董子は店主からおもむろに視線をそらすと、菫色のグラスに注がれた甘い日本酒をちまちまと口に運んだ。
そうしているうちに、調理場からは和風だしと香ばしい味噌の匂いがふつふつと漂ってくる。
学生時代、夕方に家の玄関を開けたときに嗅いでいたような、なんともなつかしい匂いだ。
目を閉じると、心地よく酒の酔いが回った瞼の裏に、実家の台所に立つ母の後ろ姿が浮かぶ。
まな板を叩く手慣れた包丁の音。コトコトと小さく揺れる鍋の音。帰宅した私の気配に気付いて振り向いた母の「おかえり」という声。
ぼんやりと母の笑顔を思い浮かべていた、そのとき。
コトン。
「お待たせいたしました」
木のテーブルの鳴る音と、低く耳触りの良い男性の声に、ふわふわしていた董子の頭がすっとクリアになる。
母の思い出から現実に戻ってきた董子の前には、店主が出してくれた料理が置かれていた。
肉じゃがと豚汁。
木製のお盆に載って出てきた料理は、たしかに董子が注文したものだ。だが……。
大きく目を見開いた董子が店主を見上げると、彼がゆるりと口角をあげて微笑みかけてくる。