──1day
六畳の自室には机とシングルベッドとクローゼットだけの殺風景な部屋だったが、昨日の夜からは違う。
「ほんとに持って帰ってきちゃった……」
机と壁の間に立てかけるようにして置いてある蒼のギターを、私はもう何度眺めただろうか。
「……恋愛ごっこか」
正直実感なんてまるでない。でもこのギターとスマホに新しく追加された『蒼』の文字に昨日のことが嘘ではないと実感する。
「あ、シミになる前に洗わなきゃ」
私は昨日貸してもらった蒼のシャツを抱えて洗面所に向かった。
洗面所のシンクに水を張ると私はシャツを入れて手洗い用の洗剤を入れる。
「男の子の洋服って大きいんだな……」
蒼は背が高く肩幅も大きかった。いつも洗っている父のワイシャツよりも一回りも大きい。
生地を痛めないよう気をつけながら、砂浜で少し汚れてしまったところを中心に擦り洗いしていく。小さな泡はあっという間に膨れ上がっていく。その粒がいつもは涙と不安に見えるのに、今日はその粒の一つずつが光を放ってみえる。私は何度も水で濯ぐと掌で押して水気を取った。
──ピロンッ
そばに置いていたスマホがLINEメッセージを告げる。タオルで手を拭いて確認すれば、蒼からメッセージが届いていた。初めて届いた蒼のLINEはそっけないが、他人行儀でもない。
──『昼食べた?』
私はすぐに返事を送る。
『食べたよ』
──『昨日の海からすぐの三角公園までこれる?』
三角公園とは砂場が三角形になっていることから地元の子供達からはそう呼ばれている小さな公園だ。
『昨日借りたシャツいま洗ってて、乾かしてからでもいい?』
今日は曇り予報だが、今なら日差しが出ている為、一時間ほどあれば蒼のシャツは乾きそうだ。
──『洗わなくて良かったのに。昨日言えば良かったな。シャツ急がないから二十分後三角公園な』
「二十分っ!……えっと……」
私は自分の姿を見た。まだスウェット姿だ。蒼に『三十分後にして』と送ると、慌てて二階の自室のクローゼット目掛けて駆け出した。
自転車で三角公園に向かいながら、私は何度も自身の服装に視線を移す。元々お洒落にはそこまで関心のない私だ。クローゼットの中にはトレーナーとワンピースがそれぞれ2着ずつしか入ってなかった。
(服装……間違えたかな……)
昨日蒼と会った時に着ていた水色のワンピースは洗濯中のため、もう一枚の一番お気に入りである青い小花柄のワンピースを着てきたが、果たして正解だったのか不正解なのかわからない。
(デートじゃ……あるまいし……)
公園にくるのにわざわざワンピースを着てきたのは初めてだった。私が三十分丁度に三角公園に着くと、蒼は既にブランコに座りながら曇天を眺めていた。
「お待たせ」
「いや、暇だったし」
蒼はそれ以上何も言わない。
(暇だったし……ってことは)
「蒼くん、いつから此処にいたの?」
「あ、ごめん。気にした?」
「えっと……」
他人に話しかけるのは勿論、他人を待たせるのも私は苦手だ。
青がふっと笑った。
「俺、誰か待つの苦にならないわけ。暇だから早く来ただけだし、逆に家でじっとしてるのが嫌だから。ちなみにこうやって……彼女と……待ち合わせるの初めてかな」
彼女というのは私のことだ。すぐ顔が熱くなり気恥ずかしくなる。
「う……ん」
「なんか恥ずいよな、お互い様だけど」
そういえば昨日蒼は、今までも彼女がいたと話していたが、彼女がいたのに待ち合わせをしたことがないというのは何故なんだろう。
「あ、今でも付き合った彼女っていうかさ、彼女って呼んでいいのかわかんないけど、みんな年上だったから。駅で唄歌ってたら声かけられて、その女の家行って泊まらせてもらってまた暫くしたら別の女の人から声かけられたら、そっちいってを繰り返してたから……」
「……蒼くん、家は?」
蒼の表情が曇るのが分かった。
「あ……ごめん、私も家のこと言いたくないのに。なかったことにして」
「いや……七日間とは言えさ、俺ら恋人同士な訳だし……ちゃんとした彼女できたら……俺のことも知ってほしいっていうか聞いてほしいなって思ってたから」
「……じゃあ……聞かせてくれる?蒼くんのこと……」
蒼が一瞬空をみて唇を湿らせた。
「……俺の両親さ……俺が小さい頃離婚してんだよね」
「え……そう、なんだ」
「うん。でさ、俺母親に引き取られてたんだけど、病気で死んでさ、中3の時に父親に引き取られたんだけど、その時もう親父再婚してたから」
「……うん」
「で、歳離れた義理の弟が居るんだけどさ、また小学生だからさ、親父にもその人にも甘えたい盛りで、俺のことは慕ってくれてんだけど、なんかさ……俺が居なかったらこの家の家族はもっと幸せなんじゃねぇのかなって」
心が痛い。ぎゅっとなって苦しくなる。蒼が、義母のことをその人と呼ぶことも、自分がその家族の邪魔者だと考えて居ることも。
「……しんどいね」
「まあな。でも親も子供選べないけど、子供も親選べない訳でさ、なんていうのかさ、ずっとあの家が嫌いでさ。息が詰まりそうなんだ」
「……蒼くんの話、ちょっとだけだけど分かるよ。うちも両親離婚してるから……私はお父さんに引き取られて。お母さん、よそに男作って出て行ったから……。それ以来お父さん、笑わなくなったし、仕事急がしいのもあるけどほとんど帰ってこない……私……お母さんにそっくりの顔してるから……」
父は、母が私達を捨てて出て行ってから笑わなくなり、私を見るたびに哀しそうな目をするようになった。父が私を見るたびに私達を捨てた母親を重ねていると思うと苦痛で、ほとんど会話はない。同居しているが、互いに透明人間状態だ。
「……そっか……泣くの我慢すんなよ」
「え?」
蒼がポケットから丸まった水色のハンカチを私にぽいと渡した。
「……昨日も月瀬泣いてたから……その、勝手な憶測だけど、色々抱えてうまく吐き出せないんだろうなって。俺は男だからさ、泣くとかもあんまないし家出れるから。でも女の子は……そういう訳にも行かないだろうし。溜め込んで涙でそのうち心が溺れないうちに……泣きたいとき泣けばいいから……」
すぐに目の前の蒼が滲んでぼやけていく。
蒼が私の頭をポンポンと撫でた。
「よく死んだ母さんがこうしてくれた……ポンポンしたらさ、哀しいことも少しだけ心から転がって楽になるってさ」
「……ひっく……ありが……と」
蒼の水色のハンカチからはお日様みたいな匂いがして、頭を撫でる掌が日差しみたいにあったかかった。
──どのくらい泣いてただろうか。
ひとまず今日、心で製造された分の涙を全て吐き出すと私はようやく蒼の目を見て笑って見せた。
「蒼くん、すっきりした……」
「うん、月瀬すっきりした顔してる。目パンパンだけどな」
悪戯っ子みたいに笑う蒼をいつのまにか夕日が照らしていた。
「……そろそろ帰るか」
蒼が立ち上がると少し汚れたお尻を掌で払った。
「今日……どこ泊まるの?うちあいてる部屋あるけど」
父は今日も仕事で戻ってこない。帰ってくるのは週に2回程だ。蒼が自宅に帰るのが嫌で女の人の家に泊まると思った私は思わず聞いていた。
「気使ってくれてんだ。大丈夫、今日は、っていうかさ、女の人とは昨日メールできったから。月瀬と付き合ってる七日間は家ちゃんと帰る」
「あ、うん。分かった」
ほっとすると同時に付き合ってるという言葉にドキドキする。
「あと蒼でいいよ。そんでもっていきなり家に男呼ぶなよ。俺みたいにいいやつばっかじゃないからな」
蒼が私の額にコツンと拳を当てた。真っ赤になった私が俯くと蒼が笑う。
「顔真っ赤」
「蒼くん、やめてよ」
「蒼」
「うん……えと……蒼」
名前から『くん』を外すだけなのに穴があったら入りたいほどに恥ずかしい。
「ぷっ、イチゴみたい。じゃあ帰ろっか」
「うん……」
蒼の後ろを少し離れて歩いていく。春風が蒼の髪を撫でて、そして私に芽生えた小さな恋の芽もそっと揺らした。
六畳の自室には机とシングルベッドとクローゼットだけの殺風景な部屋だったが、昨日の夜からは違う。
「ほんとに持って帰ってきちゃった……」
机と壁の間に立てかけるようにして置いてある蒼のギターを、私はもう何度眺めただろうか。
「……恋愛ごっこか」
正直実感なんてまるでない。でもこのギターとスマホに新しく追加された『蒼』の文字に昨日のことが嘘ではないと実感する。
「あ、シミになる前に洗わなきゃ」
私は昨日貸してもらった蒼のシャツを抱えて洗面所に向かった。
洗面所のシンクに水を張ると私はシャツを入れて手洗い用の洗剤を入れる。
「男の子の洋服って大きいんだな……」
蒼は背が高く肩幅も大きかった。いつも洗っている父のワイシャツよりも一回りも大きい。
生地を痛めないよう気をつけながら、砂浜で少し汚れてしまったところを中心に擦り洗いしていく。小さな泡はあっという間に膨れ上がっていく。その粒がいつもは涙と不安に見えるのに、今日はその粒の一つずつが光を放ってみえる。私は何度も水で濯ぐと掌で押して水気を取った。
──ピロンッ
そばに置いていたスマホがLINEメッセージを告げる。タオルで手を拭いて確認すれば、蒼からメッセージが届いていた。初めて届いた蒼のLINEはそっけないが、他人行儀でもない。
──『昼食べた?』
私はすぐに返事を送る。
『食べたよ』
──『昨日の海からすぐの三角公園までこれる?』
三角公園とは砂場が三角形になっていることから地元の子供達からはそう呼ばれている小さな公園だ。
『昨日借りたシャツいま洗ってて、乾かしてからでもいい?』
今日は曇り予報だが、今なら日差しが出ている為、一時間ほどあれば蒼のシャツは乾きそうだ。
──『洗わなくて良かったのに。昨日言えば良かったな。シャツ急がないから二十分後三角公園な』
「二十分っ!……えっと……」
私は自分の姿を見た。まだスウェット姿だ。蒼に『三十分後にして』と送ると、慌てて二階の自室のクローゼット目掛けて駆け出した。
自転車で三角公園に向かいながら、私は何度も自身の服装に視線を移す。元々お洒落にはそこまで関心のない私だ。クローゼットの中にはトレーナーとワンピースがそれぞれ2着ずつしか入ってなかった。
(服装……間違えたかな……)
昨日蒼と会った時に着ていた水色のワンピースは洗濯中のため、もう一枚の一番お気に入りである青い小花柄のワンピースを着てきたが、果たして正解だったのか不正解なのかわからない。
(デートじゃ……あるまいし……)
公園にくるのにわざわざワンピースを着てきたのは初めてだった。私が三十分丁度に三角公園に着くと、蒼は既にブランコに座りながら曇天を眺めていた。
「お待たせ」
「いや、暇だったし」
蒼はそれ以上何も言わない。
(暇だったし……ってことは)
「蒼くん、いつから此処にいたの?」
「あ、ごめん。気にした?」
「えっと……」
他人に話しかけるのは勿論、他人を待たせるのも私は苦手だ。
青がふっと笑った。
「俺、誰か待つの苦にならないわけ。暇だから早く来ただけだし、逆に家でじっとしてるのが嫌だから。ちなみにこうやって……彼女と……待ち合わせるの初めてかな」
彼女というのは私のことだ。すぐ顔が熱くなり気恥ずかしくなる。
「う……ん」
「なんか恥ずいよな、お互い様だけど」
そういえば昨日蒼は、今までも彼女がいたと話していたが、彼女がいたのに待ち合わせをしたことがないというのは何故なんだろう。
「あ、今でも付き合った彼女っていうかさ、彼女って呼んでいいのかわかんないけど、みんな年上だったから。駅で唄歌ってたら声かけられて、その女の家行って泊まらせてもらってまた暫くしたら別の女の人から声かけられたら、そっちいってを繰り返してたから……」
「……蒼くん、家は?」
蒼の表情が曇るのが分かった。
「あ……ごめん、私も家のこと言いたくないのに。なかったことにして」
「いや……七日間とは言えさ、俺ら恋人同士な訳だし……ちゃんとした彼女できたら……俺のことも知ってほしいっていうか聞いてほしいなって思ってたから」
「……じゃあ……聞かせてくれる?蒼くんのこと……」
蒼が一瞬空をみて唇を湿らせた。
「……俺の両親さ……俺が小さい頃離婚してんだよね」
「え……そう、なんだ」
「うん。でさ、俺母親に引き取られてたんだけど、病気で死んでさ、中3の時に父親に引き取られたんだけど、その時もう親父再婚してたから」
「……うん」
「で、歳離れた義理の弟が居るんだけどさ、また小学生だからさ、親父にもその人にも甘えたい盛りで、俺のことは慕ってくれてんだけど、なんかさ……俺が居なかったらこの家の家族はもっと幸せなんじゃねぇのかなって」
心が痛い。ぎゅっとなって苦しくなる。蒼が、義母のことをその人と呼ぶことも、自分がその家族の邪魔者だと考えて居ることも。
「……しんどいね」
「まあな。でも親も子供選べないけど、子供も親選べない訳でさ、なんていうのかさ、ずっとあの家が嫌いでさ。息が詰まりそうなんだ」
「……蒼くんの話、ちょっとだけだけど分かるよ。うちも両親離婚してるから……私はお父さんに引き取られて。お母さん、よそに男作って出て行ったから……。それ以来お父さん、笑わなくなったし、仕事急がしいのもあるけどほとんど帰ってこない……私……お母さんにそっくりの顔してるから……」
父は、母が私達を捨てて出て行ってから笑わなくなり、私を見るたびに哀しそうな目をするようになった。父が私を見るたびに私達を捨てた母親を重ねていると思うと苦痛で、ほとんど会話はない。同居しているが、互いに透明人間状態だ。
「……そっか……泣くの我慢すんなよ」
「え?」
蒼がポケットから丸まった水色のハンカチを私にぽいと渡した。
「……昨日も月瀬泣いてたから……その、勝手な憶測だけど、色々抱えてうまく吐き出せないんだろうなって。俺は男だからさ、泣くとかもあんまないし家出れるから。でも女の子は……そういう訳にも行かないだろうし。溜め込んで涙でそのうち心が溺れないうちに……泣きたいとき泣けばいいから……」
すぐに目の前の蒼が滲んでぼやけていく。
蒼が私の頭をポンポンと撫でた。
「よく死んだ母さんがこうしてくれた……ポンポンしたらさ、哀しいことも少しだけ心から転がって楽になるってさ」
「……ひっく……ありが……と」
蒼の水色のハンカチからはお日様みたいな匂いがして、頭を撫でる掌が日差しみたいにあったかかった。
──どのくらい泣いてただろうか。
ひとまず今日、心で製造された分の涙を全て吐き出すと私はようやく蒼の目を見て笑って見せた。
「蒼くん、すっきりした……」
「うん、月瀬すっきりした顔してる。目パンパンだけどな」
悪戯っ子みたいに笑う蒼をいつのまにか夕日が照らしていた。
「……そろそろ帰るか」
蒼が立ち上がると少し汚れたお尻を掌で払った。
「今日……どこ泊まるの?うちあいてる部屋あるけど」
父は今日も仕事で戻ってこない。帰ってくるのは週に2回程だ。蒼が自宅に帰るのが嫌で女の人の家に泊まると思った私は思わず聞いていた。
「気使ってくれてんだ。大丈夫、今日は、っていうかさ、女の人とは昨日メールできったから。月瀬と付き合ってる七日間は家ちゃんと帰る」
「あ、うん。分かった」
ほっとすると同時に付き合ってるという言葉にドキドキする。
「あと蒼でいいよ。そんでもっていきなり家に男呼ぶなよ。俺みたいにいいやつばっかじゃないからな」
蒼が私の額にコツンと拳を当てた。真っ赤になった私が俯くと蒼が笑う。
「顔真っ赤」
「蒼くん、やめてよ」
「蒼」
「うん……えと……蒼」
名前から『くん』を外すだけなのに穴があったら入りたいほどに恥ずかしい。
「ぷっ、イチゴみたい。じゃあ帰ろっか」
「うん……」
蒼の後ろを少し離れて歩いていく。春風が蒼の髪を撫でて、そして私に芽生えた小さな恋の芽もそっと揺らした。