楓という人間と話していて思ったのだ。『生きてる』というのは、どんなものなのだろうと。

 ――何百年も存在して、色んなものを見てきました。何も考えず、何も感じず、何の変化もないまま、ただ己の役目を惰性的に繰り返し、それに何の疑問も持たなかった……
 ――むしろ、それで良かったんです。地上の人間を見ていて、尚更思いました。心なんて持ったらろくな目に遭わない。自らも愚かになる。改善している部分もありますが、性懲りなく同じような歴史を繰り返し、振り回される人間達の事も、どうでも良かった

 (ならば、何故……)

 ――同時に、知らずにいたのです。自分が守ってきた地に生きる命……草木や土の匂い、感触、陽の暖かさ、花の香り、そして水の尊さ

 全て、楓が嬉しそうに語り、教えてくれた事だ。
 絶句したのか、お上の返事はなかった。一時後、さあっ、と風が舞う。

 (そんな『心』を完全に持ってしまったなら、もう、お前は天上の者ではない。相応しい場所に()くがよい)

 ――……これが『心』ですか。人間の『感情』など愚かでしかないと考えてましたが…… こんなに気持ちの良いものもあるなら、そんなに悪くないですね

 (守神(もりがみ)は代わりを派遣するが…… あの寂れた祠を司りたがる者など、いるかわからんぞ)

 ――人間にして頂いたあかつきには、せめてもの詫びとして…… 私があの祠を維持し、(まも)ります。そんな生業(なりわい)を希望致します

 (……お主は、愚かなのか(さと)いのかわからんな。昔から変わった奴だったが……)

 苦笑混じりの返答だが、サクヤは覚悟と誇りに満ちた想いでいた。



 月日が経ち、あの不思議な夜桜の出逢いと別れから、一ヶ月以上が過ぎた。季節は皐月(さつき)を迎えたが、今日は五月晴れを通り越した、初夏並みの気温だ。
 そろそろ聞こえてくるのは、大抵が薔薇や菖蒲(あやめ)だが、去年の薔薇の声が、まるで火(あぶ)りにされている乙女の叫びのようで、楓まで気が滅入ってしまった。今年もそんな感じかな……と、今から憂鬱になっている。

 休日の暮れ時。学校の同じグループの子と、人気だというカフェに行った帰りだった楓は、あの祠に向かっていた。最近は、友達との交流も意識し、少しだけでも自分のことを話すようにしている。
 だが、緊張したからかやはり気疲れしてしまい、サクヤに会いに行く事にしたのだ。彼の“声”は聞こえなくなってしまったが、祠に通う習慣は変わらないでいた。頻度は減ったが辛くなった時に訪れ、話しかけるように、一人呟いていた。
 返事はなくとも、こんな時、彼ならどんな風に答えるだろうか……と考えながら、独り言のように口にすると、次第に気持ちが落ち着き、慰められていく。
 そして何より、帰る時は彼女を見送るように、空から細かい霧雨が降り注ぐ瞬間が、堪らなく嬉しかった。彼が確かに“いる”事を感じられるからだ。


 頭上からそよいで来る涼しい風が、少し汗ばんだ身体に心地好い。石段の最後の段を上がり、夕闇に染まりかけた、目印のソメイヨシノに向かう。
 今はすっかり新緑にあふれた大木に、あの薄紅の可憐な花の面影は無い。四月上旬にやって来た長雨で、元々、葉桜に変わった彼らは完全に散りゆき、薄紅の花弁が土にまみれ、痛々しかった。

 そんな光景を思い出し、少し切なくなった楓は、振り切るように(やしろ)のある方に顔を向ける。
 息が、止まった。人影が、祠の近くに見える。艶やかな黒髪の――青年。

 宵に溶け込み、全身に藍がかかっているように見える出で立ちは、所謂きれいめなカジュアルな服装だったが、とても惹き付けられた。
 しかし、何より楓を揺さぶったのは、彼が纏う、ぴん、とどこか張り詰めた、背が引き締まるような、覚えのある凛とした空気……

 忘れてない。忘れる訳がない。懐かしくて、安心する、大好きな……


「あの……こんばんは……」

 考えるより先に、口にしていた。いつもの人見知りの自分なら、あり得ない行動だ。
 楓の声に、青年が振り向いた。色白で涼やかな目をした……知らない顔。だが……

「こんばんは。参拝ありがとうございます。最近、この町の管理部に就職しました。まだ新人ですが」

 ずっと、ずっと忘れられなかった、淡々としていて静かだが、どこか優しさを含んだ響きのある、()……

「あの……前に、()うた事……ありますよ、ね……?」

 期待と確信が入り交じり、歓喜で声を震わせながら問いかける楓に、その青年は、少し照れ臭そうに、僅かな微笑を浮かべた。ぎこちない仕草で、そっ、と手を差し伸べる。

「……咲夜(サクヤ)だ。()()()()()()、よろしく……楓」

「こちらこそ……今度、水辺に行きましょう……菖蒲(あやめ)も咲いてるとこ、ありますよ。サクヤさん」

 差し出された手を、躊躇(ためらい)いなく握り返し、握手する。彼の大きな掌は、あの春雨の夜のように、少し湿り気を帯び、ひんやりとしていた。