夜11時半。偶然僕は自分が連絡を取り合っていた出版社への返品伝票の作成が終わらず、売り場に集められた段ボールに貼る手書きの伝票を量産していた。

静まり返った店内では、バサバサと箱に本を詰め込む音だけがが鳴り響いている。

しばらくすると音が鳴り止み、重い足音が僕の方に近付いてくる。


「もう遅いからあがりな」


振り返ると、気怠そうに段ボールを抱えた藤野店長がやってきた。

物理的に終わるはずのない仕事量であることはわかっているはずなのに、何一つ文句をこぼさず淡々と続けている。

閉店を目前に迎えるにつれ、藤野店長はお店に泊まり込んでの作業が多くなった。左手の薬指にはいつも指輪がはめられていたから、家庭の事情も勝手に心配した。

労働時間や残業代など、本来守られるはずである労働者としての権利は機能していない。そのことに憤りを感じたとしても、矛先を向けることができないのであればただ苦しいだけ。だからこれ以上は何も感じないよう努めた。

僕らは顔を見合わせて苦笑するだけ。そうしてやりきれない想いを抑え込むことで、精一杯だった。


「もう少し何かできると思ったんだけどね」


藤野店長は、大きく溜息を()いてから、弱音を()く。


「一生懸命やってるとさ、今回みたいなことが起こると、裏切られたと思ってしまうよね。だったらもう、何も一生懸命しないほうがいいのかなって考えてしまうよ」


思えば藤野店長が仕事中に不平不満を口にしている姿を見たことがなかった。

お客さんからの理不尽なクレームや、経営陣からの高圧的な要求を受けても、動じる事なく飄々と対応していた。

時にはそんな姿が頼りなく思うこともあったが、若年層の僕らが気兼ねなくお店で動くことが出来たのは、紛れもなく藤野店長の存在が大きかったからだ。

誰よりも辛いのは、藤野店長だ。

藤野店長は段ボールにガムテープで封をしながら僕に訊く。


「高倉くんは、これからどうするの?」

「しばらくは、自分の仕事に集中しようと思います」

「そっか。もし僕が次の行き先のお店でアルバイトの募集をしていたら、呼ぼうか」


一瞬、答えに(きゅう)する。

もう言葉を取り繕うとするのはやめよう。


「ありがとうございます。でも、このお店だったから続けられていたというのがあるので」


正直、雇われる働き方はもう十分だと思った。受動的な変化ばかりが求められるこの環境にいることで受けるストレスは、僕らの寿命を容赦無く(むさぼ)る。

けれど、これを口にしてしまうと、大半の人間を否定することになる。だから胸の内に留めておくだけにしておかなければならない。


「それだったら、大友さんを呼んであげてください」


そう言うと、藤野店長は渋い顔をした。


「大友さんは、まずきちんと学校に行って欲しいからなあ」


遠回しに僕の提案を却下した藤野店長は、大友さんにはもう関わらないと宣言しているようにも聞こえた。大友さんの失踪事件は、藤野店長も相当堪えていたんだろう。

彼女がお店に復帰したのは失踪事件の1週間後。少なくとも仕事を放棄するという迷惑極まりない行動をとった大友さんがすんなりと復帰できたのは、藤野店長を始め、かもめ書店で働く人達が寛容だったからだと僕は思う。

大友さんの家庭の事情や境遇まで把握していた藤野店長は、彼女が失踪したことに大きな責任を感じていた。大友さんが退院して職場に復帰した時は嬉しそうではあったが、それ以来、大友さんに対して申し訳なさそうに接している。

だからこそ、感情が大きく揺さぶられるこういう経験はもう懲り懲り(こりごり)なのだろう。

そんな藤野店長の負担を少しでも和らげたいと思ったから、


「大友さんは、もう大丈夫ですよ」


と言っておいた。藤野店長はにこりと笑い、


「そっか。高倉くんは、もうあがりな」


と言って再び片付けを再開した。