「ど、どうしたの……!泣いてる、え……なんで!?大丈夫!?」

 その死が、病気によるものなのか、事故によるものなのか、はたまた自殺によるものなのか、俺には何もわからない。
 でも、彼女は確実に命を落とすということ。そんな未来を知ることのないひなは、ぎょっとしたように俺の顔を覗き込んでいる。

 「……ひな」
 「ちょ、はい!ハンカチ!」
 「ひな」
 「とにかく拭いて、大丈夫?何かあった?」

 「聞いてくれ、ひな」

 ひなの動きが止まる。
 きっと、今の俺の表情はひどいことだろう。
 
 「ひな、明日って、なんか用事ある?」
 「え、明日……?」
 「あぁ」

 頬に伝った一粒の涙が乾いていく感覚。
 ひなに病気があるようにも思えないし、自殺をするように見えない。

 あるとしたら、事故だ。

 ___事故ならば大丈夫だ。俺は彼女が死ぬことを知っているのだから、俺が守ればいい。俺がずっとひなの周りで気を張っていればいいだけの話。

 「明日はねー、新しいトゥシューズを買いに行くの!」
 「……ふーん」
 「なになに、ついてきてくれるの?」
 「別に」

 事故というと、交通事故がまず思い浮かぶ。でも、他殺の可能性だって……。
 なんにせよ、俺がひなを守ればいいだけだ。

 「っ、……あのさ、俺が未来から来たって言ったら……どうする?」
 「え……未来?泉くんが?」
 「例え話だよ」

 ひなは、少し考えるような仕草をした後、顔をぱっと明るくさせて人差し指を立てた。

 「未来の私がどうなってるか教えてもらいたい!」
 「っ……!」

 どんな反応をするかを聞きたかっただけなのに。ひなのいない未来で、ひながどうなっているかなんて、そんなの……。

 あまりに、残酷すぎないかよ。

 最初から、ひなが死ぬかもしれないことを知っていれば。自身が気をつけていれば。
 
 変わるかもしれない___。

 そうだ、未来を変えるんだ。俺と、ひなが。

 「そのことなんだけどさ___」
 「あっ、ごめん!私、今日はお母さんに早く帰るよう言われてるんだ!」
 「え、ちょ……」
 「また明日!」

 どうやらひなは相当急いでいたらしかった。時計を見ると、やばい!と連呼しながら走って帰って行ってしまう。
 追いかけなければいけないのに。なんでだ、思うように走れない。元の世界では、走るのは速い方だったはずなのに。体がふわふわする感覚だ。

 走ろうとすればするほど、ひなの背中は小さく、見えなくなっていく。
 今になって気づいたのは、ひなの家を知らないということ。

 完全に見えなくなったひなの背中は、もう追いようがなかったのだ。

 まだ、明日の朝なら間に合うはずだから。彼女の運命を変えなきゃいけないから。

 なんとなくわかってきた気がするんだ。どうして俺が、三十二年前にタイムリープしたのか。
 きっと、ひなを救えという神様からの任務なんだ。ひなの運命を変えろ、と。

 俺は、もう一度桜川校舎に目を向けると、掌を握りしめた。



 
 ___世界は、本当に誰の思い通りにも行ってくれない。そう再び思い知らされる。

 「行くなっつってんだろ」
 「なんで!」
 「なんでもだよ」

 俺が思うように走れないことを知った以上、走るのが速すぎるひなについていけないと判断した。
 それ以上に、さっさと家に帰って寝てもらうだけの方がリスクは格段に低くなるだろう。

 「もう!泉くん!なんで急に?シューズ買いに行くの!」
 「っ……ダメだ、行くな。今日は帰れ」
 「嫌だ!行く!」
 「あのなあ___」
 「理由言ってくんないと行くから!じゃあもう行く___」
 「死ぬんだよ」

 言ってもよかったのだろうか。いや、言うべきだ。言わなきゃいけない。この人は、絶対に死んではいけない存在だから。


 「え……?あ、え?」

 「ごめん。……昨日の話、ほんとのこと。俺が未来から来たって話」


 すぐ近くの横断歩道が、再び赤に切り替わる。俺たちが行く行かないの言い合いをしている時から青になったり、赤になったりと何回もそれを繰り返していた。
 

 「未来?……え、泉くんが……?」
 「……ひなは死ぬんだよ、今日」


 語尾がどんどんと小さくなるのを感じる。それは、俺の気の弱みが滲み出ていることを示していて。

 「信じられねえかもしんないけど。ひなは……今日、確実に死ぬ予定なんだ」
 「えっ……わ、私が……?」
 「……」

 俺が黙ったことを肯定と受け取ったらしい、ひなはなんとも言えないような表情で俺を伺うように見つめた。

 「だから行くな。ひなは、あんただけは死んじゃダメなんだ、絶対に」

 俺とは違う、夢を持つことを許されているひなは。絶対に。

 「お願いだから……俺がいつ元の世界に戻っても……居てくれ」

 この優しさを知ってしまった以上。この笑顔を知ってしまった以上。
 ひなのいない生活なんて考えられない。

 ぎりっと奥歯を噛み締める。

 「そっか!」

 そんな暗い空気に逆らうように、ひなの明るい声があたりに響く。
 
 「っ……なんで」

 なんで、こんな時まで。
 笑うんだよ。

 「私死ぬんだね。じゃあ後悔のないようにトゥシューズ買ってこようかな!」
 「違う!ダメだ、俺はそのために言ったんじゃ___」
 「わかってる」

 知らないうちに、心拍が上がって、両目から涙が溢れていた。これから起こることを知っていながら笑顔になれるひなの代わりに泣いているかのように。

 「……知ってた?運命ってね、変えられないんだって」
 「っ、そんなのやってみなきゃ___」
 「変えられないの、泉くん」

 なんで伝わらないんだよ。なんで俺の言いたいことがわからないんだ。なんで……。
 俺から背を向けたひなの表情は見えなくて。

 「私が死ぬはずだった今日、もし死ななかったらきっと、君の運命が変わる」
 「そんなことないだろ!俺は、ひながいればそれで……っ、いいのに……!」
 
 すがりつくように、ひなの肩を掴もうとするけれど、その手は空中をすかすだけで。
 何も掴めなかった。
 届かなかった。

 「ね、泉くん。知っちゃったからいうけどね、私。泉くんのことが好き」
 「っ……!」
 「だからね、私はどうしても。なんとしてでも君の運命を紡がなきゃいけないの。泉くんの生きている世界を、私の運命が繋げるの」

 ダメだ、ひな。
 ひなが今からしようとしているのは、自殺と同じ行為なんだぞ。

 「だから___」
 「やめろ、言うな。ひな」

 

 「私は、運命に従うよ」



 ひなが、俺の横をすり抜けた。



 ___それと共に、甲高くて大きなクラクションの音。

 あぁ、あれほど。ダメだと言ったのに。

 運命を変えようと言ったのに。
 どうして時に人の思いは、同じ人に伝わらないのだろうか___。


 「っ……ひなぁ……!」


 道路に飛び散る液体を見た途端、ひなが俺の中に鮮明に残っている横たわった母親と重なる。
 ダメだ、ダメだダメだ。
 なんで神様は……っ、俺から大事なものばかりを奪っていくんだ。


 ひなの運命を変えなきゃいけないから、俺を三十二年前に送ったんじゃないのかよ。


 「なんで……っ!」


 なんでよりによって、今、この瞬間、ひなの命が奪われなきゃいけないんだ。夢だってある、希望だってあるひなの命が……っ。

 なんで消されなきゃいけないんだ。

 「ひな!……ひな……!?」

 真っ白になった頭から必死に命令を下して、ひなにふらふらと近寄る。

 「なんで……なんでひなが……!」

 ひなを抱きかかえる___空気を掴む。
 空気を掴む、空気を掴む。

 その繰り返しで。

 いつまで経っても、ひなの体温を感じることはできなかった。

 そして、いつまで経っても。



 ___彼女が太陽のように笑うこともなかった。