それから僕らは各々が自由に店内を放浪した。

一人で過ごすことが圧倒的に多い僕らは、定期的に”個”の時間を必要とする。みんなそういうのがわかっているような気がして、何の気も遣わず散り散りになった。

さっきまで売り場を物色(ぶしょく)していたから、売り場への興味がすっかりなくなっている。さすがに2周目を廻る気が起きなかった僕の意識は売り場を物色する人に向けられる。

突き当たりの棚にいる一ノ瀬さんは、料理本がある棚の片隅にあるコーヒーや紅茶の本を手に取っている。海猫堂で郁江さんからコーヒーの淹れ方を学んでいる最中なのだろう。

大友さんも探してみよう。

彼女はやはり文庫本の棚か、文芸棚にでもいるのだろうか。もしくは最近ライターの仕事もできるようになり始めたから、ライティングに関しての本を探しているのかもしれない。

いくつか目星を付けたところを探してみるが、大友さんの姿は見当たらなかった。もう一度店内をくまなく探してみると、園芸本売り場コーナーにいた。


(こけ)……?」

「おわっ!蒼さん、急に声かけないでくださいよ」

「ごめん。いや、なんていうか。ちょっと意外だなと思ったから、つい」


他人の見ている本にいちいち口出しするのは失礼極まりない行為でもあったが、今の大友さんにはそんな気を遣う必要はない。

頬を紅潮させる姿を見て少し申し訳なく思ったが、大友さんは手にしている本の見開きを開いたまま、僕の隣にぴたりと寄った。

大友さんは愛玩動物(あいがんどうぶつ)に向けるような視線を図鑑のページに送りながら「可愛い」を連発する。申し訳ないが、ただのふさふさした(かたまり)にしか見えない。


「学校の中庭に倒木があるんですけど、木の幹に苔が生えてきたんです。そしたら、なんか急に苔に目覚めたんです」


驚いた。

大友さんであれば、興味の対象を苔に向けるのはなんら不思議ではない。

そうじゃなくて。驚いたのは大友さんの口から「学校」という言葉が出てきたことだ。苔への興味対象を訊かれたから流れで言った言葉ではあるとは思うが。

毎日ではないが、平日の朝番からシフトに入ることもあった大友さんは、一体どのような生活をしているのだろうと気にはなっていた。

けれど彼女からは一切学校生活や友達の話を聞くことはなく、もしや学校に行っていないのではと勝手に見立てを立てるようになり、次第にそう思うようになっていた。

だからその見立てが外れたことに対する安堵(あんど)も混ざっていて。本当は聞き流せばよかったのに、


「学校楽しい?」


なんて無責任に言葉を拾った。

大友さんは開いた図鑑を静かに閉じると、力無い笑みを浮かべながら、


「保護者かよ」

と言いながら僕を肘で強めに突いた。

そのまま僕から離れればいいのに、彼女はそうすることをせず、その場にしゃがみ込んで再び図鑑を広げ、しばらく機械的にページを(めく)り始める。

逃げたくなった。けれど、ここで逃げるのは許されない。

体が熱くなり、服の中に気持ち悪い湿気が溜まってくる。

時間が止まったような状況を打破するのは、いつも彼女の方からだ。


「蒼さんは、どれがいいですか?」


思えば思うほど、僕の思考は真っ白になる。差す指が震えないよう、僕は大きく静かに息を入れ替える。

その瞬間、背後から決して大きくない声が聞こえてきた。


「あの……いい時間なので、そろそろ帰りませんか」


振り返ると、一ノ瀬さんは栞を挟んだ一冊の単行本を大事そうに抱えていた。

昔から老若男女問わず認知されている西洋小説を児童向けに読みやすく改訂した本。児童書コーナーで選んだ紙袋の中に入っていたものだろう。

この小説は内容が抽象的すぎて刺さる人とそうでない人がいる。

実際僕自身も小学生の時に図書館で読んだことがあったが、内容までは覚えていない。読書感想文を書こうとしたら、思っている以上に苦戦したということだけはうっすらと記憶には残っている。


「その本、もう持ってるんじゃないですか?」


聞こえ方によっては(とげ)を含むその言葉を、一ノ瀬さんはしっかりと受け返す。


「文庫本は持ってるけど、挿絵があるのは初めて。せっかくだし、部屋に飾っておこうかな」

「海猫堂に置いて、お客さんに読んでもらうのはどうですか?」


「いいかも。郁江さんに相談してみようかな」

「今から行きます?」


姉妹のような2人からよそよそしさを感じることはもうない。

いつの間にかお互いの性格を合わせられるようになった2人に対し、僕は何一つ変わっていない。そう思った途端、自分だけが浮いてしまっているような感覚がした。以前経験した感覚だ。


お店を出る直前、大友さんは苔図鑑の会計を済ませて戻ってきた。持ち運びをしたいのと、値段が安いという理由で、文庫本サイズの小さな図鑑を選んでいた。