旧校舎___桜川高校は、思っていたよりも綺麗だった。木造なのは変わらないけれど、まだ色が明るい。
本当に昔なんだ、と、現代の綺麗なものを見た時とは違う懐かしさを感じる。
って、何を黄昏ているんだ、俺は。
ひなに謝りに来たんだろ、と意を決して敷地へ足を踏み入れる。
ぞろぞろと生徒たちが校舎から出てくる光景に注意深く目を配る。ひなは部活に入っていないのだから、きっとそろそろ出てくるはず___。
「あ……」
___見つけた。
校舎から出てくる、いつもと変わらないポニーテールのひな。
無意識のうちに漏れていた声。小さかったはずなのに、それがひなには聞こえていたみたいで。
俺を見つけると、同じように短く声を漏らしていた。
ひなに最低なことをしてしまった自分がどうしよもなく嫌いだ。一時的な感情任せに行動してしまう自分が嫌いだ。
母さんが俺を追いかけて死ぬ、なんてことを最初からわかっていれば。
___後先考えずに行動する自分が、大嫌いだ。
「ひな」
俺は、ゆっくりとひなに歩み寄る。あの日、一瞬だけ見えた真顔が、俺の方を向いた。
「……泉くん?どうしたの、こんなところまで!」
いつもと変わらない笑顔を浮かべ、首を傾げるひな。でも、その顔にはどこか作り笑顔が含まれていて。
どうしよもなく悔しくなった。
俺がひなにこんな笑顔をさせているのに。何を今更悔しい、なんて。
「っ、俺___」
謝るんだ。ごめん、って。たった三文字なのに。
喉が詰まって声が出ない。
俺のことをジッと見つめるひなに対して、謝るということは、とても緊張することだった。悪いのは俺だ、ということはじゅうぶんにわかっているはずなのに。
掌に冷たい汗が滲む。
よし、言おう。言わなきゃずっと後悔する。今しかない。
そう、重く引き結ばれた口を開けた時だった。
「わっ……」
「___あっれー?風原さんじゃん。いるのわかんなかったー」
「何やってんの?突っ立っててこわいんですけどー」
あからさまな態度で、行為で。
派手な女子が、嫌な笑みをひなに向ける。その表情は、少しも申し訳なさそうにするものではなくて。
あぁ、こいつら。
ひなのこといじめてんだ。
一目でわかるほど、ひなをバカにする態度が前面に出ていた。
わざとぶつかった二人はもちろん、スキップをしながらどこかへ行ってしまう。でも、もちろんぶつかられることを想定していなかったひなの華奢な身体はぐらりと揺れた。
あ、やばい___咄嗟に手が出て、ひなの腕を掴む。
___いや、掴もうとした。
俺の手は、ひなの身体を空振る。
「っ、え……」
「あはは、泉くん、ユウレイなんだから触れられないんだってば」
あぁ、そうか。触れられないんだった。
そう理解したのも束の間で。
信じられなかった。
あんなにあからさまな嫌がらせを、どうして見向きもせずに笑顔でいられるのか。
「大丈夫か?」
「うん。立てるから、手、差し出さなくても大丈夫だよ」
彼女は変わらない笑みを顔に貼り付けたまま、スカートの汚れを手で取る。
なんでだよ、なんで俺が怒ってるんだ。
「言い返せよ、わかんねえの?嫌がらせ、されてるって」
どうしてこんなに口調を強くしてしまうんだ、と俺を心の中で叩く。
「わかってるよ。でも、いちいち向き合ってたら、バレエの練習をする時間がなくなっちゃうもの」
だからいいの、と笑うひなの笑顔は、本当になんとも思っていなさそうだった。
「……それに今日は、泉くんに謝りに行こうとしてたしね」
「え……?」
なんで、と口から短く溢れる。
なんでひなが?
ひなは何も謝ることなんてないのに。
「私、泉くんのこと何も知らなくてね。ペラペラと自分のことばっかり。嫌な思いさせてごめんね」
違う、違う違う。俺はひなに謝らせたくてあんなひどいことを言ったんじゃない。ただの俺の一時的な感情で___。
「私のことを思って言って___」
「違うよ」
「え?」
俺は掌を強く握りしめる。
「ただ俺の夢が叶わなかった腹いせ。……ひなが羨ましかったんだ。夢までの障害物がないように見えたひなの道が、羨ましくて」
俺って、本当に恥ずかしい奴だ。他人に嫉妬して、挙句にはそれを剥き出しにしてしまう。
「ひながどんだけ頑張ってんのかわかってないくせに、ひどいこと言った。……俺こそ、ごめん」
なんでたった三文字の言葉が、すぐに言えなかったんだ。この言葉は、傷を修復するための言葉なのに。なぜかいつも、言うことに気力を消費する。
「___君は、優しいね」
それ以上に、ひなが全てを包むかのような柔らかい笑顔を俺に向けた。
「っ……優しくなんかない。クソみたいなやつで、ひなに嫉妬して、ダサくて___」
「私が優しいって思ったらそれでいいの」
困ったような表情で、さっぱりと話を切られる。
「泉くんは、優しいよ。泉くんの夢に対しての思いって、昨日の全部だよね。泉くんにも、あったんでしょ」
図星を突かれて、小さく頷くことしかできない。
俺が夢を追って、両親に反対されて。
運命にまで反対されてしまったんだから、挫折するしかない。
今、前だけに進むひなにそれを知られたら、笑われるのだろうか。そんなものか、と思われるのだろうか。
怖くて、それ以上は言えなかった。
「私はそれが無理だとしても、絶対に諦めないよ!泉くんの分まで、頑張るんだから!」
ふん!と効果音付きでマッチョポーズをとるひなが、俺の口元を緩めた。
「全国大会で金賞が取れなくても、絶対に諦めないよ。なんなら、私の人生の時間を使ってバレエに賭けるのもおもしろいかもね!」
ふと、引っ掛かる。
人生の時間を使う……。
ひなが三十二年後、俺の住んでいた世界にはいなかった。
___ひなちゃんのこと、よぉ思い出すねぇ。
ばあちゃんの言葉がフラッシュバックする。___それと共に、ばあちゃんの家の居間にあった、小さな仏壇。ばあちゃんは確か、その仏壇を眺めながら寂しげに呟いていた。
___回路が、全て繋がった気がした。
ばあちゃんの言っていた意味が。
ひながどうして三十二年後に存在しないのか。
全てがわかった気がした。
その瞬間、無意識のうちに頰に伝う冷たいもの。まるで、鏡の中に写っていたひなのように、俺は泣いていた___。
明日七月五日、俺の誕生日。
多分___いや、間違いなく彼女は。
___命を落とすから。