普段なら自分から声をかけることなんてありえないが、視線で絡んでおいてそのまま無視するのは流石に失礼だと思った。
それに彼女は赤の他人ではない。
「一ノ瀬さん」
人違いだったらすぐに謝罪をすればいい。
「わっ。え……と、高倉さん、でしたっけ?」
控えめに声をかけたつもりだったが、一ノ瀬さんは小動物のような声をあげ、武器のようなカメラを落としそうになった。
目を丸くして僕を見ているのは一ノ瀬沙希さん。僕や大友さんと同じ書店でアルバイトをしている大学生だ。とはいえ一ノ瀬さんはは先週入ったばかりで、まだ研修中の名札を付けている段階だが。
彼女はアルバイト自体が初めてらしく、研修中はおどおどしながらお釣りを数えたり、レジでのカバーかけを必死に練習していたりと、慣れないながらも健気に仕事を覚えようとう奮闘していたのが印象に残っている。
言われたことは何でもメモに取ろうとしていたから、彼女は真面目な人間なのだとすぐにわかった。
「急に声をかけてごめん」
「いえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしましたけど」
「写真、好きなの?」
僕は机の上にきちんと配置されたケーキやフォークの方を見ながら訊いた。
「え、あ、はい。これは、お店のお手伝いというか」
「お手伝い?」
「えっと、このお店のSNSに載せる写真を撮ってるんです」
「へえ、すごいね」
「そんな、わたしなんて、全然」
「そのケーキ、美味しいよね」
撮影用のライトが当てられたケーキを指差しと言うと、人馴れしていなさそうな一ノ瀬さんは少し顔を赤らめ
「美味しいですよね。わたしもそう思います」
と同意する。
お互いに相手の安全圏に足を踏み入れないよう、慎重に探り合う言葉を選ぶ。
普段の三倍ほど労力を使うが、ずけずけと距離を縮めてくる人間よりも、よっぽどいい。
これ以上撮影を邪魔するわけにはいかないから、僕はそれじゃあと言って2つ隣のテーブル席に向かう。
彼女はなぜ書店でアルバイトをすることにしたのだろう。
比較的穏やかな人が働いているようにも思える書店だとはいえ、お客を相手にしなければいけない接客業は、一ノ瀬さんのような人種には向いていないのでは。まあ、僕も人のことを言える立場ではないけれど。
席に着くと、カウンターにいた店主がお冷を持ってきてくれた。
「最近よく来てくれるわね。確か、お兄さんはアメリカンコーヒーでよかったかしら」
「あ、はい。それで」
正直言って僕はお店の雰囲気と、店主の余裕のある振る舞いは得意ではない。積極的に会話することが苦手な僕は、このやりとりでさえ想像以上の重労働なのだ。
街中にあるチェーン店であれば、極限まで人件費を削られた店内で店員が忙しなく歩き回り、ひっきりなしに訪れるお客の話し声で喧騒とする。
その空間に身を置くことで、自分の存在が周囲の雑踏にかき消されるような気がして、それが居心地良い。たまに聞こえてくる人の悪口は、イヤホンをしていれば幾分解決する。
けれど、こう静かでこじんまりとしたお店になると、そうはいかない。
先ほど話しかけられたように、お客さんと店員の距離が近いお店では否応無く自分という存在を認めなければならない。その感覚に、僕はまだ慣れることができずにいた。
「今日もゆっくりしていってね」
「いつも長く居座ってしまってすみません」
「とんでもない。自由にうちを使って構わないんだからね」
「ありがとうございます」
それでもこのお店に来てしまうのは、なぜだろう。
アンティークの食器やテーブル、椅子。オーナーによって作り込まれたこの空間は、会社を辞めたことや、同僚が命を絶ったことなど、過去の出来事を忘れるのには丁度いい。長居が許されているというのも、理由の1つではあるが。
持ってきたノートパソコンを開き、仕事の続きを始める。いつものようにノートに調べたことをまとめていると、注文していたアメリカンコーヒーが届けられた。
「お待たせしました」
「ありがとう……って、あれ?」
それに彼女は赤の他人ではない。
「一ノ瀬さん」
人違いだったらすぐに謝罪をすればいい。
「わっ。え……と、高倉さん、でしたっけ?」
控えめに声をかけたつもりだったが、一ノ瀬さんは小動物のような声をあげ、武器のようなカメラを落としそうになった。
目を丸くして僕を見ているのは一ノ瀬沙希さん。僕や大友さんと同じ書店でアルバイトをしている大学生だ。とはいえ一ノ瀬さんはは先週入ったばかりで、まだ研修中の名札を付けている段階だが。
彼女はアルバイト自体が初めてらしく、研修中はおどおどしながらお釣りを数えたり、レジでのカバーかけを必死に練習していたりと、慣れないながらも健気に仕事を覚えようとう奮闘していたのが印象に残っている。
言われたことは何でもメモに取ろうとしていたから、彼女は真面目な人間なのだとすぐにわかった。
「急に声をかけてごめん」
「いえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしましたけど」
「写真、好きなの?」
僕は机の上にきちんと配置されたケーキやフォークの方を見ながら訊いた。
「え、あ、はい。これは、お店のお手伝いというか」
「お手伝い?」
「えっと、このお店のSNSに載せる写真を撮ってるんです」
「へえ、すごいね」
「そんな、わたしなんて、全然」
「そのケーキ、美味しいよね」
撮影用のライトが当てられたケーキを指差しと言うと、人馴れしていなさそうな一ノ瀬さんは少し顔を赤らめ
「美味しいですよね。わたしもそう思います」
と同意する。
お互いに相手の安全圏に足を踏み入れないよう、慎重に探り合う言葉を選ぶ。
普段の三倍ほど労力を使うが、ずけずけと距離を縮めてくる人間よりも、よっぽどいい。
これ以上撮影を邪魔するわけにはいかないから、僕はそれじゃあと言って2つ隣のテーブル席に向かう。
彼女はなぜ書店でアルバイトをすることにしたのだろう。
比較的穏やかな人が働いているようにも思える書店だとはいえ、お客を相手にしなければいけない接客業は、一ノ瀬さんのような人種には向いていないのでは。まあ、僕も人のことを言える立場ではないけれど。
席に着くと、カウンターにいた店主がお冷を持ってきてくれた。
「最近よく来てくれるわね。確か、お兄さんはアメリカンコーヒーでよかったかしら」
「あ、はい。それで」
正直言って僕はお店の雰囲気と、店主の余裕のある振る舞いは得意ではない。積極的に会話することが苦手な僕は、このやりとりでさえ想像以上の重労働なのだ。
街中にあるチェーン店であれば、極限まで人件費を削られた店内で店員が忙しなく歩き回り、ひっきりなしに訪れるお客の話し声で喧騒とする。
その空間に身を置くことで、自分の存在が周囲の雑踏にかき消されるような気がして、それが居心地良い。たまに聞こえてくる人の悪口は、イヤホンをしていれば幾分解決する。
けれど、こう静かでこじんまりとしたお店になると、そうはいかない。
先ほど話しかけられたように、お客さんと店員の距離が近いお店では否応無く自分という存在を認めなければならない。その感覚に、僕はまだ慣れることができずにいた。
「今日もゆっくりしていってね」
「いつも長く居座ってしまってすみません」
「とんでもない。自由にうちを使って構わないんだからね」
「ありがとうございます」
それでもこのお店に来てしまうのは、なぜだろう。
アンティークの食器やテーブル、椅子。オーナーによって作り込まれたこの空間は、会社を辞めたことや、同僚が命を絶ったことなど、過去の出来事を忘れるのには丁度いい。長居が許されているというのも、理由の1つではあるが。
持ってきたノートパソコンを開き、仕事の続きを始める。いつものようにノートに調べたことをまとめていると、注文していたアメリカンコーヒーが届けられた。
「お待たせしました」
「ありがとう……って、あれ?」