「おはよう」
「藤野店長、おはようございます」
藤野店長は僕の気配に気が付くと、パソコンから僕の方に視線を向け、ひらひらと手を振る。
藤野店長は僕より二回りほど歳が離れている男性で、このお店で働く唯一の正社員だ。
安っぽいメガネをかけており、普段から飄々としているその振る舞いからは、横柄さや威厳など微塵も感じない。誰に対してもいつも先に挨拶をするのは、藤野店長の方からだ。
かもめ書店の面接に訪れた時から藤野店長は物腰と言葉の両方が柔らかさを存分に発揮しており、そのことに僕は結構な衝撃を受けた。
今まで見てきたそれなりの立場にいる人間は、焦燥感を漂わせているか、反対に威厳を振るっているかのどちらかだったから。
藤野店長は、面接時に記入する簡易的なテスト用紙を印刷し忘れていたり、そもそも面接をする場所を用意し忘れたりと、締まりの無い姿を僕に躊躇なく見せた。
面接時に僕が文章の仕事をしていると言うと、藤野店長はいきなり立ち上がり事務所を飛び出した。何事かと思っていたら、その後すぐ一冊の雑誌を持ってきて、
「うちのお店は地元の出版社が発行する雑誌も置いてるんだ」
と、無邪気な笑顔を向け、わざわざ雑誌を僕に紹介してくれた。
ウェブ媒体でしか文章を書いていない僕からすれば、紙媒体の文章はかなり崇高な存在として映ったため、心の中でそこまで立派なことはしてませんと謝罪をしておいた。
アルバイト先に書店を選んだのは、これからライターの仕事をしていく上でレベルが高い文章に触れておきたいと思ったから。
商業的に出版された本は僕みたいなぱっと出の人間ではなく、文章に人生をかけてきた作家が編集者と2人3脚で作ったものだと考えている。
だから書店で働き、常日頃からそういうものに触れておくことで、自分の慢心や驕りを防いでおきたかったのだ。
志望の動機を聞かれた時、そんなことを言った。体裁的に用意した模範解答でもある。
本当は、穏やかな人間がいるところに身を置きたかったのと、別の社会や集団で生きていけるかどうかを確認しておきたかっただけ。
ただ、それだけ。
前職の現場では、いつも先輩や上司にプレッシャーをかけられていた。
それに、現場で働く期間従業員の中には、全身に刺青が入った人間や、どう見ても指を切り落としたであろう訳ありな人間も混ざっていて、時折待遇の悪さを八つ当たりされたことがあった。
書店は物静かな人間が働いているというイメージを持つ僕は、正直、静かな環境に身を置きたかったのだ。
面接時にはお店の売り場作りやPOP作りに興味が無いかと言われたが、できれば面倒なことはやりたくなかった。
けれど思っていることを正直に言うと意欲がないと判断されてしまうと思ったから「面白そうですね。もちろんやってみたいです」と答えておいた。
すると藤野店長は、嬉しそうに「そっかそっか。うん、高倉くん、面白いね」と、履歴書を眺めながら何度も頷いていた。
面接を受けてみたものの、実際に働いてみるかどうかは迷っていた。
この地域に引っ越してきた当時、ライターの仕事で食っていくのがギリギリの状態ではあったが、会社員時代に蓄えた貯金はあったため、早急にお金を稼がなければいけない状況ではなかった。
そんな僕がかもめ書店で働く決定打となったのは、採用連絡の際に藤野店長が『一緒に働きませんか』と言ってくれたことだったと今では思う。『ぜひお願いします』と言ってしまったのは、決して流されただけの理由ではないはず。
決断の際の決定打は、そんな些細なことなのかもしれない。
「藤野店長、おはようございます」
藤野店長は僕の気配に気が付くと、パソコンから僕の方に視線を向け、ひらひらと手を振る。
藤野店長は僕より二回りほど歳が離れている男性で、このお店で働く唯一の正社員だ。
安っぽいメガネをかけており、普段から飄々としているその振る舞いからは、横柄さや威厳など微塵も感じない。誰に対してもいつも先に挨拶をするのは、藤野店長の方からだ。
かもめ書店の面接に訪れた時から藤野店長は物腰と言葉の両方が柔らかさを存分に発揮しており、そのことに僕は結構な衝撃を受けた。
今まで見てきたそれなりの立場にいる人間は、焦燥感を漂わせているか、反対に威厳を振るっているかのどちらかだったから。
藤野店長は、面接時に記入する簡易的なテスト用紙を印刷し忘れていたり、そもそも面接をする場所を用意し忘れたりと、締まりの無い姿を僕に躊躇なく見せた。
面接時に僕が文章の仕事をしていると言うと、藤野店長はいきなり立ち上がり事務所を飛び出した。何事かと思っていたら、その後すぐ一冊の雑誌を持ってきて、
「うちのお店は地元の出版社が発行する雑誌も置いてるんだ」
と、無邪気な笑顔を向け、わざわざ雑誌を僕に紹介してくれた。
ウェブ媒体でしか文章を書いていない僕からすれば、紙媒体の文章はかなり崇高な存在として映ったため、心の中でそこまで立派なことはしてませんと謝罪をしておいた。
アルバイト先に書店を選んだのは、これからライターの仕事をしていく上でレベルが高い文章に触れておきたいと思ったから。
商業的に出版された本は僕みたいなぱっと出の人間ではなく、文章に人生をかけてきた作家が編集者と2人3脚で作ったものだと考えている。
だから書店で働き、常日頃からそういうものに触れておくことで、自分の慢心や驕りを防いでおきたかったのだ。
志望の動機を聞かれた時、そんなことを言った。体裁的に用意した模範解答でもある。
本当は、穏やかな人間がいるところに身を置きたかったのと、別の社会や集団で生きていけるかどうかを確認しておきたかっただけ。
ただ、それだけ。
前職の現場では、いつも先輩や上司にプレッシャーをかけられていた。
それに、現場で働く期間従業員の中には、全身に刺青が入った人間や、どう見ても指を切り落としたであろう訳ありな人間も混ざっていて、時折待遇の悪さを八つ当たりされたことがあった。
書店は物静かな人間が働いているというイメージを持つ僕は、正直、静かな環境に身を置きたかったのだ。
面接時にはお店の売り場作りやPOP作りに興味が無いかと言われたが、できれば面倒なことはやりたくなかった。
けれど思っていることを正直に言うと意欲がないと判断されてしまうと思ったから「面白そうですね。もちろんやってみたいです」と答えておいた。
すると藤野店長は、嬉しそうに「そっかそっか。うん、高倉くん、面白いね」と、履歴書を眺めながら何度も頷いていた。
面接を受けてみたものの、実際に働いてみるかどうかは迷っていた。
この地域に引っ越してきた当時、ライターの仕事で食っていくのがギリギリの状態ではあったが、会社員時代に蓄えた貯金はあったため、早急にお金を稼がなければいけない状況ではなかった。
そんな僕がかもめ書店で働く決定打となったのは、採用連絡の際に藤野店長が『一緒に働きませんか』と言ってくれたことだったと今では思う。『ぜひお願いします』と言ってしまったのは、決して流されただけの理由ではないはず。
決断の際の決定打は、そんな些細なことなのかもしれない。