「生きている意味なんてあるのかよ」

まもるはすでに冷め切っているカップ焼きそばを、口いっぱいに頬張りながら、一人スマホに向かって嘆いた。
今日は月曜日。
大学では終日講義が行われる日だ。
まもるは箸を口にくわえたまま、スマホで時間を確認した。
午前十一時。
すでに午前の講義が半分以上は終わっていた。
出席の時だけ返事をして、そっと抜けてくればよかった、という安易な考えばかりが頭の中に思い浮かぶ。

口についた青のりをティッシュで拭き取ると、ふと机に目をやった。
半分しか終わっていないレポートが、山積みになっているのが視界に入り、思わず深いため息が出る。
母がクリーニングに出してくれたスーツも、今ではベッドの上にそのままの状態で広げたまま。
掃除らしい掃除もほとんどしていないので、フローリングの隅には埃が溜まっていた。
窓を開ける習慣がほとんどないまもるの部屋に、焼きそばの匂いがむわっとが充満する。
汚いと言えば汚いのだが、この環境に慣れてしまえば、案外平気で過ごせる気がしていた。

大学四年生になり、就職活動をしていたまもるは、なかなか決まらない就職先に焦りと不安を感じていた。
地方の小さな大学に通っている、ということもあり、就職先は都会の大企業に勤めたい、という揺るぎない気持ちがあった。
両親は、大企業にこだわる必要などない、小さな会社だっていいところはたくさんある、と言っているのだが、
まもるにとっては、そんなの単なる甘えのように感じられ、受け入れることが出来なかった。
高層ビルの最上階にあるオフィス。
満員電車に揺られている自分。
同僚と居酒屋で仕事の愚痴を言う自分。
そう言ったものに憧れていた。
地元には小さな役場や、工場が数軒あるだけで、高層ビルもなければ、居酒屋だってない。
バスだって一時間に一本走っている程度だ。
遊ぶ場所もない、買い物をする場所もない、移動手段もない、不便としか言いようがなかった。
この土地で生まれ育ったまもるにとって地元は、退屈な場所そのものであった。

「これをしてみたい。あれになってみたい」
憧れだけは大きくあったが、大企業への内定は、まもるが思うようにはうまくいかなかった。
何度も面接を受けてみるも、結果は不採用。
最初の頃は「次こそは絶対に採用通知をもらってやる」と意気込んでいた。
しかし、繰り返されるお祈りメール、というものに、次第にまもるは自信とやる気を失っていった。
そして、あんなにがむしゃらに取り組んでいた就職活動から徐々に遠のいていくようになった。
なんのために学校に行かないといけないのだろう、そんな漠然とした疑問に頭の中は支配された。
生活のリズムは徐々に乱れ始め、外に出ることさえも億劫になっていった。
そこから始まったのが、今の生活「引きこもり」。
働きたくないわけではない。
ただ意欲が湧かない、気力がないのだ。

まもるは心が追い詰められると、決まって同じ言葉をスマホで検索した。
「死にたい 楽な方法」
本気で死にたいのかは自分でもわからない。
ただ、楽になって、全てから解放されたかった。
窮屈で堅苦しい今の生活。
繰り返される追い詰められた毎日。
両親からの慰めの声。
全てが鬱陶しくて、生きづらくて、消えたかった。
日本の自殺者数は年々増えている。
きっといつかは自分もそのうちの一人になるのだろう、まもるには不明瞭な自信があった。

「酒でも買いに行くか」
ジャージ姿のまま、まもるは小銭入れとスマホを片手に取ると部屋を出た。
こうやって自分の部屋を出るのは、お酒を買いにコンビニに行く時くらい。
ご飯を用意してくれている両親も、さすがにお酒までは買い与えてくれなかった。
ついこの前までは外に出ると一瞬で汗が吹き出していたのに、いつの間にか肌寒くなったように感じられた。
道ゆく人はみな、上着やジャンパーを羽織っているのに、薄いジャージ一枚で外に出てきてしまったことを、少しだけ後悔した。
こんな真っ昼間からお酒ばかり買いにくる若者だなんて、きっと自分くらいしかいないだろう。
まもるは多少の気まずさはあったものの、他にコンビニがないので、結局いつものコンビニに行くしか
選択肢がなかった。
すれ違う人に「学校は行かないのか?」と聞かれるのが怖くて、自然と早歩きになる。
コンビニがようやく見え始め、小走りを始めた瞬間、突然背後から声をかけられた。

「ねぇ、まもるくん」

まもるは声のする方をハッと振り向いた。
色白で、色素が薄い茶色の髪がやたらと目に付く、同年代くらいの男の子が穏やかな表情で立っていた。

「だれ・・・・・・ですか?」

両親以外の人と会話をしたのはいつぶりだろう。
それに今どき「くん付け」で呼ばれることなど一切ない。
心臓の鼓動が一瞬で早くなる。
振り絞るようにして出したまもるの声は、今にも消えかかりそうだった。

「きずきです。どんなことでも、まもるくんの願いを叶えることが出来ます」

男子にしては珍しいほどのおっとりとした口調だった。
そして、その少年は姿勢を正してこう付け加えた。

「まもるくん、死にたいんでしょ? その願い、僕が叶えてあげるよ」

まもるの全身から血の気が引いていくのを感じた。

「でも・・・・・・、その・・・・・・」

まもるは言葉に詰まった。
自分は確かに死にたいと思っている。しかし、そんな願いが本当に叶うのか?
そもそも、この少年は誰なんだ?
立ち尽くすまもるの目の前で、少年は会話を続けた。

「まもるくんの死にたい、という願いを叶えてあげる代わりに、僕の願いも一つ叶えてほしい。交換条件ってやつ。
僕はまもるくんの家族と一緒に旅行に行きたい。ね? 簡単なことでしょ?」

「え、どういうこと? てか、そもそも君は誰? 俺の家族と旅行?」

まもるの口から聞きたいことが、次から次へと溢れ出てきた。

「簡単に言うと、僕は天からの使い。名前がきずきって言うの。本当の僕は小さい頃にすでに病気で死んでいる。
だから家族旅行というものを経験したことがないんだよね。だから、まもるくんの家族と一緒に旅行をしてみたいんだ」

そう言うと、きずきはまもるの方へ、笑顔を浮かべたまま歩み寄ってきた。

「ちなみに今日からまもるくんと僕は、双子の兄弟、という設定だから。みんなの記憶の中では、最初から僕はこの世に
存在していたことになっている。そして、僕がいなくなった瞬間、記憶も消える。だからまもるくんは、普段通りに過ごしていていいからね」

淡々と説明される訳が分からない状況に、まもるの目は泳いだ。

「大丈夫。そのうち慣れてくるから。さ、外は寒いし早く家に帰ろう」

そう言うと、きずきは全てを知っているかのように、まもるの家の方に向かってスタスタと歩き始めた。
何なんだよ、こいつは。
まもるも小銭入れをポケットに入れて、急いで後を追いかけた。





「随分と散らかった部屋だね」

カップ麺のゴミを手に取ったきずきは、ため息をついた。
まもるは、散らかった洗濯物の山を端の方に押しやると、きずきが座れるように一人分のスペースを作った。
きずきはキョロキョロと物珍しそうに部屋中を眺めている。

「で、なんでまもるくんは死にたいの?」

唐突すぎる質問だった。
なんで、といったら何でなのだろうか。
就職活動がしんどいからだろうか。
毎日が生きづらいからだろうか。
両親に迷惑をかけているからだろうか。
どれも違う気もしたし、全てが当てはまる気もした。

「なんていうか。俺、毎日生きていることがしんどいんだよね。この先うまく生きていける自信もないし」

まもるは下を向いたまま、独り言のように答えた。

「そんなの簡単だよ。楽しいことをやっていれば、人生幸せになれるよ」

きずきのあまりにも楽観的な言葉にまもるは一瞬イラついた。

「あのね、俺には就職活動っていうものがあるんだよ。大企業に就職しないといけないんだ。でも決まらないから焦っているんだよ」

相手の反応に動じない、というのはまさにこのことだろうか。
ふーん、とだけ答えると、きずきはまもるの顔を、表情を変えることなく覗き込んだ。

「俺は小さな会社には勤めたくないんだ。大きな会社に入って、たくさん稼いで、裕福な人生を送りたいんだよ。
こんな田舎で生きていくなんて、もう懲り懲りなんだ」

まもるの口調は荒くなっていた。
こっちがこんなに本気で話しても、この深刻さがこの人には伝わる気がしない、そんな気持ちがして
腹立たしかった。

「それで、死にたいの?」

きずきの表情が急に真剣になった。

「あぁ、それで死にたい。これが俺が死にたい理由だよ。それだけ今の俺は、毎日追い詰められているんだよ。
死にたい理由なんて何でもいいだろ」

まもるには今の生活がこの先も続く、ということが、どうしても耐えられなかった。
希望が見えなかった。
幸せを得ることなんて、できない気がした。
絶望しかないように感じられた。
そして、自分には「死ぬ」という選択肢しか残っていないような気がしていた。

「わかった。でも、死ぬためにはみんなで家族旅行しないとね。そしたらまもるくんは約束通り死ぬことができる。
まもるくんの願いも叶うし、僕の願いも叶うし、ウィンウィンじゃない?」

きずきの口調からは、不思議と余裕のようなものが感じられた。

「じゃあ、計画を実行していこう。まもるくんの今の生活はあまり良くないね。
それに家族旅行に行くには、まずお金が必要だ。そのためにもアルバイトでもしてみたら?」

そう言うと、きずきは横に置いていた小さなカバンから求人案内のパンフレットを取り出すと、まもるの目の前に広げた。
田舎、といっても一ヶ月に一回程度はどこかしらの求人がかかっていた。
そして、コンビニ前や図書館などに求人案内が置いてあった。
きずきはそっと目をつぶり、パラパラとめくると、適当なところで手を止めた。

「ここ。まもるくんはここでしばらく働いて」

開かれたページには印刷工場の求人が載っていた。
なんて雑なやり方なんだろう、とまもるは呆気に取られた。
交通費支給、未経験者大歓迎、学生可。
まもるにも出来そうなアルバイトだった。
でも、これから死ぬ、といっている人間が、どうしてアルバイトなんかしなければ
ならないんだよ?
まもるはきずきの考えていることが、全く理解出来なかった。
そもそも、こんな小さな工場で自分が働くだなんて似合わない。自分にはもっと立派な職場の方が似合っている。
まもるのプライドが許さなかった。
「無理だよ、こんなところ」
そう口にしようとしたが、すでに遅かった。

「あの、求人案内を見て応募しようと思いました。はい、はい・・・・・・よろしくお願いします」

きずきの行動は早かった。
すでに工場に電話をかけ始めている。
おいおいおい。なんだよこの展開。
まもるはスマホを取り上げようとしたが、電話を切ったきずきがニコッと笑いかけると弾んだ声で言った。

「明日から採用だって。よかったじゃん。頑張ってきてね」






「はじめまして。よろしくお願い致します」

まもるの表情は引き攣っていた。
なんで俺がこんなボロ臭い工場で、アルバイトなんかしないといけないんだよ。
きずきってやつ一体何考えているんだよ。こんな工場なんてとっとと辞めてやる。
まもるは心の中で不平不満を呟き続けた。

「久しぶりの若者で嬉しいよ。分からないことがあったらなんでも聞いてくれ」

小太りで、剃り残しの髭がなんとも目立つ、この年配の男性が、どうやら工場長らしい。
こんなに狭くて、薄汚れた場所でこれから仕事をしていかないといけない、と思うと、まもるは先が思いやられた。
工場の天井についた蛍光灯がチカチカと点滅をしている。
玄関の入り口には、手入れのされていない雑草がのびきり、中に入るのを邪魔した。
だから小さな会社ってのは嫌なんだよ。
まもるは深いため息を何度もつきながらも、工場長の後をついてまわり、施設内の説明を受けた。
休憩時間、まもるは他の社員にもらった缶コーヒーを飲みながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
カラスが電線に止まり、くつろいでいる。
「カラスはいいよな、飛んでいるだけで生きていけるんだから」
思わず心の声が声となって出てしまった。
きっと普段通り家にいたら、今頃自分はカップ麺を食べながら、ビールでも飲んでいるだろう。
それなのに死にたいはずの俺はなぜか、働きたくもない工場でアルバイトをしている。
これこそ無駄極まりない生活だ。
顔に当たる暖房の風が鬱陶しく感じて、まもるは部屋の外へと出ることにした。

「お、まもるくん。ちょうどいいところに来た。雑草を抜くのを手伝ってくれないか?」

まだ休憩時間だというのに、工場長はすでに一人で雑草抜きを行っていた。

「あ、はい。わかりました」

飲みきった缶コーヒーのゴミを捨てると、まもるは生い茂る雑草抜きを手伝い始めた。
雑草抜きだなんて、小学生の頃に学校行事で行った以来だ。
あの頃は気楽だった。人生について悩むことなどなく、毎日遊ぶだけで一日を終わることができた。
不安とか、焦りとか、心配とか、そういった感情などを抱くことなく、
のびのびと生きることができていた。
まさか、自分がこんな人生を歩むことになるだなんて。
雑念を振り払うように、十年ぶりの作業を、まもるは黙々と行った。
どれくらい時間が経っただろう。身体が芯から冷え切ってきて身震いを起こした。

「今日はこれくらいで終わりでいいよ。本当に助かった。明日からもよろしく頼んだよ」

いつからそこにいたのだろうか。
工場長の明るい一声で、今日の作業は突然終わった。
人にこうやって感謝されるのなんて、一体いつぶりだろう? 
引きこもり生活が続いていた自分が、まさかこうやって人にお礼を言われるということが、
こそばゆい気がした。
しかし、嫌な気分はせず、久しぶりの達成感と充実感、というものを味わったまもるの表情は、自然とほころんだ。




「まもるくん、お疲れさま。先にご飯食べているからね」

きずきは、家に着き、ぐったりと疲れ切っている様子のまもるの姿を見ると、箸を止めニコッと笑いかけた。
家に帰ると両親ときずきは食卓を囲み、すでに夜ご飯を食べ始めていた。
今日はすき焼きが用意されている。
めでたい事や、いい報告がある日は決まってすき焼きが夕飯に並ぶ、というのが我が家のルールだ。
両親もきずきの存在をなんとも思わない様子で、そこには普段の生活、というものがあった。

「アルバイト、どうだったか? もう慣れたか?」

久しぶり社会と繋がりを持ったまもるの姿が、よほどうれしかったのだろう。
父は帰ってくるなり早々に、まもるにビールを勧めた。
母の表情もいつもより穏やかに見えた。

「まぁね。でも、いつまで続くか分からないし」

まもるは疲れていたこともあり、ぶっきらぼうな口調で答えた。

「まもるくん、これもまもるくんの願いを叶えるために、必要なことなんだよ。だって僕たち家族旅行に
行かないといけないんだから」

きずきは両親に聞こえないように、まもるの耳元で小さな声でささやいた。
死ぬために家族旅行に行く。そのためにお金を貯めている。
わけの分からない展開置かれている自分に、まもるは正直うんざりしていた。




まもるはアルバイト初日から毎日工場に通い続けた。
本当はこんなに働かなくてもいいのかもしれない。
しかし、学校に行かなくなったまもるには、有り余るほどの時間があった。
それに、家でダラダラ過ごすつもりにしていても、きずきが勝手に工場長とメールのやり取りをして、シフトを入れてしまうのだ。
最初のうちは言い合いになっていたが、これも願いを叶えるため、というきずきの反論で締めくくられてしまう。


「まもるくんが来てくれて、この工場も随分と活気が戻ってきたよ。若者の力は偉大だな」

工場長はまもるの姿を見かけるたびに、感謝の言葉を毎回まもるにかけた。
掃除、ゴミ捨て、運搬、陳列。
小さな工場だからこそ、することはたくさんあった。
しかし、物覚えの良かったまもるは一つ一つの作業を手際よくこなしていき、いつの間にかすっかり工場スタッフの一員となっていた。
「こんなところすぐにでも辞めてやる」
そう思っていたまもるは、いつしか一ヶ月、三ヶ月、と毎日働き続けた。
自分は必要とされているんだ、そう感じることが出来る工場は、次第にまもるの生きている意味になりかけていた。
家で毎日何もしないで過ごす日々。
今となっては、そんな自堕落な生活にはもう戻れない。
大企業に勤めなくても、こうやって素晴らしい職場環境はある。
田舎だっていいところはたくさんある。
まもるの考えはこの数ヶ月で、大きく変化していた。

「まもるくん、ちょっと話があるんだけど」

工場長に話しかけられたのは、仕事が終わり、まもるが帰ろうとしている時だった。
いつもとは違う口調に、まもるは自分は何か悪いことでもしただろうか、と頭をフル回転させた。

「まもるくん、まだ内定は決まってないと言っていたよね? よかったらこれから先も、うちで働かないかい?
もちろんアルバイトではなく、正社員として」

工場勤務のオファーだった。
緊張で固くなっていたまもるの表情が、一瞬で解けた。
自分がこの職場でこれからも働くことができる。
しかも憧れの正社員として。
この職場でやりがいを感じていたまもるには、断る理由が思い浮かばなかった。

「はい。ぜひ働きたいです。よろしくお願いします」

まもるは深く頭を下げた。





「今日はまもるの内定祝いだから豪華にいくぞ」

工場勤務が決まった翌週、両親は温泉旅館への家族旅行を計画してくれた。
もちろん双子の兄弟であるきずきも一緒だ。
車で三時間ほど走らせた山奥にある旅館は、ガイドマップにもあまり紹介されていない
地元の人だけが知る高級旅館であった。
夕方に旅館へとたどり着いたまもる一家は、久しぶりの旅行にみなテンションが上がっていた。

「ここの温泉は最高なんだぞ。日本一のお湯だ」

そういうと父は、タオルと浴衣を手に取ると、すぐさま温泉へと向かった。
まもるときずきも急いで準備をすると、遅れないように後に続いた。
滝が見える広々とした露天風呂。
外は肌寒かったが、熱いお湯が冷え切った身体を芯から温めてくれた。
三人は、長旅で疲れ切った身体を癒した。

「きずき、俺なんか変わったよな?」

身体を熱らせたまもるが、きずきに尋ねた。

「変わった。すごい変わったよ。うんと大人になってるよ」

きずきはまもるの目を見つめて答えた。
死ぬために始めたアルバイト。
まさかそのまま就職するなんて思ってもいなかった。
人生何があるかわからないな、とまもるは静かに上を見上げた。
太陽が沈み、暗くなりかけていた。
これからどのような将来が待っているのか、自分にもわからない。
だけど、今までよりも、ずっと幸せになれる、まもるはそんな気がした。



夕食は今まで食べてきたどんな料理よりも豪華だった。
お頭付きのお刺身。高級和牛のステーキ。鯛のお吸い物。
炊き込みご飯。
普段はお酒を控えている母も、この日は一緒に晩酌を楽しんだ。
なんて最高な日なんだろう。
これからもずっと、こんな日が続いていけばいいのに。
まもるは頬を薄っすらと赤く染めた。
夜ご飯を食べ終わり、家族団欒の時間を過ごしたまもるは、布団を敷いて、床につく準備を始めた。
こうやって布団に寝るのは何年ぶりだろうか。
幼い頃に両親に挟まれ、真ん中で寝ていたことを思い出し、ふと懐かしく思えた。

「きずき、俺と出会ってくれてありがとう」

まもるはきずきにそっと話しかけたが、すでにきずきは小さな寝息を立ててすやすやと、眠りに落ちていたいた。





この上ない贅沢な一白二日の温泉旅行は、あっという間に朝を迎えた。
まもる一家は、身支度を整えると、家に向かうため車に乗り込んだ。

「まもる、本当に内定おめでとう。お母さん本当に嬉しいわ。身体だけは無理をしないようにね」

母は泣いているのだろうか。
声が震えているように感じられた。

「母さん、ありがとう。今までごめん。俺、これから工場で頑張っていくよ。大企業にこだわらなくてもいいって
いうことに、ようやく気がついたよ」

まもるは今までの強い自分のこだわりが、とてつもなく小さなものだった、ということが情けなく感じられた。
大企業でなくてもいい。
小さくてもいい。
見栄を張ることなんて必要ないんだ。
まもるが長年しがみついていた価値観は、この数ヶ月で大きく変わっていた。

「まもるくん、これで条件クリアだね。約束通り死ねるよ」

隣に座っていたきずきが突然、まもるに話しかけてきた。

「え・・・・・・」

まもるは言葉が出なかった。
せっかく就職先が決まったのに。
自分の未来が見え始めたのに。
両親にも喜んでもらうことができたのに。
条件をクリアした自分は「今から死ぬ」

「まもるくん、覚えている? 約束したよね? 交換条件。家族旅行に行ったら、死ぬ。
おめでとう。条件クリアだよ」

まもるの全身は、氷のように固まった。

「え、でも、俺これから働いていくんだし。せっかく仕事も決まったんだ。死ぬ必要なんてないだろ?」

まもるは早口に答えた。

「まもるくんはどうしたいの? 生きたいの? それとも、死にたいの?」

きずきの声は低く、鋭かった。

「俺は、死にたくない。生きたい。生きていたいんだ」

どれくらいの時間が経っただろう。
静かで、とてつもなく長い時間が経ったように感じられた。
険しかったきずきの表情がゆっくりと穏やかになった。
そして、言った。

「よかった。それでいいんだよ。まもるくんは生きていないと。死んだらダメだよ。
生きているって素晴らしいことなんだよ。生きてこれからの人生を楽しまなくちゃ」

まもるは今にも泣き出しそうだった。
死にたくなかった。
消えたくなかった。
これからも生きていたかった。
もっといろんなことを経験して、幸せになりたかった。
きずきは口を開くことなく、まもるの両手にそっと手を添えた。

「まもるくん。これが僕の役割なんだ。死にたいって願っている人に気付き(きずき)を与えていく。
生きていることの素晴らしさに気付てもらうんだ。まもるくんは、それに気付くことができた。
だから僕の任務はこれで終わり。だからさようならをしないとね」

「気付き・・・・・・」

まもるが声を出そうとした瞬間、きずきの身体が少しずつ透明になり始めた。

「待って、きずき。行かないで。もっと君と一緒にいたいんだ。もっと話したいんだ」

きずきは笑っていた。安心したような、最初から全てを分かっていたような、そんな表情をしていた。

「大丈夫。まもるくんならこれからも幸せになっていけるよ。もう僕のことは必要ない。
今までお世話になりました。ありがとう。頑張ってね」

そう言い残して、きずきの姿はゆっくりと見えなくなっていき、そして完全にいなくなってしまった。

「きずき、きずき」

まもるの目は涙でいっぱいだった。

「おい、まもる。一人で何を騒いでいるんだ。帰るぞ」

父は不思議そうな顔をして、まもるの方を振り返った。

「きずきがいなくなったんだ。父さんにも分かるだろ? いつものきずきだよ」

「きずきってなんだよ。温泉が最高すぎてまだ興奮しているのか?」

父にはきずきの存在が通じなかった。
本当にみんなの記憶から消えてしまっていた。
まもるは洋服の袖で涙を拭いながら、窓の外を見た。
きずきがどこかで、そっと見てくれているような気がした。

「きずき。俺と出会ってくれてありがとう。死にたい、だなんてもう思わないよ。
だって俺は生きていたいんだ。人生を楽しみたいんだ。これからも自分の人生を歩んでいくよ」