扉を叩く音がする。

日が登ったばかりであるにも関わらず、玄関の戸を容赦無く叩く奴は1人しかいない。

徹夜明けで言うことを聞かない身体をなんとか引きずりながら玄関に向かうと、扉の向こうにいる声の主が僕の気配を察知したみたいで、ようやく扉をどつくのを止める。

忙しない大友さんを(なだ)めるように戸を開けると、制服姿の大友さんが、眩しいほどの笑顔を僕に向けながら余計なことを言う。


「おはようございます!って、蒼さん、目のクマひどっ!」

「おはよ。徹夜明けだから仕方ないだろ。大友さん、学校は?」

「今から行きますよ。でも、その前にこれを蒼さんに託しておきます」


大友さんは手に持っているスーパーのビニール袋を僕に押し付ける。


「差し入れ?」

「まさか。猫缶です。駅前のスーパーで買ってきました」


また面倒なことを持ち込む気かこいつは、と思った僕は、いかにも大友さんの行動に興味が無さそうに大きく欠伸(あくび)をする。

少し前から僕の家の周りで、真っ白な猫がうろついている。

子猫とも成猫とも言えない見た目をしているその猫は、尻尾が鉤形(かぎがた)に丸まっていた。

直前まで家で飼われていたせいか、毛並みは綺麗で(つや)が残っているほどだった。

白猫は通りゆく人を見かけては必死に愛想を振り撒き、その度に追い払われていて、見ているこちらが居た堪れない気持ちになった。

回覧板を届ける時にお隣さんに訊いてみたら、街に住む人間が何らかの事情で飼えなくなった猫をわざわざこの近隣に捨てる(やから)がいると言っていた。

猫の繁殖能力は高いため、これ以上不幸な猫を増やさないために餌を与えてはいけないと自治体で決められている。

街に住む人間は、手付かずの自然が残るこの地域に放しさえすればあとは勝手に生きてくれるとでも思っているのだろう。実際は野生での生き方を知らないため、突然放たれた飼い猫の大半は大自然に適応できずに命を落とす。

生きる術を学んでいない飼い猫を野に放つほど残酷なものはない。


「いくら可哀想だからと言っても、中途半端に親切にするのはよくないよ。住みついたら、悪戯するかもしれないし」


そんな正論を言っても聞きやしないのはわかっている。ただ、時折行きすぎたことをしがちな大友さんには、まず体裁的な注意喚起も必要なのだ。

大友さんは少しむっとした表情をしたが、すぐに名案でも思いついたと言わんばかりに、


「飼い猫だったらいいですよね!」


と言った。


「僕に世話をしろと」

「あたしも一緒に面倒を見ます」


虫のよさそうに思えるが、彼女はいつだって本気だ。


「しらすは突然一人になっちゃったんです」

「しらす?」

「あの子の名前です。抱っこした時にしらすの匂いがしたので」

「……」

「なんか放っておけないんですよね。しらすはあたし達に似ているというか」


大友さんは玄関の扉にもたれかかり、(うつむ)きながら僕を見た。


「いいじゃないですか。置いてかれたもの同士助け合って生きていくのも」

「ははっ。なんだよ、それ」

切実に訴えている大友さんには申し訳ないが、吹き出してしまった。大友さんはまた(ふく)れっ(つら)になる。

大友さんが厄介ごとを持ってくることにもう驚くことはない。むしろどんなことに巻き込んでくるのか見ものだとすら思う。


「戸を少し開けて、玄関の土間に置いておくよ。ただ、うちに来るかどうかは、しらす次第だよ」

「本当ですか!ありがとうございます!」

「大家さんにも猫が飼えるかどうか訊いておくよ。さ、行った行った」

「じゃあ夕方海猫堂で!行ってきます!」

「行ってらっしゃい」


土間に転がっているサンダルを足で手繰り寄せて履く。

玄関の外に出て見送ろうとしたら、すでに彼女は門へと駆け出していた。

その背中に小さく頑張れと囁くと、彼女は突然立ち止まり、振り返って僕に手を振った。



思い入れがあるものを突然失うことは、時に人格を歪ませるほどの大きな痛みを伴う。

できればそういう痛みは避けたいところだが、動き続ける僕達は、その痛みからは逃れられそうにない。

ならばちゃんと痛み、ちゃんと後悔しながら、僕らは前に進むしかない。



移りゆく季節を振り返りながら、それでも僕らは進んでいく。