「あら、結花先生どうしたんですか? 忘れ物?」

「初めて担当する子ですし、きっとお部屋で泣いてるんじゃないかって。山田先生には失礼だとは思っているのですが……」

 山田先生がお泊まりのときは、職員室ではなく、リビングのテーブルにお仕事道具を持ってきている。

 寝静まったところに予想外の私が登場したので、少し驚かれたみたい。

「いいんですよ。松本さんのところに行ってあげてください。他は任せてね」

「はい」

 ゆっくりと階段を上って、部屋の前に立つ。松本花菜と名前を入れてあるプレート横のドアをノックした。

 もし寝てしまっているなら、少しでも頭と体を休めることが出来るのだからそれでいい。そのときはスペアキーを使わせてもらって彼女の寝顔を見届けて帰ろう。そんな私の願いも虚しく扉が細く開いた。

「結花先生!?」

 やっぱり、心配していたとおりだ……。

 顔を見れば分かるよ。

「松本さん、中に入れてもらってもいい?」

「はい」

 部屋の中は、デスクライトだけがつけられていて、薄暗かった。

 今日着ていた制服が壁のハンガーに掛けられている。昨日のうちに私が運び込んでおいた段ボール箱が開いていたけれど、あまり開封は進んでいないみたい。

「どう花菜ちゃん、落ち着きそう?」

 今日、お昼を食べたり散歩をしながら話し合って決めたこと。

 みんなの前では『松本さん』だけど、二人きりでいられるときは名前で呼んでほしいと言ってくれた。

「本当は、もっと早く片付けなくちゃって思っているんですけど、体が動かなくて……」

 俯いてしまった彼女の気持ちを引き出すなら今だと直感が告げる。このタイミングだから私からも伝えておかなくちゃ。

「そっか。明日からの学校の用意はできた?」

「はい……」

「大切な先生が待っているんでしょ? 顔見せてあげないとね?」

「結花先生……何でそれを…?」

 ハッとしたように私を見上げる花菜ちゃん。

「私の旦那さまはね、花菜ちゃんと同じ、高校2年生のときの担任の先生なの」

「そんな……」

「いろいろあったわ。一度はちゃんと振られたのよ? でも、私たちどちらも諦められなかった。だから、今はこうして二人でいられる」

 私の薬指にはまっている結婚指輪。これを指に収めてもらうまでには、本当に何度も泣いたり悩んだりした。

「花菜ちゃんの気持ち、分かるよ。だから、それも一緒に考えていこう? そのために私が担当になったのだから」

「結花先生、私、どうしたらいいのか分からないよ……。家族が誰もいなくなっちゃって、お兄ちゃんは先生になっちゃって……」

「うんうん……」

 そうだよ。とうとう話してくれた。

「私のこと、みんな置いて行っちゃった……。一人ぼっちになっちゃったよ」

「そんなことない。ちゃんと待っていてくれるから」

 ベッドの上に座って、ポロポロと涙を流し始めた花菜ちゃんをそっと抱き寄せた。

 彼女のお母さんが、亡くなる前にあの長谷川先生に『お願い』をしていたこと。

 二人の気持ちを離してはいけない。そして、時期が来て誰からも後ろ指を指されなくなったとき、暖めていた想いをそっとお祝いをしてあげればいい。

 すでにパジャマに着替えていた花菜ちゃんをシーツに横たえて、私がその横に入る。

「あの……いいんですか?」

「いいの。これが私にしてあげられることだから」

 そのあとは、ほとんど言葉を発していない。

 ただしゃくり上げる花菜ちゃんを抱き締めていた。

 本当にひとりで寂しかったのだろう。私の胸元に顔を埋めて表情は見えなかったけれど、そういうときの顔は誰にも見られたくないと思う。

 長い時間が過ぎて、すっかり寝息になった花菜ちゃん。16歳にしてはまだあどけなく見える寝顔だった。

 そっとベッドを直し、机の上にメモを置いて部屋を出る。

「昔の私にそっくりだぁ……」

 山田先生が呼んでくれたタクシーに乗って自宅に帰りついたのは、午前3時をまわっていた。