「関ってさぁ、俺のこと嫌いだよね」
突然仁科にそう言われたのは、バイトを始めて一か月ほど経った時の出来事だったと思う。
退勤時間が仁科と偶然同じで、俺たちは成り行きで一緒に店を出た。仁科がその話題を振ってきたのは、歩き出して直後のことだった。
「……は、え?」
「俺のこと嫌いだよねって聞いた」
「……え、いや、なんで?」
「いやいや、滲み出てるじゃん。俺そういう雰囲気察するの得意だよ」
その瞬間、そんなわけないだろと否定できるほど俺と仁科の関係は深くなく、というより、言われたことが図星であり否定の余地がなかった。
人に知られたくない感情ほど、上手く隠せないのは何故だろう。
どう返していいかわからず目を逸らすと、仁科はハハ、と笑った。
「いや、いいんだよ全然。ごめん、別にそれが嫌だとかじゃなくてさ」
「はあ」
「ただちょっと、俺はお前に興味あったから」
言っている意味がわからなかった。なんでも持っている仁科が、俺に興味を持つ理由なんてあるはずがない。
「中学生でピアス開けるとかかっこいいじゃん。関のこと、ちょっと羨ましかった」
馬鹿にされている。そう、思った。
羨ましいって何がだよ。仕事で帰ってこない母がいて、部屋から一歩も出てこない兄がいて、俺はいつも一人だった。上手な頼り方を知らないまま、人に迷惑をかけることでしか自分を見てもらえなくなった。
「……はっ。そういうとこだよ、俺がお前のこと嫌いだったのは」
「え?」
「お前はいいよな、悩みも地獄も知らなそうでさ。俺は、ずっと見返り求めて生きてるってのに」
ひとつ口に出した途端、感情はあふれ出す。こんなのはただの僻みでしかないって、頭ではわかっているのに止まらなかった。
俺がどんな気持ちで生きているか、なんて、仁科にわかるはずがない。
仁科みたいに愛想が良くて、誠実で、明るくて、勉強も運動もできてコミュニケーションに困らない。俺みたいに、他人の不幸を願って生きているような奴と比べたら、仁科のような人間が人生をうまくこなせるのは当たり前のことだ。
俺だって、本当はもっと真面目に生きていたかった。抱える孤独を誰かのせいにするんじゃなくて、本当はもっと前向きに生きて、自分で自分を認めてあげたかった。
あの時よりはまだ今のほうがマシとか、そういう過去の自分と比べて生きていたいわけじゃないのに。
ピアスを開けたくらいじゃ満たされない。
そういう感情を、俺はひとつも消化できないまま生きている。
「そういうとこだよ関。俺がお前を羨ましいって思うのは」
仁科の声が鮮明だった。
「見返りを求めるって、人を信用してるってことじゃん。俺は逆。他人ごときに俺のことわかってもらいたくないって思ってるから。本当に俺が考えてることなんてさ、きっと誰も知らない」
「……なんだそれ意味わかんね。つまんない冗談やめろ」
「みんな急に俺がいなくなって困ればいいのに、とかね。人に優しくする理由にしちゃ曲がってるけど。俺も大概そんなこと思って生きてたりすんだよね」
「だから、意味わかんねえって」
「俺も」
「はあ……? 頭おかしいんじゃねーの」
「関ってホント俺のこと嫌いだよね」
「おまえと喋ってると疲れる。もう黙れようぜーから」
仁科翼。俺はお前のことが嫌いだった。
無駄にキラキラしたオーラは鬱陶しかったし、何を考えているのかわからない瞳も怖かった。
俺たちは絶対に交わらない。同じ思考を持つこともない。仁科がその日言っていた言葉の半分も、俺は理解できないままだった。
それでも俺は───俺たちは。
「あーなんか、関と全然仲良くないのに言わなくていいことまで言った気がする」
「知らねーよ、こっちの台詞だわ。まじでお前日本語不自由」
「まあでも関ならいいか。言いふらす友達いなそうだし」
「死ねお前まじで。性格ゴミ。人間界の最低種族」
「それ絶対言いすぎ」
「は? おまえが元凶な」
今、やっと気づいた。
俺は仁科のことを羨ましいと思ってたんだ。
──…うん、そんな気がする。
過去のできごとを辿って、今更気づきを得ることがあるなんて知らなかった───いや、気づきたくなかったのだ、ずっと。
仁科が羨ましい。その感情を認めたら、俺があいつより劣っていることも認めることになる。
だけど、それは仁科も同じだったのかもしれない。
仁科が俺を「羨ましい」と言っていたのが、本心からこぼれたものだったとしたら。
思い出したとて、仁科の生死はわからないままだし、あいつがいなくなったことで増えた俺の負担も減らない。それでも、あの時仁科が言っていた言葉の意味は、今の俺なら素直に受け止められる気がした。
「店長」
「ん?」
「新しい花、俺が育てますよ」
お前がいなくなっても別に困らなかった、お前の影響力なんてそんなもんだった、って笑って言えるように、俺は今をちゃんと生きることにする。
「つか関さん、辞めないでくださいね。関さんいなくなったら俺も辞めたくなっちゃうかもしんないんで」
「……花のことあるし当分はいるんじゃね?」
白石くんの言葉に、俺は照れ隠しでえらそうに返事をした。
その日、帰宅した俺は、何を思ってか静寂に包まれたリビングで、「ただいま」と言ってみた。
思い込みでも幻聴でもなんでもよかった。ただ、「おかえり」と、消えるように小さな声で言われたような気がした。