「答案回収するので後ろの人集めてきてくださーい。5点以下の人、昼休みに再テストねー」


翌週、月曜日。いつも通り行われた英語の小テストは二点。隣の席の生徒には答案を返される時に少々気まずそうな顔をされた。


この一週間、考えごとばかりしていたような気がする。厳密には考えごとではなく、心にぽっかり穴が開いてしまって何かを考える余裕がなかったというだけなのだけど。

ずっと胸のあたりが苦しくてふとした瞬間に泣きたくなる。その原因が、自分のくだらない生き方にあることも、ちゃんとわかっていた。


「古橋、答案」
「……あ、ごめん」



後ろの席が関くんであることをすっかり忘れていた。二点の答案を伏せて手渡すと、「再テストじゃん」と言われた。
馬鹿にしているわけでも気まずそうにしているわけでもなく、ただ事実を呟くと、彼はわたしの横を通り過ぎていった。



そうだよ、再テストなんて最悪だ。
堂々と再テストを受けるほうが効率的だってことも、不合格だったとて評定に大きく影響するわけじゃないってこともわかった上で、わたしはこれまで毎週ちゃんと勉強していたのに。


学校にいるわたしは、再テストを受けるようなキャラじゃない。キャラ、と呼べるほど存在感があるわけではないけれど、自分が周りから「ひとりが好きそう」で「真面目」で「頭が良さそう」な人に思われていることはなんとなく察していた。

月朝のために英単語をきちんと覚えるのは、再テストに行きたくないからだ。要領よく生きているクラスメイトに囲まれて昼休みを無駄にしたくない。「古橋さんって真面目そうなのに意外と勉強できないんだ」って、誰かひとりにでも思われていたくない。


わたしにとって勉強は将来のためでもなんでもなくて、わたしを守るための鎧だ。

だから、何がなんでもちゃんとしていないといけないのに。



最近のわたしは全然だめだ。わたしが勝手に作り上げた〝普通〟は、わたしのせいで壊れていく。



昼休み。なんとか再テストを終えたわたしは購買に向かっていた。

今日に限ってお弁当を忘れてきてしまったのだ。母から「お弁当忘れてる」と連絡が入っていたけれど、わざわざ学校に届けてくれるほど時間に余裕はなかったようで、わたしが忘れたお弁当は母が職場にもっていくことになった。


歩きながらスマホを開き、古乃のアカウントにログインする。心臓が不穏な音を立てている。フォロワーが五人減っていることと、通知が一件も来ていないことを確認して、ため息が出た。


一週間前、アイコンを真っ白にして、名前を「?」にして、弱すぎる本音を呟いたあの日のこと。『消えたい』というその投稿にはわたしを心配するリプライが何件もついた。



↳お茶漬け @oishii*gohan*dayo 
 なんかあった? 大丈夫? 無理しないでね、、、

↳Haruka @ha**ru**20  
 ふるちゃん大丈夫? なんかあったら話聞くよ~…

大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言いたくなくて返信は敢えてしなかったけれど、内心ほっとしていた。わたしが消えたいと言えば、みんなこうして心配してくれる。いなくならないでと言ってくれる。

だからやっぱりわたしにはSNSが必要で、今更突然手離すこともできない。


その日の夜、古乃宛てに一件のダイレクトメッセージが届いた。




メッセージリクエスト
あ @gxnNj9knAKg*Kg* 1時間前


 彼氏と別れたんですか?笑
 お疲れ様です笑笑
 あなたのツイートみてて痛いからもう二度と呟かないでほしいです笑



古乃としてSNSを長らくつかっていたけれど、マイナス的なコメントが来たのはそれが初めてで、鋭利な刃物で心臓を一突きにされたような、そんな感覚に陥った。

すぐにブロックしたけれど、一度刺さった言葉の棘は簡単には消えてくれなくて、わたしはSNSを開くのが怖くなってしまった。



それから今日までの一週間、呟くこと、誰かの投稿に反応することもせず、フォロワーが減っていないかとか、マイナスコメントが届いていないかとか、そんなことを確認して安心するためだけにSNSを開いていた。

見たくないのに見ようとしてしまう。フォロワーが減っていたら落ち込むとわかっているし、メッセージが届いていたら心が不穏になるだけだということもわかっているのに、止められなかった。


紛れもなくわたしは依存していた。インターネットにも、作り上げた自分の存在にも。


わかっているのに止められない自分が恐ろしくてたまらなかった。


メディア欄を遡り、「にしなくん」が映っている投稿を見返す。やっぱり顔がとても整っていてかっこいい。


いつか、フルネームくらいは自分で聞いてみたかった。あわよくば連絡先を交換して、ふたりで会う予定を立てて。それで、ちゃんと恋ができるような関係になりたかった。

そうしたら、わたしはもっと違う日々を送れていたかもしれない、なんて、画面に映る「にしなくん」の姿を見て、また同じことを思う。



──ドンッ。


そんな矢先のこと。スマホに夢中になりすぎていて、角から出てくる人の存在に気付けなかった。声をあげた時にはもう遅く、ぶつかった衝動で手元からスマホが滑り落ちた。

慌てて手を伸ばしたけれど、先に拾ったのは相手だった。



「あ、ご、ごめんなさ───」
「なあ古橋」
「え?」
「やっぱさ、これ仁科だよな?」



唐突に問われた質問に顔を上げる。わたしがぶつかった相手は、「にしなくん」と同じファミレスで働くクラスメイト──関陽介だった。拾われたスマホの画面には、わたしがたった今見返していた「にしなくん」についての投稿が映し出されている。


「……覗く気なかったんだけど、こないだ古橋が店に来た時も画面軽く見えたんだよね。似てるだけかって思ってたけど、仁科のこと聞いてきたからやっぱりそうかもって」



わたしは何も言えなかった。ネット上じゃ息を吐くように嘘をついてきたくせに、現実じゃ否定の言葉すらつっかえて出てこない。
こんな不運が重なるってわかっていたら、関くんに「にしなくん」について聞いたりなんかしなかったのに。



「これさ、何が満たされんの?」
「は?」
「他人を他人に自慢するのって、古橋にとって何が楽しいの」


静かな声だった。関くんのまっすぐな瞳がわたしを映している。

他人に他人を自慢するのって何が楽しいんだろう。少し考えて、楽しさを得るためにそうしていたわけじゃないことを思いだした。



「楽しくないよ、なんにも」
「じゃあなんでこんなことしてんの?」
「……安心するの。関くんには、わかんないかもしれないけど」



楽しいんじゃない。安心したかったのだ、わたしは。

架空のわたしに縋ってでも、インターネットに依存してでも、この安心感の中で息がしたかった。



「彼氏って言って載せると反応がいいの。わたしのこと、みんな羨ましいって言うんだよ。わたし生きてるって感じるの」
「……本当の自分じゃないのに?」
「だってもうやめられないの。今更無理なの、依存しちゃってるんだもん。嘘でもこの安心感がないと生きていけない。開くの怖いって思ってても癖で開いちゃうの、病気だよねホント」
「……」
「……わかってるの。でもだめなの、わたしは〝普通〟じゃないといけないから」


わたしは〝普通〟でいなくちゃいけない。お母さんが安心するような「わたし」でいるためには、「古乃」の存在が必要だった。


自分で言葉に起こすと、あまりにみじめで泣きそうになる。こんなくだらない生き方しかできないのに、ひとりでは解決策が見つけられないままだ。


「いや、別にSNS自体をやめるべきとは思ってねーよ俺は」
「……え?」
「でも、今古橋が必死につくってる〝普通〟は古橋を苦しめてるだけな気がする。だから一旦その「古乃」っていう人格は捨てたほうがいいんじゃねーのかなって」


関くんの声は落ち着いていた。依存していることをばかにするわけでも、そんな普通はおかしいと否定するわけでもなく、本当にただ、関くんは考えを共有しているだけのように思えた。


「彼氏がいない人なんていっぱいいるし、病み垢つくってる奴もいっぱいいるだろ。古橋が〝普通〟だと思ってないこと、誰かにとってはただの日常で、〝普通〟だったりするんじゃねえの?」
「……なにそれ」
「俺からすれば、〝普通〟になりたがる古橋のほうがよっぽど異常だって思っちゃうけどな」


関くんになにがわかるの。そう思ったのは一瞬のことで、実際に言い返すことはできなかった。


関くんにとって、わたしは異常。それでも、関くんの言葉には、先日届いたアンチコメントみたいな棘は感じられなかった。

否定も肯定もせず、わたしの存在を受け入れてくれている。



「使い方次第だと思う。無理して充実してるふりするんじゃなくて、今の古橋が思ってることを発信してくだけでも全然違う使い方できるんじゃねえ? ネットなんてもともと綺麗なもんじゃないだろうし。突然存在ごと消したって、クソみたいな弱音吐いたって、そんなの本人の自由なわけだし」
「……でも、消したらわたしも消えちゃう、」
「消えるのはアカウントだろ?」
「っ、でも、これがわたしで……」
「いや全然別人だわ。古橋は古橋じゃん」



全部事実で、関くんの言う通りで、泣きそうになってしまう。どれだけ理想の自分を作っても、

わたしはわたしで、わたしにしかなれないんだ。


古乃のアカウントを作ったのは、吐き出せる場所が欲しかったからだ。母の望む理想のわたしにはなれない、その苦しみを、誰かにわかってもらいたかった。


それなのに、いつの間にかフォロワーが増えて、誰かに認めてもらうことに生きがいを感じるようになった。

「古乃」でいることは、わたしを否定することと同義。それに気づかないふりをして、わたしはわたしを苦しめていた。


「なくなってからようやく気付くこともあるんだよ、きっと。実際俺もそうだったし」
「……関くんも彼女いるって嘘ついたりしてたってこと?」
「いやそれはしてねーけど。なんで今まで気づけなかったんだろうみたいな、そういうのはちょうど最近あったから」



このアカウントを消したら、古乃を殺したら。
そうしたら、わたしはわたしを認めてあげられるだろうか?



「みんな普通で異常なんだよ、きっと」



そう言った関くんは、初めて見る優しい顔をしていた。