母が私くらいの齢の頃はどこに出しても恥ずかしくないほどの理想の娘だったというのに、私ほどの親不孝の娘はいなかったでしょう。

 門限は午後の六時です、部屋を片付けなさい、規則正しい生活をしなさい、お酢を一升瓶で一気飲みするかの如く口を酸っぱくして言う母が疎ましく、反抗ばかりしていました。

 私は毎夜のように煽情的な服装でショッキングピンクやキャロットオレンジのネオンが眩しい繁華街を歩きました。脱色した髪を競うように高い位置に結い上げて、安物のネックレスを三重つけた首元を大きく露出してお姉様方の真似をしました。スカートを短くして、男性の目を引くような模様のタイツを履きました。ピンヒールの高さの分だけ、背伸びをしたかったのです。

 母は毎日、真珠のような涙を流しています。私は濁流のような罪悪感と後悔に襲われました。心労がたたり、お腹を押さえて痛がっています。母は自分を強く責めました。

 私がまだ平仮名も片仮名も読めないくらいの頃でしょうか。その頃はまだ祖母が生きていました。私が怪我をしたり病気をしたりすると母は痛む箇所をさすってくれました。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ」

 母の優しい声は今でもよく覚えているのです。母はいつも、子守歌のような独特の節で歌うように、「痛いの、痛いの、飛んでいけ」と歌いました。絵本を読んでくれた優しい声が、ご飯を残さずに食べただけで私を褒めてくれた優しい声が大好きでした。

 好きだった絵本の題名はもう忘れてしまいました。南の島のお話でした。主人公の男の子は女の子のような名前で、彼の体には絵が描いてありました。女の子のような名前をつけるのも、体に刺青を入れるのも悪魔が子供を連れ去らないようにするための昔の風習だと物知りな母が教えてくれました。

 母が厳しくなったのは、祖母が亡くなって少ししてからです。親はいつか先に死ぬのだからと、いつ母に何があってもいいようにと、私に礼儀作法や生活力を身に着けさせようと母は奮闘しました。

 優しかった祖母がいなくなり、優しかった母にも甘えられなくなった私は、子供でいる意味を見出せなくなりました。分からず屋の母に反抗することが大人になることだと思い、反抗ばかりしていました。そんな自分が許せません。

 私には罰が当たりました。夜遅くまで遊んで、人通りの少ない夜道を歩いている最中に通り魔にお腹を刺されました。享年十四歳でした。

 十四年前、母は私を帝王切開で出産しました。私の命を守るために、お腹にメスを入れました。そんな私がよりにもよってお腹を刺されてこの世から去るなんてなんて親不孝なのでしょうか。ただでさえ、親より先に死ぬことは一番の親不孝だというのに。

 私の自業自得なのに、母は自分のせいだと泣きました。いつも綺麗に整頓されていた家の仲は滅茶苦茶になりました。私にいつも早く寝なさいと言っていた母は眠れない夜を過ごしています。

「痛かったでしょう。ごめんね。私がもっとちゃんとしていれば」

 母はそう言って泣きました。母は何も悪くないのに、罪悪感で私が刺された箇所が痛むようです。私は届かないと分かっていながら、母のメロディーに乗せて何度も歌いました。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ」

母のお腹を何度もさすりました。私を産んだ時の傷は本当に私が刺された場所と同じ場所にありました。どれくらい時間が経ったでしょうか。母はようやく眠りにつきました。

 今日は私の四十九日。今日から私は彼岸で暮らさねばなりません。母の夢枕に立って、生前に言えなかった「ごめんなさい」を言います。

 夢の中で出会った母は、私が幼い頃の母の姿をしていました。現実の母がやつれているからか、美しい母の姿はかえって痛々しく見えました。私を見るなり、母は私を抱きしめて何度も謝りました。どうして母が謝るのでしょう。悪いのは私なのに。

 私も謝ろうとしましたが、ふと気づきました。私が本当に言いたいことはそうではない気がします。最期に伝えるべきことはもう少し大きなことなのです。

「お母さんの娘に生まれて幸せだったよ」

 母の腕の中で、声の限りに叫びました。母は私を一層強く抱きしめた後、ゆっくりと私の顔を見つめました。母の顔をきちんとまっすぐに見たのは何年ぶりでしょうか。お化粧をしていない母を言見ると、あらためて気づきます。私は母にそっくりなのだと。母が久しぶりに少しだけ笑ってくれました。

 さて、そろそろ彼岸に渡りましょうか。許されるかはわかりませんが、彼岸では祖母に少しだけ甘えようかと思います。いつか母ともう一度会ったときに、素直に甘えられるように。