厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女


 ――…………

 ……遠い、遠い彼方から、何か……聞こえる。

 キャン、キャンと辺りに響く子犬の悲鳴。『かえして。おねがい。しんじゃうわ』と必死に乞う自分の弱々しい叫び声。その場に座り込んで、ひっく、ひっく……としゃくりあげる。
 涙と鼻水で濡れた顔がみっともなくなり、慌てて拭おうとした瞬間――自分と変わらない大きさの柔らかな手が、その手を包んだ。
 続いて、ぶたれた痛みがまだ残る額を、ぎこちなく撫でてくれた大きく固い指……二種の淡い温もり……

『ねえさま…… じいさま……』

 見上げた二人の顔は、其々(それぞれ)霞みがかかっていて判らない。けれど、静かに、哀しく、優しく微笑んでいた気がした――

 ――…………


 霧が薄らいだように朧気な脳裏が覚醒していく。頭は鉛のように重い。ぼやけた視界に、見慣れない木目調の天井が映る。身体は柔らかな布団と寝具に包まれ、白無垢は襦袢(じゅばん)らしき寝間着に変わっていた。髪もほどかれている。
 布の柔らかな感触。軽い頭痛に喉の渇き……暗がりだが冥土ではなさそうな事、どうやら自分はまだ生きているらしい事にアマリは戸惑い、動揺する。

 ――どうして……?

 ふと、強烈な視線を感じ、反射的に眼球をぐるり、と動かす。朱の瞳と目が合いおののいた。()()()妖厄神(ようやくじん)の青年が連れ、黎玄(れいげん)と呼んでいた(たか)がいたのだ。
 あの時は、怪しげな眼光を放っていたが、今は(べに)珊瑚のように澄んでいる。半分が障子で閉じられた円形の窓の縁に留まり、じっ、と観察するように、アマリを見ていた。

「……?」

 困惑する彼女を確認すると、焦茶の翼をバサッ、と羽ばたかせ、外へ飛び立って行った。後に見える空は宵闇に染まっている。細々とした上弦の月が浮かんでいた。
 あれから何日経ったのか、今いる場所はどこだろう……と不安に駆られる。八畳程の畳部屋……という事位しか判らない。


「失礼致します」

 暫し後、突然、凛とした女性の声が(ふすま)の向こうから聞こえた。

「お身体の具合はいかがですか?」

 すっ、と襖を開けて入って来たのは、菖蒲(ショウブ)のような青紫色をした、忍装束の若い女性だった。濡羽玉(ぬばたま)の艶やかな黒髪を後ろに束ね、団子状にして銀の(かんざし)を挿している。琥珀(こはく)色の猫目に笹形に尖った耳が、涼やかな顔立ちを一層映えさせているのが、暗がりでもわかった。
 小鍋や急須などを乗せた盆を手に、無表情に佇んでいる。……何故だろうか。どこかで会ったような、懐かしく温かい思いが、アマリの胸の中にわき上がった。

貴女(あなた)は……? ここは、何処(どこ)でしょうか……?」
「厄界の(おさ)……荊祟(ケイスイ)様の御屋敷の離れでございます。私はこちらの警護などを担っている者。貴女様が目覚められたと伺い、お食事と薬をお持ちしました」

 颯爽と傍に寄って正座し、礼儀正しく頭を下げる、くノ一のようなこの女性が(まと)う冴えた空気に、アマリは圧倒された。

「長様より、貴女様の看病と身の回りの世話、そして護衛を申し付けられました。今後は私がなるべく同行させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
「……せ、世話? 護衛⁉」

 予想外の単語の連続に耳を疑い、困惑する。

「……この界には、貴女様を良く思わぬ者もおります故…… どうかご容赦ください」
「そ、そうでしょう……⁉ 妖……長様は、私を生かしておかれるのですか……?」

 すっかり錯乱したアマリは、早口でまくし立てる。信じられない事態に、まだ覚醒し切っていない頭がなかなか追いつかない。

「……殺される、と思っていらしたのですか?」

 静かに頷く彼女に女性は初めて表情を崩し、()を見開いた。労りと情けの交じる複雑そうな素振りを見せる。紅の唇が一文字に結ばれ、長い睫毛が扇のように()せた。

「あの方が、そうお決めになられた事ですので……ご自分でお尋ね下さい。貴女様のお身体が回復次第、お会いされるそうです」

 そんな事があるのだろうか。何故、今更自分と対面するのか……理由が全く解らない。アマリが困惑する中、女性は部屋の行灯(あんどん)に火を(とも)した。暖かな光が、室内をほのかに包む。

「私は隣の部屋に住まいます。何か御用がありましたらお呼び下さい。……多少の異変は察知できますが」

 つまり、アマリが何か仕掛けたりしても分かるという事だ。おそらく、このくノ一の仕事は、妖厄神……荊祟への()()も兼ねてなのだろう。彼女に罪は無いが、少し悲しく思った。

 ――ここでも監視されるのね……当然だけど……

 膳を布団のすぐ側まで運び、改めて正座した女性は、小鍋の中の湯気立つ白い物を、てきぱきと椀によそい始める。

「玉子粥です。長様も召し上がっておられる、人族の身体に合わせた物です。毒などの類いは入っておりませんのでご心配なく」
「……わかりました」

 ――確かに、今更改めて……なんて無意味よね

 不可思議で複雑な思いを抱きながらも、少し安堵して頷く。()()()、彼は、確実に自分を殺せたはずなのだから。

「後程、湯浴みのお手伝いも致します」

 終始、毅然とした態度を崩さない、この礼儀正しい女性に、アマリは尊敬と感謝の意を抱き始めていた。

「何から何まで……ありがとうございます」
「務めですので。お気遣いなく。仰々しい格好で申し訳ありませんが…… いつ何が遭っても御守りできるように、なるべくこの姿でご一緒させて頂きます」

 手際よく食事の支度を進める彼女に、アマリは少し遠慮がちに申し出た。

「それは……大丈夫です。ただ、あの……」
「何か?」

 不都合な事があるのか、と言いたげな様子だ。

「お名前を……伺ってもよろしいですか?」

 手を止め、女性は驚いたように眼を見開き、戸惑いが垣間見る声色で問い返す。

「何故でしょう?」
「これからお世話になる方なのですから、知っておかなくては……と思って。その、貴女のご迷惑にならなければ、ですが」

 彼女があの冷徹非情な厄神に叱られるのなら知らなくてもいい。だが、声も顔もはっきりと覚えていないが、先に神界に旅立った、姉の雰囲気にどこか似ている気がしたのだ。一方的な思い入れだったが、彼女に親しみを感じ始めていた。
 そんなアマリの答えに、女性はまた表情を崩す。今度は、微かに和らぎを見せた。

「――カグヤ、と申します」
「まぁ、綺麗な名……お似合いだわ」

 いつか読んだ(いにしえ)のお伽噺(とぎばなし)を思い出す。彼女なら月から来た姫だと言われても納得する。それほど聡明で理知的な美しさがあった。

「……私共からしたら貴女様の方が、異星からいらしたようなものですよ」

 ――それは、違うわ……

 自虐的に哀しく思った。自分は歓迎されていないし、持て囃されている訳でもない。

「あ、申し訳ありません。私は……アマリ、と申します」

 我に返り、慌てて自分も名を告げる。

「アマリ様。了解致しました。――それから」

 律儀に復唱し、深く頷くカグヤは、また少し表情を和らげ、付け足す。

「私は貴女様と同年ですので、気負いされないで下さい」

 てっきり年上だと思っていたアマリは、不意を突かれ茫然とした。そんな彼女を他所に、カグヤはこれまた手際よく、薬膳茶を淹れ始める。
 独特の臭いが漂う湯呑みを差し出され、反射的に口を付ける。今度はしっかりと苦味を感じた。


 同刻。屋敷の主人である荊祟(ケイスイ)、側近と従者数名が、奥座敷の一室で神妙に話し合っていた。勿論、議題はアマリの件だ。
 この百年程、尊巫女(みことみこ)輿()()()が皆無だった彼らにとって、彼女が献上されるという知らせは、それこそ天変地異並みの大事件だったのだ。

「担当のくノ一の報告ですと、随分な心身の疲労、睡眠不足で未だに衰弱しているようです。何も看病までしなくとも……」
「そうですよ。放っておけばよろしいではありませんか……そのうち死にます。厄介払いになり、結構でございましょう?」

 行灯(あんどん)の灯りに照らされた素顔の主人に、家臣達はそんな非情な行いを促す。明らかに渋い表情をしている彼らを横目に、荊祟(ケイスイ)は重く、深いため息を吐いた。

「どんなに忌み嫌われようが、汚れ腐ろうが、我らは神族の者。神々に仕える女……増して尊巫女。見殺しにする訳にはいかないだろう」
(おさ)様…… まさか、情を(いだ)かれたなんて事はあ……」

 従者の言葉は途切れた。切り裂くような黄金(こがね)の眼光がギラッ、と向けられ、ヒッ、と彼の喉奥が引きつる。

「全く……本当に面倒な事になったものだ。相も変わらず、人族共はいらぬ事ばかりする」

 心底うんざりしたように、一族の長は、鋭利な眉を思い切りしかめた。
 厄界……この屋敷の離れに住み込んでから、一週間程が過ぎた。カグヤの看病の甲斐あり、体の具合が良くなってきたアマリは、布団の中でぼんやりとする毎日だった。
 始めの数日は、体の(だる)さや苦しさにひたすら耐えるしかなかったが、回復してきた今は、落ち着かなくなっている。『無理の無い程度なら構いませんので、お好きに過ごして下さい』とカグヤに言われたが、この状況で何をどうしたら良いのかわからない。
 そもそも、この部屋には布団とちゃぶ台、衣装箪笥(だんす)以外、本当に何もなかった。自害させない為か、あらゆる物らしい物が消えている。姿見(すがたみ)や化粧道具すら無い。
 今までなら、今刻は『仕事』か、芸事の稽古の時間だった。しかし、ここには仕事を促す者も、客もいない。そんな体力はまだなかったが、よっぽど具合が悪くない限り、今までは行っていた。
 唄は軟禁されている今、目立つ事は避けたい。読み書きや勉学は、教本も師範もいない為、出来ない……
 窓から見えた池囲いの庭園に出てみようか……と少し思ったが、カグヤは別の任務で数時間不在すると聞いている。勝手に出て良いものかわからない。帰る場所も頼れるアテも無い自分には、逃げ出す事も不可能……
 途方に暮れるアマリだったが、これは厄界の長である荊祟の策略……罠だった。あえて彼女を一人きりにさせ、どう動くか試したのだ。

 そんな裏事情はつゆ知らずの尊巫女は、ただ戸惑い、狼狽(うろた)えるしかできないでいる。だが、何もしないまま一人で過ごしているうち、今までの出来事が少しずつ(よみがえ)ってきた。
 余計な考え、良からぬ感情が身体の奥から湧き始めてしまう。痛みの治まった頭が、再び(わめ)き出した。忌まわしい(ささや)きが、耳元で聞こえる――

『――何故、生きている? お前はもう用無しだろう』
『――お前が生ける場所など、もう何処(どこら)にもない。息する理由があるのか?』
『――今更、生き長らえて何になる? お前を真に案ずる者など、誰もいない』

 振り切ろうと眼を閉じ、落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。激しい孤独感、憤り、悲しみ……そんなどうにもならない感情が吹き出してしまいそうになった時、人族の(やしろ)に居た頃に行っていた鎮静法だった。
 だが、沈んでいる心がどんどん深みにはまり、奈落の底へ堕ちていく。止まらない。止められない……

 ――……怖い。怖くて堪らない。気を紛らわさないとおかしくなりそう…… 何か……何でもいいわ。何か……!

 すくっ、と取り敢えず立ち上がる。布団を出て、寝間着のまま手足を動かし、長年の習慣で身に染み着いた動作を始めた。ゆらり……ゆらり……と、両腕を宙に舞わす。稽古で習った舞だ。扇子の代わりに、側にあった汗拭き用の半巾(ハンカチ)咄嗟(とっさ)に掴む。
 足取りのおぼつかない踊りは思うようにいかず、すぐに手順を間違えた。師範の叱咤が飛んでくるのを察し、反射的に動きを止め、思わず身を縮めた。が、何も聞こえない。間違った足を叩く腕も伸びて来ない。何の痛みも感じない。

 ――…………?

 しん、と静まり返っている室内の中、どく、どく、という怯えた心音だけが聞こえる。至極、奇妙な感覚が襲ってきた。
 ……何だろうか。未知の状況への怖れと怯えに加えてやってくる、不思議な安堵感。自分一人しかいないという、不慣れな空気にアマリは狼狽(うろた)える。
 そんな自身の様子を、部屋の()()円い小窓から、朱の眼の鷹がまた見ていた事にも気づかなかった。


「……な、に?」

 その夜。黎玄(れいげん)が荊祟の部屋まで飛んで来た。彼らの意思疎通は言葉ではなく、所謂(いわゆる)精神感応(テレパシー)のようなもので行っている。
 定例の報告――アマリの情報を読み取った荊祟は、間の抜けた声をあげる。その後、そんな自身に戸惑い、驚いた。


 翌朝。突然、『夕刻、長様が御会いに来られるそうですので、この部屋でお待ち下さい』と、カグヤに言われたアマリは動揺した。心の準備は全く出来ていない。どんな顔をして、どのように振る舞えば良いかわからないままだ。
 恐ろしい力を持つ非情な厄神と聞いていたが、こうして何故か生かされているという不可解さ。一方、場合が場合なら、夫になるかもしれなかった相手でもある。何とも奇妙な心持ちで、時が過ぎるのを受け入れている自分が、滑稽に思えた。


「アマリ様。長様がお見えになりました」

 夕刻の黄昏時。(ふすま)越しのカグヤの声掛けに、反射的にびくつく。急いで梅鼠(うめねず)色の羽織を着込み、素顔のまま正座する。神妙な面持ちで、両手を膝に乗せた。

「は、はい」

 返答と同時に、すっ、と襖が開き、慌てて頭を下げる。視界の端に、(かしこ)まりながら膝をつくカグヤの姿が見えた。その陰から、見覚えのある漆黒の履き物が忍びやかな足取りで部屋に入って来る。

「顔は上げてよい」

 心なしか、あの夜より落ち着きある口調で、促す玲瓏(れいろう)な青年の声。その魅惑的な低音に惹かれるようにアマリは顔を上げる。瞳に映った姿に、思わず息を呑んだ。
 素顔を晒している彼の()は、澄んだ琥珀(こはく)色だった。あの夜、稲妻のような眼光を放っていた瞳と同じには見えない。だが、くすんだ藍鼠(あいねず)の長着物に鋭利な眉、笹形の耳、非対称(アシンメトリー)に分けられた濃灰の髪が、同一人物だと判別させた。
 黒地の首巻きで隠されていた肌は小麦色。すっ、と通った鼻筋、きつく結ばれた薄めの唇。腰元には日本刀らしき刀。荒く野性的な気を(まと)うが、顔立ちや眼差しは涼やかという、対称的な魅力を兼ね持っている。
 そんな妖厄神(ようやくじん)――荊祟の出で立ちに、アマリは今の状況を忘れ、見入ってしまった。

「回復したらしいな」
「は、はい…… お陰様でこの通り……」

 いつの間にか少し離れた場所に座り込み、胡座(あぐら)をかきながら淡々と、彼は声を掛けてきた。我に返ったアマリは、少し目を伏せ恐々と、だが、なるべく丁寧に応える。

「だな。この状況で踊りをする位、余裕綽々(しゃくしゃく)のようだ」

 そんな彼女に、荊祟(ケイスイ)は容赦なく皮肉を投げる。黎玄の存在には後に気づいたので、昨日の行いも知られているかもしれないとは思っていた。しかし、そんな風に改めて言われると決まりが悪くなる。悪い事をした訳ではないが、どうにも居たたまれない。

「も、申し訳ありません。いつもなら仕事か稽古の時間だったので…… どう過ごしたら良いかわからなくて……」
「……()()、か」

 しまった、とアマリは自分の迂闊(うかつ)さを呪った。この厄神は、自分に課された企てをどこまで感づいているのだろう。どう説明しようかと、瞬時に脳内を(めぐ)らせる。

「いえ、あの、大した事では……」
「よい。どうせ今回の件に関するのだろう」

 どうでもよいとばかりに、ふん、と軽く鼻を鳴らす。図星だったアマリは何と答えたら良いのか判らず、俯く。元々、上手く誤魔化すという所業は苦手な性分だったが、この神にはどんな小手先も通じない。そんなぴりつく空気が、辺りに漂っていた。

「あの…… (おさ)様」

 妖厄神とも、本名の『ケイスイ』とも、さすがに口にしづらく、アマリは無難な呼び方をした。

「何だ」

 僅かに戸惑いの色を交え、荊祟は無表情のまま問い返す。

()()()…… 助けて頂きありがとうございました」

 改めて、両手を前について頭を下げた。そんな尊巫女に、彼は胡散臭げな猜疑(さいぎ)の眼差しを向ける。

「その後も看病して、こうして生かして下さり…… 正直、驚きました」
「お前の為ではない。奴らの所業を見逃すと、界の秩序と風紀が乱れる。故に処罰したまで」
「お察ししております。ですが、そのおかげで身を守れたのは事実でございますから」

 この長にとってはあくまで義務で、不本意な行いだったのは理解していた。だが、女としての尊厳だけでも傷つけられないで済んだと考えていたアマリは、それだけは礼を言いたかった。

「めでたい頭だな。お前が厄介な存在なのも事実だ」

 ばっさりと辛辣に返し、珍妙な生物を見るような眼差しで、妖厄神はアマリを凝視する。理解不能という意思が、明らかに滲み出ていた。
 この厄神は、一族の長で神様である割に、情感豊かだとアマリは思った。長である特権と余裕もあるのだろうが、実家の主である父……両親の方が、よほど取り繕った能面の顔をしていた気がする。

「承知しております」
「……お前は、民に崇められる『尊巫女』なのだな。どこまでも」

 どこか皮肉めいた口調でぼそり、と彼は呟き、口角を僅かに歪めた。

「お前を襲った(やから)共から聞いた。あの尊巫女は俺を『妖厄神()』と呼んでいた、と」

 あの時、そして今の自分の状況を改めて思い出し、痛みの伴う複雑な思いに、再び囚われる。

「わざわざ此処(ここ)に送り込む位だ。相当、狡猾か酔狂な女を寄越(よこ)したのだろうと思っていたが……違ったようだ」

 一呼吸した後、荊祟はアマリの淡い瑠璃色の()をじっ、と凝視し、言い放った。

「『清廉な尊巫女』として、髪から爪先に至るまで培養された人族の女、だな」

 内心、密かに感じていた自身の在り方を見抜かれ、的を得られてしまった。惨めな思いが胸を締め付け、いたたまれなくなる。
 この者に遠慮は要らぬとふんだのか、煽って自分を試しているのか、彼は痛いところばかり突いてくる。きまりの悪さが一転、少し腹立たしくなったアマリは、ずっと聞きたかった事を吐き出す。

「あ、貴方こそ……変わった神様でいらっしゃいます。贄にして喰う事も、殺す事もなさらない。……私の存在など、お邪魔でしょう?」

 一寸の沈黙が流れた後、ぼそり、と荊祟は言い放った。

「どんなに忌まれようが疎まれようが、神族の長だ。無意味な殺生はしない」

 意外な彼の答えに、アマリは驚き、思わず彼の琥珀の瞳を凝視した。尊巫女として様々な人族と応対してきた彼女は、明らかに見栄を張ったり、取り繕うとする素振りや、()の色は判別出来るようになっていた。
 だが、目の前のそれは、自分に嘘偽りを()く眼差しではなかった。彼は無差別に人族の地や命を脅かす妖厄神……禍神(まががみ)の類ではなかったのか……

「厄界の者に悪影響が出るやも知れぬし、亡き者にしたところで人族共への後始末に困る。無益でしかない」

 彼女の心中を見抜いたように、ふ、と僅かに自虐的な笑みをこぼす。その瞬間、琥珀の瞳に微かな陰りが入ったのが、アマリには見えた。心の中に小さな波紋が起こる。

「なら私は、どうしたら良いのですか……?」
「とりあえず、もう暫くの間、この屋敷に身を置け。お前の処遇については、もっと家臣と話し合う必要がある」

 またアマリは少し意外に思った。この一族の長は、重要事項を独断で決めない。少なくとも、彼は暴君では無いようだという事実に、彼女の中で想像(イメージ)していた()()()の像が薄れ、崩れていく。
 再び唖然とした面持ちで彼を凝視したアマリを、また不審そうに眺めた後、荊祟は改まった厳格な口振りで告げた。

「カグヤ同伴なら、今後は屋敷内をうろついて良い。(ただ)し、妙な真似はするな。悪目立ちして、界の者の反感を買ったら面倒だぞ」

 その命令を最後に、彼は忍びやかな足取りで部屋を出て行った。残されたアマリは、変わらず魂消(たまげ)たままだ。心配してか、そっ、と傍に来てくれたカグヤに気づき、少し躊躇(ためら)った後、恐る恐る問いた。

「あの……カグヤさん」
「何か?」

 いつも同じ表情で、声色すらあまり変わらない彼女の心や真意が判らず、アマリは不安だった。だが、自分の言葉一つ一つを、こうして律儀に返答してくれる対応が、今の混乱した状態では心底ありがたいと思う。

「長様は……いつも、あのような振る舞いをされるのですか?」
「あのような、とは?」
「こう……呆れたり、苦笑したり、少し哀しまれるような素振りを、貴女や家臣の方にもされるのでしょうか」

 輿()()()の夜に出会った時は、もっと非情で義務的な言動、主らしい冴えた威厳を纏っていたが、さっきの彼は少し違う人のように感じた。何というか……人形のように生きていた自分より、よっぽど()()らしい。

「いいえ。私の知る限りですが…… 基本的に冷静沈着で、毅然とされています。動じられる事はほとんどございません」
「そう、ですか……」
「貴女様には、先程の長様がそんな風に見えられたのですか」

 アマリが静かに頷くと、カグヤは少し怪訝な素振りを見せた。彼女は少し離れた(ふすま)越しに待機していたが、くノ一の彼女なら察知出来そうな変化だ。少し考えた後、カグヤは続けた。

「確かに…… らしく無いご様子ではありましたが」

 彼女の言葉で、彼――荊祟(ケイスイ)という妖厄神の事がますます分からなくなり、アマリは混乱した。


 その夜の夕餉(ゆうげ)時。何時ものように、てきぱきとカグヤが支度を進める。自分も手伝う事をアマリは申し出たが、『長様から命じられた、私の務めですので』と丁重に断られた。
 こんなに律儀で責任感の強い女性だから、あの『ケイスイ』も信頼しているのだろう、と今までは思っていたが、先程の彼とのやり取りで、それだけでは無いような気がしていた。
 久方ぶりに誰かと食事をしているという慣れない状況で、相手は心を許している訳ではない異種族の者…… 新たに生まれた違和感を確かめたく、アマリは己を奮い立たせる。膳の皿が全て空になった頃、向かい合うカグヤに、恐る恐る切り出した。

「あの……カグヤさん」
「何か?」
「……出過ぎた問いである事を承知で、お尋ねしたいのですが」

 彼女の改まった様子に、カグヤは飲んでいた茶の湯呑みを置き、身構える。

「はい。何でしょう」
「……あの方は、人族の地に、何を……なさったのでしょう……?」

 予期せぬ問いに驚いたのか、あの厄神と同じ琥珀の眼を見開く。彼女の瞳孔は、明らかに揺らいでいた。

「……それは、あまりお知りにならない方が良いかと。貴女様にとっては気分の良い話ではありません」

 神妙な声色で律儀に返すカグヤの言葉に、ぐっ、とアマリは息を詰める。ある程度の予想は、勿論していた。今までに両親や従者から見聞きしてきた、人族を襲った数々の災厄――疫病、火災、地盤沈下、飢饉、空き巣、殺しなどの治安の悪化。
 どれが、どこまでが彼の仕業なのか知らない。(やしろ)からずっと出られなかったアマリに、外の状況はわからなかった。しかし、願掛けの為に、わざわざ遠くから訪れる悲痛な面持ちの民の姿は、数え切れない程……何度も見てきた。
 だが、何故か知りたかったのだ。あの妖厄神が、どんな事を、どんな力で今までしてきたのか。どんな風に生きてきたのか。無性に気になり、仕方なかった。

「……貴女の事を、とても信頼されているように見えました。家臣の方の事も気にかけていらっしゃるようで……」

 続ける言葉を失い、俯く。あの妖厄神は、少なくとも他者を不幸にして楽しむ邪神ではないように見えたのだ。何か致し方ない、どうにもならない理由があるのではないか、彼自身にとっても不本意な行いではないのか――あの夜、自分を助けたように。

「……以前、私はあの方に身を救われ、居場所を頂いたのです。それで勝手に恩を返しているだけの事」

 意外な事実に、はっ、とカグヤを見た。彼女の眼差しには、確固たる決意と覚悟の光が宿っている。

「アマリ様もあの方に危機を救われたからなのでしょうが…… 決して貴女様の為ではありません」
「……」
「私がこのような事を物申すのも妙ですが…… よく知らぬ他者を簡単に信用し、好意的になられるのは危険でございます。対立的な立場にある者なら(なお)の事。貴女様を油断させる策略、巧みな話術やもしれません……私とて同じです」

 自分の監視役でもある眼前のくノ一を、アマリは思わず凝視した。
 それは理解していた事実だったが、先程の会話の中で感じ取った、彼の内の何かが、自身と共鳴しているような…… そんな自惚れとも誤解しかねない未知の予感があった。
 それが、どうしようもなくアマリを駆り立てていたのだ。それが何という感情なのか、動力なのかもわからないまま……

「貴女様のその心持ちは美徳ではございますが、場合によっては、ご自身を窮地に陥れる要因にもなり兼ねません」
「……ありがとうございます。すみません。こんな事……」

 暫し、気まずい空気が流れたが、改まるように、アマリは願い出る。

「カグヤさん」
「はい」
「あの……早速ですが、明日……少し、ご一緒くださいますか?」


 翌日の昼過ぎ。アマリはカグヤと共に、以前に窓から見た池囲いの庭園を訪れた。暫く外の空気に触れていなかった彼女を案じ、カグヤは了承してくれた。
 離れから少し歩いた先にあり、対岸側は茂みと木々が埋めている。外敵を避ける為か、囚人が逃げ出せないようにする仕様なのか、規模の大きな池だ。だが……

「花が……無いのですね。一つも……」
「あまり華やかに見立てるのは、陰の身である長様の一族の都合上故……でございます」
「そう……ですか……」

 この屋敷や彼の事情をよく知らないアマリには、カグヤの説明が半分も理解できない。

「アマリ様は、花を()でられる御趣味があるのですか?」
「あ、はい。そうです……」

 嘘ではないが、内心慌てた。花能(はなぢから)の事だけは、知られていない状況なので安堵していたのだ。あれだけは、ばれてしまってはまずい……
 話を逸らすように視線を庭に向ける。石造りを基調にした敷地は、静寂に包まれた厳かな空間だ。だが、どこか哀愁が漂う。そんな庭園をぼんやりと眺めた。
 あの冷徹な厄神らしいとは思うが、どこか寂しげで殺風景にさえ見える。余計な世話だが、せめてもう少し緑が増えたら良いのに……と思わずにいられなかった。花や緑という類は、彼には馴染みがないのかもしれない。

「私は少し離れた場所におります。どうぞごゆっくり御観覧下さい」
「あ、ありがとうございます」

 久しぶりの外の景色に夢中になっているアマリに気を利かせてくれたのか、カグヤはそっ、と一人にしてくれた。
 彼女の姿が茂みの陰で見えなくなった頃、ぽつり、と呟く。

「濁りがあまり無い…… 水が綺麗なのね……」

 実家の池に咲いていた(はす)や睡蓮を思い出す。水底の泥までも吸い上げ(かて)にし、それでも美しい花を魅せる。そんな生態が奇妙だと言う者もいたが、そんなたくましい生き様に、アマリは憧れていた。

 そんな中、覚えのある強い視線を感じた。何かを予感しながら首を向けると、少し離れた松の木の陰から、二つの紅珊瑚が見え隠れている。

「また、貴方ね…… 来て?」

 宙を扇ぐように、ふらり、と片腕を差し出す。すると、バサッ、と焦げ茶の翼をはためかせ、その(たか)――黎玄はアマリの側の石積みの置物に留まった。動物が好きなので、少しばかりだが自然と気が明るくなる。少し離れた所にかがんで、澄んだ瞳を見つめた。

「……()()()は……貴方が長様に知らせてくれたのよね? ――レイゲン。綺麗な響き……どんな漢字を書くのかしら」

 黎玄もだが、厄神であり界の長である彼の正式名も、アマリは知らない。微かに苦笑を浮かべ、続ける。

「ずっと私を監視して、あの方に報告していたのでしょう……? 貴方も忠実で、律儀ね」

 主である荊祟(ケイスイ)としか精神感応(テレパシー)を行わない、また出来ないように仕込まれているので、黎玄はずっと直立不動のままだ。澄んだ眼差しを向け、何かを観察し、知ろうとしているのはアマリも(さと)っていた。
 自分が隠している企てや人族の情報なのだろうが、この鷹を見ていると、何とも言えない複雑な思いがわき上がる。あの夜のやり取りの様子だけでも、彼に脅されたり、無理矢理従わされている訳ではないのが判るからだ。

「貴方のご主人様は……本当に、不思議な方ね……」

 少なくとも一人の従者……そして、物言わぬ利口な動物にまで、こんなに慕われて信頼されている。そんな妖厄神への不可思議さや違和感が拭えないまま、彼の判断を待つしかない……
 いつまでこんな日々が続くのだろう……という不透明感、不安定さが、再びアマリを追い詰め始めていた。


 翌日の夕刻前。『本日、長様がいらっしゃいます』と朝にカグヤから聞いていたアマリは、以前とは違った意味で身構え、同じ身仕度、離れの部屋で、荊祟と再び対峙(たいじ)していた。
 自分の処遇について、今度こそ何か言われるかもしれないという不安。そして、彼と話がまた出来る機会への期待めいたものが、何故か淡く入り交じるという、矛盾した思いが交錯する。

「この屋敷に、だいぶ慣れたようだな」
「は、はい」
「庭園はどうだった。見たのだろう?」

 やはり……と複雑な思いがわき、(うつむ)く。予想通りだが、改めて面と向かって直視すると、無表情ながらも澄んだ琥珀の()が、とっくに全て見抜いているのではないか……という錯覚を起こす。

「お前の考える通り、黎玄を(かい)し監視していた」

 そんなアマリの心情を代弁するように、長は続ける。

「お前の処遇についてだが…… 未だ家臣と揉めている。亡き者にしても生かしても、何も変化が起こらないとなれば、人族が仕掛けて来るだろうからな」

 何と答えたら良いか判らず、きつく唇を結ぶ。いずれにしろ、自分に決定権は無い…… 彼の判断を受けるしかないと、梅鼠(うめねず)の羽織の裾を握り締めた。

「――お前の異能は、何だ」

 反射的に、思わず顔を上げた。彼の表情は変わらないままだ。いつかは問われるだろうと予測はしていたが、突然、核心部を突かれ固まり、息が詰まる。

()えて、わざわざ此処(ここ)に送り込む。我らに加担するはずも無い。何かの先攻術の類いでは……と、色々と推測したのだがな……」

 絶対に言えない。言ってはいけない、とアマリは気を引き締める。だが、このまま黙っていたら、さすがに拷問されて吐かされるかもしれない…… 口内が渇き、額に冷や汗が滲んだ。
 そんな彼女を、眼前の厄神は(あご)に掌をあて、じりじり、と炙るように観察していた。
 どくどくどく、と心臓が痛い位に暴れている。全身の血管が縮んだように感じる。この危機をどうやり過ごすべきか判らず、アマリは沈黙していたが、やがて、ずっと聞きたかった疑問……違和感を、口から漏らした。

「貴方様、こそ…… 何故、人族の地を荒らすのですか……?」
「災厄でも起こさねば、人族の者共は次第に図に乗るだろう? 自分達が世で最も高尚で、選ばれた生物だと(おご)り、界の富を好き勝手に使い始める」

 自問を()らされた事など何でもないようにかわし、荊祟は言い放った。

「それを戒めるには、自然の厳しさや目に見えぬ存在の脅威を見せつけるしかなかろう? それでも時が経てば忘却し、再び似たような事を始め出すが」

 学んだ歴々の知識しかなかったが、彼が言いたい事、主張は理解出来なくはなかった。だが、一人の尊巫女として見てきた現実が、アマリにもある。

「……だからと言って、その為に、何も罪の無い方々の命が苦しみ、奪われても良いとは……思えません」
「……そうだな。出来るなら俺も、そんな者達を殺したくはない。だが……」

 腰元の日本刀の(つば)をチン、と鳴らし、(さや)に左手をかけたと思った瞬間、俊敏な手さばきで、荊祟はアマリの首筋に鋭利な切っ先を当てた。鈍く光る危うい殺気、鋼の冷たさが、彼女の柔い素肌にひやり、と主張する。

「もし、お前が今、俺に殺されなければ…… そうだな…… 例えば大火を起こすと言ったら、お前の同族はどう出るかな」
「それ、は……」

 首筋に感じる感触と同じく、痛切な厄神の問いが、アマリの言葉と息を止めた。
 彼は、過去にそんな事をしたのだろうか。何と答えるのが正しいのか、この厄神相手に、何と言うべきなのか…… 様々な思慮、考えが脳内を駆け(めぐ)る。

「……私の、命と引き換えにされるでしょうし、犠牲と思ってはならないと、考えます。ですから……貴方に差し出します」
「そうだな。奴らはそう言うだろう。だが、お前は、それで良いのか」

 今までの信条と教え、無難な答えをそのまま口にするアマリに、厄神は更に詰める。

「……それが、私の務めですから」
「そんな模範解答は愚行だ。甘過ぎる」

 渾身の決意を、ばっさり切り捨てる厄神に、唖然とした。

「まず、そんな卑劣な事を言って来る奴は、大抵、約束など反古(ほご)にする。当初の目的……厄介なお前を人族公認で殺した後、本当に大災を起こすか、起こさずとも更に何か詰めるか……どちらかだろう」
「……‼ 貴方も……そう、されるのですか?」
「今、聞いているのは俺の出方ではない。お前がどうするか、だ。己の意思は無いのか」

 返す言葉がなかった。鋭く、身も蓋もない見解だが、『その通りだ』という気が起こり、感服したのだ。自身の中にもどこかで感じていた事実。だが、認めたくなくて、ずっと見ない振りをしていた……
 自身の在り方や生き方を否定する事にもなる真理。そんな刃を真正面から突き付けられ、思考が固まってしまった。

「何故、そんなに自己を軽んじる? 役目? 義務? 解らんではないが、無意味にしかならない犠牲は不毛だろう。大体、人族というのは自分本位な割に、浅はかで他力本願な者が多すぎる」
「‼」
「お前もだ。もっと自分で自身を守れ。知恵をつけ、考えろ。でないと、あらゆる者に狙われ、(しかばね)になるまで喰い尽くされ、用済みになれば()てられるだけだぞ」

 反論したかった。が、出来ない。事実、自分はそうして、この地に来たのだから。だが、ずっと行き場のなかった憤り、哀しみの火種が、少しずつ怒りに変換され、アマリの胸奥でふつふつ、と煮え始めた。どこに対するものかも、分からないまま。

「……貴方は、本当に……全て、が解るのですか?」

 低く、重い掠れた声が、荒れた桃色の唇からこぼれ落ちる。彼の腰元の刀が目に入ったが、気にならなかった。

「……私が放棄したら、多くの方が心の()る場を失うのです。混乱が起こり、治安は崩れ、まだ幼い妹に全ての(しわ)寄せがいく。だから、きっと姉様も……私を守って、下さった……」
「だが、結局、お前も贄に出されたではないか。しかも、俺のような者に……死ぬとわかっていて、だろう?」
「……そうなる原因を生み出すのは、災厄、疫病、戦ではないですか。誰だって脅威なる存在は恐ろしいですし、命惜しいもの。そもそも、その一つを起こすのは……貴方様なのでしょう⁉」

 怒りを買って、拷問されるかもしれない覚悟で、アマリは言い放った。ずっと無表情だった荊祟の眉間が潜み、口角がひきつる。

「……確かに、俺だ。だが、人族の所業が良いとは思えん。お前のような女の存在が、その証ではないのか」
「……‼」

 不意を突かれ、アマリは厄神を凝視した。尊巫女という存在に対する、彼個人の考えが垣間見え、心の一番深い場所に隠していたモノに、一瞬だけ触れられた気がした。しかし、()()を許し、全てを(さら)すのは危険だと、再び隠す。

「……今日、話したかったのはそれだけだ。お前の考えはよくわかった。検討し、後日、また知らせに来る」

 微動だにしないアマリを一瞥(いちべつ)し、忍びやかな身のこなしで荊祟は部屋から去っていった。彼の姿が離れから消えた後、そっ、とカグヤが近づく。

「アマリ様。大丈夫ですか」
「……カグヤさん……すみません。暫く、一人にして、頂けますか?」
「……わかりました。隣の部屋におりますので、何かありましたら伺います」


 一人になったアマリは、茫然自失状態になっていた。今までは彼の事が理解出来ず混乱していたが、先程の会話で自身の事すら分からなくなってしまったのだ。
 朦朧(もうろう)とした状態で座り込んでいた時――

「失礼致します。尊巫女様。少々よろしいですかな? カグヤには了解を得ております」

 襖の向こうから、落ち着きある(しわが)れた声が聞こえた。カグヤでも荊祟でも無い者の来訪は初めてだ。少し警戒したが、隣の部屋に護衛がいる状況なので、了承した。

「……どうぞ」

 襖から入って来た年長者の貫禄ある男は、自分は荊祟の側近だと名乗った。

「貴女の事は、(おさ)様から色々と聞いております。最近は毎晩、その話題ばかりで」

 彼の物言いに、少し嫌みめいたものを感じたアマリは身構えた。やはり、自分はここでも厄介者なのだと実感する。

「先程、長様が参られたでしょう? 貴女の異能がどんなものか存じませんが…… おそらく、我らに悪影響が出るのでしょうな」
「……」
「あの方は、主としては有能で(さと)い方ですが、いささか冷酷になりきれないところがあります。人族の血が混じる異種者故でしょうかねぇ」

 何と答えたら良いかわからず、アマリは沈黙していたが、彼も色々あるのだ……と思った。

「……厄界の長として、尊巫女に手をかけられない。我々家臣が亡き者にしても、贄を出したにも(かかわ)らず、いつまでも変わらない状況に人族が怒り、最悪、戦になりましょう……」

 心臓がひきつり、縮まった。確かにその可能性がある事に、アマリは気づく。血の気が一気に引いた。

「では、どうしたら……? こうして生きていても、同じですよね……?」
「貴女様ご自身が、どうにかご自身で……でございます」


 側近が出て行った暫し後、『吐き気がするので(かわや)に行きたい』と隣の部屋まで来たアマリと共に、カグヤは離れの外にある厠に訪れた。
 恥ずかしいから……という事で、いつもより少し距離をとって待機していたが、いつまで経っても彼女は戻って来ない。嫌な予感がしたカグヤは厠を覗いた。

「アマリ様? 大丈夫……」

 もぬけの殻だった。厠に窓は無いが、鍵も無い仕様だ。急いで離れの部屋に戻ったが……アマリの姿はなかった。


「長様‼ お取り込み中、申し訳ございません‼」

 荊祟がいそうな部屋を回り、ようやく奥座敷で数人の家臣といるのを見つけたカグヤは、血相を変えて飛び込み、頭を下げ正座した。

「なんだお主。くノ一か? 無礼であるぞ」
「良い。申してみろ」

 カグヤの珍しくただならぬ様子に、荊祟は緊急性を察し、許可する。

「アマリ様がおられないのです‼ 離れの部屋にも(かわや)にも、どこにも……!」
「……それは、(まこと)か?」
「脱走……まさか逃げ延びて、人族と組んで、今度こそ長様に奇襲を企てるつもりでは⁉」

 ざわめく家臣達に、カグヤは異議を立てる。

「お待ち下さい! それは杞憂(きゆう)と存じます」
「くノ一ごときが、長様に口答えするのか⁉」

 激昂した従者達に向かって、すっ、と静かに手を差し出し、『待て』とばかりに荊祟は制した。

「……続けろ。カグヤ」
「あの方には逃げ場も、頼れる者もございません。武器も攻術もお持ちで無いようです。長様への奇襲は……あり得ないかと」
「まさか、あの女」

 重い声色で、最悪の事態を想定した荊祟に対し、真っ青な顔でカグヤは頷く。そのまま首部(こうべ)を深く垂れ、素早く土下座した。

「荊祟様‼ ご家臣の方々‼ どうかアマリ様をお助け下さい‼」

 雇うようになってから初めてここまで物申した忠実な部下。荊祟だけでなく側近達までが狼狽(うろた)え、怪訝な眼差しを彼女に向けた。動揺を抑え、静かに荊祟は問う。

「……何故、そこまで?」
「あの方は……以前の私です」
「……?」
「生まれも、育ちも、立場も……種族すら異なる方ですが、似た苦しみを抱えておられます」

 整った美しい顔立ちを歪め、悲痛な面持ちで乞う、くノ一が語るアマリへの考えには、思うところがあった。今日、自分に発した彼女の幾つもの言葉、在り方が、荊祟の内の一番深い場所に刺さっていたのだ。

「あの方は、決して死なせてはなりません! ()()()に生かされた、()()私が申すのは、大変可笑しな見解でございますが、どんな形でも、どんな場所でも、生きて頂くべき方だとお見受けします」

 終始、血気迫る勢いのカグヤに呆然としていたが、一族の長としてではない『荊祟(ケイスイ)』の言葉が、切に代弁されている。それに従って良いのか判らない。だが……

「しかし……居場所がわからん。黎玄に探させたとしても、間に合うか……」
「心当たりがございます」

 カグヤは確信していた。おそらく彼処(あそこ)だと――
 藍混じりの蒼黒(そうこく)に様変わりした、夜更けの石造りの庭園。ぼたん雪が降り出していた。薄氷が張り出した、湖のように広々とした池が、水辺に棒立ちしているアマリを飲み込むように広がっている。
 凍てついた空気の中で、着の身着に羽織を着込んだだけの格好。だが、寒さを気にする感覚も、気にする必要も、彼女にはもう、無かった。

「何をしている」

 重圧を抑えた、覚えのある静かな低音の問いが、背後からした。一瞬びくついた後、力なくアマリは振り向く。初めて出会った夜と同じ姿、出で立ちの荊祟が、少し離れた場所にいた。軽く息を切らし、首巻きがずれて顔下がさらけ出されている事以外は……
 今にも霞み消えてしまいそうな彼女の幽玄な姿は、幽世(かくりよ)に旅立つ魂のように見えた。白い手に儚く浮かぶ、更に真白い小さな花が、彼女の()()に映る。

「――その花は、何だ」

 待雪草(スノードロップ)花能(はなぢから)は、花の種類と術者の意図によっては、恐ろしい裏能(うらぢから)を発動させる異能でもあった。
 待雪草は――『あなたの死を望む』。アマリは自分の姿を思い念じて、この可憐な花を自身に吸収させるつもりだった。

「死、なせてください……貴方が殺せないなら、自分で…… 私が勝手にした事にしたら、ご迷惑はかけないでしょう……⁉」

 どんな異能を持つ尊巫女にも最大の禁忌であり、自身にも罰として多大な反動が返ってくる術。『生ける命を故意に殺す』――それをアマリは行おうとしていたのだ。……自分自身に対して。

「帰る場所もない。贄にもなれない。殺してももらえない。生きていたら人族と争いになるかもしれない…… どうしたら、良いのですか……⁉」

 掌に純白に輝く花を浮かべながら、そんな事を訴えてくる彼女の姿は、痛々しい位に苛烈で――『清廉』だった。何とも言えない衝撃が、荊祟の全身を駆け抜ける。

「お、前……」
「もう……疲れました。つかれたんです……つかれ、た……」

 嗚呼(ああ)、そうか。自分は疲れていたのだ――と、アマリは気づく。彼女の力無げな渾身の叫びに、荊祟は絶句し、この尊巫女の異能の在り方と効力を(さと)る。
 花能(はなぢから)の存在は知らなかったが、彼女がこの方法で自害するつもりでいるのは明らかだった。

「――そんな力があるなら、何故、我らに襲撃しなかった? 何故、奴らに復讐しない⁉」
「……あの界にいるのは、()()()()だけではないからです。(あそこ)に不幸があると困る方も、力無き方も……沢山おられる……」
「その哀れな奴らも、尊巫女に何もかも押し付け、すがり、都合よく……慰めにしてきたのだろう? お前には恨む、憎むという類いの念は無いのか」

 理解できないと言った呆れ混じりの思慮が、彼の言葉には滲んでいた。そんな厄神の問いに対し、アマリは自嘲気味に嘲笑(わら)った。その()に光は無い。虚無だった。

「そのような情は、もう……とっくに()てました。それに……『憎む』というのは、私にとっては重すぎる、苦しい(もの)になってしまったんです……」

 尊巫女として依頼者と対峙する中、憎しみや怨恨という負の激情に呑まれ、我を失っている者を時々、目の当たりにした。彼らはそれらが自らを蝕んでいる現状に気づかず、時にはそんな自身に酔い、憎き相手を呪い生きる事を望んでいる。
 そんな状態は、彼らを泥沼に追い込んでいるようにも感じた。そんな怨念に()され、()てられて続けていたアマリにとって、少しでもそんな念を抱く事自体が恐ろしかったのだ。
 尊巫女として聖人君子でいたいという考えもあったが、それ以上に、そんな底無しの闇を抱くことで精神(こころ)が壊れてしまう事が、怖かったのだ。その位途方もない邪が、既に自身の内に巣食っている事に気づいていたから――

 アマリの言葉の重みに圧倒され、荊祟は息を呑む。この尊巫女――人族の女が背負い、抱えていたものは……

「お前の命はどうなる? お前だって人族だろうが」
「以前、貴方は言いました。『どんなに疎まれても自分は神族だから、無意味な殺生はしない』と」

 自嘲的に発した信条を彼女が覚えていた事に、荊祟は不意を突かれ、少しばかりたじろぐ。

「私も同じです。どんなに滑稽でも、利用されているだけだとしても、私は『尊巫女』なんです。そうして生まれて、そうやって生きて来ました。その(すべ)しか、知らないのです……」

 厄神の鋭く真摯な眼差しを受けながら、アマリは(しか)りと言い放った。

「それに『私の死』は、()()()ではありません。元々望まれていた事ですし、誰も困らないで済みます。それは、貴方が一番ご存知でしょう?」
「‼ 勘違いするな。お前が死んだところで、人族の世もこの界も、何も変わらん‼」

 一転、醒めたように、荊祟は黄金(こがね)の眼光を放ち、激昂した。

「お前がどんな力を持っていようと、それが無くなれば、奴等は何年もかけて、再び代わりになり得るものを血眼で探す。そして同じように利用し、使い()てる。それが繰り返されるだけの事」
「……‼」
「偽りではない。そういう生き物だ。俺は、何度も……幾度も見てきた。無駄死ににしかならんぞ……‼」

 脳天を砕かれ、意識が飛ばされた気がした。激しい眩暈(めまい)と吐き気がこみ上げ、アマリは口元を片手で覆う。視界に映っていたもの全てに幕が下りた。何も――見えない。

「……なら、私は……どうしたら、よいのですか……」

 掠れ声で嘆くように呟く。彼の語る事は、アマリには全ては理解できなかった。どこまでも自分は虚しく惨めな存在だという事、『絶望』とはどんなものかは、改めて実感したが……底無しの沼だ。終わり、が無い。

「取り敢えず……勝手に死ぬのは、俺が許さん」
「……それが真実なら、尚更……そんな、酷な虚しい界で……生きたく、ありません……」
「生きたらいい」

 か細く嘆き、不可解と言いたげな眼差しを向けるアマリに、(まじな)いか、もしくは力を注ぐように厄界の長は説き、()えた。

「憎めないのなら……せめて――怒れ。泣いて叫びながら、生きろ‼ その位の権利は、お前にだってある‼」
「……ある、のです、か? 私、にも……」

 掠れた声が震えた。何が正しいのか不明瞭で、混沌とした頭と心。痛みを伴う刺々しい彼の言葉のどこかに、ほのかな温もりを感じる。

「ある。こうして生きているのだからな。此処(ここ)でやれば良い。手助けする。人族の誇りとやらは知らんが」
「です、が……」
「『お前の死』に意味があるのか無いのかは、俺が決める。――いや、今決めた」

 眼に痛みを感じ、アマリの視界が揺らぐ。熱い水の膜が浮かんでいた。同時に、掌の純白の花に霞みがかかっていく。

「たとえ意味があったとしても、お前が存在する事で、それ以上の意味が生まれる。その位……見透(みとお)せる」
「お、さ……様……」
「死ぬのはいつでも出来る。どうせならその前に、お前という命が燃え、活きた痕を、界の何処(どこか)に刻みつけろ‼」

 刹那、瑠璃の瞳孔が一気に開いた。固まっていた顔面がくしゃ、と崩れ、眼から大粒の水滴が溢れると同時に、(むせ)ぶような声が漏れる。生まれて初めて、幼子の(ごと)く――号泣した。
 みっともない顔をしているだろう……と俯いたが、直ぐ様、天を見上げた。()えるように。
 忌まわしいと()われる妖厄神の言葉は、救いの声にも、邪へ(いざな)(あやかし)の囁きにも聞こえる。至極、苦味ある叱咤激励だったが、『亜麻璃(アマリ)』という一人の命を救い、息を吹き返させた、柔く巻き付く(いばら)でもあった。
 実際には、猫が弱々しく鳴く程の声量で声をあげるアマリの掌から、白き花は離れ、薄れゆく。消滅する間際、ひらり、と舞い、淡く煌めきながら彼女の胸元に染み、還っていった。本来の花能……『希望』『慰め』と共に。

 ()しくも、あの新月の夜とは真逆、満月の出来事――

 身体のどこに溜まっていたのか、幾年分の涙を流し続け、ひとしきり泣いた暫し後――アマリは宙を飛んでいた。粉雪に変わった真夜中の宵空を、ゆらり……ふわり……と、瑞風――もしくは鳥の背に乗ったように。

「……(おさ)様、あ、の」
「喋るな。舌噛むぞ」

 心身共にがちがちに固まっているアマリは、すぐ傍……眼前の荊祟(ケイスイ)の顔を見やる。冷え切った身体は彼が着ていた漆黒の羽織に包まれ、そのまま抱き抱えられた状態で、アマリは狼狽(うろた)えながら身を預けていた。
 そんな彼女の心境を他所に、荊祟は真っ直ぐ前を見据え、木々の枝や岩を足場にしながら、我が物顔で空中を俊敏に駆けて行く。

「歩け、ますから……降ろして、下さいませ」
「力尽きて、へたり込んだ奴が何を言う。この方が早い」

 凍てついた深夜の外に薄着で飛び出し、まだ回復して間もない身体で花能(はなぢから)を使ったアマリは、泣き切った後、脱力して動けなくなってしまったのだ。

「で、すが……重い、でしょう?」
黎玄(れいげん)とさして変わらん。軽すぎる位だ。もっと食え」

 『そんな(はず)ないでしょう』と言おうとしたが、速度を更に上げた彼に、口すら開けなかった。
 贄として一族に喰わせるかもしれなかった相手に、『もっと食べろ』と言う。冷えた身体を自分の羽織で温めようとする。額に感じる首筋の微かな温もりは、人族のものと変わらない。
 家族にすらまともに抱かれた記憶の無い彼女にとって、他者で異種族……増して若い男に身を委ねているという、この状況は大事件だった。どうして良いのか判らず錯乱する中、その温もりと肩に感じる大きな手の感触が、どうにか意識を保たせている。
 この飛ぶような感覚にも覚えがあった。厄界の入り口付近で気絶した後、冥土に向かっているのだと思った時に似ている……

 ――あの時も、こうして運んで下さったのね……

 もしかして……と、薄々感づいていたが、その後の荊祟の振る舞いと一致せず、ずっと曖昧(あいまい)にしてきた。だが、今は確信出来る。『生かされた』証だったのだと。

 ――この方は、どうして『妖厄神』なんだろう……

 同時にそんな切ない疑問がわき上がり、アマリの心を占めた。


 あっという間に屋敷の瓦屋根に降り立った荊祟は、そのまま屋根づたいに駆け、離れの入り口に着地した。扉の前には、カグヤが立っていた。荊祟に命じられ、ずっと待機していたのだ。
 長に抱えられたアマリを見るなり、彼女は張り詰めた表情を緩ませ、ほっ、とした素振りを見せる。

「お帰りなさいませ。アマリ様」
「カグヤさん……」

 荊祟の腕から離れ、支えられるように着地したアマリは、いつもと変わらず迎えてくれたカグヤに罪悪感を覚えた。

「申し訳ありません……私……」

 彼女を(あざむ)いて脱走した事に胸がひどく痛む。深く頭を下げ、震える声で詫びた。

「いいえ。ご無事で何よりでございます」

 淡々と、だが穏やかな調子で返すカグヤに、荊祟は口角を僅かに上げ、からかうように(うなが)した。

「先程、俺に申した事を言わなくていいのか」
「長様⁉ あれほど内密にと……‼」
「先、程……?」

 頬を薄紅に染め、珍しく慌てた様子を(あらわ)にする彼女に驚き、アマリは問いかける。

「……また後程、お話します。今はお身体を休めて下さい。また悪化致しますよ」

 決まり悪そうに、そんな優しい言葉をかけてくれるくノ一を、再び涙がにじみ出た眼で見つめる。『生きていて良かったのだ』と、改めて切に感じた。


 案の定、その日の早朝に発熱してしまったアマリは体調を崩し、再び床につき休養する事になった。が、前回とは色々な事が変わった。
 対面の度に警戒し、互いに探り合っていた荊祟は、時間が出来ると離れにやって来て、様子を見に来るようになった。起きている時は、直接会って体の具合を尋ね、他愛ない事を少しだけ話して本堂に戻る。眠っている時は、カグヤにアマリの状態だけを聞いて去って行くのだという。
 多くて一日に一、二回。丸一日来ない日もあったが、頻度は増えた。カグヤいわく、一つの界で長である彼は、やはり多忙らしい。
 そんな中でも、わざわざ来てくれるようになった事が(いま)だ不思議だったが、ほのかな嬉しさも感じていた。眠っている時の来訪で顔を合わせられなかった日は、若干残念に思う位に……

 カグヤと摂る食事の時間も、今までより和やかな空気に変化した。粥や膳の品々は、実家と同じく屋敷に仕えている女中が作っている物だと知ったが、食べる時はいつも独りだった。
 今は、務めとはいえ傍にいてくれて、心から自分を案じてくれる者と一緒だ。それだけで心が和らぎ、口にする味がより美味しく感じる。
 食事を用意してくれる者への感謝の念さえ覚え出す。彼女と共に『いただきます』と手を合わせ、箸をとる瞬間が、アマリには(とうと)かった。
 そんな様々な変化に戸惑いつつも、この界での新たな暮らしが、ぎこちなくも始まった。


 熱がようやくひいた頃、アマリは自分が脱走した夜に荊祟に申した内容を、カグヤに遠慮がちに尋ねた。

「……『貴女様をお助け下さい』、そして『死なせてはいけない方だ』と申しました」

 少し気恥ずかしそうに口ごもりながら、話し始めた彼女は、驚くアマリに自身の過去を語り始めた。

「アマリ様は、私の母に似ておられるのです」

 元々、カグヤはこの界の農家の生まれだった。生活は貧しく、家族全員が朝から晩まで働いても、兄含め四人食べていくので精一杯だったという。

「貴女様と同じく、自分より私達兄妹や父の事ばかり考え、気遣う優しい人でした」

 だが、やはり無理を重ねていたのか、カグヤが物心ついた頃に体を壊してしまい、医師にかかる事も薬を買う事も出来ず、数年後に亡くなった。
 幼かった自分は、『何故もっと自分の事も大切にしなかったのか』と、母の事が理解出来なかった事を、切なげに語る。

「今はわかります。私達兄妹を生かす為に、必死だったのでしょうね」

 その後、ますます生活は困窮し、追い詰められた父に、この界の遊郭(ゆうかく)に泣く泣く売られたのだという。
 幼いながら、持ち前の美貌と才気を見込まれたのか、位の高い(くるわ)に買われた彼女は、楼主(ろうしゅ)に気に入られ、引っ込み新造として売れっ()の女郎に付き、芸事の修行をしていた。しかし数年後、その姉女郎が重い病に倒れ、見捨てられかけた。

「面倒見の良い(ねえ)さんでした。母の最期と重なり、思わず楼主に訴えましたが聞き入れてもらえず……刃物を手にして歯向かったのです。大変な騒ぎになりました」
「……⁉」

 苦笑しながら、そんな事を淡々と語るカグヤに、アマリは驚愕した。今の彼女からは想像できない姿だ。

「同じ頃、ちょうど成人されたばかりの荊祟様が、家臣の方とお忍びでいらしていたのです。仕置き部屋に入れられかけていた私を目にされ、身請(みう)けという形で廓から出して頂きました」

 成人し、家督(かとく)を継いだにも(かかわ)らず、女性に興味を持たない彼を案じた家臣達に、半ば強引に連れて来られたのだという。
 その時は、まさかこの界の長になる者とは知らず、名家の主の(めかけ)にされるのだろうと思っていた。だが、荊祟直々に、この屋敷の警護などを担う仕事を勧められ、鍛練を始めたのだという。女の警護人が少なかったので、適性ある者を探していたらしい。

『その気性、あれだけの度胸があるのだから向いている。命を無駄に使うな』

 何故自分を買ったのかと、不可解さを(あらわ)にしたカグヤに、荊祟はそう(さと)した。
 彼が廓に行った過去に対し、何故か(もや)がかかった複雑な思いを(いだ)きながら、『無駄死にするな』と自分に激した姿を、アマリは思い出す。

「『カグヤ』は、姐さんが付けてくれた廓での源氏名です。元の名を名乗る事も考えましたが、もう昔の自分には戻れない。なら、新しい名で生きようと決めたのです」

 彼女の生きざまと覚悟に圧倒され続けていたアマリは、ずっと言葉を失っていたが、ようやく口を開く。余計な世話だとわかっていたが、問わずにはいられなかった。

「……戦う事、は……怖くないのですか」
「基本的にはこちらの護衛、又は潜入調査ですので、戦にでもならない限り命懸けにはなりません。怖くないと言えば、嘘になりますが……こちらの方が性に合っています。いずれにしろ、あのまま廓に居ても、どうなっていたか分かりませんから」

 毅然とした面持ちで、文字通り異世界の話のような事を語るカグヤに、アマリは茫然としつつ、どこか共感と憧れを覚えた。自分も不可抗力で命懸けの所業をしたが、彼女は自分の意思で動いた経緯もある。

 対称的な人生を歩んできた異種の女性。この出会いは偶然か、必然か。幾つもの出来事、選択が重なり、運命は大きく変わる。
 自分が今、この界でこうしているのも、数奇な巡り合わせの果てなのかもしれない……と、何とも言えない思いに包まれた。
 一週間弱が経ち、ようやくアマリの体調が回復した頃、荊祟(ケイスイ)からの伝言を預かった事を、カグヤは伝えた。近日中に御用達の呉服屋を呼ぶので、着物を仕立てる布地を選べという内容だった。

「そんな。置いて頂けるだけでも、十分ありがたいですのに……」
「ずっと客人用のお着物と寝間着でしたからね。此処(ここ)で暮らしていかれるには足りないと、長様も気にされたのでしょう」

 あくまで自分は居候の身だと、遠慮するアマリに、カグヤは苦笑しながら付け足す。

「とは申すもの、尊巫女が献上されたという噂は、界に広まっているので、暫くは迂闊(うかつ)に外に連れてゆけないので申し訳ない、との事です」

 そもそも、この屋敷には女物の着物が一枚も無かった。カグヤ始めくノ一は基本的に忍装束、女中は通いの者ばかりで、男所帯だからだという。荊祟の両親は既におらず、兄弟姉妹もいない為、貸せる物も無いらしい。
 恐れ多すぎて借りるつもりはなかったが、母親の形見も無いのだろうか……と、アマリは少し疑問に思った。彼は人族との混血だ。母は、おそらく尊巫女……自分よりも先に厄界に出され、長の伴侶になった人物。どんな人柄で、どのような異能を持っていたのか、とても気になる。
 神族、特に長の寿命は長いと聞いていたが、何故、父である先代の長もいないのだろう……

 ――あの方は、どのくらいの年月を、たったお一人で過ごしていらしたのかしら……

 彼にも複雑な事情があるのだろうと察していたが、以前の自分の生き方と重ねてしまう。種族も、環境も、生まれ持った能力も違う。しかも、自分達人族の宿敵……
 それでも、妖厄神――荊祟の在り方を、そんな風に捉えている自身に戸惑う。もっと彼の事を知りたい……と、今のアマリは無意識に考えていた。


 二日後。数人の男達と共に、荊祟がアマリの部屋までやって来た。呉服屋の主人らしき貫禄ある男は、大きな荷物を抱えた従者を連れている。

「長様。この度のお気遣い、誠に感謝いたします」
「気にするな。大した品を与える訳ではない」

 開口一番、丁重に頭を下げ、申し訳なさそうに礼を述べるアマリに、荊祟は素っ気なく返す。打掛(うちかけ)などの晴れ着ではなく、普段着る小袖を数着作るとの事らしいが、それでも十分居たたまれなかった。

「はは、荊祟殿。こちらは仰天致しましたぞ。久方ぶりのお呼びでございました故、何事かと思いましたら、女の着物をご所望との事。しかも、噂の尊巫女様ではないですか」

 二人のやり取りを見ていた主人に言われ、居心地悪そうに目を反らした彼に、不覚にもアマリの胸は高鳴り、じわり、と喜びがわいた。
 尊巫女の存在をよく思わない者もいると聞いていたが、この男は荊祟からどう聞いていたのか、敵意は感じない。気さくな振る舞いで、従者に荷物をほどき、中身を出すよう指示している。

 間もなくして、深緋(こきひ)紫紺(しこん)水縹(みはなだ)、薄紅梅、花葉(はなば)色…… 数々の鮮やかな反物に視界が彩られ、アマリは圧倒された。梅、水仙、椿などの旬の花柄が、更に華やかにする。

「さあ、いかがなさいます? 貴女様でしたら……桃色や淡い紫、()のお色……瑠璃を基調にしたのやら、花を刺繍した衣が、大変お似合いかと存じます」
「……申し訳ございません。何を選べば良いか……わからないのです……」

 饒舌に品を勧めてくる主人に、アマリは困り果てた。申し訳なさと情けなさで、すっかり小さくなっている。

「それに……本当に似合うでしょうか……」
「合う合わないは気にするな。好む色や柄で良い」
「好む、色……」

 荊祟の言葉に、更に頭の中が真っ白になった。考えられない、浮かばない以前に、思考が停止して動かない。ずっと、正装から日常の衣装、装飾品まで全て、母や侍女の選択に任せ、(ゆだ)ねていた。
 自分が何を好むか、どんな趣向かなど、考えた事も気にした事もなかった。そんな自由すら与えられなかったのだ。

「……暫くは、屋敷内でしか着ない代物だ。お前が好きに選べ」

 珍しく、そんな優しい言葉をかけてくれる荊祟に、アマリはますます錯乱して困惑する。色とりどりの反物を、一つ一つ、丁寧に凝視するしかなかった。
 ふと、柔らかな(こうじ)色の布地に、薄紅の山茶花(サザンカ)が所々、刺繍されている反物が目にとまった。実家で見る事が叶わなかった、憧れの花……

「これが()いのか?」

 じっ、と憑かれたように見入るアマリに気づき、荊祟は尋ねる。我に返り、彼を見て慌てて頷く彼女に、主人と傍にいたカグヤが微笑む。
 その後は、結局、いつまで経っても選べなかったので、荊祟が残り二着分を選んだ。(あけぼの)色という淡い桃色に、白梅が刺繍された衣、葵色と月白(げっぱく)の格子柄の衣。そして、簡素な竹櫛(たけぐし)と手鏡が追加された。


「仕立てに暫くかかりますが、なるべく早くお届け致します故、どうかご容赦を」

 そう丁寧に詫びつつ、満足したように帰って行く主人と従者を見送り、部屋に戻った後、アマリは恐る恐る、切り出した。

「あの方……私に敵意を向けられていませんでした。ご商売上という事も、ありますでしょうが……」
「あれとは父の代から付き合いがある。信頼関係のある男だ。これまでの事、お前の人となりを話した所、少なくとも、自ら我らに害をなす事は無いと理解してくれた」

 彼が自分を信用してくれた事がわかり、不意に胸の奥が温まる。だが、他の者はどうだろう。暗に自害を促した彼の側近始め、自分がここに存在する事を懸念する者だって、いておかしくない。

「お前と話した側近の件はカグヤから聞いた。あの男も父の代から仕えている者だ。俺と界の行く末を案じての言動だろうが……」

 そんなアマリの心境を読んだように、荊祟は苦い顔で続ける。

「いえ。致し方ない事だったと考えております。私がこの界の不安材料な事に変わりはありませんから……」

 ()()()から、ずっと複雑な思いでいる。尊巫女……人族としての自分と、彼を始めこの界の者達に救われた自分が、同時に存在している事に戸惑い、混乱していた。
 あの者が言った通り、状況が変わらない事で人族の不信を買い、争いを招いてしまう事が、一番恐ろしい……

「災厄を免れたくお前を差し出した者達が、戦という大惨事を自ら引き起こすとは思えん。じきに何かしらの苦言は申してくるだろうがな。奴らが余程の阿呆(あほう)でなければ、の話だが」

 はっ、とアマリは荊祟を見た。確かにそうだ。怒らせてしまうだろうが、少なくとも最悪の事態は招かず済むなら、まだ救いがある……

「奴には同じ事を言い含めておいた。それでも、少々渋い顔をしていたが…… お前が何か仕出かさない限り、ここに居る事は許可するだろう」
「長様…… 本当に色々とありがとうございます。どうお返ししたら良いか……」
「決めたのは俺だ。お前が気に病む必要は無い。――それより」

 深々と頭を下げ、改めて礼を言うアマリに、荊祟は不可解な意を向ける。

「自分の着物一つ選べないのは、相当だな」

 返す言葉が無く、アマリは(うつむ)く。自分がとことん情けなくて仕方ない。

「少しずつで構わん。これから訓練したら良い。自分の意思を持てと言ったろう」
「……はい。ありがとうございます……」

 言葉は厳しいが、その内には気遣いや優しさが含まれている。その事に気づいてから、この荊祟という厄神と過ごす時間に安堵を抱き始めていた。

「ところで…… 何故、あの色を選んで下さったのですか?」
「特に意味は無い。お前が選んだ物と色合いが似ていたのと、眼の色に合わせただけだ」

 途端に視線を反らし、少し上擦った声で、そんな弁解を始める彼の姿が……可笑しかった。『忌まわしい力を持つ恐ろしい厄神』には、とても見えない。

「お前こそ…… 何故、あの仕様を選んだ? やけに熱心に見ていたではないか」
「えっ、と……あの」

 やり返された気分だ。今度はこっちが狼狽(うろた)える。指摘されても仕方ない位、分かりやすく見ていたし、そんな意は無いのだろうが……

「さ、山茶花、好きなんです。実家の庭にあって、毎年、咲くのが楽しみだったので、それで……」
「……そうか。好きな花はあるのだな」

 まさか真の理由が言えるはずもなく、『我ながら、丁度いい塩梅(あんばい)の言い訳ができた』と焦り、安堵するアマリだった。

「――花といえば、だが」

 ほっとしたのも束の間、荊祟(ケイスイ)は、界の(おさ)として知らねばならなかった――いや、ずっと知りたかった事を切り出した。

「お前の異能について、聞いておきたい」

 ついにきた、核心を突いた問い。変わらず玲瓏(れいろう)な落ち着きある声色だが、真剣な眼差しで自分を凝視している。(ふすま)の側に待機しているカグヤの方をアマリは見た。彼女も長の判断に任せるような視線を向けている。
 既に()を見られていて、ここまでしてもらっている以上、話さないといけないとは考えていた。が、長である荊祟はともかく、彼女にも知られて良いのかわからず、躊躇したのだ。

「構わん。護衛として知っておいてほしい」

 覚悟を決めたアマリは、少しずつ話し始めた。生まれて直ぐに告げられた予言。花や植物の声が聞こえ出した兆し。やがて、治癒をもたらす花を召喚できるようになった事。間もなく、両親始め一族の人間によって、離れに独り閉じ込められ、一部の人族を相手に『施し』の仕事を始めるようになった事。
 本来は『萌芽促進』という生命を再生させる力であり、贄に出されたのは破壊的な力を持つ厄神との、事実上の相討ちによって弱体化させる目的だった事――
 終始、茫然とした面持ちでありながら、荊祟は自身を必死に落ち着かせようとしていた。その位、彼女の話は衝撃的だったのだ。


「――それは……また、興味深い異能(ちから)だな」

 上擦った声で、荊祟はなんとか返した。花能というのは、一つの神界の長である彼にも、さすがに初耳だったらしく、動揺を隠せないでいる。

「しかし…… 厄神明王(やくじんみょうおう)など厄払いの神に差し出さず、俺に寄越したというのが狡猾というべきか……」
「厄神明王様……」
「まあ、彼らに献上された尊巫女は、陰陽師所縁(ゆかり)……邪気祓いの異能者ばかりだったと聞くから、お前が受け入れられたかどうかわからんが」
「他家の(やしろ)に、その兆しを見せた尊巫女がいると聞いた事があります。ですから、私は外れたのでしょう……」

 荊祟の推測に、改めて哀しくなったアマリは、思い当たる事実を告げる。彼らに受け入れられる確証が無いなら、より効果的に自分を使い、確実に打撃を与えようとした両親始め一族。よほど災厄を鎮めたかったのだろうか、ぎりぎりまで自分を利用しようとした――

「そうか。だが、厄神明王は双子だ。どちらかの伴侶になり得たかもしれん」
「ふ、双子⁉」
「知らなかったのか」

 驚愕する彼女に、今度は荊祟が眉を潜め、(うかが)う。

「いえ。愛染明王様、不動明王様の兄弟お二人で御役目を果たしておられ、界を持たない(まれ)な神様だとは知っておりました。ですが、双子というのは初耳です……」
「元々、一体に対の顔を持つ神だったらしい。だが、尊巫女と契って人族の血が混じるようになり、身体も二つに分かれた。後々は代々、双子として(しょう)じているという」
「そう、なのですか……」

 ずっと神界に関わる道を生きてきた自分にも知らない事、聞かされていなかった事がまだまだありそうだと、アマリは茫然とした。

「――母親は?」
「え……」
「何故、今も人族の地で生きている。尊巫女ではないのか」

 久方ぶりに母の顔が過り、少し気落ちしつつも説明する。

「……母様は、(やしろ)に子を成す為に嫁いで来られた方です。神通ある御家の一族の方だそうですが…… 当時、我が家に女が生まれずだったので、主の父様と婚姻され、私含めた姉妹が産まれました。ですが、異能はお持ちではないのです」
「成る程」


 渋い表情で考え込む彼に、アマリはずっと気がかりだった件を問いかけた。

「あの、長様」
「何だ」
「この界……この御屋敷でも構いません。私がお役に立てる事、何かありませんか?」

 腕組みを解き、視線をやった眼をそのまま荊祟は見開く。相当、驚いたようだ。

「何もせず、このまま衣食住のお世話になるのは、やはり居たたまれないのです」
「……何が出来る?」
「こちらでしたら……読み書き、裁縫、お掃除、炊事も少しなら」
「例えば、お前が(つくろ)い物や掃除などをすると、今までその仕事を担っていた女中を、一人解雇しなくてはならない。それでもやるか?」

 考えもしなかった事に、アマリは愕然とした。自分のせいで誰かが職を無くしては、本末転倒だ。

「人手は足りているし、負担にならぬ程度に仕事は分配されている」
「そう、ですか…… では、私の異能を使って、何か……」

 なら、自分は何を返したら良いのだろう。実家にいた時のように、花能を使って屋敷やこの界の者に『施し』を行う位しか思いつかない。

「お前の生気と引き換えなのだろう? 本来なら、むやみに使うのは危険な行為だ。屋敷の者に限った内密の所業にしても……やがて噂になるだろう。力の事を知った界の民が、どう出てくるか…… 好意的な目で見る者ばかりではなかろう」

 身体の事を案じ、気遣ってくれる発言に、アマリは耳を疑う。そんな事は初めて言われた。自分の力は他者の役に立って、惜しみ無く使うのが当然と聞かされてきたし、自身も思い込んでいた。心身に負担がかかっても、気にしてはいけないのが当たり前だったのだ。

「暫くは、こうして俺の話相手をしたら良い。今、この界で人族の血が交じる者は、俺とお前だけだ。人族の様子を聞きたい時、通じる話をしたい時がある。無論、話せる範囲で構わん」
「……良い、のですか……?」
「そんなに気になるなら、この離れの掃除や管理を頼む。カグヤも他の任務に就き易くなる」

 隠密のような密告の真似もしなくて良い。そんな都合の良い厚待遇を受けて良いのだろうか。奇跡が起こる呪文でもかけられているようだ。ぱくぱく、と唇を微かに動かすしか出来なくなっていた。二人の会話をずっと聞いていたカグヤも、少し驚いた素振りを見せている。

「早速だが――再び、近日参る」

 話を切り上げるように立ち上がり、荊祟は再び告げた。彼の言動は良くも悪くも心臓に悪い……と、改めてアマリは痛感した。


 翌々日。絹の風呂敷包みを抱え、荊祟は本当にやって来た。

「それは……?」
「何冊かの書物と…… あと、黎玄(れいげん)の字面を知りたがっていただろう」

 彼が包みを解いて箱を開けると、(すずり)、筆、半紙などが現れた。自分の何気ない疑問を覚えていてくれたのだと、感動混じりの驚きを覚えるアマリを横目に、荊祟は筆記の準備を始める。

「『レイゲン』は、こう書く」

 硯に()った墨に筆をつけ、さらり、と軽やかに『黎玄』と書いた。達筆な文字に、彼の隣に正座したアマリは見入った。

「黎玄…… 黎明(れいめい)の意ですね。素敵な名……」
「字は書けると言ったな。お前は? 今頃だが……名は何という?」

 少し躊躇った後、細筆をとり『亜麻璃』とゆるやかに書いた。心の中で、裏の意味は伏せる。出来るなら、もう……忘れたい裏名。

「――アマリ、か?」

 彼に初めて呼び捨てにされ、心臓が跳ねる。何故それだけでこんなに……と、自身の気持ちが解らず、更に動揺する。

「は、い」
「眼の色か」

 じっ、と顔を見つめられ、ますます錯乱したアマリは、こくり、と頷いた後、半紙に視線を戻した。

「……ケイスイ様は、何と書かれるのですか?」

 流れ上、尋ねられる事を予期はしていたが、彼も少し躊躇う。覚られないよう、同じく『荊祟』と、ゆるやかに書いた。

「いばら……」
「我が界では罪人の仕置きにも使用する棘……『(いばら)』に、『(たた)り』だ。我ながら似合い過ぎるな」

 不敵な笑みを浮かべているが、どこか自嘲的にも見える眼差しの彼を、アマリは何とも言えない思いで見やる。輿入れの夜、自分に無体を行おうとした、河の番人達を思い出す。彼らもそんな罰を受けたのだろうか。
 そして、そんな意を持つ自身の名を、彼はどう思っているのだろう。少なくとも、誇らしそうには見えない。だが……

「――(いばら)にも、花能(はなぢから)……が、あります」

 予測外なアマリの言葉に、今度は荊祟の方が驚き、琥珀(こはく)の眼を彼女に向け、最大に見開いた。珍しく揺れ動き、未知のものへの複雑な感情を見え隠れさせている。

「――『不幸中の幸い』、です」

 口元も僅かに開き、茫然となった彼を見つめ、ふわり、とアマリはゆるく目を細め、不器用に微笑(わら)った。ずっと抱いていた感謝の意、そして、自身でもどう捉えれば良いかわからないでいる()()を、今、どうにか伝えたかった。

「……貴方様は……本当に、私の不幸の中の、幸い――救いです」

 ほんの、数秒。彼はそのままの状態で固まっていた。次第に、頬が微かに薄紅に染まる。

「……そうか。なら……良い」

 荊祟は書かれた字に視線を戻した。丸窓から差し込む、淡い冬の陽光に透けたアマリの髪……紅紫(こうし)に瑠璃の()二つの反射光が、朝ぼらけの(ごと)く紙面に映っている。それらの側に今、彼の眼の琥珀も瞬き、微かに揺らいでいるのだが、気づいていない。
 そんな厄神のすぐ隣で、切なくも温かな想いに包まれていたアマリは、その理由を知っていた。