海猫堂の入り口扉の窓からは、柔らかな暖色の灯りが漏れている。最近は専らここに訪れているため、家にいる時よりもほっとした気分になる。
「こんばんは」
「あらあら、二人共ごめんなさいね。ラストオーダーの時間が過ぎちゃったのよね」
扉の上に掛けられた鳩時計を見ると、ラストオーダーの4時半はとうに過ぎている。老夫婦2人で経営する海猫堂は、ここ最近夕方5時には店を閉めるというかなり短めの営業スタイルとなっていた。
「いえ、こちらこそ、こんな時間にすみません」
「コーヒーくらいなら大丈夫よ。それでも構わないかしら」
「はい、すみません」
店内を見回すと、学生らしきお客さんがテーブル席を一面使って教科書やノートを広げている。期末テストでも近づいているのだろうか。
海猫堂は基本的にコーヒー1杯頼めば、店内で勉強をしようが仕事をしようが、何時間でも長居していいことになっている。
これは郁江さんと誠司さんが『訪れた人にこの空間を有効活用してほしい』という、一般的な飲食店経営であれば考えられないような経営方針をとっているからだ。
たまにこのお店の経営状態は大丈夫なのだろうかと本気で心配になり、高めのメニューを注文してしまうことがある。そんな僕と同じ考えの人も少なくないはずだ。
「最近はどう?」
郁江さんが大友さんに近況を尋ねる。僕の方から切り出さなければいけないはずだったが。正直助かったとも思っている。
「うーん……」
大友さんは何かを言いたそうにしてはいるものの、遠慮して口を噤む。
余計な干渉はしないと決めているのか、郁江さんはさり気なくその場を離れていく。
「最近思い詰めているように見えて、少し心配になったんだ」
「思い詰めてはいないんですけど、ちょっと状況の変化に頭が付いていってないというか」
もちろんとか言えたら良かったのに、僕は自信なく頷くことしかできない。
大友さんはコップに入った水を口に含むと、ごくりと音が鳴りそうなくらいゆっくりと喉を通した。
「あたし、両親が離婚してから、おばあちゃんと暮らしてるんです。でも、おばあちゃんとそんなに仲良くないんですよね。最近は将来のこともよく喧嘩しちゃって」
話が重くならないように気を遣ってくれているのか、大友さんは時々作り笑いを浮かべる。
「おまけに最近お父さんからの養育費もほとんど送ってもらえなくなって、自分で生活費を稼がなくちゃいけなくなったんです」
「今まで平日にシフトを入ってたのって、もしかして学校を休んでバイトしてたの?」
「はい。藤野店長とか一部のパートさんには家の事情を説明して、留年にならない程度に調整しながらシフトを入れてもらっていました」
もしやと思ったことが何度かあった。けれど、考え過ぎだと思っていた。
「それじゃあ、僕に文章の仕事を教えてほしいって言ったのは」
「なるべく早く自力で稼げるようになりたかったんです。ごめんなさい……」
明かされる大友さんの状態が、僕の頭を混乱させる。
目の前にいる若干17歳の少女は、問答無用で生きるための独り立ちを急かされていた。
不覚にも当時の自分達の境遇と重ねてしまった。
閉ざしていた蓋が外れる。中から苦い記憶が漏れ出す。
「ちょっと……蒼さん、顔色悪いですよ」
「……大丈夫」
コップに注がれた冷水を一気に飲み干す。
勢いよくコップを置いてしまったせいで、大友さんを少し驚かせてしまった。
どうしてこんなに、苛つくんだ。
「あたし、高校を卒業したら、かもめ書店で社員を目指して働こうと思っています」
胸の内に引っ掛かるような違和感。苦い記憶を呼び起こされたかのような曇った感情が溜まる。
僕が狼狽えてしまったせいで、彼女は冷静にならざるを得なかったのだろう。大友さんは淡々と言い続ける。
「バイトを始める前は、結構荒んでていろんな人を恨むこともあったんですけど、別に今は何とも思っていません」
「進学はしないの?」
「金銭的に無理です。もっと稼げる仕事ができればいいかもしれないんですけど。でも、あたし、かもめ書店で働が好きですし、そもそもそこまで進学したいわけでもないですし」
「でも、作家になるんだったら、進学して勉強した方が」
大友さんは首を横に振る。
「初めは頑張ればなれるんじゃないかと思ってましたけど、実際に売り出される本に触れていると、なんだか別世界の人間が書いているような気がして、あたし頭悪いから無理だって思ってきちゃったんですよね。あ、でも、もちろん小説は書きたいとは思ってます」
制約を受けた人間は、いつの間にか堅実な選択をしようとする。
自身の経験が、そういう結論に至らせる。
口を開こうとすれば「簡単に諦めるなよ」と、今まで散々言われてきた言葉を彼女にも押し付けようとする。
だから言葉が返せない。
「蒼さんは、どうしてそんなにあたしによくしてくれるんですか?」
「え?」
「だって、今もこうしてあたしを気にかけてくれてますし、文章の仕事も教えてくれてるじゃないですか。それってよく考えたら、ありえないことだなって思ったんです。蒼さんに得なことなんて何もないし」
「それは……」
問い詰められたわけではないのに、追い詰めらたような感覚になった。
「こんばんは」
「あらあら、二人共ごめんなさいね。ラストオーダーの時間が過ぎちゃったのよね」
扉の上に掛けられた鳩時計を見ると、ラストオーダーの4時半はとうに過ぎている。老夫婦2人で経営する海猫堂は、ここ最近夕方5時には店を閉めるというかなり短めの営業スタイルとなっていた。
「いえ、こちらこそ、こんな時間にすみません」
「コーヒーくらいなら大丈夫よ。それでも構わないかしら」
「はい、すみません」
店内を見回すと、学生らしきお客さんがテーブル席を一面使って教科書やノートを広げている。期末テストでも近づいているのだろうか。
海猫堂は基本的にコーヒー1杯頼めば、店内で勉強をしようが仕事をしようが、何時間でも長居していいことになっている。
これは郁江さんと誠司さんが『訪れた人にこの空間を有効活用してほしい』という、一般的な飲食店経営であれば考えられないような経営方針をとっているからだ。
たまにこのお店の経営状態は大丈夫なのだろうかと本気で心配になり、高めのメニューを注文してしまうことがある。そんな僕と同じ考えの人も少なくないはずだ。
「最近はどう?」
郁江さんが大友さんに近況を尋ねる。僕の方から切り出さなければいけないはずだったが。正直助かったとも思っている。
「うーん……」
大友さんは何かを言いたそうにしてはいるものの、遠慮して口を噤む。
余計な干渉はしないと決めているのか、郁江さんはさり気なくその場を離れていく。
「最近思い詰めているように見えて、少し心配になったんだ」
「思い詰めてはいないんですけど、ちょっと状況の変化に頭が付いていってないというか」
もちろんとか言えたら良かったのに、僕は自信なく頷くことしかできない。
大友さんはコップに入った水を口に含むと、ごくりと音が鳴りそうなくらいゆっくりと喉を通した。
「あたし、両親が離婚してから、おばあちゃんと暮らしてるんです。でも、おばあちゃんとそんなに仲良くないんですよね。最近は将来のこともよく喧嘩しちゃって」
話が重くならないように気を遣ってくれているのか、大友さんは時々作り笑いを浮かべる。
「おまけに最近お父さんからの養育費もほとんど送ってもらえなくなって、自分で生活費を稼がなくちゃいけなくなったんです」
「今まで平日にシフトを入ってたのって、もしかして学校を休んでバイトしてたの?」
「はい。藤野店長とか一部のパートさんには家の事情を説明して、留年にならない程度に調整しながらシフトを入れてもらっていました」
もしやと思ったことが何度かあった。けれど、考え過ぎだと思っていた。
「それじゃあ、僕に文章の仕事を教えてほしいって言ったのは」
「なるべく早く自力で稼げるようになりたかったんです。ごめんなさい……」
明かされる大友さんの状態が、僕の頭を混乱させる。
目の前にいる若干17歳の少女は、問答無用で生きるための独り立ちを急かされていた。
不覚にも当時の自分達の境遇と重ねてしまった。
閉ざしていた蓋が外れる。中から苦い記憶が漏れ出す。
「ちょっと……蒼さん、顔色悪いですよ」
「……大丈夫」
コップに注がれた冷水を一気に飲み干す。
勢いよくコップを置いてしまったせいで、大友さんを少し驚かせてしまった。
どうしてこんなに、苛つくんだ。
「あたし、高校を卒業したら、かもめ書店で社員を目指して働こうと思っています」
胸の内に引っ掛かるような違和感。苦い記憶を呼び起こされたかのような曇った感情が溜まる。
僕が狼狽えてしまったせいで、彼女は冷静にならざるを得なかったのだろう。大友さんは淡々と言い続ける。
「バイトを始める前は、結構荒んでていろんな人を恨むこともあったんですけど、別に今は何とも思っていません」
「進学はしないの?」
「金銭的に無理です。もっと稼げる仕事ができればいいかもしれないんですけど。でも、あたし、かもめ書店で働が好きですし、そもそもそこまで進学したいわけでもないですし」
「でも、作家になるんだったら、進学して勉強した方が」
大友さんは首を横に振る。
「初めは頑張ればなれるんじゃないかと思ってましたけど、実際に売り出される本に触れていると、なんだか別世界の人間が書いているような気がして、あたし頭悪いから無理だって思ってきちゃったんですよね。あ、でも、もちろん小説は書きたいとは思ってます」
制約を受けた人間は、いつの間にか堅実な選択をしようとする。
自身の経験が、そういう結論に至らせる。
口を開こうとすれば「簡単に諦めるなよ」と、今まで散々言われてきた言葉を彼女にも押し付けようとする。
だから言葉が返せない。
「蒼さんは、どうしてそんなにあたしによくしてくれるんですか?」
「え?」
「だって、今もこうしてあたしを気にかけてくれてますし、文章の仕事も教えてくれてるじゃないですか。それってよく考えたら、ありえないことだなって思ったんです。蒼さんに得なことなんて何もないし」
「それは……」
問い詰められたわけではないのに、追い詰めらたような感覚になった。