さて、何から手を付けていいかすらわからない。
 最早何かひとつでも引き抜こうものなら全て崩れてきそうなこの状況は、さながら暗黒のブロックか闇のジェンガである。
 何ならいつから崩れていたのか、かつて窓の見えていた方面は、既に一部無秩序の化身のような山となっている。

「……とりあえず、忘れ物を探しがてら片付けよう」

 万が一、千里が忘れ物を取りに来た際部屋の中を見たら、この世の終わりのような光景に卒倒するに違いない。彼女は綺麗好きだった。僕の家に来た時には、いつも片付けを手伝ってくれたのを覚えている。

 そのせいで片付けに対して彼女の印象が植え付けられ、ますます部屋のごみ屋敷化に手がつけられなくなったのは、皮肉なものだが。

「……よし」

 気合いを入れ、僕はひとまず、自分の足元から何とかすることにした。崩れる心配の無い辺りからひとつひとつ拾い上げては、広げた大容量のごみ袋へと放っていく。

 彼女との初デートに着たこの服は、初めて立ち寄った店の店員に見繕って貰った。ゼロが想定より多くて驚いた。
 彼女との三度目のデートで買ったお揃いのキーホルダーは、大事にし過ぎて使うことも出来ず、しまいっぱなしだった。
 彼女との約束の日に熱を出してキャンセルした時に、お見舞いにと届けてくれた果物に添えられていたメッセージカードは、可愛らしい丸文字をしていた。彼女はその時忘れ物をしていったのだろうか。

「……」

 部屋の構成物質の大半は、飲食のごみや無造作にポストに投げ込まれたチラシ等の不用品なのに、無心で片付けをしていると、やけに心を揺らすものばかり目につく。
 その度に手が止まりそうになるが、思い出を全て捨てないと、前にも進めない気がした。
 僕は止めどなくぼろぼろと溢れる涙を、立ち込める埃のせいと誰ともなく言い訳して、片付けを続けていく。
 この部屋には、千里との恋が終わってからのあらゆる陰鬱としたものが溜めに溜められていた。

 初めの頃は、散らかっていても何処に何があるか何と無く把握出来ていたし、寧ろ快適とすら感じていたにも関わらず、ある時には何処を探しても目当ての物が見付けられず発掘作業を諦め、ある時には重さが片寄っているのか何もせずとも部屋が軋んで音を立てた。

 その度に、窓から明かりすら入らなくなったこの部屋の闇には、何か得体の知れないものが住んでいるのかという気さえした。

 彼女が連絡をくれなければ、片付けようという気すら起きず、この部屋の魔物に取り込まれていたように思う。対外的に見れば、既にそのようなものに成り果てているような気もするが。

「……床、こんな色だったか」

 ようやく一部見えた床は、何か溢したものが腐りでもしたか、見覚えの無い濃く混ざりあったような色をしていた。そこを踏むのは何と無く抵抗があったが、そんなことを言っている場合でもなく、僕はそのまま作業を進める。

 流れ作業のように、床に、壁に、無造作に積み立てられた物を崩し袋に詰めるだけ。燃えるか燃えないかの仕分けは何と無くで、要るか要らないかの判断もなかった。
 目の前の物全て、まるで取り憑かれたようにごみ袋に突っ込んでいく。それは今まで見て見ぬふりをして来た過去を、全て清算するような心地だった。

 時折心を揺さぶる物を見付けては、当時のことを思い出し、それごとごみ袋に詰め込んでいく。

 走馬灯を見ながら未練を断ち切るようなその作業は何時間も、いつか片付けなくてはと、何度も買っては結局置きっぱなしだったごみ袋が全て無くなるまで続いた。


*****


 千里は、忘れ物は赤いポーチだと言っていた。赤ならこの部屋の中では比較的見付けやすい。そう思っていたのに、ごみ袋全て使いきった今でも、それは見付からなかった。

 手を付けていない窓際のあの山の中にあるのか、それとも、半ば全自動のように一心不乱に詰め込んでしまった中に入っていたのか。

 ごみ袋を使い果たしてしまい、その一区切り感が集中力とやる気を削いでしまった。ぼんやりとした脱力感の中で、視界が半透明の袋に詰め込まれごみと化した物達で埋め尽くされる。

 ごみ袋に詰め込まれ多少すっきりした気はするが、そもそもの質量は変わらないのだ。部屋からそれらを出さない限りは、片付けは完了したとは言えない。
 もっとも、巨大な一塊の山という一番の強敵がまだ袋詰めされず残っているわけだが。

 千里が来ると言っていた日付けは、明日に迫っていた。どうしてもっと早く始めなかったのかと過去の自分を責めたくなるが、後悔先に立たずだ。

 疲れて重怠い身体を引き摺って、適当に未開封だった段ボールを開けていき、ごみ袋の代わりにその隙間に物を詰め込んでいく。
 今時の通販の梱包は無駄に箱が大きいが、それが役に立つとは思わなかった。まあ、それのせいで部屋が圧迫されていたのもあるので、何とも言えない。

 細かい物が段ボールに詰め込まれていくと、質量は変わらずとも体積は減る。それだけで部屋は少しずつすっきりとしていった。

 片付けが進むにつれ発掘される床や壁はいろんな色の染みやら汚れがこびりついていたし、失くしたと思っていた家の鍵は蜘蛛の巣の張った炊飯器の中から出てきた。
 ここまで来ると、傷心も疲れも得体の知れなかった恐怖も、いっそ笑えてくる。一年でよくもまあここまで荒れ果てたものだ。

 あとはこの山を解体すれば、ごみ出しをして掃除に取りかかれる。しかし終わりが見えてきたことに安堵したのも束の間、件の山を少しずつ崩していく内に、強い異臭がすることに気付いた。

 元よりこの部屋に居る時点で鼻はおかしくなっているが、これはそんな次元を越えていた。
 本能的な嫌悪感と、底冷えするような冷たさを孕む、まるで、腐った死体のような……そこまで考えて、思わず手が止まる。

「……」

 ネズミの死体でもあるのか、それとも、何処からか野生動物でも入り込んでいたのか。強くなる匂いに、雪崩れた本や段ボールの下を確認するのが怖くなった。無音の部屋はやけに響く心臓の音でうるさいし、動いて暑いはずの額からは、冷や汗が滲む。

「……、……」

 まだ、赤いポーチを見付けていない。壁沿いの物を撤去したお陰で約一年ぶりに見えるようになった窓からは、仄かに夕陽が差し込む。もう夕方だ、明日の朝には彼女が来る。時間がない。僕は意を決して、大きな段ボールを退かした。


*****