「あの、大丈夫ですか!?」
「え、ええ。大丈夫よ。少し、目眩がしてしまって」
ガードレールにもたれる女性は、恐らく五十代ほどだろうか。
俯いた顔から表情は確認できないが、膝を掴む手は驚くほどに青白い。貧血かもしれない。
「遥ちゃん。大丈夫?」
「雅さん。この方が具合が悪いらしくて。ひとまず救急車をっ」
「詩乃!」
駆け寄ってきた雅のさらに後ろから、その名が響く。
揃って振り返ると、先ほど洋裁教室へ入っていった先生が血相を変えて飛び出してきた。
窓越しにこの光景を見たらしく、背後には生徒役の和泉の姿もある。
「大丈夫詩乃? ああ、だから無理しなくてもいいってあれほど言ったのに!」
「平気よ。久しぶりの外で、少し目が眩んだだけだから」
先生が遥とともに女性の身体を支えると、女性はゆっくり身体を起こしていった。
夢の中で幾度となく目にしてきた、花嫁の義理の母だ。
しかしその面差しは驚くほど変わっている。
花嫁と話に花を咲かせていたときが嘘のように、生気が抜け落ちていた。
あまりの変貌の大きさに、遥はもとより先生までも一瞬息を詰めた気配がした。
「ねえ詩乃。あんた本当に酷い顔色よ。ろくに食事も取れていないんじゃないの?」
「食べてもね、戻してしまうものだから」
「だったらせめて、病院にいってきちんと診察を受けないと」
「いいのよ私のことなんて。一番辛いはずの息子は、周囲に迷惑を掛けまいと毅然と働きに出ているっていうのにね。つくづく母親失格だわ」
力なく自嘲する女性に、胸が締め付けられる。
そんな女性に、先生は言葉を選ぶようにして口を開いた。
「それならせめて、あのプレゼントはもう少し落ち着いてから持って帰ったらいいんじゃない? 今のあんたが持って帰っても、いたずらに心を痛めるだけよ」
「大丈夫よ。あれは持ち帰らないわ。帰り際、ゴミとして捨てるから」
さらりと答えた女性に、先生は大きく目を見張った。
「でもあんた、あんなに一生懸命作っていたじゃない。それを一時の感情で捨てるだなんて」
「持っていても仕方がないでしょう。あれを付けてほしかったあの子は、もういないんだから」
「ちょっと落ち着きなさい詩乃。気持ちは分かるけれど、今あんたは冷静じゃ」
「わかってるわそんなこと! でももう、どうしようもないのよ!」
閑静な住宅街に、悲痛な叫びが響く。
「……ああ、ごめんなさいね。初対面の方にこんな姿を見せてしまうなんて、みっともないわね。驚いたでしょう」
「あ、いえ、その」
急に話を振られ、傍らで固まっていた遥は酷く動揺する。
そんな女性をしばらく見つめたあと、先生は細く息を吐いた。
「持っていくのね?」
「今日は、そのために来たのよ」
「わかった。ごめんなさい颯太くん。さっき話していた紙袋、持ってきてくれるかしら」
「は、はい。わかりました」
生徒に扮する和泉が、足早に洋裁教室に引き返していく。
しばらくすると、和泉は茶色の紙袋を抱えて戻ってきた。
紙袋を受け取った女性は、頑丈に封印されていた間口の横をびりびりと開いていく。
「あ……」
取り出されたものの姿に、遥は思わず声を漏らした。
女性が取り出したそれは、手のひらに収まるほどのティアラだった。
注がれる陽の光を弾き、きらきらと瞬いている。
あしらわれたパーツによるものか、様々に色彩を変える光が夢のように美しい。
少し離れて見てもわかる作り込みの細やかさが、送り主の気持ちの大きさを物語っているようだ。
しかし、その輝きを目にしてもなお、女性の瞳に救いの光は灯ることはなかった。
「確かに受け取ったわ。それじゃあ、私はこれで」
「詩乃」
「迷惑をかけて……本当に、ごめんなさい」
小さく会釈をした女性は、覚束ない足を引きずりながら橋の向こうへと去って行った。
その場に落ちていた沈黙に、かすかに届いたのは自嘲の声だった。
「無力よね。親友があんなに辛そうにしているのに、何の助けにもなれないなんて。時が心を癒やしてくれるのを……待つしかないだなんて」
「先生」
「ごめんなさいね颯太くん。それと、そちらのお二人も」
先生の言葉に遥は慌てて首を振る。そして和泉とともに教室に戻っていくのを、言葉が出ないまま見送った。
「先生は、花嫁さんのお義母さんのご友人だったんですね」
ぽつりと呟いた遥に、雅が頷く。
「もともと二人は同じ服飾専門学校に通っていたんだって。今共同で洋裁教室をしているのも、昔からの口約束が実現してのことみたいだよ」
「きっと先生も、お義母さんの力になりたいと思っているんでしょうね」
大切な存在を失った喪失感は、人の手には到底負えないものかもしれない。
仲睦まじく語らっていた義理母と花嫁の姿が頭を過り、やるせない気持ちが広がっていった。
「花嫁さんは、お義母さんからのプレゼントを本当に楽しみにしていた。そしてそれは今、形を保たれたままこの世にある。となれば、やることはひとつだよね?」
「……え?」
「行くよ、遥ちゃん。あのティアラは、花嫁さんの挙式にどうしても必要だ」
目を丸くした遥の手を引いて、雅は意気揚々と歩み出す。
向かう先は至極当然のように、先ほどの女性が去っていた方向だった。
「え、ええ。大丈夫よ。少し、目眩がしてしまって」
ガードレールにもたれる女性は、恐らく五十代ほどだろうか。
俯いた顔から表情は確認できないが、膝を掴む手は驚くほどに青白い。貧血かもしれない。
「遥ちゃん。大丈夫?」
「雅さん。この方が具合が悪いらしくて。ひとまず救急車をっ」
「詩乃!」
駆け寄ってきた雅のさらに後ろから、その名が響く。
揃って振り返ると、先ほど洋裁教室へ入っていった先生が血相を変えて飛び出してきた。
窓越しにこの光景を見たらしく、背後には生徒役の和泉の姿もある。
「大丈夫詩乃? ああ、だから無理しなくてもいいってあれほど言ったのに!」
「平気よ。久しぶりの外で、少し目が眩んだだけだから」
先生が遥とともに女性の身体を支えると、女性はゆっくり身体を起こしていった。
夢の中で幾度となく目にしてきた、花嫁の義理の母だ。
しかしその面差しは驚くほど変わっている。
花嫁と話に花を咲かせていたときが嘘のように、生気が抜け落ちていた。
あまりの変貌の大きさに、遥はもとより先生までも一瞬息を詰めた気配がした。
「ねえ詩乃。あんた本当に酷い顔色よ。ろくに食事も取れていないんじゃないの?」
「食べてもね、戻してしまうものだから」
「だったらせめて、病院にいってきちんと診察を受けないと」
「いいのよ私のことなんて。一番辛いはずの息子は、周囲に迷惑を掛けまいと毅然と働きに出ているっていうのにね。つくづく母親失格だわ」
力なく自嘲する女性に、胸が締め付けられる。
そんな女性に、先生は言葉を選ぶようにして口を開いた。
「それならせめて、あのプレゼントはもう少し落ち着いてから持って帰ったらいいんじゃない? 今のあんたが持って帰っても、いたずらに心を痛めるだけよ」
「大丈夫よ。あれは持ち帰らないわ。帰り際、ゴミとして捨てるから」
さらりと答えた女性に、先生は大きく目を見張った。
「でもあんた、あんなに一生懸命作っていたじゃない。それを一時の感情で捨てるだなんて」
「持っていても仕方がないでしょう。あれを付けてほしかったあの子は、もういないんだから」
「ちょっと落ち着きなさい詩乃。気持ちは分かるけれど、今あんたは冷静じゃ」
「わかってるわそんなこと! でももう、どうしようもないのよ!」
閑静な住宅街に、悲痛な叫びが響く。
「……ああ、ごめんなさいね。初対面の方にこんな姿を見せてしまうなんて、みっともないわね。驚いたでしょう」
「あ、いえ、その」
急に話を振られ、傍らで固まっていた遥は酷く動揺する。
そんな女性をしばらく見つめたあと、先生は細く息を吐いた。
「持っていくのね?」
「今日は、そのために来たのよ」
「わかった。ごめんなさい颯太くん。さっき話していた紙袋、持ってきてくれるかしら」
「は、はい。わかりました」
生徒に扮する和泉が、足早に洋裁教室に引き返していく。
しばらくすると、和泉は茶色の紙袋を抱えて戻ってきた。
紙袋を受け取った女性は、頑丈に封印されていた間口の横をびりびりと開いていく。
「あ……」
取り出されたものの姿に、遥は思わず声を漏らした。
女性が取り出したそれは、手のひらに収まるほどのティアラだった。
注がれる陽の光を弾き、きらきらと瞬いている。
あしらわれたパーツによるものか、様々に色彩を変える光が夢のように美しい。
少し離れて見てもわかる作り込みの細やかさが、送り主の気持ちの大きさを物語っているようだ。
しかし、その輝きを目にしてもなお、女性の瞳に救いの光は灯ることはなかった。
「確かに受け取ったわ。それじゃあ、私はこれで」
「詩乃」
「迷惑をかけて……本当に、ごめんなさい」
小さく会釈をした女性は、覚束ない足を引きずりながら橋の向こうへと去って行った。
その場に落ちていた沈黙に、かすかに届いたのは自嘲の声だった。
「無力よね。親友があんなに辛そうにしているのに、何の助けにもなれないなんて。時が心を癒やしてくれるのを……待つしかないだなんて」
「先生」
「ごめんなさいね颯太くん。それと、そちらのお二人も」
先生の言葉に遥は慌てて首を振る。そして和泉とともに教室に戻っていくのを、言葉が出ないまま見送った。
「先生は、花嫁さんのお義母さんのご友人だったんですね」
ぽつりと呟いた遥に、雅が頷く。
「もともと二人は同じ服飾専門学校に通っていたんだって。今共同で洋裁教室をしているのも、昔からの口約束が実現してのことみたいだよ」
「きっと先生も、お義母さんの力になりたいと思っているんでしょうね」
大切な存在を失った喪失感は、人の手には到底負えないものかもしれない。
仲睦まじく語らっていた義理母と花嫁の姿が頭を過り、やるせない気持ちが広がっていった。
「花嫁さんは、お義母さんからのプレゼントを本当に楽しみにしていた。そしてそれは今、形を保たれたままこの世にある。となれば、やることはひとつだよね?」
「……え?」
「行くよ、遥ちゃん。あのティアラは、花嫁さんの挙式にどうしても必要だ」
目を丸くした遥の手を引いて、雅は意気揚々と歩み出す。
向かう先は至極当然のように、先ほどの女性が去っていた方向だった。