いつもと同じ駅のホーム。
 だけど、いつもとは違う時間の列車に乗り込んだ。

 それは、なんとなく。
 そう、本当になんとなくだった。

 別に寝坊したわけでもなければ、早くに目が覚めてしまったわけでもない。
 ただなんとなく、今日は一本電車を遅らせてみようかな、と思いついただけだったんだ。

 無機質で変わり映えのない毎日を繰り返す日常に飽き飽きしていた僕は、ちょっとした変化をもたらしたかったのかもしれない。

 でも、期待していたわけでもない。

 けれども、一本遅らせた電車の中で、一人の声が僕の耳に舞い込んできた。


(……誰か、聞こえますか? この声が、聞こえますか?)


 それは、芽吹いた蕾を揺らす春の風のように軽やかな女性の声だった。

 ――――正確には、聞こえたんじゃない。

 僕は、物心ついたころには、人の心の声がわかるという特異な能力を持っていて、誰かの強い思考は意識せずとも僕の頭に否応なく飛び込んでくる。聞こえるというよりは、そう、響くといった方が近いかもしれない。

 人の心の声なんか聞きたくない僕は、いつもならヘッドホンで音楽を大音量で流して過ごすのだが、今日は最悪なことにヘッドホンの調子が悪くなって使えなかった。

 うるさいだけの、都会の喧騒のように響くたくさんの心の声の中、人混みをかき分けるようにして僕の元に届いたその声だけは、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

(もし、この声が聞こえたら、返事をしてください)

 幾度となく呼びかけるその声に、僕は眺めていたスマホから視線を少し上げる。さりげなく見渡したいつもの列車は、人気はさほど多くはないが、座席はほとんど埋まりドアの辺りに立っている人もちらほら。みんなスマホや本、新聞などを眺めたり、ぼーっとしたり、外を眺めたり、眠っていたりとそれぞれが退屈な朝の通勤電車の中で時間をつぶしている。

 僕は、心の中で「聞こえてますよー」と呟いてみる。

(――なぁんて、返事なんかくるわけないのに、ばかみたい)

 悲し気な声に、僕の声は届いてないのだとわかった。僕は人の声は聞こえても、誰かにテレパシーを送ることはできないようだ。
 怪しまれない程度に声の主を探すも、なかなかそれらしい人が見つからない。
 一呼吸おいて、彼女はまたゆっくりと話し出した。

(やっぱり、ここは、深い深い海の底。一筋の光も、一粒の音も届かない、暗い世界……)

 それは、独り言、というよりもまるで小説かなにかの一説のような綺麗な言葉たち。
 静かな声が紡ぐ言葉は、僕にありありとその世界を想起させる。
 僕までもが暗い海の底にいるかのような錯覚に陥った。光も音もない世界は、どんな感じなんだろうか。怖いのか、寂しいのか、自分はどう感じるのか。

(暗闇の中を手探りで進んでいくのは、怖くて……。けれども、立ち止まっていることも私を怯えさせる……。でも、進まなくちゃ……。一歩を踏み出さなくちゃ、なにも変わらないから――――)

 声の主は、僕と同じ高校生くらいと予想したけれど、通学時間帯の今は女子高生も多くて見当をつける前に電車を降りる時間がきてしまった。

 見つけられなかったのは残念だけど、仕方がない、と僕は電車を後にする。

 明日も聞こえるだろうか、というほんの少しの期待を胸に抱いて――。