無音の世界で、なぶるような深い深い苦しみと悲しみが襲う。
ただひたすらに、もがき苦しむ。
えぐるような心の痛みをカッターで傷つける。
そうすることで、なかったことにする。
心より体の痛みのほうがずっと楽だから――。
生きるのは痛くて辛いことばかり。
楽しいことなんて何もない。
浅くて無数に刻まれた傷は、すぐに治るけれど、私の心の傷は癒える気はしない。
嗚咽しながらも、誰にも知られないように、ひっそりと息をひそめて行う。
これは癒やしの儀式だ。
「その傷痛そうだなぁ」
見たことのない男子が放課後の誰もいない教室で声をかけてきた。
教室には知らない男子と私の二人きり。
傷のことは誰にも知られていないはずだ。
誰にも見られないように、最近はいつも長袖を着るようにしていた。
夏が近づくにつれ、見えない場所にしか傷をつけていなかった。
「なんの話かな?」
適当なことを言ってごまかそうとしたが――。
「俺、心と体の傷の痛みがわかるんだよ。キュウメイキだから」
「キュウメイキ?」
「吸血鬼みたいな感じかな。命を吸う鬼と書いてキュウメイキっていうんだ。普段は普通に高校生をやっているんだけれど、時々人の寿命を吸い取らないとだめな体質なんだ。吸血鬼ならば血になるけれど、俺の場合は命なんだ。痛みを感じている人間を探して、契約するのが生業だ」
「はぁ?」
「君はとても辛そうにしていたから、痛みがビンビン伝わってきたよ。本当は死にたいんだろ。俺が君の寿命を吸い取れば、いつの間にか死ねるよ。俺に君の死ぬ手伝いをさせてよ」
ウソみたいな甘い誘惑に一瞬心が躍る。私は確かに彼の言う通りのことを望んでいたからだ。
「でも、そんな馬鹿げた話なんてないでしょ。もしかして、首のあたりの血を吸うの?」
「吸血鬼ではないから、君の体内のエネルギーを手を繋いで奪うだけだよ。痛くもかゆくもない。ただ、俺が寿命を吸えるのは君が“楽しい”と思った時だけ。だから、契約すると俺は毎日君に喜びを与えなければならない。吸い取ること自体は一瞬で終わるんだ。それを毎日やっていれば少しずつ、おのずと命は削られる」
「冗談に決まってるよね。そんな馬鹿げたこと、信じられないよ」
常識のあるふりをする。本当は誰かに存在を消去してほしいと願っていた。だから、声を掛けられたこと自体は嬉しいと思っていた。
「でも、確実に君には傷がある。君の左手首に数本程度浅い傷。右太もも、左太ももには浅いけれど多数の傷がある。昨日は深めに右太ももにカッターで傷をつけた。それは、現実の心の痛みから逃げるためだろ」
なんとも言えなくなる。本当のことだからだ。見透かされているのだろうか。
「私だって、本当はみんなと同じように活躍したり、楽しく生きたいんだよ」
「でも、それは叶わなかったんだろ」
「私、中学生の時にはバスケをやってて、県大会で優勝したの。でも、練習試合中に足をケガして、満足にバスケができなくなってしまった。そして、バスケが強くて、私の憧れだった姉は死んだ」
「津波で死んだんだろ」
「……なんでわかるの?」
「キュウメイキだからね」
確かに、姉は海に遊びに行った時に運悪く地震に遭遇した。土地勘がない場所で、避難が遅れた姉は友人と共に津波にのまれてしまった。もう、二度と会えない。変えられない事実。姉は帰ってくることはない。遺体は後日発見された。その瞬間一縷の望みは絶たれた。もしかしたら「ただいま」と帰ってくるかもしれないなんて淡い期待をみんなが持っていた。その日から海は大嫌いなものとなった。今までは楽しく美しい場所だと思っていたのに――。今では人の命を奪う死神のような存在だと感じている。青くて澄んだ海は、私にとって悪魔のような存在となった。
それから、母は辛い顔をして私に当たるようになった。
元々姉のことばかりをかわいがっていた。
バスケはもちろん学業も優秀で、美人だった姉。
父は家庭を顧みない人で、元々家庭内別居状態だった。
そんな父も姉のことは目にかけていた。
更に、こんなことになって父と母の仲は決定的に亀裂が入った。
複雑な家庭の事情と自分の不甲斐なさ。
どうすることもできない現実。
キュウメイキとやらに聞いてみる。
「あなた、制服を着ているけれど、この高校の生徒なの?」
「そうだよ。君とは同じ学年だけど違うクラスだ。近いところで痛みを探して、寿命を吸い取る契約主を探していたところだったんだ。契約をすれば君は楽に死ぬことができる。自殺ほう助に近いけれど、痕跡は残らないから、俺は罪に問われることもない。俺と契約をするか?」
「そんな夢みたいな話はないでしょ」
「まぁ、命がかかっているんだ。ゆっくり考えればいい。もし、辛くなったら俺にメッセージを送ってほしい。その時、契約を交わそう」
ピコンとスマホが鳴る。知らないアイコンが勝手に追加された。
「なんで私の連絡先を知っているの?」
「キュウメイキだから」
にこやかに笑う。とても寿命を吸い取るとは思えない風貌だ。
アイコンの名前はメイキと記されている。
自撮りした写真がそのままアイコンとして使われている。
よく見ると、結構かっこいい顔をしているのかもしれない。
スタイルもいい感じの背格好だ。一七五センチ以上はあるだろうか。体つきは細身だ。
でも、今の私は男子に特別な興味もないし、期待をしているわけでもない。恋をしたいわけでもない。
この世界で何かしたいとか、未練みたいなものがこの歳でないのは終わっていると思う。
でも、仕方がない。十六年間生きてきて、得られたものは何もなかった。
増えるのは苦しみと悲しみだけ。
まるで海の底で息ができないかのように、地上にいるにもかかわらず、息苦しく感じていた。
「あなたの名前はメイキ?」
「そうだよ。名前は九重メイキ」
「メイキくんは人間じゃないの?」
「一応特別な能力を持つ人間だよ。キュウメイキ活動は家業みたいなものだよ。契約したらもっと秘密を教えてあげるよ。契約を決意したら俺にメッセージを送って」
そう言い残したメイキは教室を出ていった。
やっぱり変な人なのかもしれない。関わらないでおこう。最悪ブロックすればスマホで繋がることはないだろうし。
自宅に帰ると、荒んだ母親が無言で家事をしていた。帰宅した私のことは無視だ。
最近はすっかり老け込んでしまった。メイクする気にもならないらしく、髪はボサボサだ。顔色は悪く、痩せたと感じる。
かわいがっていた姉が死んでまだ一か月。
父とは離婚をするかどうかという話や親権のこともあって、機嫌が悪い。
元々仮面夫婦なので、今更離婚すると聞いても驚くことはない。多分、姉がいたから夫婦として繋がっていたのだろう。
姉への期待は大きかった。姉は中学生の時に県の強化選手に選出され、将来を有望視された人だった。
両親は不仲、そのうえ毎日のように優秀な姉と比べられ、そんな劣悪な家庭環境に耐えられなかった。ある出来事で感情がぐちゃぐちゃになり、初めて自分に傷をつけた。その時以来、私は自分に傷をつける癖がついた。
どちらかというと、痛みを与える癖と言ったほうがいいかもしれない。
その手段が傷だった。
心の痛みを体の痛みで消す。
でも、ここ一か月は頻度が増えた。
深く、たくさん傷をつけると心の痛みが少しなくなるような気がする。
傷をつける瞬間が心地いい。そして、次に来る痛みと罪悪感。
私は何をしているのだという客観的な自分を感じる。
その繰り返しを何度も儀式のように行っている。
もちろん誰にも知られないように、息をひそめるように――。
最初に自分に傷をつけたのは、高校に入ってすぐの頃だった。練習試合でケガを負った時だ。
部活のために高校に通っていた私は、しばらくの間バスケができなくなると聞いた時、辛くてどうしようもなくなった。
その時、初めて手首に傷をつけた。
浅く少しならばいいのではないかと自分に言い聞かせた。
誰にも迷惑はかけていない。誰かを刺すわけではないのだから。
悪いことだということは、重々承知の上だった。
その時の高揚感と背徳感が忘れられなくなった。
一種の依存症なのかもしれない。
心の痛みを忘れるために、死ぬつもりでもない浅い傷をつける。
その結果小さな浅い傷が多数体に刻まれた。
誰にも知られないように。
小さな傷ならば、少しすれば治る。
夏服になると、半そでになるので、最近は太ももに傷をつけていた。
弱い自分を知られたくなかった。そんなちっぽけなプライドが私にもまだあったことに自分でも驚いた。
小学生の頃から、バスケが好きな元気な子として認識されていた。
元気で明るいバスケがうまい人間でいなければいけない。
私はいつも自分にそう言いきかせていた。
そんな自分が実はこんなに陰気な性格だなんて、友達に知られたくなかった。
姉と一緒に所属していた中学校のバスケ部は、県で優勝するくらいの強豪校だった。
私も中学三年の時は一応スタメンとして活躍はした。
でも、私の活躍ぶりは、部長を務め県で最優秀選手として表彰された姉に比べたらひどく劣るものだった。それでもバスケをしている時だけは、日々の辛い思いも忘れられるような気がした。
高校一年の春、練習試合でケガをしてしまい、しばらくの間バスケをしないようにと医師に言われた。せっかく姉と同じ高校の同じ部活に入ったのに。
安静にしないと、治るものも治らない。でも、いつの間にか帰る居場所はなくなっていた。
うちの高校のバスケ部は優秀な選手が多いから、私のような普通の人間が一人退部しようと休部しようと幽霊部員になろうとそんなのは誰も気に留めない。
でも、姉は将来を期待されていたから、津波で亡くなったと聞いたバスケ部員たちはみんな葬儀に参列して号泣した。
顧問も名残惜しそうにしていた。その様子を見ていた私はいつの間にか、バスケ部を退部することもなく勝手に行かなくなっていた。ケガのこともあって、顧問も無理に練習に来いとは言わなかったし、部員たちは春から夏にかけてグループが出来上がっていて、今更入る余地はなくなっていた。
グループに所属しなければいけない。誰からも好かれる人気者でなければいけないといつも言い聞かせていたので、もう部活は辞めようかなと思っていた。
高校では自分よりもすごい実力を持った人たちがたくさん集う。その人たちに勝てる気はしなかった。そして、追い打ちをかけるようにケガを負った。元々ケガの多いスポーツだとは思う。今までもケガは何度も経験した。でも、こんなに長期間バスケを禁止されたのは初めてだった。高校に入学して入部したばかり。ケガで長期の離脱をすることで、ブランクが空き、更に部員たちとの実力差も開いていくことが怖かった。バスケは楽しいものではなく、いつの間にか怖いものとなっていた。そして、いつの間にかケガを負った人、姉を失った可哀そうな人というポジションが確立されていた。今までの元気キャラを貫ける気配も自信もなかった。
元々ここのバスケ部は明るく元気な人が多い。私のような明るいフリをしている人は、いつかは本性がバレるということも認識し始めていた。
他人の目を気にするようになったからかもしれない。暗い人間であってはいけない。性格は明るくなければいけない。バスケが上手な存在でなければいけない。ベンチ入り、スタメンメンバーでなければいけない。
いつの間にかしなければいけないことに覆われた私は息ができなくなっていた。
居場所がない――自宅にも学校にも。特にずっと打ち込んできた部活に居場所がないのは一番辛かった。
誰も、私を必要としていない。世界一不幸な人間なのかもしれない。
誰もいない薄明りの無機質な部屋で、ぼんやりしているとピコンと音が鳴る。
【明日の放課後、空けておいて】
というメッセージが表示される。送り主はメイキだ。
端正な顔立ちのアイコンが映し出される。
既読スルーにしよう。
何か言葉にして断るのも面倒だし、この人のペースに付き合わされる義務は私にはない。
きっと察してくれるだろう。そう願って、スマホを机に置こうとすると、ピコンともう一度スマホが鳴った。
【契約のこと、考えておいて】
この人には、何かしらの義務があるのだろうか。
見ず知らずの私に声をかけて寿命を吸い取るとか言っているけれど、頭がおかしいのかもしれない。
でも、なんで傷のことを知っているのだろう?
どこかで盗撮したとか? 一気に恐怖に襲われる。
楽しいと思った時に寿命を奪うっていうけれど、そんなことできるはずがない。
きっと詐欺師か何かなのだろう。
翌朝の登校時、いつも利用している駅前になぜかメイキが立っている。私を待っていたのだろうか。
もしかしたら、私のことを好きだとか、ストーカーの類なのかもしれない。
一瞬にして、かっこいい外見が怖くも見える。
「おはよう。昨日は体に傷をつけないで、なんとか耐えられたみたいだね」
「なんでわかるの? もしかして盗聴とか盗撮してるの?」
その可能性も捨てきれない。
「まさかぁ。キュウメイキは痛みが直に伝わるんだよ。君は昨日は身体的な痛みを感じていないみたいだったから。やっぱり、俺からのメールが気になったっていうのもあるでしょ? そのせいで傷をつけるほうに意識がいかなかったんだと思うよ。今日の放課後は空けといてよ。傷のこと、誰にも知られたくないよね?」
脅してきた? もしかしたら、言いふらそうとしているのかもしれない。
「わかった。何かするの?」
「この駅の近くにある公園に行ってみない?」
やっぱり、この人、デート目的なんだ。
「言っておくけれど、君に特別関心があるわけじゃないよ。恋愛感情もない。ただ、俺は契約主を探しているんだ」
「とかなんとか言って、ストーカーみたいなことしてるんじゃないの? 今も待ち伏せしてたし」
「なんで、君みたいな元スポーツ系偽元気女子を好きになる必要があるの? どうせならばもっとかわいい素直な人を選ぶよ。この高校で君の痛みが一番強いから、助けてあげようと思っただけなのに」
「あなたの発言、すごく失礼よね」
本気で怒りをぶちまける。
放課後、やっぱりメイキはやってきた。にこやかに手を振る。
傷のことを知られているから、それをばらされたくないという気持ちが一番だった。
「どこの公園に行くの?」
「柏木公園だよ」
彼のバッグの中に今は懐かしいバスケットボールが入っている。
柏木公園はこの辺りでは比較的広い公園で、バスケットコートもある。
この町にバスケットコートがある公園がたくさんあるわけではないので、休日にはよく姉と遊びながら練習した記憶がある。
「もう、ケガは治ってるんだろ」
「なんで知ってるの?」
「キュウメイキだから」
お決まりの返事だ。つまり、なんでもありなんだろう。
「たしか、楽しいと感じるとあなたは私の寿命を吸ってくれるって話よね」
「そうだよ」
「じゃあ、契約しちゃおうかな」
今朝も母親に無視された。父親は帰ってこなかった。家族はバラバラだ。
そして、私がいたら親も迷惑だろう。私がいるせいで自由になれないのかもしれない。
親という存在から解放してあげたい気持ちもあった。
「じゃあ、契約の印に指切りげんまん」
にこやかに小指を差し出す。
すると――不思議なことに指先が光る。わずかな光だけれど、指の先が光り、熱くなった。
「何?」
驚いて、指切りげんまんの指を放す。
「契約の証は光で結ばれるんだ」
やっぱり、摩訶不思議なことは世の中にはあるのかもしれない。
「俺といると、きっと幸せになれるよ」
甘い笑顔を振りまく。
何よ、顔がいい人の笑顔は反則だ。
今までバスケばかりで、女子としか接してこなかったからだろうか。
指切りげんまんすらも新鮮な行為だった。
気づくと胸が高鳴っている。気づかれないように平静を装う。
「じゃあ、ワンオンワンやろうか」
制服のブレザーを脱ぐと、慣れた手つきでボールをドリブルする。
色々な技を巧みに入れている。
「あなた、経験者?」
「少しやったことがある程度だよ」
そう言うと、高速ドリブルをしながら、一気にシュートを決めた。
足も速いらしい。
「男子バスケ部?」
「違うよ」
「もったいないよ。バスケ部に入りなって」
「バスケの経験は、今思えば、こうやって君と一緒にプレーするために獲得したのかもしれないな」
「何よそれ」
なんだか嬉しいような恥ずかしい気持ちになる。
ボールをパスされる。
反射的に受け取る姿勢はずっとやっていた故の経験から、バスケの姿勢となる。
まずはお互いにパスをし合う。
ドリブルで私の横を抜けようとするけれど、それをなんとか止めようと必死でディフェンスをする。
でも、あっけなく、彼の神技的なフェイクにひっかかってしまう。
自分は結構上級者だと思っていたけれど、部活もしていない目の前の男子に負けてしまうなんて悔しい。
動きはリズミカルで軽快なステップを踏みながら、まるでダンスをしているかのような楽しそうな動き。
それでも、シュートコースは確実に読みながら前に進むテクニック。
なんだか動きがすべてかっこいい。
「やりぃ」
にこっと笑う。心がくすぐられる。
「じゃあ、次は私がオフェンスね」
次は私が攻める番だ。
いつの間にか息が上がり肩で息をしていた。
制服のブレザーは脱いだものの、ブラウスは自然と汗ばんでいた。
一瞬の隙を突こうと攻めあぐねる。
しかし、なかなか攻めきれない。
何度も私はボールを奪われた。
一瞬の隙をついて、どうにか一点だけシュートを決めることができた。
でも、今までの彼の動きを見ている限り、私に一点譲ったのかもしれない。
結果的には、総合点数として負けているけれど。
「やるじゃないか。体を動かしていると、無我夢中で頭の中が空っぽになるだろ」
「確かにね」
汗をハンカチで拭きながら、木陰に座る。
今日は晴天で、木漏れ日が心地いい。
「手を出して」
「え?」
突如手を握られる。もちろん、私は戸惑うが、その瞬間手が光る。
「これで、寿命を吸い取ったよ。今、楽しいって思っていただろ。エネルギーが見えたから」
さわやかに寿命を吸い取ったなんて言う男子はこの人くらいだろう。
普通吸い取れるはずもないけれど、この人にならば寿命をあげてもいいかもしれない。
なんだか、最初こそ苦手だと思っていたけれど、一緒に大好きだったバスケをしたら元気になれた。
「明日も君の寿命を吸わせてよ。」
「まあ、私を楽しませてくれたらね」
いつの間にか心の扉を開かれた感じだ。
ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲む姿を見ると、汗にまみれた横顔も水を飲む姿も美しいことに気づく。
同時に、優し気な木漏れ日が似合う人だということにも気づく。
「君の心は傷だらけかもしれない。でも、キュウメイキである俺が楽にしてあげるから」
「あなたの行いは、安楽死とかそういうのに近いのかもね」
「そう言われるとそうかもしれないな。安楽死っていうのは、簡単にしてはいけないことだけどね。しかしながら、俺にかかれば楽しく違う世界に行けるというわけだ」
「メイキくんは捕まらないの?」
「捕まらないよ。だって、どうやってこの能力を立証するの? 現代の法律じゃ無理だよ。警察だって逮捕はできない」
それはそうだ。このような能力は世間ではありえない事実となっている。
私自身未だに半信半疑だ。
「本当は昔、バスケをやっていたんでしょ?」
彼の動きで素人ではないことは明白だった。
「まぁね。わりと好きだったけど、事情があって続けることが難しくなったんだ」
一瞬顔が曇る。何かあったのだろうか?
バスケに未練があるのかな? 私と同じだ。
「君はまだ一応バスケ部員なんだから、いつでも戻ることができるだろ」
「メイキくんは何部なの?」
「どこにも所属はしていないんだ」
どこか寂し気な顔をしている。
「バスケ部以外でも足が速いから陸上部とか、サッカー部とかには入らないの? 抜群の運動神経が活かせそうだけどね」
「残念ながら、難しいかな」
にこりとするけれど、心が笑っていないように感じた。
私は人の心の中を読み取ることが比較的得意なほうだ。
多分両親の顔色を窺ってきたことが影響しているように思う。
「キュウメイキっていうのは寿命を人からもらう仕事だ。その命は自分のものとして補給するんだ。命をエネルギーに変換して補給しないと俺は生きられない」
「どういうこと?」
「キュウメイキとして仕事をしなければ、俺の命が尽きるんだ」
「何それ……」
「だから、なるべく不幸そうな人を探していたんだ。あと、俺の体は激しい運動を長時間はできないんだ。本格的な運動を禁止されているんだ。情けないし、弱い体だよな」
この人にどこか暗い影が見えているような気がしていたのはそのせいだったんだ。
この人は悲しみを背負っているんだ。
「じゃあ、今日の運動はものすごく体に負担がかかったんじゃない? 知っていたらやらなかったのに……」
「いや、この程度ならば大丈夫だよ。もっと激しい運動は無理だけど。あと、長時間でなければ大丈夫。それに、君からエネルギーをもらったから補給できたしね」
「でも、バスケをやっていた時期があったんでしょ」
「その時は健康な体だったんだ。でも、遺伝が発症したらしい。俺の家系は突然運動ができない体になることがあるらしい。全員発症するわけではないし、発症年齢も様々なんだけれどね。俺の場合は中学三年の時。中学では最後の大会に出た後に発症したから高校では運動部には入っていないんだ。最後までやりつくしたから、中学での部活に悔いはない。この体になって、高校に入ってから、キュウメイキとしての活動を始めざるをえなくなったんだ」
どこか翳のある元スポーツマンという表現がよく似合う。
筋肉は程よくついているのに、色白だし、室内競技をしていたのかなとは思っていたけれど。
「もしかして、最初の契約相手は私ってことになるの?」
「そうなんだ。キュウメイキとしてはまだまだ未熟だけれど、力になりたいし、力を分けてほしいという気持ちもある」
力を分けてほしいというのは、つまり、私の命が欲しいということだよね。
真剣な顔で言われると少しばかり複雑だ。
「傷を頻繁につけるようになったのは最近だろ。最初のうちは、たまに君の体から痛みが伝わってくる程度だった。でも、君の体から最近はひどく頻繁に痛みを感じるようになった。だから、声をかけたんだ」
申し訳なさそうに、気持ちを述べた。
色々と彼の境遇がわかれば、今までのわけがわからない気持ちから脱することはできる。
「人の痛みってどんな感じでわかるの?」
「その人から発している痛みがあるだろ。俺自身も同じ痛みを感じるんだ」
「痛み?」
「ズキンとしたカッターで切った感じの痛みを君の体から感じ取ることができた。これは遺伝的な能力らしい。自分が弱い体になる代わりに、別の誰かからエネルギーをもらうための能力。こんな能力も、弱い体もいらないのに」
少し間をおいて聞かれる。
「傷をつけるきっかけってあったの?」
「多分、ずっと前からたまっていたものがあったんだと思う。きっかけはケガで部活ができなくなったことと姉が死んだことかな。そんな時に、最初はなんとなくだったんだと思う。次第に回数が増えただけ。死ぬつもりもないし、小さな痛みで自分の心の痛みを消したいだけだった」
「君は強豪校の一中でしょ。俺は、二中だったんだ」
「去年の二中男子バスケ部ってたしか県で優勝してたよね。強豪校じゃないのに、メイキくんの世代だけ強いっていう漫画みたいな話だなって言われてたよね」
「たまたまだけどね。ちなみに俺、部長もしてたんだ。県の最優秀選手にも選ばれたし、県の強化選手にも選ばれた」
「だから、あんなに強かったのかぁ」
「いつ遺伝が発症するか内心びくびくしてたんだ。でも、引退した頃に体力が低下したのは、ラッキーだったよ」
「私は一応スタメンのベンチメンバーで試合にも出ていたけれど、部長をするほどの器じゃなかったなぁ。姉はなんでもできたし、県の最優秀選手で部長もやってた。両親も姉のことばかりかわいがっていたし、やっぱり私が死んだほうがよかったのかな」
「親に言われたの?」
「言われてないけど、最近は無視されてる。私のことが嫌いなんだよ」
「それはどうかな? 姉妹だと似ているから話すのが辛いだけかもしれない」
「メイキくんは、会えば私のお母さんの心の中が読めたりするの?」
「読めないよ。でも、辛いとか悲しいとかいう程度の気持ちの度合いはわかるよ。君が辛いと感じている感情と同じだ。痛みとして感じる」
「君はいつも「しなければならない」という感情に覆われているような気がする。少し、考え方を変えてみたら楽になるかもよ。義務なんて持つ必要はない。それじゃあ、明日もどこかに行こうか」
ただひたすらに、もがき苦しむ。
えぐるような心の痛みをカッターで傷つける。
そうすることで、なかったことにする。
心より体の痛みのほうがずっと楽だから――。
生きるのは痛くて辛いことばかり。
楽しいことなんて何もない。
浅くて無数に刻まれた傷は、すぐに治るけれど、私の心の傷は癒える気はしない。
嗚咽しながらも、誰にも知られないように、ひっそりと息をひそめて行う。
これは癒やしの儀式だ。
「その傷痛そうだなぁ」
見たことのない男子が放課後の誰もいない教室で声をかけてきた。
教室には知らない男子と私の二人きり。
傷のことは誰にも知られていないはずだ。
誰にも見られないように、最近はいつも長袖を着るようにしていた。
夏が近づくにつれ、見えない場所にしか傷をつけていなかった。
「なんの話かな?」
適当なことを言ってごまかそうとしたが――。
「俺、心と体の傷の痛みがわかるんだよ。キュウメイキだから」
「キュウメイキ?」
「吸血鬼みたいな感じかな。命を吸う鬼と書いてキュウメイキっていうんだ。普段は普通に高校生をやっているんだけれど、時々人の寿命を吸い取らないとだめな体質なんだ。吸血鬼ならば血になるけれど、俺の場合は命なんだ。痛みを感じている人間を探して、契約するのが生業だ」
「はぁ?」
「君はとても辛そうにしていたから、痛みがビンビン伝わってきたよ。本当は死にたいんだろ。俺が君の寿命を吸い取れば、いつの間にか死ねるよ。俺に君の死ぬ手伝いをさせてよ」
ウソみたいな甘い誘惑に一瞬心が躍る。私は確かに彼の言う通りのことを望んでいたからだ。
「でも、そんな馬鹿げた話なんてないでしょ。もしかして、首のあたりの血を吸うの?」
「吸血鬼ではないから、君の体内のエネルギーを手を繋いで奪うだけだよ。痛くもかゆくもない。ただ、俺が寿命を吸えるのは君が“楽しい”と思った時だけ。だから、契約すると俺は毎日君に喜びを与えなければならない。吸い取ること自体は一瞬で終わるんだ。それを毎日やっていれば少しずつ、おのずと命は削られる」
「冗談に決まってるよね。そんな馬鹿げたこと、信じられないよ」
常識のあるふりをする。本当は誰かに存在を消去してほしいと願っていた。だから、声を掛けられたこと自体は嬉しいと思っていた。
「でも、確実に君には傷がある。君の左手首に数本程度浅い傷。右太もも、左太ももには浅いけれど多数の傷がある。昨日は深めに右太ももにカッターで傷をつけた。それは、現実の心の痛みから逃げるためだろ」
なんとも言えなくなる。本当のことだからだ。見透かされているのだろうか。
「私だって、本当はみんなと同じように活躍したり、楽しく生きたいんだよ」
「でも、それは叶わなかったんだろ」
「私、中学生の時にはバスケをやってて、県大会で優勝したの。でも、練習試合中に足をケガして、満足にバスケができなくなってしまった。そして、バスケが強くて、私の憧れだった姉は死んだ」
「津波で死んだんだろ」
「……なんでわかるの?」
「キュウメイキだからね」
確かに、姉は海に遊びに行った時に運悪く地震に遭遇した。土地勘がない場所で、避難が遅れた姉は友人と共に津波にのまれてしまった。もう、二度と会えない。変えられない事実。姉は帰ってくることはない。遺体は後日発見された。その瞬間一縷の望みは絶たれた。もしかしたら「ただいま」と帰ってくるかもしれないなんて淡い期待をみんなが持っていた。その日から海は大嫌いなものとなった。今までは楽しく美しい場所だと思っていたのに――。今では人の命を奪う死神のような存在だと感じている。青くて澄んだ海は、私にとって悪魔のような存在となった。
それから、母は辛い顔をして私に当たるようになった。
元々姉のことばかりをかわいがっていた。
バスケはもちろん学業も優秀で、美人だった姉。
父は家庭を顧みない人で、元々家庭内別居状態だった。
そんな父も姉のことは目にかけていた。
更に、こんなことになって父と母の仲は決定的に亀裂が入った。
複雑な家庭の事情と自分の不甲斐なさ。
どうすることもできない現実。
キュウメイキとやらに聞いてみる。
「あなた、制服を着ているけれど、この高校の生徒なの?」
「そうだよ。君とは同じ学年だけど違うクラスだ。近いところで痛みを探して、寿命を吸い取る契約主を探していたところだったんだ。契約をすれば君は楽に死ぬことができる。自殺ほう助に近いけれど、痕跡は残らないから、俺は罪に問われることもない。俺と契約をするか?」
「そんな夢みたいな話はないでしょ」
「まぁ、命がかかっているんだ。ゆっくり考えればいい。もし、辛くなったら俺にメッセージを送ってほしい。その時、契約を交わそう」
ピコンとスマホが鳴る。知らないアイコンが勝手に追加された。
「なんで私の連絡先を知っているの?」
「キュウメイキだから」
にこやかに笑う。とても寿命を吸い取るとは思えない風貌だ。
アイコンの名前はメイキと記されている。
自撮りした写真がそのままアイコンとして使われている。
よく見ると、結構かっこいい顔をしているのかもしれない。
スタイルもいい感じの背格好だ。一七五センチ以上はあるだろうか。体つきは細身だ。
でも、今の私は男子に特別な興味もないし、期待をしているわけでもない。恋をしたいわけでもない。
この世界で何かしたいとか、未練みたいなものがこの歳でないのは終わっていると思う。
でも、仕方がない。十六年間生きてきて、得られたものは何もなかった。
増えるのは苦しみと悲しみだけ。
まるで海の底で息ができないかのように、地上にいるにもかかわらず、息苦しく感じていた。
「あなたの名前はメイキ?」
「そうだよ。名前は九重メイキ」
「メイキくんは人間じゃないの?」
「一応特別な能力を持つ人間だよ。キュウメイキ活動は家業みたいなものだよ。契約したらもっと秘密を教えてあげるよ。契約を決意したら俺にメッセージを送って」
そう言い残したメイキは教室を出ていった。
やっぱり変な人なのかもしれない。関わらないでおこう。最悪ブロックすればスマホで繋がることはないだろうし。
自宅に帰ると、荒んだ母親が無言で家事をしていた。帰宅した私のことは無視だ。
最近はすっかり老け込んでしまった。メイクする気にもならないらしく、髪はボサボサだ。顔色は悪く、痩せたと感じる。
かわいがっていた姉が死んでまだ一か月。
父とは離婚をするかどうかという話や親権のこともあって、機嫌が悪い。
元々仮面夫婦なので、今更離婚すると聞いても驚くことはない。多分、姉がいたから夫婦として繋がっていたのだろう。
姉への期待は大きかった。姉は中学生の時に県の強化選手に選出され、将来を有望視された人だった。
両親は不仲、そのうえ毎日のように優秀な姉と比べられ、そんな劣悪な家庭環境に耐えられなかった。ある出来事で感情がぐちゃぐちゃになり、初めて自分に傷をつけた。その時以来、私は自分に傷をつける癖がついた。
どちらかというと、痛みを与える癖と言ったほうがいいかもしれない。
その手段が傷だった。
心の痛みを体の痛みで消す。
でも、ここ一か月は頻度が増えた。
深く、たくさん傷をつけると心の痛みが少しなくなるような気がする。
傷をつける瞬間が心地いい。そして、次に来る痛みと罪悪感。
私は何をしているのだという客観的な自分を感じる。
その繰り返しを何度も儀式のように行っている。
もちろん誰にも知られないように、息をひそめるように――。
最初に自分に傷をつけたのは、高校に入ってすぐの頃だった。練習試合でケガを負った時だ。
部活のために高校に通っていた私は、しばらくの間バスケができなくなると聞いた時、辛くてどうしようもなくなった。
その時、初めて手首に傷をつけた。
浅く少しならばいいのではないかと自分に言い聞かせた。
誰にも迷惑はかけていない。誰かを刺すわけではないのだから。
悪いことだということは、重々承知の上だった。
その時の高揚感と背徳感が忘れられなくなった。
一種の依存症なのかもしれない。
心の痛みを忘れるために、死ぬつもりでもない浅い傷をつける。
その結果小さな浅い傷が多数体に刻まれた。
誰にも知られないように。
小さな傷ならば、少しすれば治る。
夏服になると、半そでになるので、最近は太ももに傷をつけていた。
弱い自分を知られたくなかった。そんなちっぽけなプライドが私にもまだあったことに自分でも驚いた。
小学生の頃から、バスケが好きな元気な子として認識されていた。
元気で明るいバスケがうまい人間でいなければいけない。
私はいつも自分にそう言いきかせていた。
そんな自分が実はこんなに陰気な性格だなんて、友達に知られたくなかった。
姉と一緒に所属していた中学校のバスケ部は、県で優勝するくらいの強豪校だった。
私も中学三年の時は一応スタメンとして活躍はした。
でも、私の活躍ぶりは、部長を務め県で最優秀選手として表彰された姉に比べたらひどく劣るものだった。それでもバスケをしている時だけは、日々の辛い思いも忘れられるような気がした。
高校一年の春、練習試合でケガをしてしまい、しばらくの間バスケをしないようにと医師に言われた。せっかく姉と同じ高校の同じ部活に入ったのに。
安静にしないと、治るものも治らない。でも、いつの間にか帰る居場所はなくなっていた。
うちの高校のバスケ部は優秀な選手が多いから、私のような普通の人間が一人退部しようと休部しようと幽霊部員になろうとそんなのは誰も気に留めない。
でも、姉は将来を期待されていたから、津波で亡くなったと聞いたバスケ部員たちはみんな葬儀に参列して号泣した。
顧問も名残惜しそうにしていた。その様子を見ていた私はいつの間にか、バスケ部を退部することもなく勝手に行かなくなっていた。ケガのこともあって、顧問も無理に練習に来いとは言わなかったし、部員たちは春から夏にかけてグループが出来上がっていて、今更入る余地はなくなっていた。
グループに所属しなければいけない。誰からも好かれる人気者でなければいけないといつも言い聞かせていたので、もう部活は辞めようかなと思っていた。
高校では自分よりもすごい実力を持った人たちがたくさん集う。その人たちに勝てる気はしなかった。そして、追い打ちをかけるようにケガを負った。元々ケガの多いスポーツだとは思う。今までもケガは何度も経験した。でも、こんなに長期間バスケを禁止されたのは初めてだった。高校に入学して入部したばかり。ケガで長期の離脱をすることで、ブランクが空き、更に部員たちとの実力差も開いていくことが怖かった。バスケは楽しいものではなく、いつの間にか怖いものとなっていた。そして、いつの間にかケガを負った人、姉を失った可哀そうな人というポジションが確立されていた。今までの元気キャラを貫ける気配も自信もなかった。
元々ここのバスケ部は明るく元気な人が多い。私のような明るいフリをしている人は、いつかは本性がバレるということも認識し始めていた。
他人の目を気にするようになったからかもしれない。暗い人間であってはいけない。性格は明るくなければいけない。バスケが上手な存在でなければいけない。ベンチ入り、スタメンメンバーでなければいけない。
いつの間にかしなければいけないことに覆われた私は息ができなくなっていた。
居場所がない――自宅にも学校にも。特にずっと打ち込んできた部活に居場所がないのは一番辛かった。
誰も、私を必要としていない。世界一不幸な人間なのかもしれない。
誰もいない薄明りの無機質な部屋で、ぼんやりしているとピコンと音が鳴る。
【明日の放課後、空けておいて】
というメッセージが表示される。送り主はメイキだ。
端正な顔立ちのアイコンが映し出される。
既読スルーにしよう。
何か言葉にして断るのも面倒だし、この人のペースに付き合わされる義務は私にはない。
きっと察してくれるだろう。そう願って、スマホを机に置こうとすると、ピコンともう一度スマホが鳴った。
【契約のこと、考えておいて】
この人には、何かしらの義務があるのだろうか。
見ず知らずの私に声をかけて寿命を吸い取るとか言っているけれど、頭がおかしいのかもしれない。
でも、なんで傷のことを知っているのだろう?
どこかで盗撮したとか? 一気に恐怖に襲われる。
楽しいと思った時に寿命を奪うっていうけれど、そんなことできるはずがない。
きっと詐欺師か何かなのだろう。
翌朝の登校時、いつも利用している駅前になぜかメイキが立っている。私を待っていたのだろうか。
もしかしたら、私のことを好きだとか、ストーカーの類なのかもしれない。
一瞬にして、かっこいい外見が怖くも見える。
「おはよう。昨日は体に傷をつけないで、なんとか耐えられたみたいだね」
「なんでわかるの? もしかして盗聴とか盗撮してるの?」
その可能性も捨てきれない。
「まさかぁ。キュウメイキは痛みが直に伝わるんだよ。君は昨日は身体的な痛みを感じていないみたいだったから。やっぱり、俺からのメールが気になったっていうのもあるでしょ? そのせいで傷をつけるほうに意識がいかなかったんだと思うよ。今日の放課後は空けといてよ。傷のこと、誰にも知られたくないよね?」
脅してきた? もしかしたら、言いふらそうとしているのかもしれない。
「わかった。何かするの?」
「この駅の近くにある公園に行ってみない?」
やっぱり、この人、デート目的なんだ。
「言っておくけれど、君に特別関心があるわけじゃないよ。恋愛感情もない。ただ、俺は契約主を探しているんだ」
「とかなんとか言って、ストーカーみたいなことしてるんじゃないの? 今も待ち伏せしてたし」
「なんで、君みたいな元スポーツ系偽元気女子を好きになる必要があるの? どうせならばもっとかわいい素直な人を選ぶよ。この高校で君の痛みが一番強いから、助けてあげようと思っただけなのに」
「あなたの発言、すごく失礼よね」
本気で怒りをぶちまける。
放課後、やっぱりメイキはやってきた。にこやかに手を振る。
傷のことを知られているから、それをばらされたくないという気持ちが一番だった。
「どこの公園に行くの?」
「柏木公園だよ」
彼のバッグの中に今は懐かしいバスケットボールが入っている。
柏木公園はこの辺りでは比較的広い公園で、バスケットコートもある。
この町にバスケットコートがある公園がたくさんあるわけではないので、休日にはよく姉と遊びながら練習した記憶がある。
「もう、ケガは治ってるんだろ」
「なんで知ってるの?」
「キュウメイキだから」
お決まりの返事だ。つまり、なんでもありなんだろう。
「たしか、楽しいと感じるとあなたは私の寿命を吸ってくれるって話よね」
「そうだよ」
「じゃあ、契約しちゃおうかな」
今朝も母親に無視された。父親は帰ってこなかった。家族はバラバラだ。
そして、私がいたら親も迷惑だろう。私がいるせいで自由になれないのかもしれない。
親という存在から解放してあげたい気持ちもあった。
「じゃあ、契約の印に指切りげんまん」
にこやかに小指を差し出す。
すると――不思議なことに指先が光る。わずかな光だけれど、指の先が光り、熱くなった。
「何?」
驚いて、指切りげんまんの指を放す。
「契約の証は光で結ばれるんだ」
やっぱり、摩訶不思議なことは世の中にはあるのかもしれない。
「俺といると、きっと幸せになれるよ」
甘い笑顔を振りまく。
何よ、顔がいい人の笑顔は反則だ。
今までバスケばかりで、女子としか接してこなかったからだろうか。
指切りげんまんすらも新鮮な行為だった。
気づくと胸が高鳴っている。気づかれないように平静を装う。
「じゃあ、ワンオンワンやろうか」
制服のブレザーを脱ぐと、慣れた手つきでボールをドリブルする。
色々な技を巧みに入れている。
「あなた、経験者?」
「少しやったことがある程度だよ」
そう言うと、高速ドリブルをしながら、一気にシュートを決めた。
足も速いらしい。
「男子バスケ部?」
「違うよ」
「もったいないよ。バスケ部に入りなって」
「バスケの経験は、今思えば、こうやって君と一緒にプレーするために獲得したのかもしれないな」
「何よそれ」
なんだか嬉しいような恥ずかしい気持ちになる。
ボールをパスされる。
反射的に受け取る姿勢はずっとやっていた故の経験から、バスケの姿勢となる。
まずはお互いにパスをし合う。
ドリブルで私の横を抜けようとするけれど、それをなんとか止めようと必死でディフェンスをする。
でも、あっけなく、彼の神技的なフェイクにひっかかってしまう。
自分は結構上級者だと思っていたけれど、部活もしていない目の前の男子に負けてしまうなんて悔しい。
動きはリズミカルで軽快なステップを踏みながら、まるでダンスをしているかのような楽しそうな動き。
それでも、シュートコースは確実に読みながら前に進むテクニック。
なんだか動きがすべてかっこいい。
「やりぃ」
にこっと笑う。心がくすぐられる。
「じゃあ、次は私がオフェンスね」
次は私が攻める番だ。
いつの間にか息が上がり肩で息をしていた。
制服のブレザーは脱いだものの、ブラウスは自然と汗ばんでいた。
一瞬の隙を突こうと攻めあぐねる。
しかし、なかなか攻めきれない。
何度も私はボールを奪われた。
一瞬の隙をついて、どうにか一点だけシュートを決めることができた。
でも、今までの彼の動きを見ている限り、私に一点譲ったのかもしれない。
結果的には、総合点数として負けているけれど。
「やるじゃないか。体を動かしていると、無我夢中で頭の中が空っぽになるだろ」
「確かにね」
汗をハンカチで拭きながら、木陰に座る。
今日は晴天で、木漏れ日が心地いい。
「手を出して」
「え?」
突如手を握られる。もちろん、私は戸惑うが、その瞬間手が光る。
「これで、寿命を吸い取ったよ。今、楽しいって思っていただろ。エネルギーが見えたから」
さわやかに寿命を吸い取ったなんて言う男子はこの人くらいだろう。
普通吸い取れるはずもないけれど、この人にならば寿命をあげてもいいかもしれない。
なんだか、最初こそ苦手だと思っていたけれど、一緒に大好きだったバスケをしたら元気になれた。
「明日も君の寿命を吸わせてよ。」
「まあ、私を楽しませてくれたらね」
いつの間にか心の扉を開かれた感じだ。
ペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲む姿を見ると、汗にまみれた横顔も水を飲む姿も美しいことに気づく。
同時に、優し気な木漏れ日が似合う人だということにも気づく。
「君の心は傷だらけかもしれない。でも、キュウメイキである俺が楽にしてあげるから」
「あなたの行いは、安楽死とかそういうのに近いのかもね」
「そう言われるとそうかもしれないな。安楽死っていうのは、簡単にしてはいけないことだけどね。しかしながら、俺にかかれば楽しく違う世界に行けるというわけだ」
「メイキくんは捕まらないの?」
「捕まらないよ。だって、どうやってこの能力を立証するの? 現代の法律じゃ無理だよ。警察だって逮捕はできない」
それはそうだ。このような能力は世間ではありえない事実となっている。
私自身未だに半信半疑だ。
「本当は昔、バスケをやっていたんでしょ?」
彼の動きで素人ではないことは明白だった。
「まぁね。わりと好きだったけど、事情があって続けることが難しくなったんだ」
一瞬顔が曇る。何かあったのだろうか?
バスケに未練があるのかな? 私と同じだ。
「君はまだ一応バスケ部員なんだから、いつでも戻ることができるだろ」
「メイキくんは何部なの?」
「どこにも所属はしていないんだ」
どこか寂し気な顔をしている。
「バスケ部以外でも足が速いから陸上部とか、サッカー部とかには入らないの? 抜群の運動神経が活かせそうだけどね」
「残念ながら、難しいかな」
にこりとするけれど、心が笑っていないように感じた。
私は人の心の中を読み取ることが比較的得意なほうだ。
多分両親の顔色を窺ってきたことが影響しているように思う。
「キュウメイキっていうのは寿命を人からもらう仕事だ。その命は自分のものとして補給するんだ。命をエネルギーに変換して補給しないと俺は生きられない」
「どういうこと?」
「キュウメイキとして仕事をしなければ、俺の命が尽きるんだ」
「何それ……」
「だから、なるべく不幸そうな人を探していたんだ。あと、俺の体は激しい運動を長時間はできないんだ。本格的な運動を禁止されているんだ。情けないし、弱い体だよな」
この人にどこか暗い影が見えているような気がしていたのはそのせいだったんだ。
この人は悲しみを背負っているんだ。
「じゃあ、今日の運動はものすごく体に負担がかかったんじゃない? 知っていたらやらなかったのに……」
「いや、この程度ならば大丈夫だよ。もっと激しい運動は無理だけど。あと、長時間でなければ大丈夫。それに、君からエネルギーをもらったから補給できたしね」
「でも、バスケをやっていた時期があったんでしょ」
「その時は健康な体だったんだ。でも、遺伝が発症したらしい。俺の家系は突然運動ができない体になることがあるらしい。全員発症するわけではないし、発症年齢も様々なんだけれどね。俺の場合は中学三年の時。中学では最後の大会に出た後に発症したから高校では運動部には入っていないんだ。最後までやりつくしたから、中学での部活に悔いはない。この体になって、高校に入ってから、キュウメイキとしての活動を始めざるをえなくなったんだ」
どこか翳のある元スポーツマンという表現がよく似合う。
筋肉は程よくついているのに、色白だし、室内競技をしていたのかなとは思っていたけれど。
「もしかして、最初の契約相手は私ってことになるの?」
「そうなんだ。キュウメイキとしてはまだまだ未熟だけれど、力になりたいし、力を分けてほしいという気持ちもある」
力を分けてほしいというのは、つまり、私の命が欲しいということだよね。
真剣な顔で言われると少しばかり複雑だ。
「傷を頻繁につけるようになったのは最近だろ。最初のうちは、たまに君の体から痛みが伝わってくる程度だった。でも、君の体から最近はひどく頻繁に痛みを感じるようになった。だから、声をかけたんだ」
申し訳なさそうに、気持ちを述べた。
色々と彼の境遇がわかれば、今までのわけがわからない気持ちから脱することはできる。
「人の痛みってどんな感じでわかるの?」
「その人から発している痛みがあるだろ。俺自身も同じ痛みを感じるんだ」
「痛み?」
「ズキンとしたカッターで切った感じの痛みを君の体から感じ取ることができた。これは遺伝的な能力らしい。自分が弱い体になる代わりに、別の誰かからエネルギーをもらうための能力。こんな能力も、弱い体もいらないのに」
少し間をおいて聞かれる。
「傷をつけるきっかけってあったの?」
「多分、ずっと前からたまっていたものがあったんだと思う。きっかけはケガで部活ができなくなったことと姉が死んだことかな。そんな時に、最初はなんとなくだったんだと思う。次第に回数が増えただけ。死ぬつもりもないし、小さな痛みで自分の心の痛みを消したいだけだった」
「君は強豪校の一中でしょ。俺は、二中だったんだ」
「去年の二中男子バスケ部ってたしか県で優勝してたよね。強豪校じゃないのに、メイキくんの世代だけ強いっていう漫画みたいな話だなって言われてたよね」
「たまたまだけどね。ちなみに俺、部長もしてたんだ。県の最優秀選手にも選ばれたし、県の強化選手にも選ばれた」
「だから、あんなに強かったのかぁ」
「いつ遺伝が発症するか内心びくびくしてたんだ。でも、引退した頃に体力が低下したのは、ラッキーだったよ」
「私は一応スタメンのベンチメンバーで試合にも出ていたけれど、部長をするほどの器じゃなかったなぁ。姉はなんでもできたし、県の最優秀選手で部長もやってた。両親も姉のことばかりかわいがっていたし、やっぱり私が死んだほうがよかったのかな」
「親に言われたの?」
「言われてないけど、最近は無視されてる。私のことが嫌いなんだよ」
「それはどうかな? 姉妹だと似ているから話すのが辛いだけかもしれない」
「メイキくんは、会えば私のお母さんの心の中が読めたりするの?」
「読めないよ。でも、辛いとか悲しいとかいう程度の気持ちの度合いはわかるよ。君が辛いと感じている感情と同じだ。痛みとして感じる」
「君はいつも「しなければならない」という感情に覆われているような気がする。少し、考え方を変えてみたら楽になるかもよ。義務なんて持つ必要はない。それじゃあ、明日もどこかに行こうか」