「ねえ、きみの願いは?」

 ふと暗闇の中から声が聞こえた。

 自分以外はなにも見えなくて。
 まるでどこかに迷い込んでしまったみたいだ。
 歩いても歩いても光は見つからない。

「わたしは……わたしの願いは家族みんなが幸せいること」

「ほんとに? きみ自身の願いはないの?」

 その言葉にはっとし、目を開ける。

 そこにはいつもと変わらない白い天井。
 鼻をさす消毒液の匂い。
 腕に繋がる無数の管。心拍数を測る機械音。

 いつもと変わらない光景がさっきのは夢だったのだと教えてくれた。


「変な夢だったなあ……」

 ちょっとだけ怖かった。
 絶望。まるで今の自分を表すような夢。

 そう思い、朝から気分が下がっているとノック音が聞こえてきた。


花暖(かのん)ちゃん。水原花暖ちゃん。検査のお時間です」

 いつもと同じ看護師さんが微笑みながらそばにくる。
 優しくて、話しやすいお姉さんのような存在だ。
 わたしが通院していた頃から担当してくれているから、彼女とはもう長い付き合いになる。

「いま行きます!」

 心配かけないように笑って明るい声を出す。
 ベットから降りて彼女の後ろに付く。

「今日も変わらず元気そうで安心したわ」

「……えへへ」

 無理に笑顔をつくり、話しながら一緒に診察室へと向かった。



「検査の結果に変わりはありません」

「……そうですか。ありがとうございました」

 淡々と話す担当医の方に軽く頭を下げる。
 もう話すことはないので自分の病室に戻るために席を立った。

 変わらないから異常がないってことでは決してない。

 わかっていたことだ。
 わたしはあと数ヶ月程度しか生きられない。

 余命がもって一年だと宣告されたのは去年の桜の花が咲く高一の春だった。

 小さい頃から心拍数が人より少なかった。
 原因はわからない。
 前までは薬を定期的に飲んできたが、回復の見込みはなく入院生活となってしまった。

 高校生活を楽しもうと期待に胸を躍らせていたのに。
 あんなに受験勉強を必死にして、自分の行きたい高校にも入れたのに。
 すべてが儚く散ってしまった。

 まあ、いまとなっては全部もうどうでもいいのだけれど。



 検査が終わり、自分の病室に戻るとなにやら宙に舞う奇妙な生き物がいた。
 まって、気の所為だよね。一旦落ち着こう。
 軽く深呼吸して、もう一度みてみよう。ってやっぱいる!

「きゃあああああ!!」

 思わずベッドにあった枕を投げた。
 でも、枕はその子にあたることなく、体を透き通って地面に落ちる。

 こんなふうに驚いても動いてもわたしの心臓の鼓動は変わらず一定だ。


「ちょっとちょっと、やめてよね」

「ご、ごめんなさい」

 苦笑いするその子に慌てて頭を下げる。
 枕を拾いに歩こうとするとなんだか外が騒がしい。

「水原さん大丈夫!?」

 ガラッと勢いドアが開き、すごく慌てた看護師さんが何人か駆けてきた。

「あ、すみません。なんでもないです」

 早歩きで来てくれたのだろう。若干息を切らしていた。
 申し訳ない。
 看護師さん達がドアを閉める最後の最後まで頭を下げまくった。


 顔を上げて恐る恐る振り向くと目が合う。

「あ、僕はきみの強い想いによって呼び出された、桜の妖精さん。よろしくね!」

 敬礼のようなポーズを取りニコッと笑った。
 その笑顔がなんだか暖かく感じた。

「桜の……妖精さん?」

「そう、さっそくきみの願いを教えて!」

 わたしの願い? なんだろう。
 この子はわたしの強い想いって言ってたけど、自分でもよくわからなかった。

「えっと……わかりません」

「わからない? じゃあなんで僕が呼ばれたんだろう。
 まあいいや! きみは僕がはじめて願いを叶える子なんだよ。初仕事!」

 仕事ができるのがうれしそうに宙を舞う。
 でも、わたしが願いを言わないと彼は仕事にならないのか。
 自分でもよく考えてみよう。

「きみの名前は?」

「あ、花暖。水原花暖です」

「花暖ちゃんね」

「花暖でいいですよ」

「うん」

 挨拶の意味を込めて手を差し出すと彼は申し訳なさそうに下を向いた。

「ごめんね。生きてる人には触れられないんだ」

「……」

 そっか。
 生きてる人には触れないんだ。残念。



 それから桜の妖精さんは毎日わたしの病室を訪れてくれた。
 昼間だけだがだいぶ仲良くなれて自然と敬語もはずれていった。

 通りすがりの看護師さんからは
「あの子またひとりでしゃべってるわ」
 なんていわれるけれど。

 それでも、だれかと話すことができる。
 わたしにとってそれが唯一の救いだった。

「花暖のご家族は? お友達は?」

「さあ? いつかくるかもね」

 なんて言ったけど、お母さんもお父さんもわたしが余命宣告された翌日から来ていない。
 たまに病院には足を運ぶみたいだが、わたしと直接会うことはなかった。
 きっと、わたし以上に余命のことを受け入れられないのだろう。

 二個上のお姉ちゃんは時々会いに来てくれる。
 でも、忙しそうにしているからお花やお見舞いのものを渡してくれる程度。
 あんまり会話は交わさなかった。

 小さい頃から憧れていた。
 お姉ちゃんは完璧でなんでもできた。
 小さい頃から医師になりたいという夢を抱き、国公立大学にも受かって親の期待にも応えた。
 そんな彼女の背中をずっと追いかけてきた。
 
 結局、手の届く人じゃなかった。
 そもそも健康体じゃないわたしには到底無理だ。

「諦めないでよ!」

「え、?」

「まだきみは生きてるんだから。だから諦めないで」

 心が読めたのか妖精さんの瞳がわたしの心をまっすぐ貫く。
 なんて綺麗な瞳だろう。
 光のように耀いていた。

「……あ、りがとう」

 泣きそうな顔を見られたくなくて慌てて布団の中に潜る。
 それをどう読み取ったのかはわからない。
 でも、「ごめん」とだけ零し飛び立っていった。



「花暖ちゃん、勉強? えらいわね」

 いつもの看護師さんが軽やかに言う。

 勉強ではないけど、絵を描いて賞に応募してみようかと思った。
 意味ないことだってわかってるけど。
 妖精さんの言葉を聞いたら、頑張ろうとちょっとだけ思えた。

 まあこんなことは言えないのだけれど。

「はい! どうせ暇ですから」

「頑張ってね!」

 やることがないのはほんとだ。
 それに、結局死ぬのならなにをやっても無駄だから。
 想い出だってつくらない。

 でも、まだ生きている。
 それなら残りの人生を楽しもうと思えるようになれた。



「僕、やっときみの願いがわかった気がする」

「へ?」

 急に出てきた妖精さんに思わず書いていた手が止まる。
 いまなんていったの? もう一度耳を傾けた。

「もっと生きたいっていう願い」

「……そんなことできないでしょ」

 できるならもうとっくに言ってるよ。
 それにもう自分の運命を恨まないって決めたから。

「できるもん。僕がきっときみの運命を変えるから!」

「あ、ちょっと!」

 ムキになってすばやく翔んでいった妖精さんが心配だった。
 無理しないでほしいけど。

 それから毎日来ていた妖精さんは来なくなって、もう一週間が過ぎようとしていた。




「やっほー! きみのお願いを叶えにきたよ!」

「え、ほんとに?」

 久しぶりに顔を見せたと思ったら、びっくりするようなことを言う。
 でも、もし生きたいっていう願いを叶えてくれるなら、とてもうれしい。

「ほんとだよ!」

「ねえ、それってそんな簡単に叶うの? なんも犠牲にしないで?」

 どんな願いごとにもそれに似合った対価がいるだろう。
 ましてや生死のお願いなら尚更だ。

 妖精さんと視線はぶつからない。
 きっとそれが答えなんだろう。

「なにかを得るためにはなにかを捨てなければならない。それと同じでだれかを生かすのならだれかを犠牲にしなければならない。
 きみは賢いからわかるよね、この意味。僕は……どうしてもきみが死ぬのは嫌なんだ」

 涙目で訴えかけるその言葉に嘘は見当たらなかった。

 つまり、わたしの代わりにだれかが死ぬってこと?





「そんなのでだめ!」

 花暖のこんなに大きな声はじめてだった。
 いつも少し控えめな彼女のはずなのにそこから強い意志を感じた。

「わたしのためにだれかが死ぬなんて絶対だめ! それで生きても全然うれしくないよ」

 これが僕がみた最初で最期の彼女の涙だったな。
 儚くも美しい涙。

「でも、花暖のお姉ちゃんが代わってくれるって言ってたから」

「え、」

 目を丸くして驚いていた。



 花暖と会うのをやめて必死に探した。
 彼女の運命を変える方法を。
 でも、人の命の長さは生まれたときから定めとして決まっている。
 これは覆すことのできないことだった。

 そんなことを考えていたときある声が聞こえた。

「はあ、死にたい」

 それは花暖のお姉ちゃんが涙を流しながら呟いた一言だった。

 近くを飛んでいた僕はすかさず彼女に声をかけた。

「大丈夫?」

「え、だれ?」

 目を擦りながらこっちを向く。

「僕は桜の妖精さん! 花暖の願いを叶えるための方法を探している」

「花暖の……願い?」

「もっと生きたいっていう願い」

 彼女は無言で俯く。


「あの、それって代わってあげることってできるんでしょうか?」

「え、?」

 いきなり顔を上げてとんでもないことをいう。

「ちょっと生きる意味を見失ってしまって。でも、花暖は生きたい。だったら……!」

 その瞬間、思ってしまった。
 できるのかもしれない。
 お姉ちゃんはあと何十年も生きることができるんだから。
 それを花暖に引き換えることができるなら。



 ガラッと扉が開く。

 その瞬間お姉ちゃんは花暖の元へ駆けていく。
 そして両腕を掴んで、「……ごめん」と呟いた。

 その目には涙が溜まっていた。

「お姉ちゃん?」

「ごめん。本当にごめんなさい」

 その言葉は花暖にじゃなく僕に向けられた言葉のような気がした。

「やっぱり、死にたくない。まだ、まだやりたいことたくさんあるの」

 あれからよく考えたのだろうか。
 あの日と真反対なことを言う。
 結局、人間というのは自分がいちばん大事なのだろう。

「……お姉ちゃん、顔を上げて? わたしが病気で長く生きられないのはそういう運命なの。
 お姉ちゃんに身代わりになってほしいなんて思わないよ」

 にこっと笑う。
 それは花暖の心からの言葉だった。

 知っていた。
 お姉ちゃんを犠牲にして生きても花暖は笑えないってことも。

「花暖、ごめん」

「だから、謝ることじゃないよ。お姉ちゃんは生きてわたしの知らない世界をたくさん見てきてよ!
 そして教えてよ。
 生きるってこんなに素敵なことなんだよって」

 その言葉にお姉ちゃんは涙目になりながら大きく頷いた。



 お姉ちゃんが帰ってから花暖は安堵の表情を浮かべた。

「なんであんなこと……」

 自分が死ぬってわかってて、あんなこと言えるなんて。

「自分の運命を恨まないって決めてるから。
 それに、わたしはあなたに出逢えて見える景色(せかい)が変わったんだ!」

 僕のほうが泣きそうだった。
 まだなんも叶えてやれてないのに。



 陽射しの強い8月上旬の時だった。
 花暖が下を俯きながらボソッと言った。

「外出許可が出たの。多分これが最期(さいご)だと思うからって」

 最期。
 花暖は体力もだいぶ落ちてきて、ほとんどベッドの上で過ごすことが多くなった。
 時より窓の外を寂しそうに見ている。

「そっか。どこか行きたいとこあるの?」

「花火。最期に花火をみたい」

「うん。行っておいで」

「ううん、わたしはあなたと行きたいの」

「え……」

 思ってもみなかったことを言われて驚く。
 普通、家族か友だちとみたいだろうに。
 ほんとに僕でいいのかと疑ってしまう。

「僕でいいの?」

「もちろん!」

 儚く笑った。
 その笑顔に見惚れて呼吸さえ忘れるところだった。



 花火大会当日。
 鳥居をくぐるとお店や踊り子ですごい賑わいだった。
 花暖は大勢の中で観る花火は嫌らしく喧騒(けんそう)を避けて神社の隅っこから観ることにした。


「きれー」

 身体を小さく丸めて花火を観て目を輝かせていた。
 僕は花火なんかより花暖の仕草や息遣いを横目で視るのに必死だった。
 彼女がもうすぐこの世界からいなくなるなんて嘘のように思える。

「来年も一緒にみようよ」

 思わずこぼれた一言に花暖が反応する。

「わたしに来年なんて……ないよ」

「来るよ。秋がきて冬が訪れて花が咲いて春になったら夏がまたくるよ」

 なんて当たり前なことを言っているのだろう。
 でも、こうでも言わないと花暖がいない秋や冬が来てしまうから。

「うん! やくそく!」

 花暖はちょっとだけ明るい顔になって笑った。
 恐る恐る手を伸ばして、ふたりで指切りを交わした。

 思えば、それが最期だったな。
 花暖と話したのは。

 普段は、僕に触れることができないはずなのにあの時指切りができたのはもう死が間近だったからだ。



 8月20日。
 花暖は眠るように息を引き取った。

 僕はお通夜にもお葬式にも出られないからせめてもの想いでお墓参りをすることにした。

 彼女のお墓に行くと、桜の花びらを見つけた。
 夏なのに珍しいと手に取ると、それは手紙として姿を変える。

「これは……花暖の字」

 懐かしい。この丁寧な字。
 慌てて中を確認する。


 桜の妖精のあなたへ

 わたしの願いはもう叶いました。
 わたしのほんとの願いは最期に友だちがほしかった。
 お話したり、どこかへ出かけたり。
 そういう些細なことでよかったんだ。
 あなたのおかげで幸せな日々にだった。

 ありがとう。
 これからもだれかの願いを叶えてあげてね。

 p.s. 死ぬことになんの躊躇いもなかった。
 でも、もう少しだけ、あともうちょっとだけでいいから生きたかったな。

 花暖より


 気づいたら涙が溢れていた。
 家族でもない。友だちとも呼べないだろう僕に手紙を書いてくれたのがうれしくて仕方がなかった。

 幸せをもらっていたのは僕のほうだ。
 彼女の存在は僕の幸せそのものだった。
 ほんとは僕が与えなければいけなかったのに、与えてもらってばっかだった。

 そして、ごめん。
 僕はきみの寿命が尽きる日を知っていたんだ。
 その上で運命が変わることを期待していた。

 ただ、それだけ。
 なんにもできなくて、ごめん。



 きみは言ってたよね。

「わたしが死んだら泣いてくれる人はいるんかな? 悲しんでくれる人はいるんかな?」

 僕は悲しいよ。
 違う。苦しい。つらい。
 きみを救ってあげられなかった。
 病気を治せる方法も寿命を伸ばす方法も見つけられなかった。

 そして、きみのお姉さんも両親だってたくさん悲しんでいたよ。
 きみは気づけなかったかもだけどちゃんと愛されていたよ。


「あの子の様子はどうでしょうか?」

 今更顔を出せないでいたお母さんやお父さんはよく看護師さんに花暖の容態を訊いていた。
 どうか娘をお願いします、と頭まで下げていた。

「妹の病気を治すために医者になります!」

 お姉さんが大学受験の時、面接時に言っていた。
 あんなに一生懸命勉強して難関大学の医学部に進学したのは花暖のため。


 花暖、知ってた?
 お姉さんからも両親からも。
 たくさんの愛をもらっていたんだよ。

 そして僕もきみのことをすごく愛していたよ。