突然向こうにいるあの人が、すれ違い様にナイフを振り(かざ)してきたら。

致命傷を避けるため、絶対に刃の動きには逆らってはいけない。やむを得ず刃を払わなければならなくなったら、利き手を守るために、必ず右手で振り払おう。

いや、待て。片手でのタイピングはあまりにも効率が悪い。生活費を稼ぐためには、何としても両手だけは護っておかなければいけない。

そうだ、脚にしよう。革靴の先端の厚さなら、意外とナイフを受け止められるかもしれない。仮に刃が貫き、一時(いっとき)歩けなくなったとしても、仕事さえできれば問題ない。

そんな起こりもしない危険を、できもしない回避術で対応しようと妄想するようになったのは、同僚の田中佳が自室の部屋で首を吊ってからだ。

いや、田中佳が死んだことは、ほんの些細なきっかけに過ぎない。

彼女は自殺をする直前、誰かと電話をしていたようだった。盗み聞するつもりは毛頭なかったが、話し声が耳に入ってくるものは仕方がない。

光熱費みで2万円という会社の安物件の四方を囲む建物の資材は、視覚意外の情報を完全に防ぐことはできず、僕は否応なく両隣と上の階に住む同僚の生活音と共に過ごさざるを得なかった。

休日である土日の22時には、決まって上の階から他所行き用(よそいきよう)に作られた声が聞こえてきた。高校生の頃から聞き慣れている透き通った声は心なしかいつもより高く調律され、アップテンポなスピードで言葉を量産する。田中佳はライブ配信を日課としていた。

彼女は容姿端麗(ようしたんれい)で頭もよかったため、現場配属ではなく"経理"という事務職に配属となった。

有無を言わされることなく現場配属される高卒の身分でありながら、彼女だけが前例のない好待遇だった。そのことを(ねた)む奴らも少なからずいたということに気がついたのは、入社後しばらく経ってから。

誰もが羨む順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な社会人生活を送っていた彼女がなぜ自ら命を絶ったのか、真相はわからない。

けれど僕を含むほとんどの人間は、さほど驚くことはしなかった。

彼女のいるべきところはここじゃないと誰もが思っていたし、自ら命を断つ選択をすることに、誰もが違和感を抱かなかった。