藤野店長が手伝ってくれたおかげで、僕らは午後4時ちょうどにタイムカードを通すことができた。
最近は売り上げが伸びているせいで納品される商品の量が増えたため、30分から1時間程延長することが定常化していた。
自分の仕事が忙しくなければ多少の延長は構わないが、月末で納期が重なると徹夜が続くため時々この書店の仕事を辞めたくなる。もちろん残業代なんてのもないし。
「お待たせしました」
お店の外で待っていると、入り口から大友さんが出てきた。
いつものチェスターコートを羽織り、麹色のニット帽を深く被る。薄めのマフラーが口元を覆い、見ているこちらの体感温度が上がる気がした。
そう思って彼女の方を見ていると、持ち前の大きな瞳がくるりとこちらに向いたから、また体温が上昇したのを感じた。
冷たい風が当たることを全力で拒否している大友さんは、小さく身震いしながら、
「風除けになってください」
と言って、僕の隣にピッタリと収まろうとする。
距離を取ろうと離れようとしたが、大友さんは母鳥の側を離れようとしない雛のように付いてくる。
「寒いんです」
「わかってるけど、近い」
「いいじゃないですか、あたしより身体大きいんだし」
「いいけど、やっぱり近い」
そんな噛み合っているかどうかわからない会話をしながら、駅へと向かう。
「寄り道しません?」
ぽつりと呟いた大友さんに、精一杯の平静を装いながら、わざと抑揚のない声で言い返す。
「どこに?」
「海猫堂です」
「いつもと変わらないけど」
「いつも通りでいいんです」
汐丘駅に着くと、空は宵の口に差し掛かっていた。余韻のように残る明るさが次第に闇に呑まれ、空気の冷たさがそれに追いつく。
防寒対策をしっかりしているように見える大友さんだったが、両手だけ冷たい空気に晒されていた。コートのポケットに突っ込んで暖を取ることもできるだろうが、彼女はそうしようとしない。
「手袋は?」
「家に置いてきちゃいました」
「本当に?」
マフラーはしっかり巻いている人がまさか手袋まで忘れるなんてと思い、問い詰めるように訊いたら大友さんはすぐに白状した。
「嘘です。駅にいたホームレスにあげちゃいました」
なんで。
手袋をあげたことじゃない。
大友さんにとっては軽いものだったかもしれないが、案外僕はしっかりダメージを受けた。何で嘘をついたんだろう。
嘘をつかれると、拒絶されているような錯覚に陥る。
「今朝かなり寒かったじゃないですか。改札前の通路であまりにも寒そうにしてて。あたし、放っておくことができなくて手袋くらいならって。ちょっと強引に渡してすぐに逃げました」
「そっか、今頃、そのホームレスの人に感謝されてるかもしれないね」
造りだした言葉が彼女の前では意味を持たない。そんなことわかっているはずなのに、やめられない。
「そんなのいらないです。あたし自身の為です」
そういう僕の浅はかな発言を、大友さんは容赦なく殺してくれる。
「手袋を渡した時、ホームレスのおじさんに睨まれて、その時本気で余計なことをしちゃったって思ったんです。でも、心の中では達成感もあって。結局あたしはあたしの為にやっただけでした」
「誰かのためになんて、綺麗事に過ぎない」
不意に出てきた言葉は、嘘ではない。
でも、一体どの口が言えるんだろう。
そうやって自分を戒めることは、相変わらず忘れない。なのに大友さんは、今までで一番穏やかな目を向けながら悪戯っぽく言う。
「やっぱり。蒼さんはわかってらっしゃる」
まるで共犯者のような、不毛な仲間意識。
「電車に乗っているとよく見るじゃないですか。ポケットに手を突っ込みながら歩いている人とか、スマホを見ながら歩いている人。なんか、ああいう人みたいになりたくないんですよね」
「だから今、つまらない意地で手が犠牲になってるんだね」
大友さんの身震いが増えてきたように思った僕は、鞄に入っていた手袋を大友さんに手渡す。
彼女は一瞬、戸惑ったような顔をした。
そこで普段身につけているものを他人に差し出すという気持ち悪さにようやく気が付いて、慌ててその手を引っ込めようとした。
けれど大友さんはそれを察したのか、早口でお礼を言いながら若干奪い取るように手袋を受け取った。
僕と大友さんは、どこまでも噛み合うことがない。ただ、わずかに通ずるものは確かにある。そう思うことにした。
「ぶかぶかですね」
明らかに手のサイズが合っていない手袋を嵌めた大友さんは、嬉しそうに何度もグーパーしていた。
代わりに手袋を貸した僕はコートのポケットに手を突っ込み、中に入っているスマホと財布を握る。そうしていないと、心が落ち着かなかった。
僕は相変わらず風除けの役割を担っているらしく、彼女との距離は近いままだった。
最近は売り上げが伸びているせいで納品される商品の量が増えたため、30分から1時間程延長することが定常化していた。
自分の仕事が忙しくなければ多少の延長は構わないが、月末で納期が重なると徹夜が続くため時々この書店の仕事を辞めたくなる。もちろん残業代なんてのもないし。
「お待たせしました」
お店の外で待っていると、入り口から大友さんが出てきた。
いつものチェスターコートを羽織り、麹色のニット帽を深く被る。薄めのマフラーが口元を覆い、見ているこちらの体感温度が上がる気がした。
そう思って彼女の方を見ていると、持ち前の大きな瞳がくるりとこちらに向いたから、また体温が上昇したのを感じた。
冷たい風が当たることを全力で拒否している大友さんは、小さく身震いしながら、
「風除けになってください」
と言って、僕の隣にピッタリと収まろうとする。
距離を取ろうと離れようとしたが、大友さんは母鳥の側を離れようとしない雛のように付いてくる。
「寒いんです」
「わかってるけど、近い」
「いいじゃないですか、あたしより身体大きいんだし」
「いいけど、やっぱり近い」
そんな噛み合っているかどうかわからない会話をしながら、駅へと向かう。
「寄り道しません?」
ぽつりと呟いた大友さんに、精一杯の平静を装いながら、わざと抑揚のない声で言い返す。
「どこに?」
「海猫堂です」
「いつもと変わらないけど」
「いつも通りでいいんです」
汐丘駅に着くと、空は宵の口に差し掛かっていた。余韻のように残る明るさが次第に闇に呑まれ、空気の冷たさがそれに追いつく。
防寒対策をしっかりしているように見える大友さんだったが、両手だけ冷たい空気に晒されていた。コートのポケットに突っ込んで暖を取ることもできるだろうが、彼女はそうしようとしない。
「手袋は?」
「家に置いてきちゃいました」
「本当に?」
マフラーはしっかり巻いている人がまさか手袋まで忘れるなんてと思い、問い詰めるように訊いたら大友さんはすぐに白状した。
「嘘です。駅にいたホームレスにあげちゃいました」
なんで。
手袋をあげたことじゃない。
大友さんにとっては軽いものだったかもしれないが、案外僕はしっかりダメージを受けた。何で嘘をついたんだろう。
嘘をつかれると、拒絶されているような錯覚に陥る。
「今朝かなり寒かったじゃないですか。改札前の通路であまりにも寒そうにしてて。あたし、放っておくことができなくて手袋くらいならって。ちょっと強引に渡してすぐに逃げました」
「そっか、今頃、そのホームレスの人に感謝されてるかもしれないね」
造りだした言葉が彼女の前では意味を持たない。そんなことわかっているはずなのに、やめられない。
「そんなのいらないです。あたし自身の為です」
そういう僕の浅はかな発言を、大友さんは容赦なく殺してくれる。
「手袋を渡した時、ホームレスのおじさんに睨まれて、その時本気で余計なことをしちゃったって思ったんです。でも、心の中では達成感もあって。結局あたしはあたしの為にやっただけでした」
「誰かのためになんて、綺麗事に過ぎない」
不意に出てきた言葉は、嘘ではない。
でも、一体どの口が言えるんだろう。
そうやって自分を戒めることは、相変わらず忘れない。なのに大友さんは、今までで一番穏やかな目を向けながら悪戯っぽく言う。
「やっぱり。蒼さんはわかってらっしゃる」
まるで共犯者のような、不毛な仲間意識。
「電車に乗っているとよく見るじゃないですか。ポケットに手を突っ込みながら歩いている人とか、スマホを見ながら歩いている人。なんか、ああいう人みたいになりたくないんですよね」
「だから今、つまらない意地で手が犠牲になってるんだね」
大友さんの身震いが増えてきたように思った僕は、鞄に入っていた手袋を大友さんに手渡す。
彼女は一瞬、戸惑ったような顔をした。
そこで普段身につけているものを他人に差し出すという気持ち悪さにようやく気が付いて、慌ててその手を引っ込めようとした。
けれど大友さんはそれを察したのか、早口でお礼を言いながら若干奪い取るように手袋を受け取った。
僕と大友さんは、どこまでも噛み合うことがない。ただ、わずかに通ずるものは確かにある。そう思うことにした。
「ぶかぶかですね」
明らかに手のサイズが合っていない手袋を嵌めた大友さんは、嬉しそうに何度もグーパーしていた。
代わりに手袋を貸した僕はコートのポケットに手を突っ込み、中に入っているスマホと財布を握る。そうしていないと、心が落ち着かなかった。
僕は相変わらず風除けの役割を担っているらしく、彼女との距離は近いままだった。