火の無い所に煙は立たぬ、というのは、今の状況にも合っているのかもしれない。言い換えれば、腐っている世界に腐っていない人は存在しない、と言ったところだろうか。

 こんなクソみたいな世界に生きてる俺の人生も、クソなのだから。

***

 「泉くん、門限は20時って言ってるでしょ……?」

 時刻は23時。

 「は?アンタには関係ないだろ」
 
 いつものメンバーで集まって、路上で騒いで、家に帰る。こんな生活にも飽きてきた頃だった。深夜まで遊ぶ、ということは俺にとっては普通のこと。
 でも、コイツらにとっては普通ではなかったらしい。

 「おにいちゃん。昨日、僕とブロックして遊ぶって___」
 「やらねぇ。そんなこと言ってないから」

 眠そうな目をこすりながら俺のズボンの裾を握ってくる義弟の手を乱暴に払い、自分の部屋へ直行しようとする。

 「順弥はお前と遊ぶと聞かなかったからこんな時間まで起きていたんだぞ、泉」

 どこから出てきたのか、いつから聞いていたのか。目まぐるしいほどに捲し立ててくる父親に、思わずため息が口から溢れた。

 「誰だよ、テメェ。勝手に起きてたのはそいつだろ」
 「なんなんだ、その態度は!」

 乾いた音が、玄関に繋がる広い廊下に響き渡る。
 態度がなんだってんだ。勝手に俺を引き取って、勝手に再婚して。勝手に子供産んで。そんな自己中心的思考の現実主義者に俺の何がわかるっていうんだ。

 「ちょっと、悟さん……」
 「うわぁぁぁん!」

 あぁ、うるさい。うるさい。
 本当にうるさい。
 心配そうなのは表面上だけ。いつもいつも何も行動に起こさない義母も。
 泣けばなんでも気が済むと思ってる。絶対に自分は悪くないと自衛主張をする義弟も。
 大嫌いだ。全員、こんな所からいなくなればいい。

 「大体その髪はなんだ!金色なんてもんにして!俺が恥をかくだろう!」

 真っ赤な顔で怒りながら拳を握りしめる父親。どうしてこんなやつが、人の命を預かる病院の顔なのだろうか、とつくづく思う。

 「じゃあ聞くけど、アンタらは俺にどうさせたいわけ?勉強?部活?友達作り?ふざけんな、これは俺の人生だ。俺が決める」

 冷たい表情で父親を睨みつけながら、玄関に向かって義母の横を通り抜ける。

 「待って、泉くん」

 義母の冷たい手が、俺の腕を掴む。俺の腹は、煮えたぎるようにひっくり返った。

 「離せよ!___俺の母親でもねぇくせに、口出しすんな」

 その瞬間、俺の良心が揺らいだ。俺の中には、クズと善人の2人が居る。割合で言えば、8対2と言ったところだろうか。もちろん、クズが8割の方だ。
 俺の腕を離した義母の表情は、暗くて見えない。
 ……俺の人生なんだ、コイツらに支配されてたまるかよ、と口の中で呟きながら、家から飛び出した。


 「泉ちゃん、こんな時間にどうしたのぉ」

 古い戸を開けるなり、驚いたように俺を見上げるばあちゃん。

 「……ごめん、今日泊めて」
 「いいけどねぇ、適当に上がり」

 俺の顔を見て何かを察したのか、ばあちゃんは何も聞かずに俺を家に上げた。嫌なことがあれば来るのは、いつも決まってここ。都合の良い第二の家のようなものだ。利用しているにも関わらず、ばあちゃんはそんな俺にあたたかい服と、飯と、寝床を用意してくれる。
 なんだかんだ、ばあちゃんにいつも助けられている。

 「泉ちゃん、居間にいてね。すぐにごはんを持って行くからねぇ」
 「いーよ、こんな時間なんだし。ほんとにいいってば」
 「そうかえ?」

 手で制す俺を、きょとんとしたように見つめると、ばあちゃんは俺の向かいに座った。

 「泉ちゃん、今日誕生日やろ」
 「あー……」

 壁にかかる振り子時計を見る、けれど、もうそれは動いていなかった。でも、もう日付は回っているのだろう。

 「おめでとうねぇ。いつも優しくしてもらって、ばあちゃん嬉しいでぇ」

 目を細めてニコニコと笑うばあちゃんを見ると、俺はどうしよもなく苦しくなる。なんて俺は子供染みたことやってんだ、って。
 ばあちゃんの言葉に曖昧に頷きながらも、膝の上に置いた掌をキツく握りしめる。

 「……ひなちゃんのこと、よぉ思い出すねぇ」
 「……え?」

 聞いたことのない名前に思わず聞き返す。ばあちゃんの友達か?と思いながらも、じっと動かないばあちゃんが発する言葉を待つ。

 「ひなちゃんねぇ、今日が命日なんやで」
 「は……?」
 「きっと、その日に生まれた泉ちゃんを、ひなちゃんは神様になって、きっと見守ってるやろうね」

 どこか遠いことを語るように目を細めるばあちゃんは、少し悲しそうだった。

 だからなんだというのか。神様になって俺の人生を見守ってる?こんな腐った人生を見てバカにしてるの間違いじゃねぇのかよ。

 いつの間にか居間からいなくなっていたばあちゃん。

 あまり考えないようにはしたものの、先ほど俺に向けられた軽蔑の目を思い出す。
 10歳にして母親から捨てられた俺は、拒否権などなく父親と一緒に暮らしてきた。あの時から今まで、ずっと独り立ちができないこの年齢と法律、時間軸までもを憎んだ。

 そこからだ、俺の人生が狂い始めたのは。父親は俺に相談もなしに再婚し、新しい子供を作った。どうせ俺なんて、2人ともなんとも思っていないのだろう。俺だってどうでもいいと思ってる。間違いなく、この家庭は俺が乱していると言っても過言ではない。

 「……じゃあさっさと追い出せよ、こんな邪魔者の子供なんか」

 ふつふつと腹の底から湧く暗い感情が俺の頭を埋め尽くして行く。とうとう我慢できなくなった俺の頭の中からは、壊してしまえ、と大きな命令が出ていた。
 とっさに手を振り上げ、横にあった大鏡に映る俺を壊そうとする。そうだ、俺さえいなければアイツらは呑気に幸せに生きていたんだ。
 俺さえ___。

 そんな思考が巡った時だった。

 大鏡に映る自分は、自分ではない何者かだということに。
 そして、心臓が大きく波打った。直感が、本能が。今、鏡に映る誰かを俺に訴えていた。

 鏡の中で突っ立っている女は、腰まで伸びた髪を揺らして、俺を見つめていた。

 なぜか、頬に涙を落として___。

 彼女の手が、俺に向けて___いや、違う。俺の手が、鏡の奥にいる彼女に触れていた。無機質な鏡の冷たい感覚が、指先を冷やす。
 俺は消えた___ように思えた。一瞬にしてあたりを白い光が包み込み、俺さえも、光とともに消えるような感覚だった。

 足は地に着いている。目の前には、なぜかあの女と同じように頰に涙を流している俺が映った鏡。
 なんだったのだろうか。
 しばらく余韻に浸るようにして、ぼーっと突っ立っていると、玄関の方からドタバタと騒がしい足音が聞こえた。

 「たっだいまー!」

 そんな、騒がしい声とともに。

 「え……」
 「って、え!?」

 目の前にいる少女、いや、俺と同い年くらいだろうか。
 俺は思わず後ずさる。長い髪をひとつに結び、ポニーテールにした彼女は、鏡に映っていた人と、全く一緒だったから。

 彼女は目を丸くして俺を見つめる。

 「誰……」

 こんなやつ、見たことがない。少なくとも、親戚にはいないはずだ。

 「誰ってこっちのセリフなんだけどな……!?……どちら様?」

 わかりやすく戸惑うように目線を泳がす彼女は、小首を傾げて尋ねる。
 いやいや、どちら様って。それこそ俺のセリフのはずなのに。
 
 どう対応したらいいかわからずに、ただ目の前の女を凝視していると、しびれを切らしたように、彼女は大声を出した。

 「青子ちゃーんっ!」

 部屋に響き渡る大声にびっくりしながらも、俺はすぐにそれを止めるように掌を彼女の前に突き出した。

 「やめろって……!今何時だと思ってんだよ……!?」
 「何時って……まだ夕方だけど」
 「はあ……?」

 俺はポケットから急いでスマホを取り出す。なんなんだよ、本当に。こいつはバカなのか……?時間くらい、外の暗さくらい見りゃわかるだろ、とイライラしながらもスマホの画面を確認する。

 「は……?なんで……」

 次に俺の口からこぼれたのは、魂の抜けたようなまぬけな声。スマホの画面は固まったように動かない。画面の中は漆黒に包まれていた。残り五十パーセントはあったはずなのにだ。

 「あ、青子ちゃん。うちに誰かあげてるなら早く言ってよー、びっくりしたじゃん」

 そんな声が聞こえて咄嗟に振り向くと、彼女の長い髪を俺に主張するかのように揺れていた。彼女は、縁側に出て誰かとしゃべっている。なんだ、何が起きているんだ。
 青子ちゃん?誰だよ、それ。

 「えぇ?ひなちゃんしかいないでしょう?戸を開ける音もひなちゃん以外聞こえなかったもの」
 「うっそー!そんなことないよ!だっているもん!」

 ほら!と促すような声が聞こえて、障子に写っていた影が動いた。
 嘘だろ、俺、知らないやつみたいな扱いを受けているのか?
 俺はずっとここにいたし、なんなら、十年以上も前からここで寝泊まりしていたようなやつなのに。

 「なに、誰もいないじゃないの。ひなちゃん、疲れてるの?」
 「は……?」

 誰だ、この人。
 こんな人、ばあちゃんの家にいたか?

 三十代後半あたりだろうか、部屋を見渡すようにして障子から顔を出した女は、ひなちゃんと呼ばれるやつに再び向き直った。

 いや、本当に驚くべきなのはそこではない。



 俺の存在が、見えていないということだ。