破天荒な1日がようやく終わり、僕と大友さんは早めに帰路につく。
「それじゃ、お先に失礼します」
「お疲れ様。今日は大変だったね。ゆっくり休んで」
「お疲れ様です」
お店を出た瞬間に緊張の糸が切れたのか、身体にかかる重力が一気に増えた。
「なんか、疲れましたね。いろいろと」
「そうだね」
僕らはそれだけの言葉を交わし、気力だけで駅へと足を進める。
いつもならホームに降りるタイミングで電車が到着するが、進める足が重かったせいで、駅の入り口に辿り着いたところで電車は出発した。
走れば間に合っていたのかもしれないが、そんな気力はもう残っていない。イレギュラーなことが起こると、簡単に均衡が崩れてしまう。
ホームにある壊れかけたベンチに座り、電車を待つ。1人分のスペースを開けて隣に座る大友さんが呟く。
「……今日はとことんついてないです」
「そんな日もあるよ」
本当は一緒に溜息を吐きたかったが、僕は精一杯強がった。
場の空気が持たなさそうだったから、ホームにある自販機を指差して勧めたが「蒼さんのお金がもったいないので遠慮しときます」と、逆に気を遣われる始末だ。
線路を挟んだフェンスの向こう側にある道をぼんやりと眺めていると、黒い影が目の前を通り過ぎた。
「野良猫……」
そう言うと、大友さんは急に立ち上がり僕の視線の先を凝視する。そして影の主が猫だとわかると、猫の鳴き声を真似し、必死に気を引こうとしていた。
後ろのベンチに座っているサラリーマンがこっちを見ていたが、大友さんがそんなことを気にしないのはもう知っている。
「大友さん、猫好きなんだ」
「はい。昔近所に野良猫がたくさん住み着いてて、しょっちゅう一緒に遊んでたんですよね。あ、こっち見た!にゃー!」
一方的に話しかけられた灰色の猫は僕らを一瞥してから、そっぽを向いて闇の中へと消えていく。
「頑張れー!捕まるんじゃないぞー!」
「応援?」
「はい。あの子は大丈夫だと思います」
「大丈夫って、何が?」
「人に捕まることがないっていう意味です」
大友さんは猫が消えていった暗闇をしばらく眺めてから、僕の隣に戻ってきた。
「あたしや友達は近所の野良猫に名前を付けたり餌をやったりして可愛がってたんですよね」
「だから猫好きなんだ」
「はい。でも、ちょっとトラウマもあるんです」
「顔を引っ掻かれたとか?」
大友さんはころころと笑う。
「そんなんでトラウマにはなりませんよ。引っ掻かれても負けずに抱っこして押さえつけてましたし」
「大友さんらしいね……」
「あたし達が餌を与えるようになってから、どんどん増えていったんです」
「聞いたことがあある。野良猫ってすぐに増えちゃうらしいね」
「はい。近所の人に注意されてから友達は餌を与えなくなったんですけど、あたしだけ隠れて餌をやり続けてたんですよね。なんか、見ていると可哀想になっちゃって」
彼女は今も昔も変わらない。自分の心に素直に従って行動する。
「でも、それが不味かったんです。どんどん数が増えて、とうとう自治会長さん達が一斉に猫たち保健所に連れてっちゃったんです」
そして痛い目に遭う。
よかれと思ってした事が結果的に悪い方向に作用することなんて、いつでも誰の身にでも起こりえる。
人の正義なんて、所詮その程度。
「あの頃のあたしは本当に馬鹿でした。どうしてすぐにやめなかったんだろう」
後悔してから初めて自分の過ちに気が付き、いつまでも自分の中に残り続ける。
「誰だってその時の行いが正解かどうかはわからない。仕方ないよ」
気がつけばそんなことを口にしていた。
彼女を励ますつもりで言ったのに、まるで自分自身を正当化しようとしているように聞こえた。
いったいどの口が言えるのだろう。
「さては、あたしと同じような経験があるんですね」
「そりゃあ、大友さんより長く生きてるから」
「蒼さん、あたしとそんなに年離れてないじゃないですか」
揶揄うようにそう言われて、僕はわずかに安心する。
「あ、電車が来ちゃいましたよ。もう少し蒼さんと話したかったんですけど」
「はいはい。また今度」
上りの電車がホームに到着する。大友さんはこの電車に乗って、ここよりも遥かに大きな街へと帰っていく。
「それじゃ、大友さん、気をつけて」
「帰りたくないなー」
「はいはい、お疲れ」
渋々立ち上がる大友さんにひらひらと手を振って見送る。
ドアが閉まる前にベンチに座ったままもう一度彼女に向かって手を振ると、彼女は僕の顔をじっと見つめていた。
電車が過ぎると、ホームに吹き付ける風が冷たく感じる。
次の電車が来るまでの間は、ただスマホでSNSを流し読みするだけの無意味な時間を過ごした。心臓は落ち着いていない。
「それじゃ、お先に失礼します」
「お疲れ様。今日は大変だったね。ゆっくり休んで」
「お疲れ様です」
お店を出た瞬間に緊張の糸が切れたのか、身体にかかる重力が一気に増えた。
「なんか、疲れましたね。いろいろと」
「そうだね」
僕らはそれだけの言葉を交わし、気力だけで駅へと足を進める。
いつもならホームに降りるタイミングで電車が到着するが、進める足が重かったせいで、駅の入り口に辿り着いたところで電車は出発した。
走れば間に合っていたのかもしれないが、そんな気力はもう残っていない。イレギュラーなことが起こると、簡単に均衡が崩れてしまう。
ホームにある壊れかけたベンチに座り、電車を待つ。1人分のスペースを開けて隣に座る大友さんが呟く。
「……今日はとことんついてないです」
「そんな日もあるよ」
本当は一緒に溜息を吐きたかったが、僕は精一杯強がった。
場の空気が持たなさそうだったから、ホームにある自販機を指差して勧めたが「蒼さんのお金がもったいないので遠慮しときます」と、逆に気を遣われる始末だ。
線路を挟んだフェンスの向こう側にある道をぼんやりと眺めていると、黒い影が目の前を通り過ぎた。
「野良猫……」
そう言うと、大友さんは急に立ち上がり僕の視線の先を凝視する。そして影の主が猫だとわかると、猫の鳴き声を真似し、必死に気を引こうとしていた。
後ろのベンチに座っているサラリーマンがこっちを見ていたが、大友さんがそんなことを気にしないのはもう知っている。
「大友さん、猫好きなんだ」
「はい。昔近所に野良猫がたくさん住み着いてて、しょっちゅう一緒に遊んでたんですよね。あ、こっち見た!にゃー!」
一方的に話しかけられた灰色の猫は僕らを一瞥してから、そっぽを向いて闇の中へと消えていく。
「頑張れー!捕まるんじゃないぞー!」
「応援?」
「はい。あの子は大丈夫だと思います」
「大丈夫って、何が?」
「人に捕まることがないっていう意味です」
大友さんは猫が消えていった暗闇をしばらく眺めてから、僕の隣に戻ってきた。
「あたしや友達は近所の野良猫に名前を付けたり餌をやったりして可愛がってたんですよね」
「だから猫好きなんだ」
「はい。でも、ちょっとトラウマもあるんです」
「顔を引っ掻かれたとか?」
大友さんはころころと笑う。
「そんなんでトラウマにはなりませんよ。引っ掻かれても負けずに抱っこして押さえつけてましたし」
「大友さんらしいね……」
「あたし達が餌を与えるようになってから、どんどん増えていったんです」
「聞いたことがあある。野良猫ってすぐに増えちゃうらしいね」
「はい。近所の人に注意されてから友達は餌を与えなくなったんですけど、あたしだけ隠れて餌をやり続けてたんですよね。なんか、見ていると可哀想になっちゃって」
彼女は今も昔も変わらない。自分の心に素直に従って行動する。
「でも、それが不味かったんです。どんどん数が増えて、とうとう自治会長さん達が一斉に猫たち保健所に連れてっちゃったんです」
そして痛い目に遭う。
よかれと思ってした事が結果的に悪い方向に作用することなんて、いつでも誰の身にでも起こりえる。
人の正義なんて、所詮その程度。
「あの頃のあたしは本当に馬鹿でした。どうしてすぐにやめなかったんだろう」
後悔してから初めて自分の過ちに気が付き、いつまでも自分の中に残り続ける。
「誰だってその時の行いが正解かどうかはわからない。仕方ないよ」
気がつけばそんなことを口にしていた。
彼女を励ますつもりで言ったのに、まるで自分自身を正当化しようとしているように聞こえた。
いったいどの口が言えるのだろう。
「さては、あたしと同じような経験があるんですね」
「そりゃあ、大友さんより長く生きてるから」
「蒼さん、あたしとそんなに年離れてないじゃないですか」
揶揄うようにそう言われて、僕はわずかに安心する。
「あ、電車が来ちゃいましたよ。もう少し蒼さんと話したかったんですけど」
「はいはい。また今度」
上りの電車がホームに到着する。大友さんはこの電車に乗って、ここよりも遥かに大きな街へと帰っていく。
「それじゃ、大友さん、気をつけて」
「帰りたくないなー」
「はいはい、お疲れ」
渋々立ち上がる大友さんにひらひらと手を振って見送る。
ドアが閉まる前にベンチに座ったままもう一度彼女に向かって手を振ると、彼女は僕の顔をじっと見つめていた。
電車が過ぎると、ホームに吹き付ける風が冷たく感じる。
次の電車が来るまでの間は、ただスマホでSNSを流し読みするだけの無意味な時間を過ごした。心臓は落ち着いていない。