身共に養生されてはいかがですか? 何をお礼されるかは、それから考えてもよろしいのでは?」
荊祟が訪れていた時、カグヤは隣の部屋で待機していた。襖一枚と箪笥などの家具を隔てての会話は、余程大声でない限り聞こえない。だが、くノ一のカグヤには、二人の関係が少しずつ変わっている事に勘づいていた。
会話が終わり、部屋から出てきた時の心此処にあらずな荊祟、そして、自分と彼の名が書かれた半紙を大切そうに見つめていたアマリ。互いの心の距離が近づくにつれ、別の繋がりが生まれ、惹かれ合っているのは明らかだ。
二人の境遇や過去を知る彼女には喜ばしい事であったが、同時に彼らの辿りゆく未来を考えると、切なく複雑な思いに絞られていた。
数日後。仕立てたアマリの着物を届けに、以前来訪した呉服屋の遣いが屋敷にやって来た。祝い事関係の注文が殺到して近頃は忙しく、直接行けず申し訳ない、と主人直筆の文が同梱されている。
出来上がった小袖は、どれも華やかで美しかった。アマリの視界一面に、再び色鮮やかな世界が広がる。カグヤや従者に勧められ、早速、一着に袖を通した。初めて自分で選んだ、薄紅の山茶花模様の着物だ。深緋の帯を締め、姿見に全身を映すと、見慣れない姿の自分がいた。現実味がなく、落ち着かない……
――『好き』を身に付けるって、不思議……
「折角ですから、外に出して差し上げてはいかがですか? ずっとこの離れにこもっていらしたでしょう?」
今日は何故か、襖の側に隠れるようにもたれていた荊祟を見やり、カグヤは促す。
「……どこか行きたい所や見たい物はないか? 民が大勢の場所は無理だが」
「え……」
二人だけで、という状況に緊張と喜び半分な思考の中、精一杯ひねり出す。
「あ、花……花が、見たい、です。少しでも……構いません」
「……あるには、あるが」
口ごもった彼に抱えられ飛んで来たのは、以前に訪れた庭園から、少し離れた場所の川沿いだった。所々に水仙が咲いている。冬だからだろうが、他の種は見当たらない。
「悪いが、この界自体、あまり花が咲かない。故に、育つ作物も限られ、ほとんど他界に頼っている」
毒を含む種や、空気の悪い場所などの厳しい環境にも耐えうる草花しか育たないのだと、荊祟は説明する。藤、鈴蘭、蓮、睡蓮、百合、罌粟、夾竹桃、彼岸花……
「この厄界ぐらいだ。人族の界の負の部分と共鳴し、他の神界より多く請け負い、その警告として……俺は災い、不幸を返す」
可憐だが健気な出で立ちの水仙を眺め、独り言のように語る彼を、アマリは何とも言えない思いで見つめる。
「災厄を助長する力について、俺とて考えさせざるを得ない時はある。どのくらいの害……人族のみならず、生物や土地が壊滅して不幸に見舞われるのかは、こちら側にもわからんのだ」
「……」
「龍神界や稲荷界の長など、天候を操る神は、雲や陽の声を授かり値するだけの力を使うが…… 俺などの厄をもたらす神は……そうはいかない」
その度に災い……変動を喚び起こす。傲り故に、愚かな間違いを犯した者達に気づいて欲しく、罰を下すように。
だが、終わらない。幾年の時が過ぎても、文明が発展しても、繰り返される。何度も、何度も。犠牲になる者は自分には選べない。皮肉にも神族として赦されない。命の判断という傲慢と紙一重な選択を、個に委ねてはいけないからだ。
だから、どうにか生き延びてほしい、罪無き良心的な人族達にこそ、強く生きていてほしい。そんな願いを込めながら界を荒らし、破壊する。
だが、悲しみに暮れる者、泣く者は減らない。何も変わらない。何も救えない。……なんて無力で、滑稽で、虚しいのだろう。これでは何もしない方がマシなのではないか。
世の汚れ、嫌われ役――まさに、厄介者なのだ。
「――残酷、ですね」
「そうだな。残酷だ。地獄とは……この世だ。利用されていたお前にだって解るだろう? 持て囃されていたから信じられないか?」
返す言葉が見つからない。彼が背負って来たものの痛みは、自分のそれとは違う気がする。
「俺は、そんな奴らに振り回されるのは、もううんざりだ。なるべく関わりたくない」
心底嫌悪しているように眉間を寄せ、珍しく愚痴を吐く彼に、アマリは同情した。
「貴方様だから、です。権力に興じ、利己的に使う主は……苦しまないと思います」
瞳孔を少し開き、荊祟はアマリを凝視した。何か苛烈な激情が、彼の内から突き出そうとしている。
「……災いや難を恐れるが故に、俺を疎み、嫌う人族はまだ理解できる。だが、大金を積むから特定の地に災厄を誘発して欲しい……そんな私怨私益を申し出てくる奴らが、たまにいる。――俺の母が、それの間者だった」
「……⁉」
絶句するアマリだったが、そのような者が存在するという事実は、何故か受け入れられる気がした。だが、自分の母親が関与していたという事を、彼は今、告げようとしている。
驚きの余りに返答できないのだと思った荊祟は、冷ややかな眼差しを彼女に向け、続ける。
「邪を憑依させ、精神を操る異能者という、禁術の尊巫女として、当時の長だった父に献上された。災厄というのは、自然界の理だけではない。人災によって起こされる事例もある。
故に、父は受け入れた。――伴侶として。異能だけではない。母に魅了され、巧みに支配されたのだ」
「……」
「やがて、俺が産まれた。その頃から母は言動が豹変し、ますます高圧的になった。間者として父に迫り、実家と癒着する組織の為に力を捧ぐよう、術を使って誘導した」
古の伝奇でも語るような、淡々とした口振りで、荊祟は続ける。
「勿論、父は精一杯、抗った。だが、完全に従属されていたのもあり、揺らいでいた。そんな企てを察した父の側近らに、母は断罪され、処刑された。己を責め、精神を完全に壊した父は、自身の力を使い――自害した」
悲鳴が洩れかけた口元を、アマリは慌てて抑える。
「その後、母と通じていた奴らが、我が一族の醜聞をある事ない事、腹いせに吹聴したらしい」
母親の形見が一つもない理由を、アマリは哀しく察した。おそらく全て燃やし、壊され……処分されたのだろう。胸がひどく痛み、瑠璃の眼に涙が滲む。なんて悲しい、まだ幼い少年だった彼には、酷過ぎる災難……
「そんな奴らに限って、何か遭っても、何故かしぶとく生き残る」
「荊祟様……」
「お前がやって来た時、また同じ事が起きるのではと警戒した。尊巫女の献上が母以来だった故……探る為に、きつくあたった。……すまなかった」
哀しげに詫びる、陰った琥珀の瞳に向かって、静かに首を振る。彼のせいではない。致し方無い事情だと思った。
「……それでも、あの夜……生かして下さったのですね」
「だから、それはだな……」
再度、弁解しようとした荊祟だったが、アマリの泣き笑いのような慈しみある微笑に、言葉を止めた。続きが浮いて舞い去る。
自分の意に反する行いでも、界の為になるなら治める者として厭わない。そんな彼の生き様……魂が、アマリには気高く、何よりも美しく見えたのだった。
「……確かに、大したお役には立てないでしょうけれど…… 女中の皆様の負担を、少しでも軽く出来ると思うのです…… 気を遣って下さったのでしょうか……」
「だと、思いますよ。そもそも、貴女様は、長年の疲労が重なってか、お身体が少々弱っていらっしゃいます。初めてこの界にいらした時、長様が医師を呼ばれましたが、そのように診断されています」
自分が気を失っている間に起きていた事、知らなかった事実にアマリは茫然とした。自分の身体の件より、そんな配慮までしてもらっていた事に驚き、荊祟への感謝の念が再びわき上がる。
「『何故、尊巫女がこんな状態になっているのか』と不思議がっておられました。花能の事を知り、納得されたのではないでしょうか。それであのように申されたのでは」
今日、硯などと一緒に持って来てくれた書物を思い出す。花や植物についての書、界で有名な服飾誌、この厄界の歴史や風俗関係のものだった。
異界から来た自分を、彼は本気で自ら治める世界に迎えてくれようとしている。『好む事を探せ、この界に慣れる為に勉強しろ』……そんな意図が伝わり、泣きたい位嬉しくなった。
「今は、心身共に養生されてはいかがですか? 何をお礼されるかは、それから考えてもよろしいのでは?」
荊祟が訪れていた時、カグヤは隣の部屋で待機していた。襖一枚と箪笥などの家具を隔てての会話は、余程大声でない限り聞こえない。だが、くノ一のカグヤには、二人の関係が少しずつ変わっている事に勘づいていた。
会話が終わり、部屋から出てきた時の心此処にあらずな荊祟、そして、自分と彼の名が書かれた半紙を大切そうに見つめていたアマリ。互いの心の距離が近づくにつれ、別の繋がりが生まれ、惹かれ合っているのは明らかだ。
二人の境遇や過去を知る彼女には喜ばしい事であったが、同時に彼らの辿りゆく未来を考えると、切なく複雑な思いに絞られていた。
数日後。仕立てたアマリの着物を届けに、以前来訪した呉服屋の遣いが屋敷にやって来た。祝い事関係の注文が殺到して近頃は忙しく、直接行けず申し訳ない、と主人直筆の文が同梱されている。
出来上がった小袖は、どれも華やかで美しかった。アマリの視界一面に、再び色鮮やかな世界が広がる。カグヤや従者に勧められ、早速、一着に袖を通した。初めて自分で選んだ、薄紅の山茶花模様の着物だ。深緋の帯を締め、姿見に全身を映すと、見慣れない姿の自分がいた。現実味がなく、落ち着かない……
――『好き』を身に付けるって、不思議……
「折角ですから、外に出して差し上げてはいかがですか? ずっとこの離れにこもっていらしたでしょう?」
今日は何故か、襖の側に隠れるようにもたれていた荊祟を見やり、カグヤは促す。
「……どこか行きたい所や見たい物はないか? 民が大勢の場所は無理だが」
「え……」
二人だけで、という状況に緊張と喜び半分な思考の中、精一杯ひねり出す。
「あ、花……花が、見たい、です。少しでも……構いません」
「……あるには、あるが」
口ごもった彼に抱えられ飛んで来たのは、以前に訪れた庭園から、少し離れた場所の川沿いだった。所々に水仙が咲いている。冬だからだろうが、他の種は見当たらない。
「悪いが、この界自体、あまり花が咲かない。故に、育つ作物も限られ、ほとんど他界に頼っている」
毒を含む種や、空気の悪い場所などの厳しい環境にも耐えうる草花しか育たないのだと、荊祟は説明する。藤、鈴蘭、蓮、睡蓮、百合、罌粟、夾竹桃、彼岸花……
「この厄界ぐらいだ。人族の界の負の部分と共鳴し、他の神界より多く請け負い、その警告として……俺は災い、不幸を返す」
可憐だが健気な出で立ちの水仙を眺め、独り言のように語る彼を、アマリは何とも言えない思いで見つめる。
「災厄を助長する力について、俺とて考えさせざるを得ない時はある。どのくらいの害……人族のみならず、生物や土地が壊滅して不幸に見舞われるのかは、こちら側にもわからんのだ」
「……」
「龍神界や稲荷界の長など、天候を操る神は、雲や陽の声を授かり値するだけの力を使うが…… 俺などの厄をもたらす神は……そうはいかない」
その度に災い……変動を喚び起こす。傲り故に、愚かな間違いを犯した者達に気づいて欲しく、罰を下すように。
だが、終わらない。幾年の時が過ぎても、文明が発展しても、繰り返される。何度も、何度も。犠牲になる者は自分には選べない。皮肉にも神族として赦されない。命の判断という傲慢と紙一重な選択を、個に委ねてはいけないからだ。
だから、どうにか生き延びてほしい、罪無き良心的な人族達にこそ、強く生きていてほしい。そんな願いを込めながら界を荒らし、破壊する。
だが、悲しみに暮れる者、泣く者は減らない。何も変わらない。何も救えない。……なんて無力で、滑稽で、虚しいのだろう。これでは何もしない方がマシなのではないか。
世の汚れ、嫌われ役――まさに、厄介者なのだ。
「――残酷、ですね」
「そうだな。残酷だ。地獄とは……この世だ。利用されていたお前にだって解るだろう? 持て囃されていたから信じられないか?」
返す言葉が見つからない。彼が背負って来たものの痛みは、自分のそれとは違う気がする。
「俺は、そんな奴らに振り回されるのは、もううんざりだ。なるべく関わりたくない」
心底嫌悪しているように眉間を寄せ、珍しく愚痴を吐く彼に、アマリは同情した。
「貴方様だから、です。権力に興じ、利己的に使う主は……苦しまないと思います」
瞳孔を少し開き、荊祟はアマリを凝視した。何か苛烈な激情が、彼の内から突き出そうとしている。
「……災いや難を恐れるが故に、俺を疎み、嫌う人族はまだ理解できる。だが、大金を積むから特定の地に災厄を誘発して欲しい……そんな私怨私益を申し出てくる奴らが、たまにいる。――俺の母が、それの間者だった」
「……⁉」
絶句するアマリだったが、そのような者が存在するという事実は、何故か受け入れられる気がした。だが、自分の母親が関与していたという事を、彼は今、告げようとしている。
驚きの余りに返答できないのだと思った荊祟は、冷ややかな眼差しを彼女に向け、続ける。
「邪を憑依させ、精神を操る異能者という、禁術の尊巫女として、当時の長だった父に献上された。災厄というのは、自然界の理だけではない。人災によって起こされる事例もある。
故に、父は受け入れた。――伴侶として。異能だけではない。母に魅了され、巧みに支配されたのだ」
「……」
「やがて、俺が産まれた。その頃から母は言動が豹変し、ますます高圧的になった。間者として父に迫り、実家と癒着する組織の為に力を捧ぐよう、術を使って誘導した」
古の伝奇でも語るような、淡々とした口振りで、荊祟は続ける。
「勿論、父は精一杯、抗った。だが、完全に従属されていたのもあり、揺らいでいた。そんな企てを察した父の側近らに、母は断罪され、処刑された。己を責め、精神を完全に壊した父は、自身の力を使い――自害した」
悲鳴が洩れかけた口元を、アマリは慌てて抑える。
「その後、母と通じていた奴らが、我が一族の醜聞をある事ない事、腹いせに吹聴したらしい」
母親の形見が一つもない理由を、アマリは哀しく察した。おそらく全て燃やし、壊され……処分されたのだろう。胸がひどく痛み、瑠璃の眼に涙が滲む。なんて悲しい、まだ幼い少年だった彼には、酷過ぎる災難……
「そんな奴らに限って、何か遭っても、何故かしぶとく生き残る」
「荊祟様……」
「お前がやって来た時、また同じ事が起きるのではと警戒した。尊巫女の献上が母以来だった故……探る為に、きつくあたった。……すまなかった」
哀しげに詫びる、陰った琥珀の瞳に向かって、静かに首を振る。彼のせいではない。致し方無い事情だと思った。
「……それでも、あの夜……生かして下さったのですね」
「だから、それはだな……」
再度、弁解しようとした荊祟だったが、アマリの泣き笑いのような慈しみある微笑に、言葉を止めた。続きが浮いて舞い去る。
自分の意に反する行いでも、界の為になるなら治める者として厭わない。そんな彼の生き様……魂が、アマリには気高く、何よりも美しく見えたのだった。