日曜日の昼下がり。こんなおれでも一応受験生というやつなので、休日は勉強道具とスケッチブックを持って図書館やカフェに行くことが多かった。
学習にスケッチブックは当然必要ないけれど、持ち歩いているだけで安心する。ナントカ効果ってやつ。ナントカが何かは覚えていないし思い出す気もないのだが。
「新、どこ行くの」
玄関で靴を履いていると、後ろから母が声を掛けて来た。ああうん、と短く返事をすると「どこに?」ともう一度聞かれる。
母は最近、というか、この一週間、外出に対して敏感だ。原因はわかりきっているが、この場にいない人間のせいで環境に影響が出るのは、超時期かなり鬱陶しい。
「勉強しに図書館行ってくる。夕方には帰るよ」
「ああ、そう……ちゃんと連絡してね」
安堵する母に、それ以上返事はしなかった。苛立ちを抑え、おれは家を出る。清々しいほどの青空が憎たらしかった。
*
図書館に出向いたが、日曜日ということもあってか学習スペースが満席で利用できなかったので、代わりにカフェに行くことにした。
駅から歩いて五分ほどのところにあるこぢんまりとしたカフェバー。ちょうど一か月前くらいに、歩いていてたまたま見つけた店だ。
昼時だったので客数はかなり多く見受けられたが、ひとりだったので、運よく空いていた隅のカウンター席に通された。コンセントもWi-Fiもあるし、椅子がソファのように柔らかいのでかなり快適なので、長居するには条件が良い。
いつもいる若い女性の店員にアイスティーを注文したあと、バッグから参考書やノートを出して広げた受験なんてめんどくさくて人を苦しめる仕組みは、だれがいちばん最初にやり始めたんだろう。頭脳とか学歴とか、そんなもので評価されていたくないと思うのは単なるおれの我儘なのだろうか。
英語の参考書を見つめながら、ぼんやり思考を巡らせる。
おれは、これからどうなっていくんだろう。
勉強が特別できるわけじゃない。騒がれるほど運動能力に長けてはいないし、人と長時間同じ空間にいるのも苦手。将来の夢はなんにもなくて、興味があることもやりたい仕事もひとつも思いつかない。
高校三年生のこの時期になっても、おれはふらふらしたままだ。
ぼんやり思考しながら、開いたノートの隅っこにペンを走らせる。スケッチブックとはまた違うノートの紙質は、さらさらしていて脳死で落書きするにはちょうどいい。
手抜きで描いた好きな漫画に出てくるキャラクター。我ながら、結構似ていると思う。
何もないおれが、かろうじて人に話せる特技は絵だった。好きになった経緯は多分幼少期のどこかにあるんだろうけど、思い出せるほど記憶力があるわけじゃない。
スケッチブックを持ち歩くのは昔からの癖。
コミュニケーションが上手にできなくて、思っていることを伝えることが苦手だったので、消化しきれなかった感情をぶつけるという意味があったのだと思う。
癖付いた習慣はなかなか消えないもので、もうすぐ十八歳になる今でもやめられずにいる。
自慢できることでも将来に活かせることでもないが、スケッチブックと鉛筆はおれの心臓だった。
『新はいいな。才能があって』
ふと、脳裏をよぎったあいつの言葉に苛立ちを覚えた。生きているだけで才能の塊のようだったひとに羨ましがられたところで、むかつくだけだ。
人の記憶は、どうしてこんなに都合よくできているんだろう。
ここにはいない人間から言われて嫌だったことばかり思い出してしまう。兄と双子で良かったと勘違いできるくらい、嫌な記憶の全てを忘れられたらよかったのに。
双子の兄───仁科翼は、憎たらしいほどよくできた人間だった。
頭がよく、中学時代からテストでは常に上位をキープしていた。美術でしか五を取れなかったおれに比べ、翼はほとんどの教科で四以上をとっていて、「翼は何にも心配いらないねぇ」と母がよく褒めていたのを覚えている。
おれはそんなふうに褒められたことなんか一度もなかった。いつもどこか心配されていて、言葉にされなくても「翼を見習いなさい」と訴えかけられているような気がしていた。
勉強だけじゃない。運動もジャンル問わずだいたい人並み以上にはできていたし、コミュニケーション能力にも長けていた。周りにはいつも人が集まっていて、その全員が、翼のことを信頼したり好意を寄せたりしていたように思う。
翼の心臓は、おれみたいにスケッチブックと鉛筆が無くても正常に動いている。
それがずるくて、憎くて、消えればいいと思っていた。
双子なのに、光があたるのはいつも翼だけ。
日に日に募る劣等感も、同じ顔なのにひとつもわかり合えない性格も、全部大嫌いだった。
自分を見失いそうになるのも、ふとした瞬間に生きている意味がわからなくなるのもあいつのせいだ。
嫌悪と劣等感をかき消すように、ノートに描いたキャラクターの顔をぐりぐりと塗りつぶす。
指先に力を込めると、ボキっと音を立てて鉛筆の芯が折れ、芯の黒い粉が散らばった。
心臓がざわついて落ち着かないの何故なのか。
「お待たせしましたアイスティーで──……え?」
目の前にアイスティーを置いた店員の声が途切れる。あまりに不自然だったので視線を移すと、目が合った。同い年くらいの男性店員。記憶をほじくり返せばどこかにいそうな顔だ。
「えーっと……同じ中学で…」
「は?」
「…いや、なんでもないです。すみません、ごゆっくりどうぞ」
同じ中学で。小さくて聞き取りずらかったけれど、店員は確かにそう言っていた。
言われてみればいたような、いないような。少なくとも、この店員とおれが親しい関係じゃなかったことだけは確実だろう。こういうとき、あいつだったらすぐに名前を思い出せるんだろうか。
おまえはいいよな、なんでも完璧で。
劣等感はこんなにもおれを皮肉にさせる。心の中でこぼれた本音に、大きなため息がでた。